〜その日だけは、なんとか出席させてください!〜
「小石川郵便局」が受付けて、消印2月28日、とスタンプされた1通の招待状が届いたのは3月1日であった。
角封筒の裏に《講談社 週刊現代編集部内「創刊六十周年感謝の会」事務局》のシールが貼り付けてあるのを確かめてから、いそいそと封を切る。
型通りの季節の挨拶に続いて「さて」と前振りをして用件を伝えてくる。
「おかげさまで『週刊現代』が二〇一九年三月三十日をもちまして、創刊六十周年を迎えます。
この長い歴史を紡いで来られましたのも、ひとえに先輩方の勤勉努力の賜物と深く感謝いたします。
つきましては、左記のとおり、創刊六〇周年の感謝の会を催したいと存じます。
☆ ☆ ☆
おお、なんと心に響く嬉しいお誘いではないか。
その60年前の創刊号に、入社と同時にできたばかりの編集部へ配属されて3年半を関わり、さらに昭和47(1972)年から49年にかけて、週刊現代が130万部の発行部数を誇った時代に編集次長として、2度目のお勤めをし、それなりの役割を演じたと自負しているわたしにとって、これほど願ってもない特別な催しが他にあるだろうか。加えて、古くて懐かしい仲間たちにも逢えるではないか。
*創刊1年目の週刊現代編集部
そして最後に「ご多用のところ誠に‥‥‥」とことわってから「ご出席を賜りたくご案内申し上げます。敬具」と結んであるが、その日付はいささか間の空いた「平成三十一年一月」となっているところで腑に落ちた。どうやら賞味期限ギリギリに慌ててわたしのもとへ発送されたものに違いなかった。
なぜなら、発起人である「週刊現代編集長 鈴木崇之」その人に、実はこの招待状を受け取るわずか4日前に、講談社本社ビル6階にある週刊現代の編集室で、面談して来たばかりだからだ。
それで読めた。すでに発送し終わった招待状のリストの中に、恐らく、わたしの名前はなかったはずである。無理もない。講談社からの特命プロジェクトだったとはいえ、昭和52(1977)年に除籍された形で関連会社を立ち上げ、新しくクルマ雑誌を創刊し、以後は「社友」という立場で遇されてきたのだから、こうしたフォーマルなケースでは、リストから漏れたとしても不思議はなかった。
そうした催しがあるとは知る由もなく、平成という時代が慌しく幕を閉じようとする空気の中で、週刊現代というメディアの果たしている今の立ち位置と、この平成という時代の幕引きの「引き金」となった天皇、皇后両陛下の御成婚に合わせて創刊された、その頃の出来立てホヤホヤの週刊誌との有様を結ぶ一本の糸を求めて、ある申し出を現場責任者である編集長に伝えたところだった。
もちろん、こうした交渉ごとには、それなりのルールがある。いきなり先輩面をして直接に電話を入れたところで、何よ、この人、で反感を買うだけの話だ。一応、考え抜いた末、大昔、わたしが中心となって立ち上げた「ベストカー」」の編集・発行元である「講談社BC」の社長に仲介をお願いしたのである。
*文京区音羽通りの講談社ビル。背後の27階建ての新ビルに、今は本社機構と各編集部が蝟集する
すぐにレスポンスがあった。伝えられた電話番号をプッシュした月曜日の午後、若くてキビキビとした現役編集長の声を聴いた。希望されている編集現場の一日体験は無理です、その代わり1時間、わたしが時間を作りますのでどうぞ、それがお応えできるギリギリの線です、という。いいなあ、はっきりしているこの空気。約束のできた2月25日の午後が待ち遠しかった。
さて当日、わざわざ受付まで出迎えにやってきてくれた鈴木編集長。わたしが「月刊現代」の編集長だった頃と同じ歳まわり。やや小柄だが、まあ中肉中背の部類。背筋がピンと伸びている。
名刺の交換がすんだところで、6階の編集室へ案内された。60年もの歳月を、週刊誌づくりの荒波と闘い続けてきた聖域。胸を衝くものがあった。
*1959年「週刊現代」と「週刊少年マガジン」が同居した当時の「週刊誌編集局」
この「古巣訪問」の後、鈴木編集長の好意で「招待状」が発送されたに違いないが、さて出席できるかどうか、実はとても微妙な状況にあった。
日々、悪化していく手足の状態。手術を決意して、懇意にしている整形外科医から「神の手」を持つと推薦された参宮橋脊椎外科医院・大堀靖夫院長の診察を受けられるのは3月11日に決まっていた。
エイ!ままよ。4月12日の週刊現代『創刊60周年』感謝の会への「出席」の返事を投函してしまったのである。
☆ ☆ ☆
