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2013年10月31日 イイね!

ドライビングプレジャーを考える(その4)


4.結び
 運転を「楽しむ、楽しめる」といった感情は、車の出来栄えだけではなく、ハンドルを握るドライバー側の問題が大きな比重を占めていると思います。どんな車でも、ドライバーが探求心を持って、積極的にかかわってこそ応えてくれる。人生経験が深く豊富な人物との禅問答のような語らいを楽しむ領域と、単純に右とか左といった空欄を埋めるパズル回答型の運転が楽しいというのでは、車の評価そのものが全く異なる結果になるでしょう。

 ですから結局、車選びの本質は①自分を探求し「何を車に求めているか」を整理し、②工業製品である車を運転した時に「自分が求めているものが内在するか、引き出せるか」を見極め、③諸般の事情という政治的な問題を埋めつつ、手に入れる、と・・・そういうことになりますね(笑)


私の求めている車は「数値に出る性能に優れ、効率に優れることよりも、タイヤと路面の会話を伝えてくれる聴診器のようなインターフェースを持ち、右足で過敏でない質量を伴った燃え方をする(小排気量高回転でなく、ある程度のボリュームでトルクを出す)エンジンが搭載されて、クラッチペダルを操ることにより、決して車自身を自立化させず、ドライバーに依存する器に留まる自動車」ということになるようです。

個人的な話ではありますが、数値制御に寄らない旋盤などの工作機械で限界精度を出す場合、材料の声を聴く事だといいます。バイト(刃物)に直結したハンドルを手で送り、真横で切粉の切削音が聞こえることが、究極の精度を出すには必要です、それは目ではなく、肌と耳で感じる必要があると言います。(神様との会話よりw)

目は新しい脳である大脳皮質視覚野の様々な解析CPUに分かれ、並列処理したのち、再び再結合され、理性的に解析されますが、(参考例:ヒトの認知のメカニズム
つまり、現代に多い、視覚の快楽ではなく、むしろ命に係わる原始器官である触覚や聴覚と言った、直接海馬や小脳に刺激が送り込まれる行為なのです。そこは生命進化の過程で獲得してきた生死の判定を握る生物の嗅覚があり、そことの対話こそが、感動を呼び覚ますポイントなのだろうと思っています。

結局、オーナードライバーを軸として見た場合には、その人の生活を取り巻く環境の変化によって、思考も嗜好も志向も変わる。残念ながらそれには身体能力の変化も含まれます。私の場合には絶対性能の追求というか、こだわりはバイクのハヤブサに乗って体験した私自身の感覚機能のキャパシティによって満たされ、それ以上への「欲求」が無くなったのかもしれません。

そうは言っても、この地上で人間が心地よいと感じる加速Gや旋回G値にはある一定の範囲があり、その中に入らないと物足りないし、はみ出すと過大で手におえない、、と感じるように思います。ですから、その値を知っているメーカが作った車や、そのことを理解できるドライバーで居る必要があり、これらを絶対評価軸として自分でつちかって置く必要があると思います。

私の個人的な認識点は、速度を軸に評価した場合、一つ高いレベルに到達するには正確な制御と時間的にロスの無い反応が要る。そこでそれが満たされたチューニングなりレベルの車になる。するとまた1つ限界速度のレベルが上がる。するとまた速度を上げて行き、同じ問題に戻る。ただし時間的にはさらに密な極僅かな変化差となり、それを解決するには2次曲線的にコストに跳ね返る。これに打ち勝つエネルギーは大抵の場合、他車(者)との「競争」というアドレナリンになる。うーん商売ででも無いと息が詰まる。

もう一つは、有るがままの道を水澄ましのように車、タイヤに負担が少なく、風のように通り抜けたい、、、というイメージに近づいて走る。「速度」という絶対評価軸だけでなく、「○○に見合う速度」という自身が決めた○○ルールによる速度・・という尺度を持つことで、この不毛な「競争」は回避出来ます(ただし、これは個人的なストイックさ加減によるかもですね)。

