おつかれさまです、「ミンカラさん」のツイッターに間違えてツイートしてしまいました。
私はトカラの宝島出身の者で有り難く拝見させていただきました。
私も40年振りですが5月に帰郷したばかりで手に取る様に伝わってきました。
現在は「Iターン」の方々が頑張っていただいて「シェアハウス(一泊¥2.000)」を立ち上げて
安く滞在できるそうです。
「フェr-としま」も全便名瀬便になり便利になった様です。
またお暇な時のでもお出でください。
瓜千 様
はじめまして。コメントありがとうございます。
宝島出身の方に旅行記を見ていただけて、嬉しいです^^
40年ぶりですか!?
私は話で聞いただけですが、40年前とは随分島の様子も変わっておられたことでしょう。
宝島で昔の島の生活の話など、色々聞かせていただいて、興味津々でした。
Iターンの方は色々と頑張っておられるようですね。
唯でさえ宿の少ないトカラですから、こうして手頃に泊まれる宿が増えるというのは有り難いことですね。
Iターンの方ならではの視点なら、島を訪れる人にとってもプラスになる面も多いかと思います。
確かに名瀬便が増えると、アクセスが便利になって、訪れやすくなりますよね。
まだまだ未訪の島も、そして居心地の良さを知ってしまった宝島も、トカラの島々には惹きつけられる物があります。
また必ず行きたいですね!
返信をありがとうございます。
私の早とちりで間違えた情報を発信してしまいました、まだ「フェリーとしま」は全便名瀬便
にはなってないようです、いずれそうなるとの事でした失礼致しました。
私が宝島に居たころとは全然様相が違っていました、海岸の辺り(前籠港)から宝島港(旧センゴ港)辺りまで
は殆ど砂丘になっていまして我々の遊び場でした。
また現在は島の殆どがジャングルになっていますが当時は畑と田んぼで端まで見渡せました、山もはげ山同然で
背丈程の木しか無くどこからでも直線で頂上まで登れました。
人口も多くて山仕事や野良でどこにでも入って行きましたから藪しかなかった事が思い出されます。
海産物も沢山獲れて貧乏でしたが活気がありました。
宝島を守ってくれている方々には感謝で一杯です。
お返事が遅くなって申し訳ありません。
「フェリーとしま」の件、情報ありがとうございます。
今後のこととは言え、全便が名瀬まで行くようになれば、随分とプランが立てやすくなるので、有り難いことです。
宝島で色々とお話を伺っていたのですが、瓜千さんのお話しも興味深く拝見しました。
「砂漠はもっと広かった」とは聞いていたのですが、宝島港まで続いていたとは驚きです。
そして山も「直線で頂上まで登れる」状態だったとは、大変驚きました。
あの自然豊かなイマキラ山が…信じられないほどの変貌振りなのですね。
正直、そこまで開墾されていたとは思っていなかったので…。
機会があれば、図書館などで過去の宝島の様子など、もっと調べてみたいものです。
確かに今は随分とこぢんまりとした島ですが、島で出会った方々の「島を愛する」気持ち、「島を守っていこう」という気持ち、ホントにヒシヒシと感じました。
そして宿の女将さんや、案内してくれたガイドさんなど、Uターン組の方と多く出会いました。
客観的に島の良さを知っていて、私たち訪問者にその良さを伝えてくれる…Uターン組の方ならではの視点のお話しが聞けて、本当に良かったです。
またこうして瓜千さんからもお話しを聞かせていただけて、「ブログをやっていて良かった」と思いますよ。
ホントに宝島は「行って良かった」そして「また行きたい」と思える素敵な島ですね。

お疲れ様です!
お忙しいのに返信を頂きましてありがとうございます。
ちょうど我々がガキの頃の宝島の写真が有りますのでご迷惑でしょうが
ご覧ください。
一枚目は昭和40年頃の前籠港、当時港湾工事が始まり中央奥のボンヤリ白く見えるのが
現在の東側から沖へ突き出ている防波堤です、
ちなみに撮影場所は現在イギリス坂中腹にある「民宿浜坂荘(当時は田んぼ)」です、
ご覧の様に田んぼばかりで端まで見通せました。
写真右端の入り江が当時の「前籠港」で沖に「第二・十島丸」が停泊し伝馬船で荷降ろしをしていました、
瓜千 様
沢山の写真をご紹介いただき、本当にありがとうございます!!
