西暦2191年、地球は人類の歴史上初めて地球外生命体と接触。
地球人類は友好関係を築こうと試みたが、相手は情け容赦ない無差別攻撃、そして、ロングレンジ攻撃である
「遊星爆弾」を冥王星前線基地から爆撃され続ける。
地球の大気と地表は放射能で汚染され、青かった地球は荒涼とした赤い土地に変わり、多くの生命体が死に至ってしまう。人類は地下都市を築き移り住んでいたが、汚染は地下にも進行し、科学者によれば、人類滅亡まで、およそ1年と算出される。
すでに
テラフォーミング(人為的に惑星の環境を変化させ、人類の住める星に改造すること)していた火星への移住計画を発令。そう、
『イズモ計画』である。
遥か16万8千光年彼方のイスカンダル星の
スターシァは、妹の
ユリーシァに
次元波動エンジンの設計図を託して、地球への使者として送り、ついに地球人類は、
西暦2198年にその設計図を手に入れる。
そして、
西暦2199年1月、
スターシァのもう一人の妹の
サーシャによってもたらされた、波動エンジンの最終パーツである
「波動コア」を手に入れる。
これにより、
移住計画を目的とした『イズモ計画』は、
イスカンダルに存在する汚染浄化システムを受け取りに行くことを目的とした『ヤマト計画』へと移行するのである。
この話は、未来のお話であるが、この計画の原点を探ってみることにしよう。。(^^)/
西暦1959年、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画が立案されたのだ。そう、
『マーキュリー計画』である。この計画の最大の目的は、有人宇宙飛行をソ連より先に達成することであり、
西暦1963年まで続き、その間、無人宇宙飛行を繰り返していた。
そして、目的達成となる有人宇宙飛行を実現したのだが、アメリカ合衆国よりもわずか3週間早く、ソ連が有人宇宙飛行を実現させてしまった。アメリカはソ連に負けたのである。
西暦1961年、米ソ宇宙開発競争のさなか、アメリカ合衆国大統領の
J.F.K(ジョン・F・ケネディ)は、
西暦1960年代に地球人類を月へ到着させると表明。
これにより、
『マーキュリー計画』は『アポロ計画』へと移行したのである。
この無謀とも言える挑戦に答えるため、250億ドルもの巨額な軍事費を計上し、40万人もの従業員を雇用(ピーク時)、サポート企業や大学は2万以上と言われている。
『アポロ計画』によって、
西暦1966年に
「アポロ1号」が無人飛行として飛び、その後、
2号、
3号・・・と続く。
『アポロ計画』における最初の有人宇宙飛行達成は、
「アポロ7号」によってもたらされた。この
7号は地球周回軌道上に11日間滞在したのだ。
そして、
西暦1968年、人類史上初の月周回軌道を成し遂げたのが、
「アポロ8号」である。この時、初めて外部の世界から人類が地球を見下ろしたことになる。そう、地球が月と同じように欠けて見えたのだ。
それから、
「アポロ9号」で有人地球周回、
「アポロ10号」で有人月軌道周回に成功。
時に、
西暦1969年7月16日、アメリカは、人類史上初となる月面への人類着陸そして地球への帰還を達成すべく、宇宙飛行士3名(
アームストロング船長&コリンズ司令船操縦士&オルドリン月着陸船操縦士)を乗せ、
「アポロ11号」は
「サターンV型ロケット」に乗っかり、
ケネディー宇宙センターから発射された。
そう、
月への距離は38万km宇宙キロもあるのだ。
その翌日の朝日新聞1面。
アポロ11号 軌道に乗る(月着陸へまっしぐら) の記事。
打ち上げから3日後の7月19日、
「アポロ11号」は地球から36万km宇宙キロの位置に到達。そこで、肉眼で見えるほど至近距離に
見知らぬ飛行物体を確認してしまう。地球との交信は
無線という極めて初歩的な通信手段であったが、この時、この
未確認飛行物体を地球に知らせると、宇宙人騒ぎが起きて、地球に帰還命令が下ると思い、報告しなかったらしい。
あの、未確認飛行物体は一体何だったのだろうか。。。?
