
日本案と欧州案の間で繰り広げられた3ドアモデルのデザインコンペ。
3回にも及ぶ死闘の末,日本案に軍配が上がる。
あとは作るだけ。いざ走り出そうとした矢先,
突然3ドアモデルの開発中止が告げられる。
主戦場となる欧州市場で,3ドアに代わり5ドアモデルが売れ始めてきたのだ。
1999年の秋。休日だというのに本田技術研究所の栃木研究所には,役員や松本宜之など,フィットの開発を指揮する主要メンバーが集結していた。彼らが見入っているのは, 3ドアの実物大モデルである。
「よくできてるよ,これ」
「それは分かるが3ドアだからな。
欧州にも5ドアの時代が来たんだよ。その流れは変えられん」
「でも,このデザインをお蔵入りにするのは,
いかにももったいない」
「だが,3ドアも5ドアも,というわけにはいかんだろ。
うちの体力を考えれば,一本勝負しかなかろう」
これまで3ドアの扱いについて検討を重ねてきた経営陣。実物大モデルを前に今日,最終判断を下すのだ。そして,出された結論は3ドアモデルの発売中止。当然, 同モデルの開発は,現時点をもって凍結になる。
一から出直し
松本にとって,この決断はかなりつらいものだった。「3ドアという欧州メーカーが最も得意とするクルマで欧州市場に殴り込みをかける」。その大きな目標が,どれだけ彼の闘志を駆り立ててきたことか。
そして,岩城慎。何といっても一番の衝撃を受けたのは,3ドアのデザインを生み出した彼自身だろう。
「あの日のこと,あのセリフは今でも覚えています。いきなり集められて『3ドアは,なしということで』とか言われて。上層部はそれ以前から検討を始めていたようですが,何しろ私たちにとっては初めての話でしたから。それ聞いた瞬間,頭が真っ白ですよ。しばらくは何が起きたのか,冷静に考えることもできないありさまでした」
幻と消えた3ドアモデル。周囲は「素晴らしいデザイン。大傑作だった」と口をそろえる。岩城自身も,その出来栄えに大きな満足感を抱いていたことだろう。それだけにつらかった。精魂を注ぎ込んだ2年という歳月以上のものが,そこにはあったのだから。
もちろん,上層部もそのことはよく分かっていた。「いつか日の目を見せてやりたい」。その思いからか本社は,3ドアモデルの実物大モックアップを「凍結」するよう命じる。文字通り,巨大な倉庫に入れて保存するのだ。今でもそのモデルは,静かに出番を待っているのだという。
Posted at 2012/08/13 20:23:55 | |
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