2009年02月16日
を記録の為に書き留めておこうと思います。
山南と書き実際には「さんなん」と呼ばれていたようです。
1833年仙台にて生まれたと言われ、江戸に出て北辰一刀流の免許皆伝を得1860年頃天然理心流の近藤勇と立会い敗れた事から居候しながら剣の腕を更に磨いていたと伝えられています。
故あって、清川八郎の策により将軍警護の目的で集められた浪士組近藤達と入り京に上る。しかし、清川の策は本当の目的は将軍警護にあらず、尊王攘夷の先駈けと摺る目的にて、それを嫌った幕府は浪士組を江戸に戻す事にしたが、それに反対した面々がいました。それが、芹沢鴨の一派と近藤勇の一派、殿内義雄・家里次郎の一派は京に残り、将軍警護の目的を貫くと残り、壬生浪士組となるが、殿内、芹沢らを粛清した近藤一派は新撰組となり、ご存知の池田屋事件や禁門の変での活動をした。
しかし、山南の場合は尊王の志が強く、内面では新撰組と違う考えを持っていたようです。この思想の元には血より濃いと言われる北辰一刀流千葉道場での下地があったと思われます。
>岩城升屋事件(いわきますやじけん)
元治元年1月、将軍家茂警護のため大阪滞在中、高麗橋そばの呉服商「岩城升屋」(岩木とも)に不逞浪士数名が押し入った際、土方・山南両名が駆けつけて激しい戦闘の末に撃退した。この功により、山南は会津候より金8両を賜っている。山南がこの事件で使っていた「播州住人赤心沖光作」銘の刀(2尺8寸5分=約86.4cm)は、ひどく刃こぼれし切っ先から1尺1寸(約33.3cm)のところで折れた。この刀の押し型(魚拓の様に、刀の形を紙に写し取ったもの)が土方の手で小島鹿之助に送られ、現在も小島資料館にて見ることが出来る(但し、展示品は模写)。『維新史蹟図説』によればこの事件で山南は左腕を負傷したとされ、一説にはこのときの傷が元で片腕が不自由となったために池田屋事件にも留守居に甘んじるなど、武士としての立場を失ったことと近藤や土方とのすれ違いとが相まって、脱走の原因になったのではないかとも言われている。しかし一方で、池田屋事件では長州浪士の屯所襲撃に備えて、残留組の最高責任者として残っただけとする説もある。なお岩城升屋事件においては、その発生時期を文久3年7月頃とする説や、駆けつけた隊士が山南1人であったとする説もある
これは↑コピペなのですが、小島資料館に行きたいのは大文字にしてある折れた刀の押し型を見たかったが為なんです^-^;
山南敬助知信・・・文武両道に長け、温厚にて心優しい性格で壬生界隈では慕われた存在であったといわれています。
自分もこうありたいという思いがこのHNを付けた理由だったりします^^;
Posted at 2009/02/17 00:03:45 | |
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