(迷惑なんて事はありませんし、貴重なお写真を見せていただいて、感謝しております)
1枚目・2枚目のお写真は、自分の滞在した民宿からも近く、よく眺めた場所でもあるので、記憶や自分が撮った写真を参考に、見比べてみました。
坂の上から見下ろした場合、今では左側はすっかり藪になってしまっていますね。
集落近くでもこれだけ変化があるとなると、島の裏側など、全く光景が変わっているというのも納得できます。
作られている作物は稲でしょうか?今では水田はほとんど(というか全く)無かったように記憶していますが、当時は稲も作っていたのですね。
診療所の建物は…当時のままなのでしょうかね。私の手元に海側から撮した写真が無く、比較したわけではありませんが。
3枚目の砂丘の写真は驚きです。
今では随分こぢんまりとしてしまったものですね。
しかも足下には何だかんだで植物が生えていますからね…
「緑化の成功」というと聞こえが良いですが、この島の砂丘くらい、当時のまま残せなかったものだろうかとも感じます。
もちろん人口が多かった時代には、食糧の増産が第一だったのだろうとも想像しますが。
また最後の写真もそうなのですが、子ども達の姿が多く見られ、活気を感じますね。
残念ながら今ではほとんど子どもの姿を見かけることが無く、ちょっと寂しく思います。
また4枚目、5枚目の伝馬船も貴重な光景ですよね!!
小宝島では最近まで伝馬船を使用していたとのことですが、宝島くらいの規模(しかも当時は人口も多かったでしょうし)となると、物資の積み卸しなど、何往復もして、大変だったことと想像します。
それに第二・十島丸も意外と沖の方に停留するものなのですね…
最後は離任する先生か、あるいは転校生のお見送りの光景でしょうか?
確かに物質的な豊かさでは現代には叶わないのでしょうが、こうした人と人とのふれあいや、沢山の子ども達の活気…今の時代にはない、違った豊かさがあったのだろうと思いを巡らせておりました。
貴重なお写真を見せていただいて、本当にありがとうございました。
追伸:これらのお写真は、瓜千様が撮られて、アルバムで保存されていた物でしょうか?それとも何かの書籍に掲載されていたものでしょうか?
ありがとうございます。
この写真は小学生当時の先生(中野先生)のアルバムから息子さん(私の同級生)がデジカメで写したものです。
赴任期間の3年間の写真を大事に保存してくださっておられ感謝にたえません、ありがたい事です。
当時、宝島は児童生徒が130~40人在学しており賑やかでしたし全島民は300人くらいは居たのではないでしょうか?
稲作から殆ど何でも作っていましたし牛は食用ではなく農耕用(馬も)として飼っていました。
豚や鶏は食用として飼っていましたね~・・
ツギハギの洋服で靴下も履けずおやつは山の中に入って自分で都合していましたよ・・
ですからジャングルは灯台の山側に有るだけで殆ど分け入って行ける程の藪ばかりでした。
実はこの写真はPICASAに沢山アップしてありウェブで誰でも自由にアクセスして落とす事も
出来る様にしてありますのでよろしければ覗いてください。
昭和38~41年頃の学生達や風景(少々)があります。
何分古い写真ですので見難いですがあしからず・・・
こちらの↓URLへ・・
https://picasaweb.google.com/104330780095928594640/2802?authuser=0&feat=directlink
こんばんは。
URLのご紹介、どうもありがとうございました。
自分の知っている(見てきた)景色との見比べはもちろん、子どもが多く活気あふれる様子など、興味深く拝見しました。
学校の先生のアルバムだったのですね…やはり子ども達の表情など、思わず見入ってしまいました。
今とは違って、船の便も良くなかったでしょうし、食料など島内で自給する割合も高かったのだろうと思います。
物質的な豊かさという点では比べものにはならないのでしょうが、それでも身近で作物や家畜を飼って、おやつも自分で調達…今の時代とは違った、自然の中で暮らしている感がヒシヒシと伝わってきます。
古き良き時代…何だかそんな気分を感じさせられました。(実際は何かと大変だったことも頭ではわかっているんですけどね)
今回は貴重なお写真を紹介していただき、本当にありがとうございました。
ありがとうございます。
我々は子供だったので親の苦労は考えなかったのですが今になってみると大変だっただろうな~と
思います、現に当時の人達は皆さんが体がスリムで顔付きが精悍です。
私みたいに太ってブヨブヨした人は一人もいませんでした。
生活は大変なのにそれに対して不平不満を言っているのを聞いた事がなかったです、皆で助け合って生きていました。
何でも自分達で解決し自分で必要な道具を作っていました、当時でも「凄いな~」と子供心にも感じていました。
十島丸も鹿児島まで各島2~3時間の荷役時間がかかり二泊三日の行程でした。
大変な時代でしたね~・・・、ですから宝島に残って宝島を守ってくれた人たちには感謝しています。
瓜千 様
お返事が遅くなり申し訳ありません。
仰られるとおりで、写真を拝見していても、皆さん顔も体も精悍で…
「生きている強さ」を感じさせられますね。
現代は豊かになった半面、逆に不平不満も色々目についてしまうのでしょうね。
鹿児島まで2泊3日ですか…今ですら「大変だなぁ」と思うのに、2泊ともなると…当時の人の苦労の一端を感じますね。
そうした背景をお聞きすると、現在まで宝島に残って島を守り続けている方々の凄さが少しわかったような気がします。