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正岡貞雄のブログ一覧

2015年01月31日 イイね!

徳さんが耳元で囁く本『俺と疾れ!!』

徳さんが耳元で囁く本『俺と疾れ!!』~読み始めたら止まらない『自動車評論30年史』~

 ベストカー編集部がとても危ない本を創ってしまった。
なにが「危ない」のかって!?。それは、サブタイトルに書いているように、読み始めたら止まらなくなって、危うく、大事な約束を一つ、すっぽかすところだった。

 さて、この2月9日に都内のホテルで午後6時からいとなまれる「故 徳大寺有恒さん お別れの会」に足を運ばれる「ご友人たち」にお持ち帰りいただく本ができあがり、発起人の一人であるわたしのもとにも、その新刊が前もって届けられたのである。


*俺と疾れ!!(講談社ビーシー・講談社刊 1700円=税別)

 まずモノトーンの白を基調とした表紙の出来がすばらしい。スバルSV4に右手を添えるいつものポーズ。キャッチコピーの《この一筆が日本のクルマを変えた! 34年間、「ベストカー」に綴った遺稿を厳選収録》も悪くない。

 次に、「前書きに代えて」と見出しをつけた『ベストカー編集部』からのメッセージを読む。おお、徳大寺有恒という物書きの見事な人物評になっているではないか。誰が執筆したのかな。その一部を拾いあげると・・・・・・。

――愛称「徳さん」、1976年、それまでのマニアを中心に読まれていた自動車評論を一挙に身近なものにした。よく知られているように「間違いだらけのクルマ選び」(草思社刊)により、クルマの善し悪しの評価をまさに忌憚なくわかりやすく解説したからに他ならない。当時はクルマを悪く書くことに躊躇があったし、たとえ書くにしても遠回しの表現を使い、わかりづらかったということもあったろう。そこに正直に切り込んだのが徳さんだった。それだけではない。徳さんの文章は平明でわかりやすく、しかも面白い。
 かねてから親交のあった五木寛之先生が連載している「週刊新潮」に追悼の言葉として、「昭和の文章家が、また一人いなくなった」と書かれている。クルマの持つ楽しさやワクワクドキドキする情景をわかりやすく表現したのが徳さんの評論だったのだろう。



 その通りだった。かつて五木さんは「ベストカー」への寄稿のなかで、徳さんの文章をこうも評していたのが滅茶苦茶、楽しかったので、ちょっと詳しく紹介したくなった。

「いまや美文の時代だ。美文なんていうと時代遅れの二枚目スターみたいなイメージだが、最近ばかに面白い文章は、みな新しい美文じゃないか。
 美文といえば三島由紀夫。
 だが、本当の美文は、キレイ感覚より、血沸き肉躍る浪漫劇画の精神だ。イキイキして、ウットリさせて、そして読者をじっとしていられない気分に駆りたてる。そのためには手垢のついた表現も、大時代がかった形容詞も、月並みきわまりない比喩の連射も、あえて恐れずあなどらず、4500から6000回転あたりのツインカムターボを思わせる過激な立ち上がりで原稿用紙にフレーズを叩き出す。
 いうなれば十年前の競馬新聞の一面トップ記事感覚。それが現代の美文じゃないか。
ぼくが近ごろ注目している書き手、〈悪夢のオルゴール〉の松井邦雄氏にも、スコラのカー特集号をライターのディクタツール(独裁)化してしまった徳大寺伸、おっと徳大寺有恒氏の文章にも、その新しい美文だい好き感覚がギュンギュン唸っているのを感じる。(後略)



 つぎに、目次のページを開くと、1984年にはじまり、1999年までがあっさり並べてあるだけ。あ、そうか。「激動の20世紀 編」と断っているのは、その辺の仕掛けであったのか。各章の扉ページに掲載年を大きく見せて、そこへその年の【主な出来事】を執筆の背景を添える。ありがたい仕掛けだ。

 当書の「源泉」となった連載企画『俺と疾れ!!』は、『ベストカーガイド』が創刊してから6年目の1984年にはじまっている。当初は読者の疑問、質問に徳さんが答える形式だったのが、翌85年に現在と同じ月2回刊となり、誌名も『ベストカー』に短縮されたのを機に、企画の最初に徳さんがその時に感じたことをエッセイとしてまとめるようになる。それが連載最終回となる2014年、12月26日号まで続く。その一つ一つが連環しながら、徳さんの生き様を浮かび上がらせようという仕組みらしい。