高性能な車ではキャパシティが有りすぎて、相当な速度、負荷が無いと何も起きません。すると「公道」という閾値の中では楽しめる領域は限られます。サーキットへ通う必要があるでしょう。ここに、タイヤのグリップ限界を超えるか、超えないか、塀の上をなぞって走る快楽だけでなく、公道なら無限の組み合わせの一期一会のラインをなぞる快感もあるでしょう。ドライビングプレジャーは、人それぞれ、また走りの局面それぞれ、で様々有るように思います。
(私の場合は正確か、仕事のくせか、その車が「設計者がどういう狙いを込めたか、テストドライバーがどういう挙動にしつけたか」の探求に好奇心がそそられます。ゆえに車なりに走らせることが今は多く、それが解けないと好みへのチューニングもできませんしね。すると、そもそもの設計者の込めた意思が薄弱だと、興味は削がれてしまいますので。)


家庭の構成や、加齢による精力減退もあるのでしょう(爆)。より繊細な考えて操る方に興味の大半が移り、値の大小ではなく、ズレや齟齬の少なさの方が達成感が高まるように思います。

ふと、何も考えずに流している時に、実にえも言われぬ満足感が訪れる事があります。それは車による時もありますし、車に因らない場合もあります。前者は「操る」ことに、後者は「移動」することに根ざしているように思います。そしてこの両方が、やはり「自動車」の本質を表わしているような気がします。


 これまでの色んな車との「対話しながら過ごした時間」、これも貴重な思い出であり研修期間?だったと思います。願わくば結果オーライではなく、「そこに行きたい」という目的を探しつつ、また次なるステージに導いてくれる伴侶となる「車」と過ごしたいと思っています。
(了)

読みにくい、意味?なつぶやき文にお付き合いいただきありがとうございましたw。
Posted at 2013/10/31 21:23:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | 私的なミニ哲学の泉 | クルマ
2013年10月29日 イイね!

ドライビングプレジャーを考える(その3)

3.人と機械の関係

車の運転がスポーツとなり得るのは、順位を争う行為とその行為が個人の身体能力との競争であることに違いないからです。唯一道具の平等性を担保するために同じ土俵としたワンメークも有りますが、多くはその「車」自体を作り上げるエンジニアリングにおいても競争行為であり、エンジニアがスポーツ同様、脳で汗をかいていることで成り立っています。
レースであれば、結果の順位、すなわちタイムを削る「仕事」としての効率追及であるわけです。結果として勝敗という形でプライド、お金、名誉、と言ったものが獲得出来ます。

一方それなら、宅配便とトラックの運転にも同様の関係があります。運転は「荷物を届ける」という仕事としての効率追求であり、荷物の並び、宅配順路、道路情報の獲得などなど、仕事としての効率追求です。こうやって見ると、ここで問うドライビングプレジャーは、仕事としての効率追求と言う面では無く(つまり絶対的な速さ)、自分自身の5感との対話にこそ、その本質があるのではないか、と思えてきます。

そういうわけで、機械である車と人間の関わりを、異なる言語、信号との「対話」という行為で成立させるところが重要になるように思います。すなわちよく言われる「人馬一体」という表現です。


 ①人馬一体の意味合い
  人と馬が一体となることの意義は、共通目的に向けた最大限の努力をお互いに尽くす、というプロセスにおいて、以心伝心、まるで脳と脳が一つに同期したかのようになることでしょう。結果として、人間はクリアすべき位置、方向に合わせ、車を操りそれを具現化させる。馬の場合には人が操縦することはぐっと間接的で、意思とタイミングだけを伝えることで、馬がそれに応えようと、自らの身体能力を引き出す、、、というようになるのでしょう。ですから、擬人化した車(ナイトライダーとの関係?)よりも、より情感に訴える感動が濃いとは思います(馬はきれいだなぁ)。

