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正岡貞雄のブログ一覧

2018年08月29日 イイね!

美女軍団とミラージュ勇士に囲まれた日々

美女軍団とミラージュ勇士に囲まれた日々〜1988年ミラージュCUP名人の部・第1戦FISCO〜






最初に硬い話をちょっぴりさせていただこう。

 

 1987年のミラージュCUP最終戦、富士のヘアピンで土手っ腹に激突され、哀れや「転倒虫」と化した⑫ベストカーミラージュはそのまま廃車に。まあ、普通にいけばミラージュ CUP参戦は、このアクシデントによって、2年目にしてジ・エンドである。


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 さて、今だから書けるが、その年(30年も遡る)の1月15日に、馬齢52を重ねて、身辺は変革の渦のなかにあった。4月末に、新会社を設立、その代表取締役社長であり、VIDEOマガジン『Best MOTORing』の編集長も兼ねた。何分にも、新事業に失敗は許されない。講談社の厚い庇護はあるといっても、映像事業はまったくの未知の領域。ましてやクルマを主題として、ビデオによる月刊定期刊行するには、生半可のエネルギーでは、軌道に乗せるのも難しかろう、と周囲は見ていた。

 

音羽通りの光文社、キングレコードのビルと隣り合わせたマンションに、20坪あまりの小さな事務所を設けた。『ベストカー』のあるビルとは700mばかり離れてしまった。


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 『ベストカー』の方の専務兼編集局長の役割は継続しているものの、新事業の目途がつけば、いずれ籍を抜くつもりだった。6月、講談社・野間惟道社長の急死。続いて足沢禎吉専務までが急逝。この新メディアの必要性を理解し、わたしのポテンシャルに期待を寄せられたお二人を失って、正念場に立たされていた。そんなさなかに、はたして、レース活動に今までのように精力を傾け続けていいものだろうか。

 

 創刊号は6万8000部を発行して、80%の実売。物珍しさも手伝って、ひとまず滑りだしは成功した。が、2号以降、ズルズルと低落。6号目には発行、3万をやっと保っているに過ぎなかった。『ベストカー』を単純に映像版にしただけでは、通用しない。独自の路線を創り出す必要があった。ますます新会社に籠る日々が続く。

 

1988  Best-Motoringミラージュと改名して熱狂参戦3年目


ミラージュ参戦は続けることにした。映像にレース活動は不可欠だ。企画のひとつの柱であるドライビング・テクニックはレース活動で磨かれるし、人脈もそこに集約されていた。が、もう『ベストカーミラージュ』というわけにはいかぬ。加えてエキスパートの部はニューモデルが採用され、結局、新車が用意された。そこで、新しくカラーリングも替え、『ベストモータリングミラージュ』とした。パステルカラーのブルーとイエローがボディで波打ち、いかにも映像向きだった。


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 この新事業への胎動は、わたしのサーキット挑戦にあった。サポート役の松田昭広青年が回してくれた8ミリビデオを黒澤元治さん宅に持ち込み、レーシング・ドライブの指南を乞ううち、映像のもつ訴求力の虜になった。これからの自動車メディアは映像だ! これが率直な原点だった。

 

 スタートすれば、すべてを巻き込むしかない。ガンさんは『ベストモータリング』の看板キャスターのひとり。中谷明彦、土屋圭市の両君もメインキャスターとして深く巨きな存在である。大井貴之がベストカーから転籍してきて、水を得た魚のように編集部を牽引してくれた。注目の新人だった#55の田部靖彦も重要な編集部幹部。サーキットの女豹、小林里江もわが社の経理部担当。松田昭広青年は制作部チーフに、といった具合に。


 講釈はここまで。ここからは1988年4月17日の富士スピードウェイを舞台に繰り広げられた「ミラージュCUPエキスパートパートの部・第1戦の模様をご覧いただく。ベストモータリング1988年7月号のレース収録企画として、カメラ部隊が投入されていた。


 予選が始まる前の陽気なパドックの様子から、である。美女たちに囲まれて、こんな風なサーキット・ライフを楽しむ束の間の至福。何しろ、あの高名な女優が見事に孵化する前の、ピカピカした時代も紹介できるとは、ああ!  ともかくご覧あれ。


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*この美女軍団のなかに、あの高名女優の孵化寸前の姿が・・・。

