この3月で、実家の小学校が閉校となります。
瀬戸内海沿岸の片田舎の小さな小学校ですが、明治最初の開校から親子5世代でお世話になった本当に大切な学校です。
週末が校舎の開放日となっていたため、いてもたってもいられず、帰省してきました。
私の時代も、同級生は特に少なくて7人、全校生徒も入学当初こそは100人少々いましたが、最後は70人くらいでした。
卒業から20年以上が経ち、急速な過疎化により生徒数は今や当時の1/10です。
今年の卒業生はいません。
私も大学からは地元を離れた身なので、あまり偉そうなことは言えませんが、今回の閉校はすごくショックでした。
海と山に挟まれて平地が少なく、集落的な場所のため、地域の中心は常に小学校でした。
良くも悪くも、地域の人が誰が誰か皆知っているような小さなところで、怒ってくれる大人もいましたし、当時は地域に育ててもらったと言っても過言ではありません。
春&秋の運動会・夏祭り・遠泳大会・どんと焼・バザー・発表会などすべてが地域全体のイベントで、全てが小学校でした。
2つの小学校区で1つの中学校になりますが、もう1つの小学校もさらに小さくて同時に閉校となります。
同時に閉校となるこちらも同じ環境で、さらに市内から4キロほど離れた場所にあります。
現在、両小学校の中間地点にある中学校の敷地内に新校舎が建設されており、4月には別の名前で開校します。
ただ、これは暫定措置的なもので、将来的な廃止を考えての最小限でのプレハブ校舎です。
おそらく将来的には、小学校と中学校を廃止し、隣の巨大校区に編入することになると思われます。
地理的にも平地が少なく、調整区域のため家がないところに新たな家は建てれない、市内に行っても土地代がしれていることからもこれから生徒数が増加することはまず考えられません。
現に、実家の周りも年寄りの一人暮らしや空き家がちらほら出てきて、既にかつての賑わいや地域の中の交流も失われつつあります。
この措置については、地域に学校を残したいという要望で、もめにもめての結論だったようで、地元でも賛否両論があります。
私がいたころから統合の話はありましたが、いざ決まると色々と感じることが多く、まさか廃校になるとは考えてもいなかったため、今まで味わったことのない寂しさを感じます。少子高齢化・過疎化・耐震化・財政・・・などの社会情勢を考えると、これ自体は仕方がないことかと思いますが、地域の本当に本当に大切なものを奪いさるというのは、計り知れず大きなものを感じます。
小学校に対する想いは人それぞれだと思いますが、ここに関して言うと友人も皆同じ思いを持っています。
嫁さんや周りと話をしても、小学校にたいしても自分の中学や高校への想い程度だったりなので、やはり特殊なのかなぁとも思ってしまいます。
校舎に立ち入るのは実に20年ぶりですが、おそらく最後となる写真をたくさん撮ってきました。
友人の子供が出るというので、朝から最後の学習発表会(学芸会)に行き、今の学校の様子も見てきました。
1・2年と3・4年が複式で、1・2年は1名ずつ、3・4年もあわせて3名しかいません。
2~3人で劇をするため、いわゆるコントや漫才のような状況ですが、1年生も20分間フルでセリフを暗記し、独唱し、すごく一人一人がしっかりしていて、皆、いい子で感動しました。
土曜日は、朝から学校行って、途中昼食に帰り、結局夕方までずっと校舎にいました。
校長先生ほか学校の先生とも色々なお話をさせてもらい、開放されていない鍵がかかったところも全部見せて頂きました。
今の教室です。複式のため黒板は2枚あります。
ALWAYSの撮影舞台も見たことがありますが、そこと変わらない風情があります。
木で囲まれた暖かみのある教室です。
体育館はなく、講堂です。当時から全く変わっていません。
ここで6年間剣道をしていました。
音楽室。時代を感じます。
焼却場。ここが好きでした。
野焼きが出来なくなり、時間の流れを感じます。
掃除に関しては、ほうきの持ち方から雑巾のかけ方まで決まってて、木造校舎をヌカ雑巾で磨き、学校はつねにピカピカでした。
今やある程度普通の学校になってしまいましたが、ヌカ雑巾は残ってるようで、床は今もピカピカでした。
階段も手すりまで全て木です。これが無くなるのは本当に惜しいです。
体育倉庫=昔の職員室です。100年以上経っています。
理科準備室を特別開放してもらいました。ここは大好きな場所でした。
猫や蛇などホルマリン漬けが大量にあったのですが、すでに無くなっていました。
思いかえすと、今では考えられないスパルタと他にはない教育でした。
特に強制されたという感覚は全くありませんが、男子は年中上半身裸で、外も中も裸足でした。
学校にて、当時のアルバムを閲覧してきましたが、今ではあり得ない光景のオンパレードで想い出とともに爆笑してきました。
裸の一輪車、裸の自転車、裸の傘、裸でイモ掘り、裸で貝掘り、裸で倒立・・・
朝は、集団登校ではじまり、登校するとすぐに外の掃除に花壇の水やり、グラウンドの石ひらいに草抜きからのスタートでした。
特に玄関は京都のお寺の庭のような感じに、がんざきでキレイに仕上げてました。
昼休みや休憩時間は、市内一周マラソンなるカードがあり、グラウンド10周で1マス色塗り出来て、カードの枚数を競い合って走ってました。
さらには、倒立が必須で、運動会でも静止倒立の時間と歩行距離を競ってて、出来ない子は放課後ずっと練習してました。
教育も、人の道を少しでも外れたことをすると、げんこつ・ビンタは当たり前、忘れ物はダッシュで家に取りに帰ってました。ただ、今でいう体罰とは全く違いました。
どの先生も普段は厳しかったですが、誕生日会をやったり、泊りがけで先生の自宅に呼ばれたり、休日に動物園に行ったり、本当に愛情をもって育てて頂きました。
来月、卒業以来の同窓会で何名かにお会いする予定で、すごく楽しみです。
この校舎を見るのもあと何回あるのか・・・。
就職してすぐ職場の大先輩に
「親に今まで育ててもらって、就職したら家を出て、親が生きてる間にあと何回会えるか考えたことがあるか?なるべく実家には帰って、今出来る精一杯の親孝行を後悔しないようにしとけ。」
と言われた言葉を改めて思い出します。
2013年3月 136年の歴史に幕を閉じます。
そして、間もなく解体工事がはじまり、年内には全てのものが撤去され、地図からも場所も名前も消えます。
土木遺産なんかもそうですが、壊すのは簡単ですが、築き上げてきた偉大なものを戻すことはできません。
ただ、誰も立ち入ることがなく、廃屋化するよりはキレイな記憶のままの方がいいのかな・・・と最近は思うようにしています。
唯一良かったこと・・・
今まであまり考えることはありませんでしたが、廃校となり、これまでの想い出、地元のことなど本当に色々なことを考えさせられました。
これを機にせめて何か人として成長することが出来ればと思います。
今の率直な気持ちとしては、寂しく残念な想いと、自分を育ててくれた全ての環境に改めて感謝の気持ちでいっぱいです。