今週初め、このような事件が起こりました。
WEB記事にて
★こちら★からどうぞ。
このシーシェパードという環境団体は、別名「環境テロ集団」のレッテルを貼られているようです。
相当、過激な抗議活動をしていて、過去、捕鯨船を沈没させたこともあるとか・・・。
シーシェパードについては
Wikipediaへどうぞ。
この捕鯨問題ですが、結局のところクジラを食べる国と食べない国の争いでしかないと思います。
環境保護の名のもとに、IWCでは捕鯨禁止が大多数派となっています。
私個人としては、他国や他民族の食べ物に関して、「あーだ、こーだ」と文句を言うつもりはありません。
確かに、絶滅危機にある動植物を獲ることについては、一定の規制は必要だと思います。
私は、“食”というのはそれぞれの民族の“文化”の一部であって、基本的にその食文化に対して、他人様がどうこう言うモノではないと考えています。
他国、他民族の(食)文化を尊重しなければなりません。
民族によっては、犬を食べたり、猿を食べたり、無理矢理に肥大させたガチョウの肝臓を食べたりする国があります。
それぞれ、カワイイ動物達です。
しかし、私はそれを食べる事を「止めろ!」とは言えません。
人間は、少なからず他の動植物の命を殺して、それを食べることで生きています。
スーパーに行けば陳列されている、牛肉・豚肉・鶏肉・魚介類・野菜に至るまで、全て人間が殺して食べるものばかりです。
人間が生きるために食べるという、生物の根源的な問題に対して、「その動物がカワイイから。」「知能が発達していて賢いから。」「そんなものを食べるのは野蛮だ。」などの主観的理由で他の食文化に対して干渉することに、私は反対です。
私は釣りをしますが、私の基本は“キャッチ&イート”です。
「釣った魚は食べる」というのが原則です。
(ルアー釣りなどでは、“キャッチ&リリース”が原則ですが・・・。)
しかし、明らかに小さな魚(幼魚)、抱卵している魚(産卵するために卵を抱えたメス)については、リリースしています。
幼魚や抱卵したメスを根こそぎ釣ってしまうのは、その場所に生息する個体数の減少に繋がるからです。
また、食べるために持って帰るといっても、食べきれない大量の魚を持ち帰ることはありません。
自分達で食べられる分だけを持ち帰るようにしています。
人間が魚(や動植物)を食べる行為は、悪いことではありません。
食べることが必要不可欠ですし、食べなければ死んでしまいます。
問題なのは、“乱獲”するということなのです。
「小さい魚は逃がしてあげる」「産卵を控えた魚は逃がしてあげる」「食べる分だけ持ち帰る」などのルールや節度を守ることが必要だと思います。
仏教でいう「無駄な殺生はしない」ということですね。
クジラの問題に戻りますと、反捕鯨を主張している国(の人々)は、「どうして知能が発達していて賢いクジラやイルカを殺して食べるのか?」という主観論を主張します。
私は、この主張は「?」と感じます。
逆説で言えば、「知能が発達しておらず、賢くない動物は殺して食べても良い。」ということになってしまいます。
人間ごときが、自らの主観で、「この動物は“賢い”or“賢くない”」と選別することの愚かさと“おごり”を感じます。
賢かろうが、賢くなかろうが、地球上に生きる同じ動物をそのように“差別”してはいけないと思います。
しかも、生物の知能指数を基に、殺して食べる・食べないを決めるなんて・・・。
人間の勝手な判断でしかないであろう“知能指数の低い動物達”にとっては、それこそ死活問題です。
また、現在行なわれている「調査捕鯨」についても賛否両論ありますが、科学的調査という側面で必要だと思います。
実際に調査捕鯨で行なわれている調査は、体長など各部位の採寸・体重計測、年齢、出産回数、胃の内容物調査(どんな魚をどれだけ食べているのか?)、標本の作製など多岐に渡ります。
長くなってしまうので、調査捕鯨につきましては、また機会を改めて書いてみたいと思います。
クジラを食べる・食べないは、根源をたどれば、その民族の宗教感、文化感にたどり着きます。
捕鯨再開を主張する国は、昔からクジラを食べてきました。
反捕鯨を主張する国は、概ねクジラを食べる文化がありません。
(宗教的にもクジラを食べる対象としていない場合もあります。)
ただ、この違いでしかありません。
クジラ保護が自然環境保護の“象徴”になってしまっている感がありますが、あまりにも主観論・感情論に走り過ぎ、トータルな海洋資源の有効利用という観点が欠落したアンバランスな方向へ向かっています。
クジラが増えすぎた結果、クジラが他の魚介類を食べ尽くして(もしくは相当数の減少を招いて)しまえば、それもまた自然環境の破壊となってしまうでしょう。
あくまでバランスが大切です。
IWC内では、主観論・感情論ではなく、科学的論拠を基にして、他国の食文化に干渉せずに、統制の取れたコントロールの下でクジラを有効な資源として利用できるようにしてもらいたいものです。