 ●映像




 ミラージュCUPはこの日のレースカレンダーでは主役ではなかった。この日の様子を、わたしは、「ベストカー」のモータースポーツ・ページにこう記していた。  

  

        ☆         ☆          ☆


 417の富士スピードウェイに新しい衝撃が走った。F3000F3の2つのレースでどちらも20歳台のチャンプが誕生したことだ。

 鈴木亜久里と黒澤琢弥。亜久里はポールポジションからのスタートだった。ぽんと飛び出してから、あとは独走、独走のひとり旅。ジェフ・リースが2周目の第1コーナーで黄旗なのに強引に突っ込んでアウト側にはらむ大チョンボ。星野一義は関谷正徳をパスするのに精力を使いはたした感じで、亜久里にとってこんな楽な展開は予想外だったに違いない。ぼくら中年の目には、亜久里のマシンに星野がご丁寧に亜久里のヘルメットをかぶってドライブしているとしか映らなかったのである。

  いつの時代にも、新しいヒーロー誕生の向こう側には、ギリギリまで王座を死守してきた男の滅びの美学があるのだが、その節目に直面したらしい。

 

 F3を3戦目で制覇した黒澤琢弥にしてからが、ご存じガンさんのジュニアである。

 

 なにかがすっきり新しくなる予感がする。各チームを華やかに盛り上げているレーシングギャルも大増員だ。随分といろんな企業が力を入れはじめたから、彼女たちには、一つのやってみたいカッコいい、実入りのいい職種になってきている。観客席も当然、若い世代に移りつつある。主催者発表、5万2000人、信じていい数字だ。


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 そんな舞台のサポートイベントであるミラージュ・インターナショナル・ラリーアートカップに、ことしも第1戦からエントリーしてしまった。モデルチェンジした今年のマシンは、ニュープロプロダクションのリプレのカテゴリーにあるとはいえ、ほとんどがTSに近い。ストレートエンドでは時速230キロに達してしまう。そこからのブレーキングはハンパじゃない。リアをふられることもたびたびだった。予選17位、決勝17位は、スタート直後のシフトミスで27位までドロップしたことを考えれば、まだ成長過程にあることを立証できた上出来のレースだった。52歳の特別プレス席もあと何戦かは、すわらせもらえるみたいだ。今シーズンもよろしく。


 わたしのこの「熱走報告」を最後に『ベストカー』誌上から、ミラージュCUPは消えたのである。  


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 この項、このあと、適宜、手を加えて、完成させます。
 感想のメッセージ、コメントをお寄せ下さい。お待ちしています。





2018年08月14日 イイね!

富士フレッシュマン・EXA⑩のラストラン

富士フレッシュマン・EXA⑩のラストラン
〜動画の後でレースレポートと併せてどうぞ〜

 こんどの夏こそ、広島の原爆の日が来ても、8月8日の北九州・八幡の大空襲、そして8月9日の「長崎の日」を迎えようとも、そして8月15日の「終戦の日」が来ても、こびりついて離れない『鎮魂の夏』の記憶に落ち込まないように、と心を決めていた。歯を食いしばって、1945年の出来事をもう思い出さないでいよう、とした。が、やっぱり駄目で、気張った分だけ心が落ち込んでいった。

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 そのブルーに落ち込んでいく正体は「こちら」にあって、その72年前の「記憶」については、すでに以下のように紹介済み。よろしかったら、是非ご一読いただきたい。語り残しておきたい昭和11(1936)年生まれの「昭和史」の一部でもあるので。いずれもクリックで、お読みいただけます。

●鎮魂の夏① 『長崎の鐘』と『終戦の日』の狭間で

●鎮魂の夏② 8月9日、もしもあの時… 

●8月、ああ「鬱の色」に染まってしまう


 この後ろ向きの気分を払拭する特効薬が一つある。新しい車に乗ってみることだ。お誂え向きに、SUZUKI新型ジムニー&ジムニー・シエラのRJC向けの試乗会が、日頃は立ち入れないスズキの聖域、横浜研究所を基地にして、用意されていると連絡が入っていた。

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 ジムニーか。3代目を送り出してから20年目のモデルチェンジ。世界での販売台数は285万を超えるという。特に地方の田園地帯、山間の村に行くと、一家に1台、ジムニーが用意されている。