  1984年6月号「なんにでも答えたい」
―――クルマいちずに44年間、学校の勉強もろくにやらず、ただ、クルマ好き、好きで人生を送ってきた。
 よくしたもので、それなりに人生を送れるものであると、私自身が証明になっている。貧乏のときもあり、少々豊かなときもあった。
 しかし、私は一貫してクルマが好き、それもできることなら目的に純粋なクルマを好ましく思ってきた。
 このページはクルマのことはもちろん、その他のことを44年のあまりたいしたことない人生をかけてお答えしようと思っている。

 この自然体の宣言で、その連載はスタートした。すぐ次の項は「クルマが大好きだが、それ以上に友人は大切だ」と歯切れよく宣言する。
―――最上のメシが食いたければ、最高の友と食事をともにすることだと思う。
 それと同じく、最も幸せなカーマニアになりたければ、クルマ好きのいい友だちに恵まれる必要がある。
 私はクルマが大好きだが、それ以上に友人は大切だと思う。そして、その友人たちが多いことを私は本当に誇りに思っている。
 我がBCG(ベストカーガイド)の最良のテスターはいうまでもなくガンさんである。まだ、つきあってから日は浅いが、素晴らしい男である。
 御年43歳(たしか?)だが、まだ走り続けている。
 彼は自分の前を走るクルマ、人を許さないのだ。クルマを速く走らせることが彼の人生であり闘いなのだ。
 私はガンさんの走りから哲学を感じる。速く走ることは美しいことだと思えてくる。
 これは友人の一例だ。そして彼ら友だちが私にものを書くエネルギーを与えてくれるのだと思っている。



 テーマはひらひらとあっち行き、こっち行きで、まことに楽しい。

*キミがポルシェを一生持てないなんて、そんなこと誰がわかっているんだ!
*F1GPは速くて、そして悲しいレース
*万人にとって最高のクルマなんてありゃしない(’85年7月26日号)
*カー・オブ・ザ・イヤー授賞式に思う(’86年3月10日号)
*新春特別エッセイ フェラーリの誘惑(’88年1月26日号)

 ああ、まるで徳さんが耳元で囁いているような「懐かしい時間」が蘇ってくる。もう少しだけ、どんなことを語りかけてくるのか、ピックアップしておこう。

*この大バカ野郎(’93年4月26日号)
*アイルトン・セナの死とモータースポーツのリスク(’94年6月26日号)
 この時の徳さんの筆鋒は、まるで何かに向かって怒りをたたきつけるような、凄みと熱さがこもっていた。
―――現代のF1ドライバーは自動車という機械を征服する人間の代表だ。それは宇宙飛行士にも似たもので、ロックシンガーやTVスターとはまったく違うものだと思う。
 セナの事故はそのことをはからずも教えてくれることとなってしまった。
 私の知るかぎりでも、多くの素晴らしいドライバーが亡くなっていった。セナと同じ年にデビューしたドイツのステファン・ペロフもそのひとりだが、ジム・クラーク、ヨッヘン・リントなどワールドチャンピオンもサーキット事故で亡くなっている。
 けっしてモータースポーツの事故がいいとも思っていないし、そいつを見たいとも思ってもいない。でも、リスクのないモータースポーツは存在しない。それは角のない牛と戦う闘牛士と同じなのだ。そのリスクが、彼らを特別な人間にしているのだ。
 1995年の3月10日号、徳さんらしいいい斬り方で、スカイラインGT-Rを断罪する。「スカイラインGT-Rは”つまらん”」と。結構、たっぷりスペースを費やして、書き込んでいた。デビューしたばかりのR33のスカイラインGT-Rを、「私は不要だと思っている。GT-RはもはやGTでもなく、むろんスポーツカーでもない」と。徳さんは怒ってはいなかった。哀しかったのだ、とわたしは読み取った。



 ここから先は、どうぞ実際に本書を手にして、それぞれが自由に読みとっていただきたい。
ちなみに、この続編「変革の21世紀編」は3月下旬に発売予定だという。
                                      (この項、終わり)
      
Posted at 2015/01/31 04:47:37 | コメント(3) | トラックバック(0) | ちょっと一服 | 日記
2015年01月23日 イイね!

『新・ベスモ疾風録』への招待!!

