2012年10月10日
バババと行きましょう。
新古典の需給曲線と限界効用を組み合わせまして、過剰供給が起こす、構造的なデフレ不況を、マクロ経済学上の負の需要の拡大として簡単に定義しました。
そのプロセスの一部である、『効率化』に集中して取り組んだのが、マルクスです。
効率化すれば、慢性的な過剰供給になるよね、新古典からの知識からして、需要が無くなっていくよねと。
→資本論での予想
一方、アダムスミスの自由放任は、物価を労働者の裁定に任せる事で功利主義によって見えざる手が働くよと言っています。
こちらは、企業化によって、労働者による物価の裁定、見えざる手が働かなくなるという予想でもあります。
これらと一線を画するのが、バブル理論。
木下栄蔵さんの負の経済圏も引用しましょう、利潤のデリバティブの成長と崩壊です。
この突発的に起こるバブルの穴埋めにはケインズの需要理論を
デフレ不況への問題提議は大きく分けて、この3つにわかれています。
デフレの理由でよく言われる選好率以前に、明確化された、経験則が多すぎると思いますけどね(笑)
これ出すのはグローバリゼーションの言い訳と違うのかと。
マルクス経済学の欠点は、消失する需要の代替案を、財政や、昔ながらの供給統制、アダムスミスの見えざる手にではなく、労働者による資本家への革命とした点だと私は思います。
まあ、最終的に彼がどんな経済圏を目指したかは知りませんが。
それでも失った需要の分、お金が資本家に移ると予想した所は立派。
利潤は空から降ってこないんだと、この点が貨幣中立説に則してます。
※何気にケインズの小文と一致
ここから大きな命題にまとめて、彼は資本家による利潤の搾取が起こると予想しました。
この予想の基礎理論が、
利潤の傾向的低下の法則です。
そして、効率化に従って起こるハズの同法則を覆すのが、破壊的創造、イノベーション理論だと、後のシュンペーターが主張しました。
ケインズの需要理論は、失った需要を財政政策によって、埋め合わせるという物。※利潤の埋め合わせと不良債権の処理
最近の経済が修正資本主義と呼ばれてる時点で、マルクス経済学がそこまで傍流ではないことも注目です。
では、マルクス経済学とケインズのマクロ経済学、枠組みとしての差違は何なのか。
これ、自分達がと言わなければ、あんまり差違は見当たらないんですよね。
論点が対立してないから。
利潤の傾向的低下の法則は財政政策をやめたら観測出来るでしょね、くらい
ここから提議された他の命題の方も興味があります。
両者が指摘しています、貨幣中立説的な問題からくる、後の自由資本問題。
それによって成立する搾取問題も取り扱った方が良いのかなと、そう思います。。
それでも、デフレ不況はデフレ不況。
『手遅れじゃないなら』供給調整くらい取り扱った方が良い世の中ですね。

Posted at 2012/10/10 23:46:33 | |
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2012年10月10日
さて、限界効用と利潤の関係をやりましょうか。
これは、極端に言えば、過剰供給による物価の低下により、利潤、生産性が赤字になるという物。
※農業、漁業の世界
この赤字をマクロ経済学に組み込むならどうしましょうねと。
伝統的な需給曲線に組み込むなら、限界効用のラインを需給曲線に設け、限界効用を越えた供給が物価の低下を経て需要を下方にシフトさせるという物。
当然考えられる、超簡単なアイデアですね。
※フリードマンの問題視する長期的な不況のモデルと酷似するハズです。
需給曲線上にラインがどこにも見当たりませんが。(笑)
これが需給曲線で簡単に指摘できる欠点です。
新古典なら新古典らしく限界効用を組み込もうよ。
ままま、過剰供給はアイデアとしては当然ありましたから、この供給を絞る政策は、世界恐慌で古典派の主張からやったそうですが、当時問題になったのは、虚業を起点にした金足らず、つまり、不良債権の増大による機能不全と雇用不足でした。
それを供給をごちゃまぜにして、供給側を削っちゃったんですね。
結果、悪化。
供給制限は平時にやろうよ(笑)
この出来事は経済の可逆性の問題を含んでいて面白いかと思います。
※シフトが戻らない
その後政府は財政政策で、需要を穴埋め。
インフレで不良債権が処理されサービス業が回り始めて回復します。
で、供給制限自体珍しい話で無いし、主な失敗例として上げられる世界恐慌は論点がずれてたという話ですね。
珍しくないというのは、カツオ(何でもいいんですよ?)を出荷制限したり、キャベツを潰したりです。
この利潤(生産性)の赤字をマクロ経済学で計上するのは少し難しいし、フローにすると、赤字はどこにいれるんだという話。
まあ難しい話ではないんですよね。
加算が出来るんですから、減算も出来ます。
この加算とは例えば財政政策。
当ブログの立場は一貫して、取り合えず需要に直しましょうね、効果は他で考えるとして、整地して考えましょうね、ですから、財政政策を需要だとして、そのまんま反転、波及と乗数効果で、一部の過剰供給によるデフレが経験則通り、不況の原因となる事を予想します。
