120年前の日本に凄いやつらがいた!
12月2日に「実録・ベスモオフ会」をアップしたまま、半月以上が過ぎてしまった。「新聞小説でも書くつもりで」と前置きしながら、これでは月2回刊の「ベストカー」と同じテンポになってしまう。
といって、等閑(なおざり)にしていたわけではない。「何シテル?」の140字日記に足跡だけはしるしているように、秩父には2度にわたって、足を運んでいた。こんな風に……。
12/02 20:25
いよいよ明日は「秩父夜祭」が最高潮を迎える日。もちろん、行きます。クルマは入場制限があり、駐車もままならない。やむなく池袋7時30分発のレッドアロー号の特急指定券をなんとか入手した。今回は、かなりいい場所からレポートできそう。レースで特別の記者席と称して、自分がステアリングを握ったように。
*12月3日の例大祭の朝、早々と境内入りした「下郷笠鉾」。「動く陽明門」と謳われる絢爛豪華な創りは、秩父屋台の最高傑作といわれている。
12/04 05:04
逆光のなか、祭の主役、笠鉾屋台が練り出して行きます。秩父神社の境内に六台が結集して、「神幸行列」が始まり、そのあと、祭はピークへと向かうのですが、残念ながらご一緒した方の体調が悪くなり、すぐに引き上げることになりました。したがって、楽しみにしていた「フィナーレ」の実況は来年に!
12/08 00:22
秩父の祭事を締めくくる「飯田の鉄砲祭」はやっぱり欠かせない。幸い「ベスモ同窓会」の「KU-TA!DESU」君が同行してくれる。笠鉾、歌舞伎舞台にプラスして、御神馬が神殿への石段を駆け上がるのを、鉄砲20梃が迎え撃つという奇祭である。小鹿野町から観音院へ向かう途中の飯田八幡社で。
この「飯田の鉄砲祭」は、その往復の道中をふくめて、すこぶる順調に味わうことができた。
午前9時30分。約束の時間ぴったりに、同行してくれる「Ku-ta!desu」君こと渡辺健二さんが迎えに来てくれる。ちなみに彼のハンドルネームは愛猫「クータ」に由来するという。
早速、関越自動車道に入る。ステアリングは、ご挨拶替わりに、先の「秩父オフ会」での集合予定地だった「嵐山PA」までをわたしが握る。
*嵐山PAkから西南方向にある東秩父の連峰を臨む。
*視線を西北方面に移して行くと、丘陵の右端から白い建屋が覗く。HONDAの新しい生産拠点「寄居工場」である。
*嵐山PAと、我が10年来の伴侶が今回もお供に。
順調すぎるクルマの流れ。今回もまた、秩父地方は快晴らしい。30分で「嵐山PA」に着く。西南にむかって視界が広がっている。東秩父の山塊が黄ばんだ田園地帯をやさしく受け止めていて、つづけて視線を右に移して行くと、山並みが切れる右端に、チラリと白い建屋がのぞく。それが過日、当BLOGで紹介した三代目FITの生産拠点・寄居工場であった。
嵐山PAからは現在、M3オーナーの渡辺君に運転を委ねた。彼もまた、ある時期を富士フレッシュマンレースに青春の日々を燃焼させ、MR2レースのシリーズチャンピオンになった、という勲章をもつ。それだけに彼が「プログレ」に対してどんな印象を持つのか、興味があった。
「あ、ステアリングと足元のつながりが凄く自然ですね。ストラットの剛性感が奢られていませんか?」
こちらが催促したわけでもないのに、すでに齢(よわい)10歳を越えてもなお、いまだに健脚さを失っていない、この小ぶりな3リッターFR車の素性を見抜いてくれていた。
花園ICを降りて140号線へ。寄居の町を過ぎるとき、荒川越えにチラリと鉢形城址を包む豊かな樹立ちの盛り上がりを確認して、皆野町へ通じる有料自動車道に滑り込んだ。みかんの北限、風布の山里の下を貫くトンネルをくぐり抜けると、すぐに皆野から、吉田、小鹿野といった秩父の西側を固める、かつては繭(まゆ)の取引で古くから栄えた町へのルートが待っていた。