『新・ベスモ疾風録』への招待!! ~Best MOTORing遺伝子培養の専用サイトを開設!〜
【左のカットは第2回ベスモ同窓会in東京のもの】


 現役だったころは、出勤するとまず、机の上に積まれた「クルマ仲間=読者」からのハガキに、一枚一枚、目を通すことからはじまったものだ。

 それが今では、i Mac PCの「お目覚め音」を聴いてから、「Safari」 を開き、「ブックマーク」ホルダーから「みんカラ」へと渡っていく……。「お気に入り」から「マイページトップ」へ。そして「ブログ」をチェックしてから再び「マイページ」へ。それからは「メッセージ」「コメント管理」「イイね!」「グループ」と順に訪問し、最後は「管理」のコーナーから「PVレポート」で前日の「訪問客」の総数と、詳細にカウントされているコーナーの来客数を、一喜一憂しながら、確認する……。


*社長室です。この頃の「2&4モータリング社」は光文社、キングレコードと同じビルの9Fにあって、フロアーもキャッチボールができるくらいに広かった。

 この国で最強のクルマ総合情報サイト「carview!」の柱である「みんカラ」で「SPECIAL BLOG」執筆陣の一員となって2年半。貴重で、充実した「新しいクルマ仲間」との交遊が始まった。

 現場から退いて『幻のルーツ紀行』や、漫画家の矢口高雄さんと組んで、パリダカ優勝の増岡浩、サッカーのゴン中山、加山雄三、藤あやこといった、当時「輝いていた人」たちを訪ね歩く『釣りキチ三平の対談構成』など、好きなことに熱中しながらも、こころのどこかで、すきま風を感じ取っていた。「空白の10年」と、わたしが勝手に呼んでいる「あれ」である。


*中山サーキット。第3回のときの「朝の風景」。


*こちらは「第2回」のときの「ガンさんサイン会」

 やっと、それを克服できそうだ。この4月6日に岡山・中山サーキットで開催する「ベスモ同窓会」も、そうした日々の中で、「みんカラ」を通して生まれ、育ちつつイベントである。となると、それを舞台にもっと何かやれることはないのか?

 わたしの悪い癖が、また頭を擡(もた)げ始める。「ベスモ同窓会」はメンバーに登録した「みんカラフレンド」に限定されている。その中から、わざわざ岡山の山間部まで足を運んでくれるのだ。それに応えるステージに育てなくっちゃ。
 萩の「カリスマ教官」をはじめ「とにとに」さん、「FRマニア」君、関東組の「MDi」「CMO」「RA2ひら」「2315」「イワタカズマ」「エムシー34」「Ku Ta Desu!」の諸君たちとの交遊をかさねながら、何をすればいいのか、何がもとめられているのか、を模索していた。


*第3回には大井貴之君が駆けつけてくれた。彼からのプレゼントをめぐって「ジャンケンポン」!


*こちらはガンさんが第3回のJAFグランプリ優勝時に着用したレーシングスーツ。ガンさんにサインをねだった上で「オークション」に!

 結局、難しいことをあれこれ思い煩うより、わたしの出来ることをわたしなりに料理して、創り上げ、提供していく。それしかないな、と肚を決めた。すると、具体的な方策が浮かんできた……それが「ぽらりす」開設というアイディアであった。

 これまで、「ベストカー」「ベスモ」で関わってきた作品、業績、願いが眠りかけているなら、それを揺すり起こし、改めて生命の水を注ぎ込もうじゃないか。幸い、「みんカラ」を通して、インタネット通信、PCもソコソコに操作できるようになっている。難しいときにはサポートに駆けつけてくれる「クルマ仲間」もできた。で、新しいステージ創設に踏み出したわけである。

 かつての『風の仲間』にも協力を願った。彼らの著書・作品の電子書籍化。中谷明彦君との、かねてからの約束だった『ドライビング・バイブル』のe-Book化もでき上がった。この作品に彼の「語り」と「動画」をコラボする発想も、いま現実化しようとしている。それはさらに『中谷塾』に発展していくはずである……。

 ともかく、頑張ってみよう。「ぽらりす」のホームページを、Webデザイナー、「燦」の原茂雄さんの好意に甘えて、創設できた。


*ここをクリック! つづけて「新・べスモ疾風録」のコーナーの下段にある「第1回 創刊号とその前夜」をクリックすると……

 