ここにも、貴重なヒントがあります。それが「自立と依存のバランス」というファクターです。
車の運転には、車自体の機構により、自立性の高い方式と低い方式があり、現代は車の自立性は非常に高くなっています。それは電子制御には、こうしたいという意思を車のコントロールインターフェースを使って伝えるだけです。後は外乱その他の要因を電子制御が排除しつつ、与えられた指令通りに車を走らせることになります。バイ・ワイヤー化がどんどん進みます。

古い車は自立性は低く、古来のガソリンエンジンでは、火花の進角さえ、ドライバー依存でアクセルを踏んでエンジン回転数が上がれば、それに合わせて進角操作を行う。のちにガバナーとして遠心式進角装置がこの役目を担い、ディーゼルエンジンでは、燃料噴射ポンプにその機能がありました。このように古い車は個々の装置が精一杯単機能で勤めを果たしており、オーケストラの指揮者のごとく色んな機械操作を協調、整合させてやることが必要でした。ダブルクラッチだの、ヒールアンドトウだの、動力伝達においても自立していません。初期の自動車はそれほどドライバーに対する依存性が高い機械でした。

それが現在では、インジェクション化されたエンジンは、アクセル開度を入れるだけでよく、動力伝達もオートマチックで、何もしなくて良い。文字通り車は走ることには自立しており、ドライバーには何も要求しません。「ハンドルで向き、アクセルで速度」を入れてやればそれで事足ります。お互いの対話ツールが希薄になってしまいました。しかしこれは人馬一体の言葉からすれば、ドライバーは「求める結果の意思を」伝えそして車は「電子制御でそれにかなうようにあたかも車が馬のように考えて制御して、結果を導く」・・のであれば、むしろ人馬一体に近づいているのでは?。と思わなくもありません。ですがそう思うには、「私には」違和感があります。

それは古い時代の原体験を持つ「私には」車との一体感は自分自身の体に、車が部品として感じられ、体の一部というフィードバックを要求する感性を原体験で持っているからだと考えられます。逆に、ATから始めたような現代のドライバーの皆さんは、電子制御てんこ盛りの現代車に対しては、「それ自身が。そこまで自立した車」として向き合っており、「なぜ、あそこでリアが流れたのか」の答えは自身のGセンサーとタイヤの抵抗感などなどの五感で得たものから組み立てるのではなく、「いつものこいつは、こうやれば、ああなる」という自立的車の意思を知っており、それに対しての「なぜ?」という解析になるのでしょう。

両者は、インプットとアウトプットのずれをドライバー自身にフィードバックしますが、その求める信号は、違うものになるのです。


 ②インターフェースとフィードバック
五感との対話に、ドライビングプレジャーの本質があるのでは?と問いましたが、この五感に求めるものは、受け取り手によって異なるのでは?、との仮定をしました。その答えがインターフェースとフィードバックという要素です。インターフェースとはAとBをつなぐ伝達手段ですが異なる性質、異なる次元のものを共通言語化する装置や仕組み、とも言えます。この良し悪しが、ドライバーの五感に正確なGや、トラクションの強弱などなどの、意味合いを悟らせる性能となります。これが悪いと、車との対話がうまく出来ないことになります。

ドライバーが入力した「意思」に対して、帰ってくる「返事」を受け取り、次なる「意思」を伝えるという「対話」の連続が「運転行為」となります。

この「フィードバック」を重視することには面白い背景があります。そもそもこの言葉は生物学からきた言葉だと何かで読んだと記憶してます。絶対座標系の中で動くには、その座標をX,Y,Zと決めれば特定されます。工作機械のプログラムはこれで良いわけですが、未知の自然界を徘徊する生物は、既知の座標の中を動くわけではないので絶えず、自身の行為と結果との対比で「脳内に状態を記憶しながら目的とする想像座標に近づいてるのか、遠ざかっているのか、判断しながら動く能力が必要になります。

