2012年01月18日
<自己防衛としてのナルシシズム>
親の罵倒と行き過ぎた体罰から自分の正気を守るため、自分は選ばれた特別な人間なのだ、と思い込むようにした。
彼らには私の偉大さが理解できないのだ、哀れな人間達だ、と思い込むようにした。
肉体的、精神的痛みに耐えている自分を、誇らしく思った。「私は特別な人間だから痛みは苦痛ではない。」
自傷は、傷つき易い自尊心を保つため。自分は他人とは違うという証。そして自己憐憫。
自己犠牲というよりもむしろマゾスティックな思考は、究極のナルシシズムといえるのではなかろうか。
他人を必要以上に受容しようとする、自分を必要以上に卑下する、人を傷つけてはならない、
弱い者は守るべき、
これらはすべて、真の良心による思想ではない。自己陶酔のため。
ナルシシズムの境地。
すべてがうわべの良心。
どうすればよいのか。
きれいな心になりたいという、思い自体がもう、汚れている。

Posted at 2012/01/18 20:43:18 | |
トラックバック(0) | モブログ
2012年01月12日
「愛は、ある対象を肯定しようとする情熱的な欲求である」
〈失望される→自分を攻撃する→悲観的になる〉
マゾヒスティックな内容の夢をよく見る
抑圧していた敵意を自覚することである。自分に向けていた攻撃を、自分に失望した人に向けることである。それが、将来への絶望から立ち直る道である。
自分の存在価値を自分の中で見つけることができず、他者へ逃避している
「後ろ向け、後ろ」をして、歩き出せばいいのである。どうしていいかわからないのは、今までの生活態度を変えないからである。
自分には愛情の感情が欠乏している、だけど愛情豊かな人間になりたい。そういう事実認識のもとに他人に対してほほえめば、愛情豊かな人間になれるだろう。

Posted at 2012/01/12 20:37:55 | |
トラックバック(0) | モブログ
2012年01月11日
自分への要求水準が高いのも、彼が他人の拒否を恐れて気に入られようとしているからにすぎない。
おそらく八方美人から抑うつ的になる人は、生まれて以来一度も、ありのままの自分を受け入れられたことがなかったのではないか。
小さい頃から 悪い自分 は周囲から否認され、よい自分 だけが周囲に受け入れられてきた。小さい頃、親は一度だって、 よい自分 も 悪い自分 も同一人物であるとして、彼を受け入れたことはなかった。
周囲にとって都合のよくない 悪い自分 は常に拒否され、 彼は 悪い自分 を自分の自我から追放しようとした。
自分でも 悪い自分 を否認し、こんなのは自分ではないとして、無意識の領域へと抑圧してしまった。
その結果として、彼は 現実の自分 からまったく分離した自分を、本当の自分であると思ってきた。いや、それが自分であらねばならないとがんばってきた。
いい本に 巡り会えたようだ
なにかが かわりそうな きがする

Posted at 2012/01/11 20:58:06 | |
トラックバック(0) | モブログ
2012年01月11日
低い自己評価と自分の存在とはまったく関係ない と知ること
低い自己評価の原因はいくつかあろうが、それは自分の存在とは関係ない。
自分は無価値であると感じることを強制されて育ったのである。
周囲に従順である時にのみ、その従順である自分だけを周囲は認めてくれた。しかし、従順でありさえすれば、自分でなくても誰だって認められたのだ。
がっかりされながら育ってきた人は、自分の存在そのものに自信がもてるわけがない。自分は他人の期待に応えられた時のみ、立派なのであるから。
「あなたがどんなふうになろうと、私はあなたに失望しない」

Posted at 2012/01/11 18:22:01 | |
トラックバック(0) | モブログ
2012年01月05日
無条件性
相互性
防衛の消失
人生のパートナーシップ
時間的展望
身体症状の消失

Posted at 2012/01/05 21:36:54 | |
トラックバック(0) | モブログ