※需給曲線+限界効用
というか、これがかつて欧州で繰り返されてきたデフレ不況でしょう、普通に考えて。
※縮小は、赤字の応用。
実は不況じゃなかったんだよじゃあ、マルクス経済学の生まれて来た前提が無いわけですから。
さて、ケインズ式の需要理論と需給曲線及び限界効用を組み合わせ利潤の赤字→デフレ不況を予想しましたが、マルクスは、この利潤の赤字を効率化のプロセスを抜き出して面白い解釈をしましたね。
次あたりは、そこら辺の需要理論とマルクス経済学のカイ離から利潤の傾向的低下の再定義に向けて、考えてみましょうか。
※デフレに対する見えざる手の長期的な機能不全は、産業単位の慢性的な過剰供給の話になると思いますが次回で。

Posted at 2012/10/10 19:05:37 | |
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2012年10月09日
えーと、今、利潤が一応面白い。
利潤率というのは、マルクス経済学の定義なのかな。
マクロ経済学では、労働生産性。
申し訳程度に定義したのか何のか、細かい背景が見つからないと統計学の定義なんてのはゴミみたいな価値になると思うんですけどね。
背景が簡単に見つからないんですが、今度探してみましょうか。
私は、貨幣の中立性から、マクロ経済学の中で利潤は、貨幣の退蔵ですとしました。
これは貨幣の中立性からの観点で、マルクス経済学の考えである、剰余価値がフロー上で定義出来ないからだと思うんですけど、どうなんでしょうかね。
ですから、利潤というのは、一般的な経済学には出てきません。
マクロ経済学では、生産性と付加価値は、何だかよく解らないけど、右肩上がりで増えていくもんなんだというもの。
これ、現実には則してません。
資本主義というのはデフレ不況で大なり小なり破綻をむかえる物だからです。
では、有名な話
ジョセフ・E・スティグリッツさんの紹介です。
ケインジアンなんですが、貨幣の中立性を無視しています、他の話はすこぶる真っ当。
例の如くWikiから
『経済学への貢献
スティグリッツの著名な業績は、ある経済主体が他方の私的情報を得るために使用される技術であるスクリーニングに関する業績である。情報の非対称性の理論に対する貢献により2001年、ジョージ・アカロフ、マイケル・スペンスと共にノーベル経済学賞を受賞した。
さらに、研究面で数多くの優れた論文を書くだけにとどまらず、自ら経済政策を遂行する立場にもなった。2000年7月、スティグリッツは発展途上国が政策を模索することを助け、より多くの市民が経済政策に参加できるようにすることを目的として、コロンビア大学にInitiative for Policy Dialogueを共同設立した。
また、スティグリッツは、数学的手法を使わずに東欧の社会主義体制が失敗した背景や、市場における不完全情報の機能、「自由な市場」が資本家にとって実際はどのようなシステムなのかというテーマに関する見解を記した。
2003年には1990年代の好景気とその崩壊を分析した"The Roaring Nineties"(邦題:人間が幸福になる経済とは何か――世界が90年代の失敗から学んだこと)と"New Paradigm for Monetary Economics"(邦題:新しい金融論――信用と情報の経済学)を出版した。日本がバブル崩壊後にから10年以上も
名目GDPの成長不全やデフレーションに陥っていることを指摘し、その状態から経済を好転させるために財政赤字を紙幣増刷によってファイナンスすることを提言している
。新しく刷られたお金を人々が持てばそれらの人々のいくらかが財やサービスの消費にお金をまわそうとするだろうし、銀行など金融機関が貸し出しを増やし景気を刺激するからである。これはいわば政府が発行する紙幣、すなわち
政府紙幣
のことである。これは無利子国債を中央銀行が買い取ることと実質等しい。2005年
には"Fair Trade for All"を出版し、2006年の夏には"Making Globalization Work The Next Steps to Social Justice"(邦題:世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す)を出版した。
単純な貨幣数量説に従ったマネタリズムには根拠となる理論がなく一部の実証分析があるだけとして批判しており、コストプッシュ・インフレに対して利上げで対応するような機械的に行う
インフレターゲティングには批判的な立場をとっている』
マネタリズム以外に対しては私と同一見解。
マネタリズムよる解決策は中世の貨幣の総量による、経済的な縛りを、当時の人がどう抜け出したかです。
財政政策に偏れば、ケインズの指摘通り国家主義が蔓延する契機になるし、金の行く先が問題になるしで、健全ではなく、やはり録な事にならないだろう、こちらが私の見解。
アダムスミスの言う通り、市場原理である価格の調整力を強化しろ、というのが私の主張ですからね。
