2012年10月26日
えーと、マルクス経済学を見直して居ます。
そして、ウォルマート型のデフレに繋げようと思いますが。
じゃじゃじゃじゃ、ですね。
ウォルマート型のデフレとはまあYouTubeのサウスパーク ウォルマートで検索してくださいな。
過剰供給によるデフレではない形のデフレですね。
それで数理マルクス経済学は、アイデアとしてやはり面白いんじゃないかと思ったりします。
ここら辺の問題は、貨幣数量説と剰余価値からの予測が政府のニーズと一致しない事ですね。
概念の中心が需要/投下労働量というのは、まあ視点の問題もありますが、合ってるようにしか思えない。
結果論側の視点ですね。
マクロ経済学やマネタリストのニーズの問題は、これで産まれる剰余とやらが何なのか、どう貨幣数量説や金利と繋がるのかといったところで良いのかな。
というか、マルクスは先に史観の確認をしたいところもあるんですが。
でですね、(効率化による)慢性的な過剰供給は需要と物価を下方にシフトさせますよと、これが搾取と共産主義(資本主義の崩壊)に繋がるんだと、これはマルクスの史観です。
この理論付けには問題が大きくあったと言わざるをえませんが、宇野経済学なんかは視点をさらにマクロに広げて、総量的に破綻の無い世界を構築しています。
それでですね、マルクスの史観というのは、ウォルマート型のデフレじゃない。
ウォルマート型のデフレは情報の完全性の補完による、疑似完全競争です。
ウォルマート型のデフレは宇野経済学の、資本主義は差異によって利潤を生み出すシステムだという概念を、疑似完全競争が崩壊させた物と言えるでしょう。
つまり、視点が違うデフレ
差異の消滅による需要減からの慢性的な物価の低下と過剰供給です。
この疑似完全競争、凄く共産主義に近いんじゃないかなと思います。
この簡単なモデルは、スミスの経済史観である、見えざる手という契機から既に二つのベクトルとして取り上げていますね。
競争と生活水準のキャッチアップ、正と負のベクトルです。
でですね、利潤とは何なのかの大まかな予測が、ウォルマート型のデフレで解釈ができます。
というか、結論から勝手に出る私の予想ではインフレの残骸とどこかで書きました、大まかな答えというのは得てして当たるものです。
さて、完全競争というのは実に面白い世界です、先にこちらの紹介をしなければなりません。
Wikiから
『完全競争(かんぜんきょうそう,英: Perfect competition)とは、市場に多数の売り手と買い手がいるために、価格は均衡(市場の需給が一致する状態)の水準で決定され、どの需要者・供給者も、自分で価格を決定できないような経済状態のこと。このように価格を所与のものとして行動する経済主体を
プライス・テイカーという。 完全競争でない状況を、不完全競争と呼ぶ。このとき、市場には価格に影響を及ぼす経済主体が存在する。そのような経済主体を
プライス・メイカーと呼ぶ。
特に、完全競争の下で企業の生産量は利潤がゼロのとき効率的規模(平均総費用が最小となるときの生産量)と一致する。
完全競争の前提条件
完全競争が成立するには、以下の5つが成立しないといけない。
原子性:市場は小さな生産者と消費者がそれぞれ多数いて、それぞれの行動は大きな影響を他者に与えない。特に全ての会社がプライス・テイカーでなければならないことに注意。
均一性:すべての商品は同じ商品名である限りは完全に代替可能である。
完全情報:全ての会社と消費者はすべての商品の性質と価格を(他社のものまで)知っている。
平等なアクセス:全ての会社が製造技術へのアクセスを持ち、リソースや情報は完全に無料で移動可能である。
自由な参入:全ての会社が市場に自由に参入・退出できる。
そのような市場では、商品価格は一物一価となる。』
まあ、思考用の仮定世界なんですが、完全均衡による利潤0の世界です。
これをウォルマートが、疑似的に実行できていると私は予測します。
では利潤が0なのに、何故、疑似完全競争をしているウォルマートは巨額の利益を手にするのか?
これ財政政策があるからなんですよね。
基本的に利潤が0の世界というのは労働者が困ります、そして資本家が困ります。
これは、利用すべき利潤や余貯蓄つまり賃金の余裕が0だからなんですが
では利潤を出す前に、前の記事でやりました、貨幣の命題が出ます。
貨幣とはサービスの交換協定の触媒につかう政府のサービスである。
普通の経済では、この政府のサービスをニーズに合わせて民間が利用しています。
この民間が取り出したる貨幣の基準は、宇野経済学の経済史観そのままに、情報の不完全性などの差異、流通において生産と消費を包括したものなんですね。
そして余貯蓄もサービスの消費として入ってます。
貯蓄というのは、現代では退蔵にはなりにくい物です。
この余貯蓄も実は情報の不完全性による産物、つまり予測通りインフレの残骸といえる物なんですね。
ここで貨幣数量説と宇野経済学は需給曲線を経て繋がりを見せてきます。
その前に、おさらい
何故、ウォルマート型のデフレに陥るのかですね、
競争と生活水準のキャッチアップ、正と負のベクトルからすると単純に片方が無くなるからです。
その生活水準のキャッチアップベクトル側の中には、宇野経済学を含めた総括をすると、情報の不完全性などの対完全競争という話が入ってきます。
それは利潤の適正化とも呼べる物なのです。
まあ競争は否定してませんよ。
ベクトルとして両立させ利潤を成立させましょうねという話。