この行為が、原始の脳を活性化させる大事な行為になる気がします。動的な未来位置をイメージし、そこに5感を使って導く手探りな行動。その正誤判定の連続にある種の快楽があるように思います。

 
 ③パーソナルな「自動車」に求めるもの
結局、所有する個人の自動車ですから、それに求めるものやその優先順位はそれぞれです。
私自身も、1台ではカバーしきれず地方にいる不便さもあって、2台体制でカバーしています。妻の1台は、ほとんどが荷役自動車ですし、私の車は通勤がベースですが、旅行、ドライブ、ちょっとスポーツと趣味の領域がかなりあります。

欲望としては、思いっきりスポーツ用途に割り切った独身時代のような生活が出来ればそうしたいけれど、代わりに失うものとの天秤では、先立つものから生活スタイルまで、当分ありえません(^^;)。

また、加齢とともに車に求めるプレジャーは一層「速さ」が余り伴わないものになり、他の車との競争と言った相対的なものでなく、内面の自己との対話に重きが移っていることを実感しています。ゆえに、車の操作に当たってのインターフェースの量と正確さ、がこだわりとなり、インプットに対する反応、結果のわかりやすさ(過去の経験値との整合性)を求める形となり、そこが電子デバイスの無い旧車の挙動がしっくりくる世代の脳なのですね。これがAYCやら、DSCやら、コンプライアンスステアだの、条件マップのパターンが粗い精度では、違和感が起きたり、特定の条件では裏切られたり、、といったことが起きると信頼を置けず、その車に指示を出せなくなります。従って、電子制御で育ったドライバーにはそれなりの対話が可能でも、私のような線形対応型老人には、木で鼻をくくったような車に思えてしまいます。

(続く)

Posted at 2013/10/29 21:25:54 | コメント(1) | トラックバック(0) | 私的なミニ哲学の泉 | クルマ
2013年10月28日 イイね!

アクセラ(20S)の試乗記

アクセラ(20S)の試乗記

昨日、台風の予測で予定が立たなかったこともあり、お騒がせに妻を伴ってマツダに行ってきました。

電話で連絡があった通り、20Sの1台が試乗車兼唯一の展示車として置いてありました。
まずは初対面のエクステリアの感想は、ナンバープレートの位置が残念なことと、鼓動デザインの左右ドアの下部深絞りプレスラインに若干の歪(スプリングバックと思われる凹み)と、リアハッチのヒンジ部のルーフの膨らみが、その流麗デザインゆえに少々気になりました。

しかし、堂々としたちょっとクラス分けが難しい(特に1.5Sなんかだと)一クラス上級なたたずまいです。

(写真はwebの拾い物)



先に、試乗の結論言うと、なにか、物足りない、未消化な感じがしました。
その理由は最後に(ー_ー)!!。


まず奥さんをリアシート、セールス氏を助手席に乗せて出発前にあれこれパネル表示のQ&Aを行い、シートポジションが実に適切に取れるね、とほめてスタート。事前に「この営業所は試乗コースが市街路の直交ばかりでせっかくのズームズームがわからないよ」と言ったことからか、以前の営業氏が言ったコースではなく、片側2車線の流れの速い郊外路に案内されました。

出足のアクセル反応は、今のB4よりはるかに自然で制御しやすい。思った強さで発進してくれる。i-DMがグリーンからブルーに変わる。「なるほど、こんなところにさりげなくぽちっとw」

わずかな試乗なので知りたかったポイントだけ試してみた。前後に車両がいない時を見計らって何度か荷重移動を伴う車線変更を行った時だけ、白ランプが点灯した。なるほど。

さて、すでにアテンザの試乗もしているのでほぼ同じ感じだったけれど、あえて違いを言えば、
足回りのストロークがしっとりと出しやすい(初期からしっかり仕事してリニアリティがあった)と思いました。したがって、くるまの姿勢を作りながらワインディングを走ったら楽しいだろうなと。

