〜最有力だったC250に強烈なライバルが登場!〜
週末、久しぶりに「西のまほろば」北九州に帰る。
昭和23(1948)年に1学年3クラス、総数108人が新しく中学生になり、当時は「小倉師範」(いまでは福岡教育大学)と呼ばれた学舎の、だだっ広い敷地の中になかに新設されたばかりの「教育実験中学」に通学しはじめた。

*1951年に巣立っていった福岡教育大学付属小倉中学校の佇まい

*還暦を記念しての同窓生が長崎・島原へ。その時から20年を経て……。
木造1階建て。教育者養成のための施設だから、師範学校生用の寮舎まであり、付属する小学校と中学校、それにラグビー場までが一緒にあったのだから、その敷地の広さには、驚かされた。今では北九州市に一括されているが、その当時は小倉、八幡、門司、戸畑、若松がそれぞれに「市」を名乗っていて、なにかにつけ、競い合う気質があった。
小学校6年の秋だったろうか、担任教師に呼ばれて「中学受験」を突然に命じられた。4クラスから各2名、計8名が選抜されて、小倉にできたばかりの「付属中学」に受験するから、お前ら頑張れよ、というのだった。なんだかわからないが、試されている気がして、ドキドキしながら受験の日を迎えた。
夜明けとともに小学校に集まり、引率教師の先導で、八幡市(いまでは八幡東区)の西寄りに位置する緑町駅から、小倉の東端にある富野駅まで「西鉄電車」に乗ってコトコトと40分、次に富野駅から足立山麓までの登り道を歩いて20分、合計1時間余をかけて受験会場へ。北九州5市とその周辺から選抜されて集まった少年・少女はみんなえらく賢そうで、自分だけが「場違い」なステージに引っ張り出されたような戸惑いがあった。いまでもその時の違和感を忘れないでいる。学科試験だけではなく、体力テストも行われた。その頃のわたしは他人と運動能力を競えるような体に育っていなかったから、それだけで駄目だろうと、思ってしまった。
半月後、試験の結果が発表されたらしい。満面に笑みを浮かべた担任に呼ばれた。同じクラスの木村計治朗君とわたしのふたりだけが合格したと告げられた。入学してみてわかったことは、八幡市からの合格者は男女合わせて10名だったから、たいへんな「狭き門」をくぐったわけである。
付属小学校からの持ち上がりが60名。外からの受験組が48名。合計108名の少年少女の、新しく、少しばかり幼い青春がはじまった。
そして2015年の3月になって、こんな挨拶状が届いた。福岡教育大学(福岡学芸大学)付属小倉中学校三回卒業生(附三会)の幹事からである。
一一お元気にお過ごしですか。いつの間にか80歳を迎える年齢になってしまいました。傘寿の祝賀会を母校のある思い出の小倉で行う計画を立案しました。
同期の友達も108名中、連絡のつかない人11名、故人となった人22名となり、連絡の取れる会員75名に通知を送付しています。今回のような全員向けの会合は、今回で最後になるでしょう。会場は、妙見神社の前にある「妙見荘」という市内を見渡せる料亭を考えていましたが、残念ながら、昨年末、廃業となってしまいました。
したがって、交通の便を考慮し、小倉駅のステーションホテル小倉を予定しております。また、翌日(29日、月曜日)希望者には、母校を訪問する計画をしております。こぞって参加されるように。また、同伴者大歓迎します。
6月最終の日曜日にするスケジュールは内々に存じていた。即座に出席の返事を送る。それも、家人同伴と付記して。ただし、秘かに心に決めていた「人生最後の1台」を購入して、その慣らしをかねて、陸路をゆっくり旅しながら、その会に臨む、という「還暦プラス19歳」の夢は別の機会に譲ることにした。空路で北九州空港に降り、そこからレンタカーで移動するか、と。
このあたりの動きについては、すでにことしの初めあたりから「みんカラBLOG」で何回かふれている。発火点は萩在住のカリスマ教官、波田昌之さんからの「年賀メール」だった。
《カリスマ教官からの「年賀メール」》はこちら。
さらに2015年01月15日の「みんカラ」で、想いのほどをさらけ出している。
『還暦プラス19歳』の青春をめざして!……と題して。それを要約してみると。
不思議なことに、このところ、心が西に向かっている。「第4回ベスモ同窓会」を岡山・中山サーキットで開催すると決めてからは、そのお供のクルマに何を選んで西へ向かおうか、と。
先だってのRJCの定期刊行物である2015年次「ブリテン」には、こんなラブコール的文章を掲載しているではないか。それをどうしてくれるのだ、と自問する。ま、その件は、この6月に北九州市で開かれる予定の、中学時代の同窓会出席を想定しての心映えであったが、この4月の岡山行きも、Cクラスをチョイスしてこそ、「還暦プラス19歳の青春」に相応しいのかもしれない。