Posted at 2012/10/26 01:09:43 | |
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2012年10月23日
これ何回かやってますけど、貨幣の価値という命題ですね。
貨幣これなんぞやと。
一つは経済自体が、これサービスの交換協定ですから、
サービスの交換協定に必要な触媒なんですが
北朝鮮の記事でやりました、財政政策は他に優位性のある供給であると
つまり貨幣供給が政府のサービスとしても成立する。
ここら辺は、命題的に大きな意味を持つことなのかと思います。
全体的に見て、どう言うのが正しいのかなと、その上で初めて価値が測れるよねと、貨幣の価値を測る事が今回の目的。
さらに中世辺りでは、政情不安から、貨幣には貴金属をいれないと成立し難い物でしたよね。
じゃあ、貨幣を製造するもの、これはどこであるか、これも政府なんですよね。
ですから、貨幣やら通貨とは絶対的に、政府のサービスである事は間違いないんですよ。
まあ、金と引き換えが出来る兌換紙幣の歴史がある時点で安保問題が絡むというのは察し。
よく財源の無い財政政策が民間が負う借金だという見出しを拝見しますが、正確には薄まるが正しいですよね。
ですから、貨幣数量説辺りから引っ張って来れば
政府Aの貨幣サービス対政府Bの貨幣サービスで、その価値が決まってくる。
かつサービスの交換協定として需給曲線のシフト→賃金事情で決まってくると。
そして貨幣の流通事情から、他に優位性のある供給が黒字によって優先されて財を形成すると。
→基幹産業の話
これだけだと思うんですよねえ。

Posted at 2012/10/23 19:28:08 | |
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2012年10月22日
頑固というか、なんというか、
理論や思想や表層意識というのは、色んな根拠部分の劣化コピー&ペーストみたいなもんで、仏教みたいな話になりますが、それを我執とも言います。
理解に尽くすという方針を取って、色んな人と話すと、その劣化コピー&ペーストである我執、その傾向こそが人の話の比率で大きいんですよと思います。
ですから、自分は何も知らないんだと、理解に尽くす姿勢もありますが、まず、ご自身の立場を明確にしなさいと。
これが最近思う思考や議論の最低条件ですね。
この理解に尽くすという根拠は反証可能性の有無、科学哲学から、まあだらだらと長い話になりますが、誰の心(頭)にも論理が宿っていると
その上で、立場によるバイアスからは誰も逃れられないのだから、様々な根拠が、表層意識にたどり着くまでに、こんがらがりますし、根拠自体が違うときもある、さらに、整理する力が未熟な場合もある。
でも、その事を理解していれば、人の話の理解に尽くすという事は、訓練さえ積めば、そこまで難しくないんだと、思うところであります。
ここに我執と理性の境界があると、私は思います。
この理解に尽くす行為が、相手の理解に繋がらないところが、また人生の面白さでもありますが、
相手の話を整理して理解する、さらにその間違い探し。
ですから、当ブログでも紹介しています、どんなに下らないと思っても、
先に哲学者診断でもして、自らのバイアスに気づきなさいと。
http://www.visualecture.com/type/index.html
ですね。
我執で自らを迷わせないようにです、はい、細かい説教。
私はこういう小言が好きなんです(笑)

Posted at 2012/10/22 20:17:59 | |
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2012年10月18日
さて、経済学全般を需要に直して整理してみましたが、
最近の傾向として
今、反科学が流行ってるんだろうな、と思う節があります、それは人類に対する呪いでもあり、まあピーターの法則からすると多数はそんなもんだろうというブラックユーモアみたいな結論も出すことも出来ると思います。
※ピーターの法則
何故、世の中は無能で溢れるのか→壁に突き当たるまで出世するからというイグノーベル賞をもらった法則
経済学においては、論理学を無視した等号も理解出来ない主張が、特に顕著なのかなと感じます。
今、一部の現実からかけ離れた主張が科学により不信感を持たせる原因になっています。
では、肝心の科学の歴史はというと、キリスト教のバイアスから逃れるための欧州の科学者たちの必要とした実証主義への流れから、反証可能性の有無という科学の定義が生まれるまでと、中世の呪いからの解放が科学の道でした。
その流れは、結局はギリシャ哲学から派生した論理学に帰決します。
結果として、学問の論理学への帰決でまともな答えは極少数になるハズでした。
現代に呪いが巻き起こるまでは、ですね。
私が思うにこの呪いは人の意思であるという事。
我々は呪いに注意しなければなりません。
経済学でも同じ事。
答えは極少数しかないのに、都合の良い呪いで溢れています。
もし現代にも魔法があるなら、それは真理などではなく、こちらの呪いの方なんだと最近とみに思います。
まあこれが原理を知ると私にとっても都合の良い魔法でありまして(笑)
何かしら思い付きましたら、また書こうかなと思いますが、モデルの方が一度完成しましたということで、
ペースは落ちますよと、しておきます。

Posted at 2012/10/18 10:04:19 | |
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2012年10月11日
ガソリンを入れに行くとね、自分達で生産性を落とすために頑張る人達が居ましてね。
※まあ、定員がカード作れと言ってくるわけですよ
でですね、マーケティングも多少はかじってるので、生産性の上がる可能性は多少は残しますが、
あれただ人が余ってて、何となく目標を設定してるだけなんじゃなくて?
成果主義というのは、成果のベクトルが間違っていても、成果を求めます。
なんだかなあ、と思ったという話。

Posted at 2012/10/11 18:28:55 | |
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