~『枯露柿』異聞・そのⅢ〜
【写真註:45年前の門平「水祝儀」から。儀式を終えて一人前になった3人の少年。酒瓶を手にしているのが成島少年】
2014年元旦の朝もそうだったが、正月二日目の朝も、雲一つない晴れやかな空が広がっていた。
こんなに平和過ぎると、かえって不安になってくる。安穏なんていつまでも続くものではない。逆にどんな災厄がやってくるのか、警戒心の方が強くなってしまうのは、昭和ヒトケタ世代の尻尾にくっついてきて、どんでん返しの怖さを何度も味わってきた体験から、そう感じとってしまうのだろう。
ま、お蔭さまで、何がやってこようが、簡単にはやられないよ、くらいの抵抗力だけは培われているつもり。むしろ、そんな状況を楽しんでいようと肚を据えている。
午前8時、恒例の大学箱根駅伝にTVチャンネルを合わせる。
丁度スタートしたところで、エンジにWの白いマークのユニホーム姿が、先頭に立って集団を引っ張っている。学生長距離界のエース大迫選手である。勝負所は多摩川を渡る六郷橋の上りだろう、とTV解説の瀬古DeNA監督が予言しているのを聴いてから、用意しておいた「土佐鶴」の封を切った。
正月用のおせち料理もテーブル一杯に拡げられ、久しぶりに揃った大人数の朝食がはじまる。下戸のわたしでも、「土佐鶴」の美味さはわかる。朱塗りの杯で、一杯だけ口に含む。春の陽射しのような、抵抗のない、甘みを帯びた清水がのど元を通って行く。やがて、胃のあたりが、ぽっと温かくなった。ああ、いい気持ちだ。
広島、山口の仲間から送られてきたマグロ、ブリの刺身、車エビの天ぷらまで添えられた「おせち料理」をいただきながら、しばらくゲストたちと談笑。ひょいとTV画面をみると、あれだけ颯爽と翔けていた大迫選手がズルズルと後退し、2区の同僚に5位でタスキを渡すところだった。やっぱりレースに絶対はない。何が起こるかわからない。これだから「箱根駅伝」は目が離せない。とくに「花の2区」と呼ばれる次のステージは。
案の定、中団でタスキを受け取ったケニアからの快速留学生があっという間に5人をごぼう抜きしたのはいいが、すぐに右足を抱え込んで走りを中断してしまう。これで山梨学院大学は失格となり、次年度は予選会から勝ち上がらなければならなくなった。
結局、ことしの「箱根駅伝」の大きな波乱はここまでで、エンジにWの大学は往路3位、復路は10区で日体大に競り負け、総合4位に終わってしまった。
こうなると、もうひとつのお正月スポーツ風物詩である「高校サッカー」にチャンネルを合わせるしかないのだが、ご贔屓の「東福岡高校」(インテル長友佑都選手の出身校)がV候補と謳われながら、同じ九州の宮崎代表・日章学園にPK戦で屈してしまい、楽しみもここまで。さて「みんカラ」BLOGにとりかかるか……。とまあ、長い前置きとなってしまったが、実はこの「駅伝」と「サッカー」が、これからの「枯露柿異聞」の取材展開に、おおいに関わる伏線だったのである。
2013年の12月22日、箱根のガンさん邸での「餅つき大会」をキャンセルしてまで、秩父の山里へ駆けつけたくだりは、『枯露柿異聞・その1』に詳しいが、その背景についてはまだ、触れていなかった。
昨年の9月、わたしは『秩父 祭と民間信仰』という1冊の本の復刻、新装版の水先案内人として、 書店用に出版社が用意する『チラシ』のヘッドコピーに、ためらいなく、こう書きこんだ。
――秩父という「影の国」探勝の必携バイブルとして親しまれてきた幻の名著、著者没後50年目に発見された秘蔵写真を補強しての復活!