 そのオープンの目玉として『ベスモ疾風録』(全20回)を、今の視点を加えて、蘇らせようと思う。かつて『ベストモータリング』が20周年記念を迎えるにあたって、その軌跡をわたしの文章と該当するシーンを「ベスモ」のなかから抽出し、ダイジェスト動画を添えた、意欲に満ちた企画だったが、不幸にして、媒体の廃刊のあと、編集制作会社まで消滅したため、宙に浮いた「記録」となっている。なんとももったいない話である。
 
 こうしてでき上がった「ぽらりす」の専用サイト。運営していく「資力」確保のために、やむを得ず、有料「コンテンツ」として設けているが、その中身こそ、確実に、「Best MOTORing」の「遺伝子」を内蔵する「宝物」であることを信じて、お届けしたい。


*「ひとりはうまからず」と彫り込まれたクリスタル。参加メンバーからの贈りもの。大感激!


*「MDi」さんのビートに乗り込むガンさん。なんと車載カメラが回っていた。ちかく、その動画を「ぽらりす」で特別公開予定!



 このあと、「ホーム」欄でご覧いただけるよう、「第3回ベスモ同窓会」の走行イベントで収録した、車載カメラによるガンさんの「Beat」のドライビングや、当日の模様などを文章と「動画」で準備しつつある。ああ、「ベスモ同窓会」って、こんなイベントなんだ、と一発でおわかりいただける仕組みだ。

 新ステージの開設、それが『Best MOTORring』 のDNAを培養し、なにがしかの新しいエネルギーの震源地にならんことを希(ねが)って、われらが「クルマ仲間」へ、メッセージする次第である。

 付記すれば、やっぱり、新しいサイトが出来たのが嬉しくてたまらないのだろう、早速、「リンク・クリック」の最上段に告知しております。ポチンとやってください。そして、お楽しみください。


 
Posted at 2015/01/23 21:38:47 | コメント(4) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
2015年01月21日 イイね!

あの伝説のスイーツ店『ルコント』と再会した日

あの伝説のスイーツ店『ルコント』と再会した日〜「C200の誘惑」と連環する新しい「回線」について〜

 ひょんなことから、書きかけたままの「C200の誘惑」につながる、新しい回線とめぐり逢った1月17日のことを、「身辺雑記」風に綴ってみたくなった。
    ★          ★         ★
 1 月17日の「何シテル?」欄に書き込んでおいた、20年前の『阪神・淡路大震災』にまつわる追憶がいささか舌足らずなのが、気になって落ち着かない。

 再録すると……「20年前の阪神・淡路大震災。鎮魂の想いが甦る。TV画面で高速自動車道崩落や街を焼く炎が! あのとき、ベスモ・ホットバージョン組は、西へ向かっていた。オープン直前のセントラルサーキットでデビュー直後のR33GT-Rのテストのために。即、中止。次の4月号が例の《広報車問題号》だった」


 −−−140字の制限のあるコーナーに盛り込むには、いささかテーマが大きすぎた。
 簡単に言えば、1995年のその日、ベスモの別働隊『Hot-Version』のロケ組が、当時フルモデルチェンジしたばかりのR33 GTR で全国縦断の企画で移動中、その疾走舞台のひとつに入っていたのが、オープン直前の「セントラルサーキット」。特別のはからいで、テストラン出来る予定だった。
 ところが、ご存じのように「セントラルサーキット」は神戸から30kmほど北西の山間部に位置するとはいえ、同じ兵庫県内だ。インフラが断絶しているという。それよりも、こんな非常時に……というわけでロケは即、中止を指令した。
  
 そして翌月、2月26日に発売された「ベスモ4月号」が広報車問題の発火点となった『R33 GTR No.1復活バトル』の号である。ベスモは「疾風怒濤の時代」のまっただ中にいた。

 せめて、そこまでは説明しておくべきだった。仮にロケ日が一日早ければ、と考えると、いまでも背筋が寒くなる。

 さて、前日に続いて陽射しの明るい日曜日の昼下がり。
 これから、昨日、銀座で買って来たスイーツをいただくのを、楽しみにしている。何年か前に廃業したときいていた伝説のフランス菓子店「ルコント」の「ガトゥ フランヴォワーズ」が、懐かしい赤紫のローズ系ジャム色を復活させて、わたしがフォークに手を伸ばすのを待っている。なぜその幻のスイーツが目の前にあるのか。

 その日の朝、家人は和服姿で銀座へ出るという。「着付け」グループとの食事会だから、当然そうなる。陽射しは明るい。が、風が舞っている。
「送ろうか?」
「お願いできる?」
 薄紫の道行きコートが、母親譲りの「つけさげ」の着物を引き立てている。
「いいじゃないか」
「そう」
 有り難う、もない短いやりとり。45年も一緒に暮らすと、それで充分だった。