*ひところ最強力候補だったメルセデスC250
■RJCブリテンへの寄稿 ベンツC200が『人生最後の1台』か
78歳の筆者、目も足腰も衰えていない。許されればサーキット走行も辞さない「チョイ悪爺ィ」。それがこのごろ「人生最後の1台」に何を選ぶか、真剣に取り組んでいる。条件はFRセダンに限る。
そんな矢先に登場してくれたのがベンツC 200。なにしろ世界のCセグメントのベンチマークリーダー。その誇りにかけて、可能な限りの新手法投入を謳ってのお目見えに食指が動き、早速に一般道、高速自動車道、山道の各舞台で試乗。まずホイールベースの80ミリ延長で、居住性と運転性能を劇的に高めようとした意図に好感。量産プレミアムカーで初めてアルミと鉄のハイブリットボディの採用。走行中でも「アジリティ」とよぶ切り替えダイヤルで、好みの走行モードを選べる仕組み。そのシステムに上級スポーツタイプ限定のエアサスが絶妙に呼応する。
それらを確認したところで、『ディストロニック』と呼ぶドライバー支援システムとカーナビの精度も試す。これなら、念願の九州往復(片道1000km)ドライブのお供にしても大丈夫ではないかな。
ところがさらに、この3月に「大改修」をしたプログレを、そのまま日常の足として手元にキープすることにしたため、「人生最後の1台」を選ぶ基準に変化が生じてきたのだ。つい先日、機会があって、わがプログレを短い距離だったが、中谷明彦君に試乗、鑑定をお願いした。
「局長、いいよ、これ。まるで新車じゃないですか。TOYOTA車の直6エンジン搭載はお宝ですよ。足もしっかりしているし。大事に乗ってください」
どこかの「何でも鑑定団」のお方のような口ぶりであった。そうだよね。プログレは手放せないよね。実はこのごろ、ほとんどC250に決まりかかっていた「最後の1台選び」は、別のタイプのクルマに心が移り始めていたことあって、仕切り直しとなった。