考えてみれば、この国が江戸幕府の末期から、近代化に突入して行くのに際して、その輸出品目は当初、絹と茶であった。その2本柱のひとつである絹の生産は、この吉田の町の背後に控えていた当時山深い秩父の農民たちが手塩にかけて養蚕したもので、その結晶である「繭」はやがて「生糸」となり「絹」となって横浜に送られたときく。貿易で国に資する。とすれば、秩父の「絹」こそ、今でいえば「自動車」にたとえることができるではないか。つまり、秩父はかつての「自動車」の城下町だった、といえるではないか。
そんな連想が、フイと浮かんでくるのも、寄居の「FIT工場」を垣間みたせいだろうか。
*吉田の町にはいる道しるべか? セリカLBの廃車がなんとも痛ましい。
秩父では、山里の分かれ道にさしかかると、決まって待っているのはひっそりと佇む石仏であり、庚申様とよばれる石像であったりする。が、今の時代はいささか趣を異とする。冬支度を急ぐ野菜畑からこちらをみつめていたのは、かつての若者に圧倒的な支持を得たTOYOTAセリカLBの、朽ち果てた姿であった。思わず、プログレに停車を命じて、カメラに収める。
吉田の町から小鹿野へ向かっては、バイパスができていて、三方を甲州・信州・武州の山並みを臨む快適なドライブコースとなる。その中ほどに「道の駅・龍勢会館」があった。
いつもなら、あっさり通過してしまうところを、この日はなぜか、一休みしようという気になった。龍勢会館と隣り合わせにある、黒塗りの木造建屋に惹かれたのである。
*10月に催されて吉田の「龍勢まつり」の打ち上げ順番表と映画「草の乱」にキャッチフレーズ。
*移築された「ロケのセット」は『ピザレストラン」も兼業中。
*「草の乱」の主人公、井上伝蔵邸が復元されて「秩父事件資料館」に。江戸城の御用商人だった大店の若旦那が意を決して「争乱」の主人公になって行ったのか。その舞台の再現である。
「120年前の日本に凄いやつらがいた!」
大ぶりな映画のポスターのコピーらしいが、なんだろう!? すばらしく刺激的な「啖呵」が切られているじゃないか。
すぐにわかった。そこは明治17年10月31日から11月9日までの10日間だけ、秩父の男たちたちが「畏れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」と仲間に呼びかけながら武装蜂起して「燃え尽きて行った凄いやつら」を素材に映画化された『草の乱』のオープンセットの一部が、移築保存されたものだった。
が、わたしが吸い寄せられたのは、その隣に、同じように映画のために復元されていた井上伝蔵邸で、往時の生糸仲買商店の様子がそっくり再現されていた。井上伝蔵は秩父事件の中心人物ながら、ただひとり北海道に逃走していき延びた、いわば「生き証人」だという。そんな彼の時代に翻弄された足取りを物語る関係資料が展示されているという。入館料200円。これは必見だった。
奥まった居室で、以前からぜひ観てみたいと願っていた映画「草の乱」の20分ダイジェスト版も視聴できた。帰り際、売店でDVDを4400円で購入。うちに帰ってからじっくりと鑑賞させてもらうためのものだった。
さて、次はこの日の目的地、小鹿野町から札所31番「観音院」へ向かう途中の飯田まで、急ぎたいところだったが、秩父の蕎麦で腹ごしらえもしておきたい。時計の針は12時半か。確か、吉田の椋神社を過ぎたあたりの右手、山裾に評判の店があるはずだが。
「飯田の鉄砲祭」のメインイベント「御立ち」は午後の4時からだから、2時過ぎに着けばいいだろう。そう思っていると、右手に「手打そば」の幟がはためいている。「美食倶楽部たちばな」。そうだ、ハーレー・ダビットソンのオーナーがやっている割烹風の「そば処」。一息、入れるとするか。
(この項、つづく)
Posted at 2013/12/20 02:10:50 | |
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秩父こころ旅 | 日記