 銀座の中央通りを、京橋側から入って、今は改修中の松坂屋デパートの先でプログレを止めた。
「終わりは何時頃だ?」
  こちらが迎えにくる、といいもしないのに、
「いいわよ。食事が終わっても、みんなでおしゃべりして、お茶するだろうから……」
 そういいながら、助手席のドアを開き、草履履きの足元から、舗道に降り立つ。それを狙ったように、冬の風が妖しく、少し淫らに吹き抜けた。
「ヒャァ! 寒い!」
 慌てて、裾をおさえる家人の悲鳴が耳を衝いた。


 
 銀座とわが家の中間にあたる、目白にさしかかった。家人と最初に暮らした街で、いつかはここへ戻って来られたらいいな、と想いを寄せている街でもあった。懐かしい看板が目に入った。『名代 つゞらそバ』か。黒い木造の構えも昔と変わらない。駐車場も空いている。よし、お昼をここで済ませよう。プログレのノーズを左に切った。

「鍋焼きうどん」を注文。大ぶりな海老。讃岐うどん並みにコシのある太目のうどんに、息を吹きかけながら取り組んだ。味も昔のまま。1300円はけっして高くはない。すっかり身も心もあたたまったところで、ひょいと銀座へ引き返す気になった。

 また、寒風に吹かれ、家路につかせるのも忍びない。まだお迎えには時間も早過ぎるが、たまには銀ブラでもして、それから家人をピックアップしてやればいいじゃないか。珍しく、優しい気持ちが湧いてきた。

 午前中と同じように、皇居前の通りから馬場先門へと左折し、さらに京橋の交差点を右折して銀座の大通りを目指した。と、もう「歩行者天国」でクルマは入れない。そうか、土曜日は午後からクローズドされるのだった。

 仕方なく、昭和通りへ迂回して、築地側から銀座8丁目あたりでターンしてから、松坂屋裏を狙った。幸い、パーキングはすぐに確保できた。

 ブラリという感じで、クルマの入ってこない銀座の中央大通りを歩くのはいつ以来だろう。すぐ脇を、スケボーを駆る少年が4丁目方向へ、元気よく抜けていく。歩行者天国の開放感が心地よい。さて、どこかにいい珈琲屋があったはずだが。

 すぐに「星乃珈琲店」が目に入った。ここのゆったりとブレンドされたストレートも悪くない。が、すでにお客の行列。30分待ちだという。で、当然、パス。



 同じ通り側で、「虎屋」の看板が目に入った。そうだ、羊羹と一緒に、抹茶をいただくのも悪くない。
 その瞬間、「近頃、わたしのいないところで糖分を摂りすぎてない?」と「イエローカード」をつきつけた家人の声が聴こえたような気がする。糖尿病になったらおしまいだからね、という忠告だった。
「そうだね」
 思わず、声が出る。と、その左隣に、間口は狭いけれど、白を基調に独特の沈んだ色調のブルーをあしらった、どこかでお目にかかったことのある、お洒落な店構えが目についた。

「A.Lecomte depuis 1968」(創業1968=昭和43年のア・ルコント)と店の名が誇らしげに横書きで掲げてある。

おお、その名こそ、今のスイーツ全盛時代を切り拓いた伝説の店のことではないか。確か、5年ほど前に、後継者の高齢化から、その歴史を閉じたはず。それが今、この銀座で再開されたというのか。

いそいそと店内へ。清楚な女店員が迎えてくれる。白鳥の姿をしたシュークリーム、ネズミを象(かたど)ったエクレアetc。懐かしい品揃え。いま、大流行のマカロンもある。そのなかから、迷いなく、モンブランとガトゥ・フランヴォワーズを、2個ずつ包んでもらうことにした。それというのも、このスイーツなら、「糖分過多」を心配する家人も黙って受けとるだろう。その確信があった。



「ルコント」こそ、この国で初めて誕生した、フランス人パティシエ、アンドレ・ルコント氏によるフランス菓子店で、1968(昭和43)年に六本木でオープンした。パリの高級ホテル「ジョルジュ・サンク」で腕を磨いた後、1963年にホテルオークラのシェフ・パティシェとして来日、日本人にフランスの味をよく知ってもらおうと、フランスと同じ食材、同じレシピにこだわった。“Tout a la France”(万事、フランス流に・・・)が、彼の信念で、その頑固なほどの味へのこだわりが、この国のハイソサエティで支持され繁盛した。