ブレーキや、ハンドルの応答性、直進時の遊び感など、マツダスタンダードであり、初乗りから安心して手の内にある。従って、動質についての評価は想像通りで満足度は高い。

一方、残念だったのは車内の作りが、欧州車のような高級感もしっかりあって、HUDや、メータその他の質感も価格以上の満足度がある。だからこそ「おや?」と思ったのが

①ドアを閉めた瞬間
②走り出して、エアコン、音楽を止めた時

でありました。

まず、乗り込んでドアを閉めた時、ボディのしっかり感は伝わらなかったこと。
しかしこれは、走り出して走行上の動的剛性は実にしっかりしており十分なボディ剛性は確保されていると感じました。そして、走り出してロードノイズが思いのほか侵入して来たことと、
その流麗なボディに反して、風切り音(これは自車のものと、外の騒音の両方)が聞こえたこと。

おそらく、国産の同クラス車では、劣ることはないと確信しますが(T車、M車、S車も)、しかしそのクラスの上がったエクステリアや内装の質感、から期待した静粛性に届かなかったからです。「はて?、なぜ?」と納得いかない。

それ以外には特に不満が出ることはないと思いますが、後ろに座った奥さんの批評3ポイントありましたが、
①ホイルハウスが腰の直後にあり、そこから聞こえるロードノイズが大きい(ダメだし)
②広さは今の(B4)ととんとんだけど、窓が狭い(上下)により、RX-8と同じ感覚の閉塞感がある。(ダメではないが、ハッピーではない)
③乗り心地はちと固いけど、スポーティで悪くはない。

ということでした。

運転席での私も、密閉感が不足しており50k程度での車内騒音からは、「これで高速巡航は少々残念な感じ」であり、セールス氏には
「まぁ、このクラスの車だと吸音、遮音という処置は難しいので、クラウンあたりの上級車にならないと無理なんで、車両のクラス的には十分とは思いますけどねぇ」とちょっと辛口評価を伝えた。


この後、まだ発展途上のセールス氏に、「私がもし、買うとしたらどのグレードを検討しているか、わかりますか?」とちょっとテストして見た。以前HVを見積もりしてもらったこともあり、彼はHVだろうと考えていた。

「いや、もし本当に買うとしたら、奥さんのスピアーノの代替となり、15Sになるだろうと思いますよ」というと、想定外であったようだ。前からHi-Lo構成を言っているのにな。
実際、今の軽と年間維持費は税金分変わるけど、購入金額と車両差を考えると、とてもリーズナブルで商品力は高いと思う。


「B4の代わりにHVを買うんだったら、エンジンで十分なキャパがあり、モータ分が上乗せになるような、合成トルクがD並みになるんだったら、、、」とかヨタな雑談をしたw。
いずれにしても1年後で無いと、具現化はしないと煙に巻いてお別れした。



さて本題。
 今回の試乗では、車の動きについては、何か私が勝手に想定したレベル通りではあったが、感動やサプライズは無かった。「何か、未消化な感じ」それが当日はとうとう、わかりませんでしたが、この記事を書いて、一晩立った後、なんとなくわかりました。
 
車のインテリアなどの質感がアウディに近い感じなど、結構な上級感があったこと。それに対して事前に持っていた車格感などから、もう少しきびきびしたホットハッチ的な動質を無意識に期待していたのかもしれません。つまり

車格を大きく上級に感じさせる動き、ハンドリング(例のためとストローク感)に対して、遮音やノイズなどの質感が、それに釣合っていない、あるいは及ばない(これは、車の上質感とのギャップであって、コストと実体の車格からは十分と思われるので、評価は辛いですがけなしているわけではありません)。