ここでやっと、このところの現況を伝えてきた『屋上庭園から』『手術に踏み切った理由』『復活の狼煙が見えますか!?』との繋がりがはっきりしてきた。
「参宮橋」でのいくつかの検査、診察の結果を受けて、入院は3月26日、手術は27日、1週間か10日もあれば退院できるでしょう、と大堀ドクター。
「よろしくお願いします。実はお願いがあるのです。一つは4月2日が早稲田大学の入学式で、新入生の孫娘と一緒に大隈重信の銅像の前で晴れ姿をカメラにおさめたいこと。もう一つは4月12日に椿山荘で開かれる大事なパーティ、これには這ってでも出席したいのですが‥‥‥可能でしょうか?」
*屋上庭園
この時のわたしの願いを大堀ドクターはしっかりと憶えてくれていたらしい。
頚椎の狭窄を切開し神経の流れを楽にしてやる手術を受けてから3日後、4Fの屋上庭園で朝のリハビリ・ウォークをすませて、3Fの自室に戻ると、大堀院長がほかの医師と看護師を従えて、朝の検診にやってきた。
*左から2人目が大堀靖夫院長
首筋の患部をチェックしたと思ったら、ビッとテープを剥がし、「うん、大丈夫です。4月3日には退院できそうです」と、ありがたいコメント。ついでに看護師さんに、まだ腕に装着したままだった点滴の針も、外すように指示してくれた。パッと明るい陽射しが差し込んできた。
そして翌日。月末の日曜日だというのに、院長がいきなり単身でわたしの部屋にやってきて、ちょっと廊下を歩いてみろ、という。補助用の杖を持たずに、踏み出した。グラつかずに一歩、二歩。股関節から、膝にかけての脱力感がなくなっていた。
「うん、大丈夫。OKですよ。明日、退院しましょう」
「え、ほんとうですか。ありがとうございます。これで念願の‥‥‥」
「そうです。首のプロテクターもしなくて大丈夫。どうぞ入学式へ、行ってらっしゃい。早稲田でしたね。実はわたしの息子も今、早稲田に在学しています」
そんなやりとりの締めに図々しくも、おねだりをした。
「先生の監修されたご本『脊柱管狭窄症』がお手元にあったら、一冊、お分けいただけますか」
30分後、再び大堀院長が来室した。どうぞと手渡されたその本には、ペン書きで「謹呈」と前置きして、わたしの名前が書きこまれているではないか。最後に力強い筆致で著者名が添えられていた‥‥‥。
「頚椎は背骨(脊椎)の一部です。一応退院していただきますが、近い機会に胸椎、腰椎の方もしっかり検査することを薦めます」
しっかり釘を刺されてしまった。
もちろん、こちらとしても異論はない。むしろ、渡りに舟ではないか。よろしくお願いします、と叩頭すると、院長先生の方が一枚上手だった。5月の連休中ですが、2日に予約を入れておきました、と。このご厚意に応えて、2年前に出版した『PORSCHE偏愛グラフィティ』を差し上げる約束をした。
「ポルシェですか。わたしはスーパーカー世代ですよ。楽しみにしています」
スピーディなレスポンスを見せてくれる大堀院長だった。
*4月1日、退院する日の屋上庭園に朝の日差しが溢れていた
翌日は4月1日。午前10時、退院。用心のため、首巻きプロテクターは装着した。出迎えに来てくれた娘と孫の車に向かって、一歩を踏み出した。これまでにないしっかりした足取りに、大満足。調子に乗って、家人と娘に‥‥‥。
「明日の入学式に、行ってもいいかな」
「え!? 何言うの。ダメだよ。せっかく良くなりつつあるのに 」
口を揃えて、跳ね返された。ごもっとも、である。
正午前に帰宅。この日の『何シテル?』に、こう書き記していた。
04/01 08:39
2019年4月1日の朝食がこれ!まっことシンプル。お粥にハムに乗っかった目玉焼き、味噌汁に玉ネギの和え物、デザートはヨーグルト。これを完食。晴れやかな朝。いよいよ平成が新しい元号に移行する朝。さあ、このあと、なんと入院7日目にして、わたしは退院できるのです。素晴らしい朝です!
04/02 14:51
『恋の奴隷』が花言葉。新元号の制定のあったその日の正午、1週間ぶりに帰ったマンションの入り口で出迎えてくれたのが紅色の花びらを纏った『照手桃』には、邪気を祓う神聖な木、という役割もあるとか。ありがとう。適役だね。すぐ傍の桜名所はすでに下り坂、手足の痺れも気のせいか薄らいできたぞ。
(以下、次号更新)
Posted at 2019/04/27 22:55:19 | |
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還暦+白秋期の23歳 | 日記