 新しくなった「小さな巨人」。無性に逢いたくなったところで、新しい別の朗報がもたらされたのである。したがってジムニー試乗記はお預けとなった。

45歳から挑戦した富士フレッシュマンレースも、B110サニー、N10パルサーと乗り継ぎ、1984年のシーズンから挑戦したEXAのラストランの模様が、動画にアップできたと、いつものMD i遠藤さんからLINEメッセージが入ったのである。

 これはわたしのフレッシュマン時代の一つの区切りで、すでにわたしの心は、この前年からステップアップしていたミラージュCUPに吸い取られていて、EXAをどう生かすか、頭を悩ましていたところだった。ま、わたしの事情は別にして、あの当時のフレッシュマンレースを、まずは観戦されたし。このレース、予選は行われず、スターティンググリッドは申し込み順。ベストカーEXAは17番目からのスタート。

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◎富士フレッシュマン耐久レース春季大会 EXA1時間耐久の部 ’87年3月22日 



 さて、ここで新しい試み。あの頃のわたしは、自分の参戦したレースを、律儀にレポートしていたこともあって、動画と同時に、そのレースレポートも用意してみた。
 
 忠実に、活字と写真の記録を同時にそっくり「ベストカー」1987 年4月26日号から転載しておこう。動画の内容と重ね合わせると、結構、あの時代を、懐かしく、あるいは新しく読み取っていただけることを願って・・・。

●富士フレッシュマン耐久レース春季大会(1987年3月22日)

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6位入賞!  なぜ突然に戦闘力が高まったかを教えよう

 モータースポーツは間違いなく、底辺からも、大変な勢いで盛り上がりつつある。その証拠に各地のサーキットのレーススケジュールは、毎週びっしり埋まっているし、平日にスポーツ走行しようとしても、自動車メーカーや、タイヤメーカーの専有使用が優先されていて、それもままならないことが多い。

 だから、週末くらいにしか練習時間のとれないフレッシュマンクラスのドライバーや、フレッシュマン志望の若者にとっては、レース開催のない週のサーキットが頼みの綱。ところがどっこい、そんな訳でみんなが殺到するから、大混雑でまともに走れやしないし、腕も違えばマシンもさまざまの混走。となれば危険なこと、この上なし。

 富士、筑波、鈴鹿、どこも同じ不満が渦巻いて、いまや爆発寸前なのである。

 それでは——―春と秋の2回、フレッシュマンだけの1時間耐久レースをやってあげましょうと新しく設けられたのが、この「富士フレッシュマン1時間耐久」である。発表と同時に大反響で、EXAの第1戦をぼくの代理で走ったチョビ髭の22歳、加藤隆弘クンなんぞは、「ね、ね、一緒に出ませんか。優勝賞金は20万円、6位でも3万円貰えるんですよ。もちろん、ファーストドライバーは局長に譲ります。ベテランの巧みなテク。そ、そうです。若いぼくらにお手本を見せて下さい。お願いします!」

 と、もう大騒ぎ。参加料8万円はチト高いが、企画そのものには、大賛成。早速、準備にとりかかった。

*傷つき疲れたマシンにまず愛の手を!

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 耐久レースとなると、たとえ1時間といえども、マシンをしっかり点検しておかねばならない。ちょうどいい機会だ。わがEXA、この1年間、ドックに入れた記憶がない。それどころか、昨年の終盤2戦でうけたボディのダメージは、叩きだしとガムテープでなんとか応急手当をしているにすぎない。

 コ・ドライバー任命と引き替えに、加藤クンは傷つき疲れたEXAを、スリーテックのガレージから引き取り、武蔵境にあるRS中春の工場まで運ばされたのである。いくら走りたい一心からとはいえ、それからの加藤クンの献身的な働きは、特筆ものだ。

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*加藤隆弘君のお陰で、青春後期も賑やかにサーキット暮らしを楽しめましたぞ!

