〜『日産ヘリテージコレクション』という「宝石箱」その①〜
8月の半ばに、RJC(日本自動車研究者・ジャーナリスト会議)の研究会の担当理事から、日産自動車の座間事業所敷地内に、350台を超える歴代の日産車を集めたコレクションがあるので、見学を申し込みたいがどうだ? と声をかけられていた。
もちろん、参加したい、と返事を出しておいたが、その「日産ヘリテージコレクション」見学会の日が1ヶ月以上も経ってやっと、訪れてきた。
東名高速を、横浜・町田ICで降りたら、北西へ20分ほどで座間の事業所に着くという。「プログレで行くので一緒に行かない?」と、ことしからRJC会員になった飯嶋洋治君(「モータリゼーションと自動車雑誌の研究」グランプリ出版刊の著者)に声をかけ、さらにご近所の住人で、富士フレッシュマン時代からのお仲間である飯塚昭三さん(実はRJC会長)とも合流することになった。
9月26日、土曜日。こんなに晴れやかな天気の週末はいつ以来だろう。なにか、いいことが待っていそうな予感。好みの7分袖のポロシャツに濃紺の薄手セーターを肩にかけ、NIKONカメラを携えて、駐車場に向かおうとした瞬間、i Phone 6が着信を知らせる。飯嶋さんから「もうプログレのそばに立っています」という報告だった。約束の午前10時25分、ぴったりだった。
*すでに9月26日付の《何シテル?》欄でマッチのマーチ(スーパーシルエット)に出逢ったことは報告済み
ステアリングは飯嶋さんに任せた。5分後には飯塚さんとも合流。目白通りに出てすぐの練馬中央陸橋から、環八通りへ。流れもまずまず。
飯塚さんとのおしゃべりは、どうしても、いま世界の自動車業界を震撼させている「VWのディーゼル排ガス不正問題」に及んでしまう。これから始まる「イヤーカー選び」では避けて通れない問題になるだろうし、むしろ、「テクノロジー・オブザイヤー」という技術部門の表彰機能もある。エントリーしているディーゼル搭載車も多く登場する。だからこそ真正面から、われわれなりにディーゼルと取り組んで行かなきゃ、ということに話が落ち着いた。
1時間後、東名の横浜ICを降り立つ。集合時間は午後0時30分。それにヘリテージコレクションは事業所内の展示なので、喫茶・食堂などの設備はないから、各自が弁当や飲み物を持ち込むか、事前に昼食を済ませておくように、という担当理事からの指示がある。
プログレを走らせながら、目で適当なファミレスを探す。が、そんな時に限って、座間への道筋に、それらしきレストランを見つけることができなかった。かなり目的地に近くなったあたりで、やっとアメリカンスタイルのシーフードレストランを発見、ドリアにグリル野菜のついたランチにありついた。
座間事業所の正門で受付を済ませる。プログレのナンバーと、われわれの名前も登録済みだから、スムースに「記念車庫」と呼ばれるコレクションを収容した建屋の前まで、そのまま移動できた。建屋の正面が緑に囲まれた駐車エリア。ただし戸外のカメラ撮影はNGで、内部でのコレクション車両の撮影は存分に、というお達しがあった。
旧第2塗装・車体・組立工場がすっぽりコレクションホールになっていて、なんと400台を超える、あらゆるカテゴリーの日産車が、一堂に集められていた。そのうち70%がすぐにでも走行可能な状態で、保存されているという。NISSAN DNAの玉手箱をあける、至高の時間が待っていた。
まず、ゲストホールに集合。案内役は日産アーカイブを積極的にサポートされているお二人のOB。20人ちょっとの参加者が二手に分かれ、すぐに「記念車庫」内部へ導かれた。このお二人、ともかく経験も見識も抜群、車両開発から販売まで関わってこられキャリアの持ち主だから、それからの2時間、その説明には耳をそば立たせるものがあった。
スチール製の重々しい扉をくぐると、そこは仕切りのない巨大な空間で、フロアーいっぱいに、それでいて整然と、「日産の遺産」たちが集結していた。おもわず、「おおっ」と声が出てしまう。
*日産自動車のルーツ、ダットサン12型。現存する最古のものだが、745ccという排気量から12ps/3000rpmの出力で、いまでも立派には走る。
最初に出迎えてくれたのは、ベージュとチョコレート色のコーディネートがおしゃれなボディカラーのダットサン12型フェートン。剥(む)きたてのゆで卵さながらの初々しさ。ちなみに「フェートン」とは折りたたみ式の幌を備えた4人乗りオープンカーに対する名称。説明板には、日産車自動車が創業した1933(昭和8)年12月当時に製造されていた最古のモデルだと明記されてあった。ヘリテージ=遺産。なるほど、大変な聖域に、わたしたちは招かれたれたわけか。
さて、お次は? そこで改めて、目を剥く。5台ほどが集結していた「フェートン」たちの隣にいる丸っこい、小型バスをさらに小さくしたような存在。噂に聞いていた、この国の電気自動車の第1号「たま」ではないか。