西暦1969年7月20日、司令船
「コロンビア」から月着陸船
「イーグル」が切り離される。
「イーグル」には、
アームストロングと
オルドリンの2名が乗り込み、月面へ向かう。この
「イーグル」は、極限までの軽量化設計から、着陸船の壁は、なんと
アルミ箔2枚分の強度しかなく、さらには、訓練時から事故や故障が絶えず、非常に操縦し難い機体。また燃費も悪く、すぐに燃料切れになってしまう代物だった。
そんな着陸船で臨む月面着陸。
当時のアポロのコンピューターは、デジタル時計ほどの処理能力しかない、つまり、もっと判っり安くいうと、
ファミリーコンピューター(ファミコン)より、処理速度は1/10程、メモリ容量は1/100程しかなかったのだ。
たぶん、こんなポータブルゲームレベルのCPUだったのだろう。。それで月へ行ったのだから、信じられないのである。
そんな過酷な状況の中、目標地点もオーバーし操縦を半手動に切り替え何とか平らな月面へ着陸に成功。
燃料切れまで残り20秒ほどしかなかったのであった。
時に、
西暦1969年7月20日 20:17 月面着陸。
アームストロング船長が月に降り立ったのだ。
そう、
J.F.Kの公約を果たしたのだが、
1963年に没しておりケネディ本人は立ち会えていない。
そして、
アームストロング船長が歴史に残る名言を発する。
『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』 と。
そして、15分後、もう一人の飛行士
オルドリンも月に降り立つ。飛んだり跳ねたり(カンガルージャンプ)のシーンです。
その翌日の朝日新聞1面。
地球人 月を歩く の記事
2面。
この一歩 宇宙に新時代
3面。
14面。
今宵 月に人ふたり
少なくとも6000万人以上の人がテレビを見ていたらしい。
15面。
二人目は飛降りた
月面を歩いたり星条旗も立てる。月面での科学実験装置の展開や土壌サンプル採取などの予定されていた活動を全て終え、着陸船に戻った二人。
しばしの休息の後、
月面から離脱し地球へ帰還 という難関が待っていたのだ。
月からの脱出は、月着陸船の中心に設置されたロケットを噴出して、着陸船上部だけが、コリンズの待つ司令船
「コロンビア」に戻ることになっていた。しかし、このロケットも故障が多く、
正常に動くかどうかは五分五分だったのだ。この時のアメリカ合衆国大統領
ニクソンは、BADエンドのためのスピーチを用意していたほどであった。
発せられなかったスピーチは、
「月の調査に行った彼らは月の上で安らかな眠りにつく運命にあったのだろう」である。
さらに危機が。。
その
上昇用エンジンを起動させるブレーカー(ロケット点火)スイッチをなんとオルドリンが船内作業中に誤って壊してしまったのだ。
このままでは、点火ができない。飛行士たちは必至で探し回り、
1本のボールペンを発見。
彼らは、
ボールペンの先端でそのスイッチを押すことができたのだ。
もし、ボールペンがなかったら、彼らは、ニクソン大統領の予定スピーチの通りになっていたのである。
打ち上げから8日後の7月24日、アポロ最後の難関
「大気圏突入」。
突入角度が深ければ船は燃え尽き、浅すぎれば宇宙のかなたへはじき飛ばされてしまう。いよいよ大気圏に突入。4分間、通信が途絶える。
そして、・・・
パラシュートが開き、3人の飛行士たちを乗せた
「アポロ11号」は、
ハワイ沖に無事着水し、世界中の祝福を受けたのである。
1969年7月30日の朝日新聞 カラー特報(表)
歩き回った月の上
足跡がくっきりと月面に付いている。
1969年7月30日の朝日新聞 カラー特報(裏)
くっきりと足跡
1969年8月1日の朝日新聞1面。
月面作業の二飛行士
2面。
かろやかに月の作業
3面。
友よ、歩ける、とべる!
1969年8月15日 アサヒグラフ 緊急特別号
人類初の月着陸
中の記事を紹介しておこう。
1983年発行のNewton特別版
「宇宙を観る」の中にも。
月面を歩くオルドリン飛行士
どれを見ても、そう、
大地を踏みしめる足があったのだ。
宇宙戦艦ヤマトの
『ヤマトよ永遠に』で登場する、地球人よりはるかに高等生命体であって、暗黒星団帝国の情報・技術将校であった、そう、
「アルフォン少尉」は、死ぬ間際に名言を発している。(頭だけ本物の肉体で、あとは全て機械でなんでもできる、サイボーグなのだ)
「そうだ、地球にはまだ若々しい生命が満ち溢れている。我々が地球に来たのは、地球人の健全な肉体が欲しかったからだ、大地を踏みしめる足が欲しかったのだ・・・。」
こうやって振り返ると、
『宇宙戦艦ヤマト2199』の
『イズモ計画』から『ヤマト計画』への移行の原点は、『マーキュリー計画』から『アポロ計画』への移行にあったのかもしれない。
またしても、長ーーーーーいブログで ごめんなさい
子供の時から、宇宙に興味があったターキングでした。
「無限に広がる大宇宙」にはロマンがあるのです。(^^)v
閲覧頂き、ありがとうございました。(^_-)-☆
END
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Posted at
2012/06/20 00:03:31