そしてもう一つ、それだけならば、もう少し感動というか、いいな、という感じが残ってもよさそうなのに、いまいち感がありました。振り返ると私の比較基準がゴルフ7になっている事に気が付きました。動的質感はほぼ同等に近い評価でしたが、遮音からくる剛性感、高級感は残念ながら及ばないと思います。

そう、G7は、アクセラと比較してインテリア質感はHUDのような未来感や、華はなく質素ですが非常にすっきり感のある上質なものでした。それ以上にドアを閉めた瞬間からの気密感が素晴らしく、遮音も一クラス上のものでした。(ただ、走り出したらロードノイズの侵入はそれなりに有りましたが、試乗したアクセラとは1段以上格差を感じました。それでいて、こちらもちょろちょろではなくしっとりと同じなのに、きびきび感というか、車が手の内にある、そう、小さく感じたのです。

アクセラが大人びた上質な、ひとクラス上の動質を獲得し、見合う外観を備えたが故に、不足したと感じた静かさ。しかしG7は逆にしっとりしていたけれど、車が小さく感じる動質を持っており、好みの問題もあると思いますが、期待した車の大きさ、コンパクトさとその動質がマッチしており、色気のないデザインとやや高価ではあるものの、改めて逆にG7を評価してしまいました。非常に個人的な感想ですが、非常に固まり感、硬質な剛性感が有り、動きに安っぽさもない一見同じ路線をなぞっているようで、ドライバーが得た走りの質感は全く違うものでした。

G7を試乗した時には、相変わらず無口な頑固秘書と言ったイメージでワクワクするとか、陽気になるとかいう車ではなく、「道具」という感じでした。アクセラには華やかな、明るいイメージが抱けます。

マツダの新世代ハンドリングの統一という考えは悪くないと思います。しかし車体のクラス、大きさに応じた求める動質というものも有るように思います。ホイルベースで言えば2700対2635。65mmは決して小さくはないかもしれませんがそれ以上にコンパクト感のあるハンドリングでありながら、挙動の安定を見せたGOLFの仕上がりに、「やるなー」と改めて感心したのでした。
Posted at 2013/10/28 21:35:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | 試乗 | クルマ
2013年10月28日 イイね!

ドライビングプレジャーを考える(その2)

前回に引き続いて「車の運転がもたらす喜び」の前段にあたる車の存在目的を、まずは考察してみると、

「人や荷物を「移動」させること」

になります。しかしながら自動車の発展した歴史は逆に「遊び」であります。
馬車に代わる荷役とバス、タクシーの機能として市場に登場しますが、2台並べば競争してしまう。当時高価で特権階級から普及した(これは工業化文明の必然ですが)ため、移動手段でありながら、「競争の道具」として一種のスポーツ的要素が当初からあったのですね。それは元々競馬や馬車のレースがあったのですから当たり前と言えば当たり前です。
しかしそう片づけるのは簡単ですが、「競争」という重要なファクターには着目せねばなりません。


車の魅力の一つに「スピード」があります。人間の5感が感じる初めての未体験ゾーン。人間の身体能力では使わなかった領域の覚醒。そこには同じ「競争」という行為であっても、相対的な勝負の快楽と個人の内なる対話という2つの異なる「競争」が存在します。ここにドライビングプレジャーの一つのカギが有って、「絶対速度」にこだわる意味と、より個人的な五感との対話という意味合いに分かれるのだと思います。


2.車が提供するもの

①一人の移動能力拡大装置
 これが変身願望を満たす、一つの機能なんですが標準的な乗用車でも1トン以上、100馬力は有ります。人力の2ケタ以上のパワーアップです。それを右足歩踏み込みひとつで獲得出来る。しかし新幹線にでも乗れば、そのまた2ケタ増しの世界になりますが、果たして運転手にはその感覚があるでしょうか?、F15なんかのパイロットには有るような気がします、15000馬力を手中に収める快感が(笑)。