もともとは戦前の立川飛行機が元になった東京電気自動車が開発したもので、それがプリンス自動車工業を経て、日産自動車と一体になったため、今わたしたちはその実物を、この目で確かめることができるわけだ。1947(昭和22)年に「たま」が誕生した背景を、冷静に、簡略に説明版にまとめられている。参考になる。「たま」に添えて掲載しておこう。電気より石油の方が高価だった時代だ。
*説明役の清水さん。1965年入社、宣伝・販売促進畑を経て、販売会社の代表に。二スモ時代には日産車を北米で売りまくった片山豊さんをマネージメント。それがきっかけでヘリテージ史研究に。
背後に熱い空気を感じて振り向いてみる。赤いベースボールキャップをかぶった説明役の清水榮一さん(見学終了後にお名前をうかがった)が、NISSANブランドの記念すべき最初のモデルである「70型」(1938年)について、そのエピソードを紹介しているところだった。
創業者の鮎川義介(旧長州藩士の父、明治の元勲・井上馨の姪を母とし、大正・昭和初期の政・財界に巨きな力を持っていた)が横浜に自動車製造会社を設立するにあたっての内幕を披露しながら、結局、説明板に記載されている「このモデルはアメリカ、グラハム・ページ社の設備を買い取って国産化したもので、ボディサイズは当時のフォードやシボレーとほぼ同じでした。日本の自動車産業を自立させようという意図がこめられていた」ことへ、われわれを導く。端々に結構生臭い裏話をとり混ぜながら……。
なるほど、と納得した。いくら初期の国産車といいながら、このアメリカンな大味な図体はどうしたことか、という印象はそんなに的外れではなかったのか、と。
この時代を境に、生まれたばかりのこの国の自動車産業が一頓挫した。第2次世界大戦の巨きな波に呑みこまれる。
次のコーナーへ移るところで、節目としてこんな説明板が用意されていた。
「1950年代
戦後の焼け跡から、日本経済は徐々に復興を始めました。
1954年には第1回全日本自動車ショウ(現 東京モーターショー)が開催さ、れ、自動車への関心は高まりますが、自動車は庶民にとってまだまだ高嶺の花でした。
さらには、当時は欧米メーカーとの実力差は大きく、「国産自動車不要論」さえありました。
日産は自動車の設計・生産の技術力を早く習得するため、1952年にイギリスのオースチン社と提携し、国産化を成し遂げます。
ここで得た技術・知識は、後の日産自動車の発展に大きく貢献しました」
*ずらりと並ぶ「AUSTIN]たち
AUSTIN……懐かしい言葉の響きをもつクルマたちがひと塊りになって寄り添っている。1959(昭和34)年、社会人になった年である。創刊したばかりの週刊誌編集部に配属され、緊急の場合と深夜はタクシーの利用を許されていたが、そんな時は好んでAUSTINを選んで停めたものだ。後部座席シートのふっくらと優しい座り心地が気に入っていた。
(正岡註:黎明期の『週刊現代』編集部での日々を、いつかは記録しておきたい。つい先日、その時代、寝食を共にした僚友の川鍋孝文氏=日刊現代会長=が幽界に旅立たれた。また一つ、いつまでも輝いて欲しかった星が流れ落ちた)
ブツブツと、眠っていた様々な記憶が一気に、音を立てながら起き上がってきたのは、その隣に陣取った「プリンス・コーナー」へ移った時だ。
*プリンスセダン・デラックス(右)とプリンス・スカイラインの2ショット
黒塗りのプリンスセダン・デラックス。これは1954(昭和29)年の第1回全日本自動車ショウに出品されたのが当時の皇太子殿下(今の天皇陛下)の目に止まり、ご愛用になった逸話の秘められた記念車そのものだというが、そこには日産自動車とプリンス自動車工業との合併という出来事にも、想いを馳せる材料となってしまう。
そして、その隣の黒いボディに白のサイドモールの、4ドアセダンは「プリンス・スカイライン」ではないか。さらにその隣に「スカイラインスポーツ」が2台。特に「スカイラインスポーツ」については、この際、ぜひ紹介しておきたいエピソードもあって、それは稿を改めて、じっくり書き込ませていただくとしよう。
*チャイニーズアイと呼ばれたヘッドライトを持つ独特のデザインはミケロッティのものとか。生産台数、わずかに60台。
*6連メーターだったと、今回、はじめて知る。買ったばかりのこのクルマの助手席に乗せてくれた作家のことも、次回に。
ともかく、「日産ヘリテージコレクション」には、まだほんのちょっぴり、踏み込んだに過ぎなかった。この「宝石箱」のどこかでお目当てのMiD4が待ってくれているはずだが、逢えれば「ベストモータリング」の創刊号取材以来だから、28年ぶりとなる計算だ。ちなみにその時のことは『e-Bookぽらりす クルマ仲間名作図書館』の
「新・ベスモ疾風録」で動画付きでご覧いただけるように手だけは尽くしてあるので、お立ち寄り願えれば、幸い。どうぞ次回更新までの一服とされたい。