~忘れじの《お宝映像》をめぐる《べスモ遺伝子》網に幸あれ~
あれはまだ『ベストモータリング』が健在で、その創刊20周年を迎えるにあたって、企画部長の田部靖彦君から、「創刊編集長として、これまでの《ベスモの軌跡》をエピソード中心に、月1回、公式ホームページで連載しませんか、という嬉しすぎる誘いがあった。もちろん否も応もない。ただし、ひとつだけ条件を出した。
「映像メディアなんだから、文章だけでは当たり前過ぎないか。最近のヒットしているTV連続ドラマなどは、あらすじ紹介と一緒に、いい場面を動画つきて盛り上げているではないか。それに倣って、3分間くらいのダイジェスト動画はつけられないのかい?」
それはイケますね。田部君の反応は疾かった。で、20周年記念だから、連載も20回に分けて、スタートすることにした。みんなが同じ目標をめざして、未知の分野に奔(はし)り出した時代だ。タイトルはすぐに『ベスモ疾風録』と決まった。その書き出しは、ご記憶の向きもあるだろうが、再現してみると、こうだった。
■創刊号とその前夜
創刊号のオープニングシーンから始めようか。いきなり、銀色のスポーツカーのドアミラーが大写しされる。取り付け部が二股に分かれてRを描く。まるでフェラーリ・テスタロッサかと見紛う新奇なデザイン。ミラーにつづくサイド・ウインドーには、もう1台の白いマシンが映り込んでいる。と、カメラは足元をねらう。リヤタイヤとサイドスカート部にえぐられた空洞。強烈なブレーキ熱を冷やしてくれる仕掛けだ、と一目でわかる。
アップがつづく。ライトを内蔵したフロント・マスク。カメラはリア・ビューをとらえる。エンジン部。2本のカムシャフトと左右にふりわけられたインタークーラー。ゆっくりと、テロップが流れる……。
2960cc/V6/DOHC.330ps/6200rpm 39.0kgm/3200rpm
そのころとしては目をむくパワフルなエンジン諸元だった。
乗り手の心のたかぶりを、メッシュのドライビング・グローブが表現する。ウィーン、ウィーン。レーシング音が吠える。タコメーターの針が、下から上へ跳ね上がる。3000から45000あたりへ、一瞬のうちに……。そして、シフト・ギアが1速に吸いこまれた。
「NISSAN MID4-Ⅱ」のプレートが誇らしげにズームアップされる。ミッドシップ・レイアウトとわかるリアエンドからのアングル。と、つぎの瞬間、はじき出されるように、ダッシュするMID4。新時代を切り裂くように疾駆するイメージと、いま誕生した創刊号とをオーバーラップさせようとする願いが、このオープニングのシーンに託されていたのだ。
ステージは、これまで決してメディアのカメラの入ることが許されなかった日産追浜工場内(神奈川県横浜市金沢区)のシークレットゾーンだった。東京湾に面したテストコースの直線を、そしてS字コーナーを、まるで鎖から解き放たれた猟犬のように、MID4が駆け抜ける。白いガードレールが流れる。工場の建て屋の向こうで、鈍く光る海がチラッとのぞく。島影は八景島か、それとも野島だろうか。
と、まぁ、こんな具合に、情緒中心に始まった文章を蹴散らすように、動画をクリックすると、あの懐かしのオープニングシーンがダイジェスト編集されて、勢いよく飛び出してきたのである。間違いなくアクセスしてくれた読者に強烈なインパクトを与えることができたようだ。だからこちらも、動画に負けないように、楽屋裏の秘話なども、それなりに織り込んでいく……。
第2回目のテーマは、今回の『ベスモ同窓会』に特に駆けつけてくることになった中谷君をなぜ起用したか、の舞台裏を明かしていた。題して『君よ、明日の《ライジング・サン》たれ!』であった。
ライジング・サン=昇る太陽。なんとも響きのいい言葉ではないか。夜明けの海。東の空がバラ色に染まり、やがて水平線からムクムクと光の珠が盛り上がっていく……。
――創刊したビデオマガジン「ベストモータリング」に望んだのは、まさに、そのイメージだった。そして、それにぴったりの専属キャスターとして白羽の矢を立てたのが、中谷明彦だった。自動車雑誌「カートップ」の編集部員から、レーシングドライバーとして独立したばかりの29歳(当時)で、マシンを駆らせると、やたら、疾かった。創刊前年(1986)、難所の連続する市街地レースとして名高いマカオGPで、F3とミラージュレースに出場し、際だった疾さとテクニックを披露したあと、ヘルメットを脱いだときの涼しさが匂い立つ若武者の笑顔が、編集者としてのぼくの心を捉えていた。
たいへんな惚れこみようではないか。そして中谷君のそれからは、まさに「ライジング・サン」そのものだった。翌年の全日本F3シリーズでチャンピオンの座を獲得すると、F3000にステップアップ。チーム・ノバのマシンはなんと、あのアイルトン・セナと同じマルボロ・カラーだった。
1991年、オートポリスで念願のF3000優勝。そして1992年のシーズンには、ブラバムからF1ドライバーとしてデビューするはずだった。が、FIA(国際自動車連盟)からのスーパーライセンスが発給されなかったため、断念せざるを得なかった。「ベストモータリングからF1ドライバーが生まれた!」このコピーもはかなく陽の目を見ることなく、消えていったのである。中谷明彦の成長と闘争をトレースしつづけることによって、読者(あえて、そう呼ばせていただいた)に「ライジング・サン」を共有体験してもらいたかったのである。