②調教の快楽
 手なずけがたい(簡単に吹け上がってくれない原始エンジン)機械を上手に操る対話を身に着けた技量としての満足感があります。
それからもう一つ向きを変える難しさ、車に意思を伝える相互技能の成長の喜び(これはチューニングと走り込みの両方を言っています)このような意味合いを、知る、学ぶ面白さとしておきましょう。

③仲間と荷物を運ぶ役務車
 よほど恵まれた資産家でもない限り、自動車を買うのは移動手段の獲得であり、荷物の運搬、人様の送り迎えといった役務的な価値が基盤にあります。例えランボのアベンタドールであっても、助手席の彼女を送る役目は果たさねばなりません。
 引っ越しで色んな荷物を運んで役立った記憶。。。ですがこれらは「仕事」感覚な側面があって、楽しい、というより「助かった、ありがとう」という感じで、人力で運んだ苦労を知って初めてそう思うことでもあり、逆にそのために買ったんだから当然、ということで相殺されるものであり、「プレジャー」にはそぐわないと思われます。

④閉ざされた共有時空
奥さんや子供たち、あるいは友人とのパーソナルスペースを共有する連帯感や、運転に脳が拘束された中での、会話(アルコールと同じような感情の起伏がクローズアップされる効果があると考えています)そして、これは1BOXの広く遊びまわれる車よりも、逆に軽自動車の狭く揺れるポンコツの方が、より強いのはなぜでしょう?。それが自分でも不思議なんですが軽自動車に4人乗って、ヒイヒイ言って山に行ったときは面白かった。(ステップワゴンで悠々と行ったときはみんなゲームをやっていたwww。)

⑤リスクとの対話
降りかかる災難に対する危機管理を刺激する「道路を走る」という行為。
自ら思い描く速度、軌道、を感じる生物センサーによる本能の刺激
(危険を感じることで、生きていることをより感じる自己認識本能の刺激:バイクの方がより強い))

この件は自動車が獲得した能力ではなく、その裏返しでドライバーに課せられた責任というべきものです。快楽の追及ができる反面、大きな事故、不幸を背負う事実が有ります。自分だけはそうならない、と言い聞かせても、リアルに想像力が働く大人にならないとそれを踏まえた運転は出来ないものです。この思いがあまり過大になると、車を降りてしまう人もいるでしょう。

⑥何者かとの優劣誇示
 競争という行為に車を駆り出すとき、①の変身願望の一種とみなせます。ドライバー個人の人としての評価、世間体などを代弁する鎧となるからです。エンブレムが放つ影響力もまた、車がオーナに提供するものであります。


さて、車が提供するものをいくつか列記してみましたが、私が「自動車で楽しい」と感じた原点は内燃機関の鼓動を通じて、非力な自分が強大な力を操れるという、変身願望の快楽が最初に有ったように思います。そのせいか、エンジンのチューニングとか、大馬力への憧れが強くありました。それに続いて、他の要素が絡まって「車は楽しい」と感じて行ったように思いいます。

ここで取り上げたいのは、車がオーナドライバーの「運転」にもたらすものであり、この中では①と②だけが、ハンドルを通じて提供される価値ではないかな、と思います。趣味的なドライビングプレジャーとは、この身体能力拡大あるいは持ち合わせた生物感覚への刺激がその実態のように思います。これ以外にもあるのかもしれませんが、今はこの①と②の中身をひも解いて行くことで、主題の本質に踏み込んでみたいと思います。
(続く)
Posted at 2013/10/28 20:33:18 | コメント(1) | トラックバック(0) | 私的なミニ哲学の泉 | 日記
2013年10月27日 イイね!