「局長、うちのEXAのひどさったら、なかったスヨ。開けてびっくり。まず足回りから始めたンすヨ。そしたらフロントのベアリングがダメで、交換。ドライブシャフトのブーツは破れて、グリスもないから焼きつく寸前でして。
 次にリアのブレーキドラムを開けてみたら、もう最悪! ライニクングはないし、がたついてるンスヨ。よくあんな状態で走っていたなって、みんなで感心しちゃった」

 エンジン調整、エアクリーナーの掃除、スロットルバルブ等の点検、タベット調整。目にみえない、こうした基礎的な作業に力を入れる——これを毎レース終了のたびに欠かさない。RS中春の強さの秘密はそこにあった。もちろん、それだけではない。仲間同士の奥深いコミュニケーション。豊富な練習量。レースへのシビアな姿勢……。ぜひ、手本にしてほしい。

 さて、3月22日。富士山麓は薄曇り。ワンデイレースで予選なし。スタートのポジションはエントリーの受付順だという。出走17台で15番目。たっぷり抜き甲斐があるじゃん!

 この日はパルサーとEXAが混走だったほか、サバンナRX-7とファミリア、スカイラインとレビン・トレノ、スターレットの各1時間耐久が3レースとVWゴルフポカールレースが用意されていた。

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*Aコーナーから100Rへ。「珍しいアングルでしょ?」と安川肇さんに渡された。ありがとうございます。

  3カ月以上もEXAに乗っていないぼくにとって、たった20分でも練習走行できたのは有難かった。ヘアピンを立ち上がったところでにわかにエンジンがバラつき始めた。慌ててピットイン。ボンネットを開けてみると、プラグコードが1本抜けていた。本番でなくてよかった。再びコースイン。2分7秒台が出たのを確認してから、加藤クンとのドライバー交代の練習にピットへ戻った。足回りは別のマシンみたいにコーナーで踏ん張ってくれるが、直線での伸びは今イチだった。

*7位で加藤クンにバトンタッチ、いざ!

 午前11時45分、ローリングスタート開始。ゆっくりと1周して、シグナルが青に変わったところでアクセル全開でメインスタート前を駆け抜けた。耐久とはいっても、ぼくの持ち時間は長くて40分まで。スプリントのつもりで攻める。1周目だけは丁寧に第1コーナーへ。①浅井建次が○19田部靖彦に押し出され、トップから5位あたりにドロップしたのをしっかり確認しているのだから、かなりの余裕。

 コンスタントに6秒台前半で周回、どうやらEXAグループの7位まで浮上できたらしいので、早めにバトンを渡すことにした。

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*バトンを渡された加藤隆弘君の熱走!

 残り時間は35分、フルフェイス型ヘルメットの中の、緊張した加藤クンの目。交代に17秒も使って、飛び出していった。あとで聞いたところによれば、同じ背格好の②清水佐織/小林里江組はわずか9秒で入れ替わったそうで、そのマージンもあってか、堂々と優勝をさらってしまうのである。

 6秒台、5秒台と周回ごとに加藤クンのタイムがよくなっていく。○12横田憲治に追いついたあたりから、さらにペースがあがって、ついに4秒台! 満タンで走ったぼくに較べると少しは有利だが、それでもイイ線いっている。10秒差近くあった先行2車を捉えるのも時間の問題。この日応援に駆けつけてくれたEXAメイトの岡部松恵クン、メカの石村クンと3人で熱くなったのは、当然のなりゆきだった。チェッカーが振られた。加藤クンが先行グループの中に突入している! さあ、どうか? 

 コンマ3秒の中に3台がひしめいた激戦だったが、結局、6位に終わった。
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 表彰式。小さいけれど、ずっしり重量感のある楯と、3万円の賞金を手にしたとき、これがベストカーEXAの、初めての晴れ姿だと気づいた。次はやっぱり表彰台だ! その役目、こんなにマシンに愛情を注いで甦らせてくれた22歳、加藤クンにあとは任せよう。          (この項、終わり)

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*このレース終了後、ベストカーEXAはこの優しい青年のもとへ引き取られて行った・・・

PHOTO BY 安川肇
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「岡田監督が”凄いことが起こるなあ”と呆れた1イニング4失策で、8回、5点のリードを持ちながら、ヤクルトにあっさり逆転されてしまった。舞台は本拠地甲子園。ショートの小幡が悪送球とトンネル、前川右京と森下が落球。これがいい薬になるかどうか、本番期待。収穫は青柳の開幕投手の確定濃厚や。」
何シテル?   03/09 10:58
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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