そして連載の第3回目に、忘れられない珠玉の宝映像たちを特集する。それがこのあとの『セナ足の怪』という、ちょっとした騒動につながる発端となる――。
水しぶきを跳ね上げながら、鈴鹿の裏のストレートから130Rに飛び込むA・セナのマクラーレンHONDA。それが一転してプロトタイプのミッドシップスポーツNS-Xに替わる。気持ちよさそうに第1コーナーから第2コーナーへ、そしてS字を駆け上がるセナのドライビングを、カメラが丹念に捉えているのだ。掲載は1989年5月号だから、88年度ワールドチャンピオンになったセナが、新しいシーズンに臨むに当たってのマシンテストでやってきたときの、2日間にわたる独占取材の模様が、「疾風録」の付録動画に収められていた。
実はこのとき、NS-Xに車載カメラを据えて、革靴でドライブするセナのアクセルワークのすべてが収録できていた。いわゆる「セナ足」と呼ばれる、必見の「お宝映像」であった。が、この部分は、残念ながらベスモ本体には掲載できなかった。セナ側との版権交渉がまとまらず、そのまま編集部で封印されていたが、イモラで逝ったセナを追悼する特集ビデオがセナ側でまとめられた際に「セナ財団」に提供して、やっと陽の目を見たという悔しいいきさつがある。
そこまで明記していながら、なぜか、関係者のほとんどが「セナ足」を「ベストモータリング」で鑑賞したつもりでいた。もちろん、わたしも資料映像として、何度も、何度もテープが擦り切れるほどに見ていながら、いつの間にか「見た」という事実だけが記憶の底にあって、どこで見たモノなのかは、曖昧になっていた。そこへ萩の波田教官が「やむなく欠席する『ファミリー』の無念」を代弁する形で、こう発言したのを、前回のBLOGでわたしが紹介した。
「私の一押しは、いまイチ記憶が曖昧なのですがセナがN1シビックを鈴鹿で走らせた映像があるように思えるのですがどうも探し出せません (セナ足はここからでは……)」
つまり、今度の同窓会では、ぜひ「セナ足」を上映して欲しいのだが、それはどの号に掲載されたのだろう、という波田さんからの問いかけだった。
それに対して、まず「龍剛」さんが「セナのビデオありますよ。確かにアクセルを小刻みに踏んでいました。革靴か何かじゃなかったかなあ」と声を上げた。
つづいて「FRマニア」君から、コメントが寄せられた。
「確か本当は1993年2月号の中嶋悟さんのNSX-Rの疾走の際にセナの映像が使われる予定だったらしいです。しかし、セナの著作権側の問題から当時公開出来ずベスモでは2004年10月号まで御蔵入りされたと耳にしております」
見事にしめ括ってくれたのは「イワタカズマ」君だった。
「波田教官のお話、また皆さんのお話を統合するに、FRマニアさんの仰る92年1月号のベルガーがEG型N1シビックをドライブしているのと、93年2月号でのNSX-Rでの中嶋・セナのドライブの号が混同してしまっているのでは?と考察致しました。
2004年8月号から3か月間に渡り、200号記念として過去の映像を振り返るベスモ名・珍場面特集なる企画があり、その最終となる2004年10月号にて、92年1月号でのN1シビックを操るベルガーと93年2月号で幻となったセナのNSX-Rドライブ映像(革靴でセナ足)が初解禁で、同じこの号に収録されています。セナの場合は西コースでしたが、ともに鈴鹿でのドライブでした。
恐らくセナがシビックをドライブしていた映像は歴代ベスモではなかったはず…蛇足ですが、89年1月号(2号目)で、ネルソン・ピケが豪雨の鈴鹿でEF型のN1シビックをドライブする模様があった記憶はあります」
早速、9月20日の朝、波田教官から「セナ足の怪」とタイトルのついたメッセージが届く。
――セナ足の映像について、たくさんの「みんカラ仲間」のおかげでやっと解決しました。
中でもイワタカズマさんのコメントがビンゴでしたね。
92年1月号の革靴を履いたベルガー運転のN1シビック、93年2月号の中島選手のNSX-Rドライブ、そして同じく革靴で運転したはずのセナの映像。
記憶の中のパズルが少しずつずれて、はっきり覚えているのはF1日本グランプリの翌日の映像であることからその当時のビデオを探せど、出で来ない。
そして局長から伺ったセナ映像禁止の裏事情を聞き、俺は違う映像観たのかなと疑心暗鬼になっていましたが、イワタガスマさんの完璧な記憶力のおかげで2004年10月号の200号記念として過去の映像を振り返るベスモ名・珍場面特集にあったとは……。参りました。
かくして、一件落着。2004年10月号を「忘れじのお宝映像」として参加者全員で鑑賞する「リスト」に、第1号として組み入れることに決定しよう。残念ながら、その該当号はいまは手元にない。が、近く届けられるので、確認できるはずだ。
そしてもう一つ、ベストモータリング消滅によって、一緒に消えて行った「ベスモ疾風録」を、やっぱり単行本にして、蘇えらせておくべきだろう、と想いを定めた。それも「バックナンバーリスト」を付け加えて……。これから、べスモファミリーの力をお借りして、同窓会当日までに、仕上げられるだろうか。