そして、こう「解説欄」に書き継いだ。
———2012年10月、鮮やかな花笠をつけた下郷笠鉾と中近笠鉾が、2基そろって秩父市内を引き回された姿は、秩父の伝統文化を、改めて世に問うた画期的な行事でした。
国の重要有形民俗文化財「秩父祭屋台」指定50周年記念として施行されたものですが、その制定に情熱を燃やし、原動力となったのが、当時の秩父図書館長だった浅見清一郎氏でした。
その浅見さんが同じ時期にまとめ上げた本書は、当時を知り、今を確かめる「秩父のこころ探勝」の必携バイブルとして親しまれてきました。加えて、近年、当時の浅見氏がコツコツと調べ、記録していた段ボールいっぱいのネガフィルムが発見されました。
その中から、消えてしまった祭の模様、習俗、そのころの人々の素顔など、民俗的価値の高いものを選び出し、改めて「新装版」刊行に際して差し替え、追加いたしました。そこには見栄えのいい祭だけではなく、秩父の山里に息づいてきた「獅子舞」「天狗祭」「虫送り」といった民間信仰の原像を知ることができるのです。
* * * *
こうして送り出された本書は、注文に応じて短期間で印刷・製本できるオンデマンド印刷を採用して、販売価格もこの手の分野のものとしては、半額近くに設定でき、原著と同じ四六判なのに印象はコンパクト、2段組み、総ページ352の体裁でお目見えすることになった。
手にとると、懐かしい感覚が蘇る。なぜだろう。表紙の手触りが柔らかい。そしてパラパラとページをめくってしまう感覚。そうか、それは一時代を風靡した「総合月刊誌」に向き合った時のものに、よく似ているではないか。これなら、ちょっとお硬いテーマでも、雑誌感覚となって、いくらかは受け付け易いのではないだろうか。
50年前の秩父と、いまの秩父とを結びつけるのに、格好の贈り物を手にして、じっとしているわけにはいかなかった。「なぜ、いま、秩父なのか?」と前置きして、あえてその水先案内役を買って出る。そして、30ページに及ぶ「『乳撫=ちちぶ』の誘惑」と題したルポルタージュをまとめて、浅見さんの本論への導入部としたが、出来あがってみると、満足するにはほど遠いものがあった。
改めて、『新装版』を開いてみる。はじめに、地元の写真家・清水武甲氏の心に沁みる「序文」があって、目次をはさんで、浅見さんがその「第1章」として、まず「門平の水祝儀」という耳慣れない風習を紹介する。そこで一つのアイディアが浮かんできた。原著では、この「水祝儀」がどんなものだったのか、その理解を深めてもらうための説明写真は、何一つ、使われていなかった。
ところがなんと、浅見さんはこの年初めの儀式を、克明にカメラに収めていたのである。これは希少な民俗行事の画像ではなかろうか。撮影日は昭和44年(1969)1月1日と記されていた。
そこで、原文に浅見さん撮影のショットを3カット、試みに添えてみることにした。と、どうだろう、15歳となって、おとなの仲間入りを許された3人の緊張した息遣いが聴こえてくるではないか。
その三人の少年のひとり、成島善市さんを探し当て、これから「改めて」お逢いするところまで漕ぎつけたのが12月22日だった。「改めて」と断ったのは、その2か月前の『門平獅子舞』の取材で一度、お目にかかっており、「水祝儀」の少年の一人であるとご本人の口から聞いていた。が、なかなか、時間を割いて……というところまでたどり着けなかった。心の内をそう簡単に明かす御仁ではなかったのである。
玄関でインターホーンを捺すと、すぐに成島さんが迎えてくれて、居間に通された。挨拶が終わったところで、こう切り出す。
「この耕地の小学校はどこにあるんでしょうか?」
「ああ、分校がこの先の立沢との境にあったけど、わたしが3年生の時に閉校になり、この下の日野沢小学校まで通ったものです」
「え!? あの34番水潜寺の先の、いまは廃校になっているあの小学校まで?」
「そう、毎日、山を駆け下って20分から25分、帰りは1時間以上……」
「じゃあ、足が強くなりますね?」
「それが取柄で、中学校に上がってサッカーの選手に……そこから高校進学の時、サッカーをやっていればいいというので、全国から見込みのある中学生をあつめた養成組織の日産講習所に入って……それが横浜マリノスの前身だった」
ポツリポツリと語り始めた「水祝儀」少年の青春。もの凄いスピードで山里を翔ける少年の姿が浮かび上がってくる。
その少年の紡いだ「運命の糸」は、この山里を舞台にした明治17年の『秩父事件』のエピソードなどと合流して、この後、とんでもない方向へと発展してゆく……。
(この項、さらにつづく)