 そのオープン当時から、家人との待ち合わせは、この店の2階に併設された「サロン・ド・テ」で、決まって「モンブラン」か「ガトゥ・フランヴォワーズ」を注文したものだった。

 そんな六本木のお店のことを、ケーキを包んでくれる女店員に話しかけると、
「すごく流行っていたそうですね。その2階のシャンデリアは、今、再スタートの第1号になった広尾のお店に飾ってあるんですよ」
 そう、教えてくれる。広尾か。「ルコント」に最初に私を誘ってくれ、「フランヴォワーズ」を奨めた芸能人カップルも、その頃は「新婚生活」を広尾で送っていたな。そんな古い記憶まで蘇ってきた。
 

*ローマ郊外の遺跡を歩く新婚旅行中の石坂浩二・浅丘ルリ子のカップル。密着取材中? そのあたりの『いきさつ』は、こちらをクリック。

 ダージリンの紅茶が用意されて、いよいよ、円いフランヴォワーズにフォークを入れる。滑らかにフォークが沈む。スポンジとバタークリームを重ね合わせた層が現れた。フォークで削り取られたローズ色のスイーツを口へ運ぶ。甘酸っぱい懐かしい味が、優しい甘さと混ざり合って、口の中に広がる。
「ちっとも変わらないね」
「うん」
 家人が微笑んでくれる。平和な午後だった。

 オープン当初から変わらず、愚直なまでに、造りあげるのもいいな。「ルコント」にも新しく工夫を凝らしたスイーツはある。それも、ぜひ味わってみようじゃないか。でも、わたしのなかの「フランス菓子」の物差しは、いつまでも「ガトゥ・フランヴォワーズ」であるようだ。

「C200」に乗ったときに感じ取ったメルセデス・ベンツのメッセージもそれだな。その新しい回線については、この回ではまとめあげられなかった。近くその続編を・・・・・・。


Posted at 2015/01/21 22:55:42 | コメント(5) | トラックバック(0) | ちょっと一服 | 日記
2015年01月15日 イイね!

『還暦プラス19歳』の青春をめざして!

『還暦プラス19歳』の青春をめざして!〜ナンバーワンよりオンリーワンを、と自らを励ましながら〜

 東京の冬空が珍しく暗く、淀んでいる。いまにも白いものが舞い落ちてくる気配が満ちて来た。

 こんな薄暗い、鉛色の空が、遠い、古い記憶を刺激する。生まれ故郷、北九州・八幡の空である。「八幡」のことは、2014年8月に『鎮魂の夏』(ここをクリック)と題して3回に分けて触れているので、よろしかったら、そちらも併せてお読みいただければ、ありがたい。


*北九州・八幡の夜景。現在では「世界産業文化遺産」への登録推進活動で燃え上がっている(写真は北九州市HPより)

 79年前の1936年1月15日、その頃は「八幡市」とよばれ、官営日本製鉄所の本拠地として繁栄の頂点にあったその街で、わたしは生を享(う)けた。溶鉱炉が四六時中燃え盛り、七色の煙がいつも街を覆っていた。

 時代は『満州事変』から『日支事変』へと右傾化し、その年の2月26日には陸軍若手将校ら粛清テロが勃発するなど、どんどん悪くなっていく……そして『太平洋戦争』へと。そんな時代に産まれたわたしには、当時の国民的スターに祭り上げられた「陸軍」のリーダーにあやかって「サダオ」の名前がつけられた。ま、「貞夫」ではなく「貞雄」でよかったが……。それとなく聞かされていたのは、その陸軍のリーダーが八幡にやって来て、歓迎のドン(午砲)がなった瞬間に生まれたので、その将軍の下の名をいただいた、と。

 八幡の冬空は、背後に600メートル級の皿倉山塊が控えているため、北の方角だけに広がっていた。洞海湾越しに玄界灘の一部となる響灘が鈍く光る。それでも、星の光る夜は、北斗七星が浮かび、北極星の位置を教えてくれた。

「あの星だけは動かんとよ。そやけん、海や陸で方向がわからんようになったら、北極星を探すといい」
 はじめに教えてくれたのが、9歳年上の兄だった。だから、上京してからも、心が迷って夜空を仰ぐと、いつも北極星、つまりポラリスを探した。



