2015年01月12日

吉野家が好きだ。
たまに声に出して言いたい日本語だ。
さあ、男子諸君、その思いがあるのならたまには言って見よう。
吉野家が好き。
。。。。。。
。。。
。。
だめだ、「だ」を抜かすと少女マンガの台詞みたいになって、なんだか台無しだ。
吉野家が好きだ。
やはりこれだ。
さあ、この美しい日本語の発語の快感に触れ見よう。
最近、われわれはこの思いを、やはり忘れているとしか思えない。
並盛300円が380円に値上げして、高いだのなんだの騒がれていたが、並盛はホントは400円だろ?ん?
20円安くなってんじゃないか?(20年間で)
それをいうのなら、店員もやはり変わってしまっている。
「並と味噌汁」とオーダーすると、「牛丼でよろしいですか?」と来る。
???
なにいってんだ?と思いつつ、メニューを見ると、
・牛丼
・牛ねぎ玉丼
・ロース豚丼 十勝仕立て
・牛カルビ丼
・鰻丼
なんじゃこりゃ?
十勝ってなにやってんだ(笑)
まぁ、色々大変なんだろうなぁ。
でも、われわれが求めているのはこんなんではない。
違うというやつは松屋にいってデフォルトで味噌汁のついているチキンステーキ定食(未確認)でも注文すればいいし、またはすき家にいってめんたいマヨネーズサラダ牛丼(未確認)とかのアクロバティックなやつでも頼んでみればいいのだ。
更によく見ると、こんなのもあるぞ。
・牛すき鍋膳
修学旅行のように固形燃料が燃えているぞ!
んなの用意するためにわーわー走り回らなければいけないなら、吉野家の店員なら呼吸をするようにできる(推定)はずの、きちんとした牛丼盛り付けもできなくなるわけだ。
牛丼というのはとても戦略的な食べ物であり、半球体のなかの肉、たまねぎ、その下のコメをどういう配分で食べていって、最後の美しいフィニッシュをどのように迎えられるかという構想が常に求められている(はず)
のんきに肉だけを一口ほおばってしまおうものなら、後半戦の肉・コメのバランスが崩れていく可能性があり、われわれはどのようにその牛丼を終えたいのかという己の欲望(ビジョンと言い替えも可)に無自覚にハシを持ってはならない。
そこの想い(将来像でも可)を適切にサポートしていくツールとして、紅ショウガがあるであり、さらにコメにしみこんだ「ツユ」の存在がとても大事なのである。
それゆえに、「ツユだく」「ツユぎり」とかのオーダー方法が開発されてきたのであり、そこには当然に標準的なツユの量、盛付方法というが客・店のあいだでがっちりと合意がされていた(はず)
わたくしにはツユだくの気持ちはまったく分かりませんが、その人にはその人なりの未来予想図があってのことであるため、他人がどうこう言う問題ではない。
なのに、最近の吉野家はここが一定しない。。。
昨日食べたときも、コメの下半分にすでにツユが。。。。
床下浸水状態である。
これじゃあ、ツユだくじゃねえかぁ!
(念のために解説すると、個人的な心象風景としてはラーメン屋でしょうゆ・チャーシュー麺を頼んだら、タンメンが出てきたぐらいな状態ですな)
オレの想いを踏みにじりやがったなぁ!!!
(あー、1/3ぐらいまでは肉にしみこんだタレとコメで食べ進めていって、最後は丼のそこに刺身しょうゆ皿のしょうゆぐらいに溜まっているタレを掘り起こしてまぜて食べて、最後は熱いお茶でエグ味を消してフィニッシュというのが今回の構想でしたが、それが台無しにされて、はらわた煮えくり返るという状態です)
と、大苦悶ではあったのであるが、店員も忙しそうだし、固形燃料にも火をつけなきゃならんし、こっちは子供連れてるし、そのまま食べましたが。。。
十勝とか言っているヒマがあったら、きちんと盛り付けてくれよ。。。
あとさっさと並盛400円まで値上げして、よく分からんメニュー取っ払って(その結果POSレジも除却処分にしちまって)、昔の吉野家に早く戻って欲しい。
さて、色々言いましたが、本当の思いはひとつ。
吉野家が好きだ。
Posted at 2015/01/12 09:35:26 | |
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