*Macan turboはなぜか秩父の風景によく似合っていた
そのきっかけは多分、「第4回ベストモータリング同窓会in岡山」への往復で、ポルシェ911カレラSをドライブしながら、ああ、このままいつまでも、どこまでも、ステアリングを握っていたい……という往年の熱い想いが、あっという間に身体中に沁み渡ってしまった、あの瞬間だろう。メルセデスのC250の、パーフェクトに仕上げられた「マシン」とは異なる、なにかシンプルに、自由に心を揺さぶってくるポルシェからのメッセージが聴こえるときの心の震え。もう一度、ポルシェのクルマ創りに触れてみたら、というアドバイスに変化していく……。
そうか、スポーツカーは日常性に欠けるが、そのクルマ創りを生かして進化したポルシェのSUV車ならどうなんだろう? ともかく、まずマカンに乗ってみようじゃないか。
最初にやってきたのはMACAN TURBO。足元に21インチ911ターボデザインホイールを奢られ、動力がカレラS並みのものが用意されていた。V6にツインターボ、乗り心地も「快適」そのもので、やむなく握らされるステアリングは、グリップがカーボン製の3本スポークという異様な世界。ところが、それが慣れてくると、意外に馴染んでくるから、これもポルシェ・マジックの一つか。
加えて、この妖しげなポルシェからの誘惑の使者、不思議とマンションの駐車場でも、さほど目立つ存在ではなかった。始動時での「爆音」も、まわりの顰蹙を買うほどでもなく、一般道からマンション駐車場に出入りするスロープに、気を使う必要がないのも助かった。
それならば、ワンランク下のMACAN Sならもっと身近な、手の届く存在ではなかろうか。ま、この件は次回に詳報することにして、先を急ごう。
そんなさなかの九州行き。幹事からの連絡では、開催通知を送った75名の中から、最終的には29名が出席するという。それに、みんなトシだから、閉会した4時以降に特別な予定は準備してないという。
有難い。早速に萩のカリスマ教官と連絡をとる。
「傘寿祝賀会」に出席を決め、開催するホテルの住所を確認した際、おや⁈ と気づいたことがあって波田さんに、電話で問い合わせたことの続きであった。
その時のやりとり。
「ベスモ同窓会で初めて前夜祭を催した際、出席者メンバーからのサプライズ・プレゼントを、ガンさんとわたしが頂戴しましたね。もらったガンさんがお礼を言うのに目頭を熱くし、言葉につまったほど、心に響く言葉と、色と、絵のような文字が和紙いっぱいに散りばめられ、額縁におさめられた、見事な贈り物でした。その書き手であり詩人でもある詩太(うーた)さんのお店『あとりえ温』が、28日に宿泊するホテルのすぐ傍らしい。できればお礼に伺いたい、お会いしたいのだけれど」
「わたしも一度、ご挨拶に、と思っていました。なにしろ、ガンさんと局長のことを、本やらみんカラBLOGで研究してから、あれだけのものに仕上げてくれたそうです。早速、連絡してみましょう」
その結果、当日の午後5時半に波田さんと待ち合わせる約束が出来上がっていた。当日、波田さんも、わざわざ萩から合流してくれるというのだ。
わが家のリビングルームに、いま「正岡貞雄」と大書された詩太さんの作品が飾られてある。薄く墨書きで「ひとりはうまからず」というわたしのモットーがさりげなく左隅におさまっている。そして詩太さんの詩が、力強い筆致で歌うように、踊るように、A3サイズの手漉き和紙に描かれている。
ベストモータリングと共に今まで
貞(ただ)しい道を いっぽずつ
歩んできた あなた。
その熱い想いは
雄大なそらを駆け巡る
風の仲間の 足跡と願いを この場所に集めて
強く熱く 揺り起こす
詩太
きっとガンさんも箱根の応接間に、同じように飾っているに違いない。
明日(28日)の午後が待たれる。還暦記念の旅で長崎・島原で遊んで以来。20年ぶりに会う旧友たち。そのあと、波田さんと合流しての「あとりえ温」訪問。
29日はレンタカーで八幡西区の丘陵墓苑に眠っている、わたしの両親の墓を訪れてから、九州自動車道で北九州JCTに入り、開通して間のない東九州自動車道を適当なところで降りて、国道10号線をさらに南下する予定。航空自衛隊築城基地入り口の看板を探す。そのあたりに「ラーメン龍剛」があるはずだ。そこのマスターがわたしの「みんカラ」BLOGスタート時からの「友人」で、「走り」について息の合う嬉しい仲間のひとりである。まだ、一度も対面したことはないから、今回の旅では、何としても時間の都合をつけて、ご自慢のラーメンをいただくつもり。その旅程を、湯布院のそばの湯平温泉町で住職を務める「タネテツ」さんも、ぜひ合流したい、と申し入れがあった。

*2年連続してべスモ同窓会に駆け付けた「タネテツ」さんとその愛車
「タネテツ」さんとは4月の「ベスモ同窓会」であったばかりだし、彼の愛車スカイラインER34には、ことしも中山サーキットでチョイ走りをさせていただいた仲でもある。もちろん、ウェルカム。
やっぱり、もっと早く「最後の1台」を決めて、西のまほろばへの旅を、ゆっくりと、少し気ままに、風となって、走れればよかったのに。
もっともこんな声も聴こえる。
「局長の狙っているそのクルマって、いまに納車は半年待ちですって」
多分、このところ、わたしのクルマ選びの相談役におさまってくれている、2315君のものに違いない。