 東京に上ってちょうど60年が過ぎた。出版社に入り、いろんなメディアの編集に携わることができた。そんなある時期、多分、「ヤングレディ」という女性週刊誌に席を置いていたときだったろう、新宿のマスコミ人の溜まり場スナックに出入りする「星占いの女王」に誕生日を告げたところ、こういわれたことがあった。「あなたはナンバーワンにはなれないがオンリーワンにはなれる」と。

 その予言とも言える指摘が、今でもこころの奥深くに刺さっている。ナンバーワンにも、オンリーワンにもなれなかった。が、これからでも、オンリーワンにはなれるかもしれない。そうか、還暦を超えてから、本日より「プラス19歳」の日々がはじまる。そう考えれば、またオンリーワンに挑戦しようという気力も湧いてくるではいか。







 不思議なことに、このところ、心が西に向かっている。「第4回ベスモ同窓会」を岡山・中山サーキットで開催すると決めてからは、そのお供のクルマに何を選んで西へ向かおうか、と。

たまには長年連れ添ったプログレもいいなあ。いやいや、折角、中山サーキットにいくのだから、マニュアルミッション装備のマシンにしたいな。去年のアクセラ・ディーゼルのMT車は走りといい、燃費といい、刮目すべきものがあったじゃないか。だったら、新しくMAZADAからデビューするCX-3がそのころならロング試乗OKのサインをもらっている。いいなあ。

 しかし、先だってのRJC 2015年次「ブリテン」には、こんなラブコール的文章を掲載しているではないか。それをどうしてくれるのだ、と自問する。ま、その件は、この6月に北九州市で開かれる予定の、中学時代の同窓会出席を想定しての心映えであったが、この4月の岡山行きも、Cクラスをチョイスしてこそ、「還暦プラス19歳の青春」に相応しいのかもしれない。



 それはこんな書きっぷりだった。割り当てが400字強。いささか窮屈で詰め込みの感あり、か。

■RJCブリテンへの寄稿 ベンツC200が『人生最後の1台』か          

 78歳の筆者、目も足腰も衰えていない。許されればサーキット走行も辞さない「チョイ悪爺ィ」。それがこのごろ「人生最後の1台」に何を選ぶか、真剣に取り組んでいる。条件はFRセダンに限る。

 そんな矢先に登場してくれたのがベンツC 200。なにしろ世界のCセグメントのベンチマークリーダー。その誇りにかけて、可能な限りの新手法投入を謳ってのお目見えに食指が動き、早速に一般道、高速自動車道、山道の各舞台で試乗。 

まずホイールベースの80ミリ延長で、居住性と運転性能を劇的に高めようとした意図に好感。量産プレミアムカーで初めてアルミと鉄のハイブリットボディの採用。走行中でも「アジリティ」とよぶ切り替えダイヤルで、好みの走行モードを選べる仕組み。そのシステムに上級スポーツタイプ限定のエアサスが絶妙に呼応する。

 それらを確認したところで、『ディストロニック』と呼ぶドライバー支援システムとカーナビの精度も試す。

 これなら、念願の九州往復(片道1000km)ドライブのお供にしても大丈夫ではないかな。
 
☆        ☆        ☆        ☆

 まだ迷ったままでいる。
 ただし、今回こそ、この19年間、眠ったままのヘルメット、レーシングスーツ、それに靴とグローブ……に、わが生命を吹き込むつもりである。浮き浮きと、こころが弾み始めた『還暦プラス19歳の青春』初日の、つれづれなるままの「抱負」であった。



2015年01月09日 イイね!

『記憶違い』の功名 

『記憶違い』の功名 〜改めて『ベスモ疾風録』を書き直してみようかな?〜

「怪我の功名」ということばがある。うっかりミスが、思いがけない好結果を呼ぶ。そんな意味のことわざだろうが、とんだ記憶違いから、埋もれていた事柄が露われ、連想ゲームの引き金となって、いろいろと思い出されていく。その連環から、あのベスモの「疾風・怒濤の時代」が掘り起こされていく……そんなお話からはじめたい。そしてそれは、新しい物語への取り組みになるかも知れない。





 新しく2015年に入って、しばらく鳴りをひそめていた「ベスモ同窓会」への加入希望者が、ここへきて動きが活発となった。
 1月6日に、156番目の同志となった 「スバルは地元名産品」さんからこんなメッセージが届く……。