ドライビングプレジャーを考える(その1)

ドライビングプレジャーを考える(その1)1.車が楽しいと感じた原点を探す

「ドライビングプレジャー」を考える。。などと構えたテーマを上げてしまいましたが、以前ATとMTの違いを考察した際に、想起されたテーマでもあったのです。

参考:ATとMTを考察する

では、そもそも「ドライビングプレジャー」とは何か?。車の運転がもたらす喜びの総称と思うけれど、「車を使って楽しむこと」と、さらに狭義な「車の運転、ハンドリングの楽しみ」の2つの意味合いで使われているようですが、車好きの間では主に後者の意味合いが主流なのではないでしょうか。

ここでは、大枠の「車がもたらす楽しみ」というところから出発して、逆に運転する「私」が車に感じる「プレジャー」を考えてみようと思ったのです。それは我が家のHi-Lo装備のB4とスピアーノ(ラパンのOEM)がともに10年越えとなり、装備更新を考えねばならないことにつながります(笑)。


以前、原体験がもたらす個人の判断基準について書いたことがありますが、車に対する動的評価は、その個人における自動車運転の原型を成した原体験に大きく支配される、、と言ったようなことです。近年のエンジン始動は家電のスイッチを入れる感覚と同じであり、ATでアクセル開度とハンドル、そしてブレーキペダルを踏むだけで車が「運転」できる原体験では大きく異なります。

私の場合、歳がばれますがさらに幼少から自動車を体験しているため、原体験としての「自動車」とは、「親父が乗せてくれる空飛ぶ絨毯」でありました。しかしその裏舞台は、まず
①セルが回るか、祈りの儀式(バッテリーは常に信頼性が弱く、セルが勢いよく回る期間は限定された)

②キーを回し、燃料ポンプがカチカチつぶやき、時にはチョークを引いて、キャブレターの吸気音の湿り具合をアクセルで微妙に操り、1発の着火音からやがて闇から眠りに覚めた巨人のごとき咆哮を(当人にはそう聞こえただけで、高々1200cc程度のOHVですよw)聞く。

②床、あるいはハンドルコラムから生えたレバーを何事かかき回して、やがてぶるぶると車体を震わせ動き出す。

と言った「自動車」が機械ではなくほとんど「生き物」のような代物だった時代に育ったため、車とは何より「対話」が大事だったのです。それは言葉の通じない猫や愛犬と接するかのごときものでした。いまでもチューニングカーや旧車を友とする方々は「生き物」と化した自動車という表現は、腑に落ちるものかと思います。

交通機関の脆弱だった昔は、自動車とはまさに見知らぬ世界へ連れて行ってくれる魔法の絨毯でした。それが快適な一級国道の舗装路ではなく、砂利と固まった泥の凹凸路を砂塵を上げて走る道であり、交通量が少ないから良いようなものの、前走車が有るとハンドルを回して窓を閉め、車間を適度に取るという風景。締め切った静かな車内でエアコンと芳香剤に満たされた快適空間で、オーディオルームもかくや、という現代の自動車が提供する「魔法の絨毯」とは天と地の差があります。けれどもワクワクした、目がらんらんと輝いて車のドアを開けて乗り込んだ幼い日々の原体験には敵わないのです。

こう言った記憶が海馬に染み込んでいる人種は、車に求める深さがおのずと違います。もっとも現代人が皆、変わってしまったわけではなく、ふとそう言った車に同乗したり、ハンドルを握ることで、強烈な刺激を海馬に受けて、同志になってしまうことは良くあります。つまり人間が変わったのではなく、体験する環境が変わっただけなのです。

さて、このようなイントロダクションを展開することで、「ドライビングプレジャー」という言葉の定義が定まっても、それを評価する側の「感覚」はさまざまで、同じ言葉で表現しても、共通感覚を得ることは至難であります。

なので、これからしばらくつぶやくたわごとは、あくまで個人的なものであるという点をご理解ください。

(続く)
Posted at 2013/10/27 18:01:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 私的なミニ哲学の泉 | クルマ

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「祝 実用初SPCCIエンジン発売! http://cvw.jp/b/119241/43534932/
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