久しぶりに車を走らせました。
ここは昔よく来た所。
現在はマツダのテストコースなのですが、2006年まではMINEサーキットとして運営されていて、よくレース観戦に出掛けていました。
このサーキットは山口県美祢市にあり、1991年に改修され、MINEサーキットと呼ばれるようになりましたが、その前は西日本サーキットと言う名前でした。
開業当初は厚保(あつ)サーキットでした。
レース観戦の時は必ずカメラを持って行き、サーキットのあちこちでシャッターを切っていました。
昔撮った写真を見返すと当時の思い出が蘇ります。
よく見に来ていたのはスカイライン目当ての全日本ツーリングカー選手権、通称グループAレース。
MINEサーキットで行われた事が分かる写真がこれ。
1992年シーズンの第5戦です。
お立ち台には長谷見昌弘選手と福山英朗選手。
メインスタンドへゴール車両のお披露目です。
この頃はスカイラインがエントリーするカテゴリーはほとんどがGT-Rでした。
翌
1993年はグループA最後のシーズン。
スカイラインのクラスはほぼGT-Rのワンメイクレース。常に優勝続け、グループA29勝と言う記録を作りました。
ではもっと過去に遡り、グループAが開幕した
1985年を見ましょう。
この時の名称は西日本サーキット。
当時私は、とある店屋に張ってあるポスターでレースがある事を知り、行ってみました。
この時はまだ学生だったので、自分の車は持っていませんでした。
1985年と言えばスカイラインはR31にモデルチェンジしていましたが、このレースでは我等がDR30を走らせていました。
当時の31では一寸ね、と言う事で急ごしらえですがレース車両に抜擢されました。
23号車のドライバーは柳田春人選手と鈴木亜久利選手でした。
裏のストレートからの折り返し
1986年シーズンはRSターボが総合優勝した記念の年。
その第1戦がここ西日本サーキットで行われ、私の目の前で23号車がトップチェッカーを受けました。
嬉しかったですねぇ。
1987年は日産はエントリーせずプライベートチームだけの参加です。
1988年シリーズは日産がこのレース様にと用意したR31GTS-Rを投入して来ました。
この頃から長谷見VS星野の戦いが始まりました。
1989年はまたも日産ワークス車両は出場せず、長谷見VS星野の争いがメインになりました。
グループAレースはここまでRSターボからGTS-Rと来ましたが、そもそもレース参戦を想定した車両ではありませんでした。ですがこれら車両のレース経験から次の「R伝説」が始まる礎となったのは言うまでもありません。R30、R31の功績は大きいですよね。
1990年です。
この年は皆さん御存知無敵のBNR32GT-Rデビューの年です。
それも第一戦はなんと地元西日本サーキットでのお目見えです。
星野さんのカルソニックスカイラインと長谷見さんのリーボックスカイラインの2台がエントリーしました。
サーキットに行く道は大変混雑していた事を今でも思い出します。
そうですよね、期待しますよね、日産がこのグループAレースのレギュレーションを研究し、勝てる車として開発したエンジンとボディが我々の目の前に現れるのですから。
結果はもう、圧勝です。
星野さんが優勝したのですが、それも2位の長谷見さんを周回遅れにする激走でした。
凄かったとしか言い様がありません。
1991年ですが、この年はサーキットの改修でレースは行われず、西日本サーキットの名前はこれで終わりとなりました。
バブルの頃でしたから、この近辺もリゾート化されて行きました。
グループAレースを中心にお話しましたが、それ以外のレースも行われており、有名なF3000やF3レースも行われカメラ片手に観戦してました。
日本一早い男
中さん
ドリキン!
ドリキン!!
現実に戻り、かつてMINEサーキットのメインゲートに来て見ました。
もう、爆音や歓声は聞こえて来ません、ですがここに来たらワクワクします。
以上、30年程前の思い出でした。
私と愛車は1987年12月に出会い、付き合いも30年になりました。
来年もこれからも宜しく。
長々と読んで頂いてありがとうございました。
来年も良い年でありますように!
Posted at 2017/12/31 09:49:45 | |
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