−−−この度は、ベストモータリング同窓会のグループに参加させて頂ける事となりまして、本当に有難うございます。私が「ベスモ」と出会ったのは1996年だと記憶しています。たまたま書店で1996年2月号を見つけて購入し、何度も何度も見た記憶があります。内容はガンさんがフェラーリF355で、国産最強クラスとのバトルをしていた物です。以来毎月、以前の物は古本屋で見つけては買い足して、ほぼ全巻実家に保存してあります。
(もうビデオの物は劣化して再生することも難しいかもしれませんが……ハードケースの時が一番面白かったです)今回、このみんカラで再び「ベスモ」に触れることが出来て、大変感激しております。オフ会等なかなか参加が難しいように思いますが、陰ながら応援させて頂きます。






*ポルシェ911ターボを操る中谷の「足」


 あたたかい想いが、ジワッと伝わってくる内容だった。早速、お礼をかねて返信する。
「やあ、はじめまして。早速、1996年2月号を見直してみました。ガンさんのF355、よく憶えています。ベストモータリングも円熟期にあり、どのコーナーとも、つい見入ってしまいました。小生は、次の世代にバトンを渡すべく、いろいろテストしていた時代でもありました。それから21年ですね。改めて、そのころの新しい読者を、仲間に迎えられる。有難い、と想います。無理をしない程度で、直接お逢いできる機会が来るといいですね」

 すると、素早いレスポンスで「メッセージ有難うございます」の件名で折り返しのメッセージが送信され、その末尾にさりげなく添えられた「追伸」に、ドキッとさせられる指摘があった。

「1/3号のブログで2代目セルシオが旅のお供とありましたが、あのクルマは初代のクラウンマジェスタです。いや、私の以前の愛車が2代目セルシオなもので、少し気になっておりました」と。


*「記憶違い」の引き金となった湯布院でのスナップ


*ちゃんと正面からのショットもあったのに……。

 慌てて、1月3日にアップした『カリスマ教官の…』の最後に添えた九州・湯布院でのスナップ写真を確認してみる。ボッテリしたリアビューから、そのころの記憶から「セルシオ」と疑いもせず、このときのお供として紹介している。アップしてみると、間違いなく「MAJESTA」のエンブレム。ついでに念のため、当時の「手帳」で確かめてみると、8月11日にマジェスタを受け取っていた。で、すぐに返信。

「そうでした。初代マジェスタでした。それが出たところで、その主査だった渡邉浩之氏(のちに常務となってハイブリッド車開発を推進する)から、ぜひ試乗を、と乞われ、九州行きのお供にしたのを思い出しました。ありがとう。すぐに訂正します。なお、1996年2月号は間違いなくガンさんがF355をドライブしています、中谷君は最後のグループAマシンでした。(正岡註:これも間違い。ポルシェ911ターボをドライブ)」

 そんな「記憶違い」からはじまったやりとりのお陰で、改めて「ベストモータリング」の1996年2月号を再生機にかけたり、山陰から九州へと夏休みドライブした1994年当時の写真帳を洗い直したりしているうちに、さまざまな記憶が蘇ってきた。






*そのころCOTYの実行委員だった小生まで「特別出演」

 たとえば1996年2月号の「筑波バトル」を収録したあと、ガンさん、中谷、土屋の3キャスターをヘリコプターに押し込み、河口湖畔のリゾートホテルで開催されている「日本カーオブザイヤー」の選考会場に降り立った「事件」。その号の自社コマーシャルで「黒澤元治ベストセレクション・メルセデスベンツNEW Eクラス」を告知していたり……そのころの様々な「出来事」。1号戻ると(つまり1996年新年号)「ベスモ組長の跡目相続劇」をパロディの形で披露したりと、かつてまとめた『ベスモ疾風録』をもう一度、洗い直したらどうだ、という声が、どこからか聴こえてくる……。





「記憶違い」の功名。そんなタイトルが、ひょいと浮かんできた。
 そうだ! 黒澤さんと五木寛之さんとの「対談・それからのメルセデス伝説」も紹介しかかって、そのままになっている。

 それに1994年のあの頃、それまでのセルシオをマジェスタに乗り替えた背景など、まだ触れていない。

 78歳でいられるのもあと1週間。もう1回、ネジを巻き直さなくっちゃ!
                
(この項、終わる)
Posted at 2015/01/09 22:26:36 | コメント(5) | トラックバック(0) | 78歳の挑戦 | 日記
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1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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