これが投入する財の価値、即ち労働価値によって生産される財の価値が決まる→価値の調整には労働者による、価格の裁定が必要→脱企業化と情報の徹底化となります。
スティグリッツさんは良いことを言っているのでさらに紹介
『IMF批判
2002年にはGlobalization and Its Discontents(邦題:世界を不幸にしたグローバリズムの正体)を書き、その中で彼は、グローバリゼーションの必要性は認めた上、反グローバリゼーションはむしろ
ワシントン・コンセンサスへの反対を示すものと見ている。その上、いわゆる東アジアの奇跡は、最小政府を志向するワシントン・コンセンサスに従わなかったからこそ実現したものとしており、ワシントン・コンセンサスに対する疑問を呈している。また同書では
IMF批判が展開されており、IMFの推し進めた資本市場の自由化は、アメリカの金融セクターのために広範な市場を開拓した反面、その本来の使命であるはずのグローバルな経済の安定には寄与しなかったものとしている。またIMFをG7の債権国の代理者と位置づけており、貧しい国々が貧しいままであるような制度設計をしたアメリカ合衆国の金融セクターに対する不満を表した。
その一方で、IMFと表だって対立はしないもののIMFの方針に全面的に従うということもせず独自の発展政策を採っている
ポーランドなどの国々の成功事例を挙げている(のちにIMFにはリーマン・ショック直後の2008年11月からポーランドから元首相の
マレク・ベルカが転身し、2010年6月にポーランド国立銀行総裁として本国に戻るまで欧州局長を務めることになるが、この期間ベルカは国際的な資本移動に関してIMFの公式
ブログサイト「iMF Direct」上で最近のIMF内部のマネタリズムの風潮とはかなり異なる、ケインズやスティグリッツと同様の見解を精力的に披露している
)。この本の中で、なぜグローバリゼーションがシアトルやジェノヴァのようなWTOへの抗議活動を発生させたかに関するいくつかの理由を示した。この本は世界で100万部以上売れ、30ヶ国語以上に翻訳された。』
グローバリゼーションを推し進めるWTOという枠組みに問題があると指摘しています。
まあ、どう考えるかは自由なので放置。
さて、前の記事で書きました、カツオだったかの出荷制限です。
これは、過剰供給では、限界効用と需給曲線に従って、利潤がマイナスに反転するというもの。
マクロ経済学の生産性は右肩上がりなんだと仮定した問題点を上手く表せるかと思います。
これがおそらくマルクスの書きたかった、利潤率の傾向的低下に繋がるのではないかとも期待。
ここら辺をテーマにやってみましょうか。

Posted at 2012/10/09 20:32:02 | |
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2012年10月08日
最近、殊更に思うのが、人の思考は、評価方法に左右されるとい物。
評価方法とその規準に、人の行動が左右されるなんて、ちょっとバカらしい話に聞こえるかもしれませんが、
哲学的には、自己と世界の境目が、評価方法によるバイアスを逃れられないとかで、方向的には合ってる気がします。
この評価方法の主流が、科学に見られる、論理哲学からの実証主義だったりするのかなあと、思ったりしてたんですが
大多数は、パーソナリティなりアイデンティティなりをベースにした、自己に都合の良い評価方法を取っているものです。
ご存知、功利主義にも繋がる話ですね。
ここら辺の話を一度しておきたいなあと、常々思っていたので、今日はそんな話。
私は、論理哲学だけは、ほぼ完全といえる程度で扱えます。
まあ、スイッチのオンオフだけの話ですので、特に難しい話でもなく、個人的に時間がかかるのはご愛敬。
この論理哲学を扱っていると、大抵の言葉は立体である事に気づきます。
例えば雪の中に入る定義は様々な物があり、客観的な定義だけでも立体になると、そんな所。
とある言葉の定義の全体を、論理で整地すると構造体になる。
別段珍しくもない話なのかもしれませんが、こういう評価方法って大事なんじゃないかなと思います。
全体をフローにして、欠落部分に気づかない人を、時おり見かけるものですから。
功利主義だけでなく、解りやすく構造体にしたらどうなのかなあと。
それで、構造体として話すとですね、前提としては意外と受け入れて貰える事が多いんです。
その後で訳の解らない主張で否定される事は、多々ありますが、
大抵の事象は破綻の無い構造体になるんじゃないかなあと
常々思うんですよね。
これは論理を使えば当たり前の事なんですが、ベクトル別のオンオフが論理じゃないですか。
構造体にならない理由が解らないんですよね。
定義付けから厳密な論理ベースの議論なんて最近はした覚えが無いんですが、
なんにつけても答えなんて、そこら辺に転がってる構造体のオマージュでしか無いんじゃないかなと。
まあ、科学史を知ってれば、その多角的なアプローチ方法のテクニックから、他の分野への応用の話になるんですが、
どうにもマニアックな話だからなあ。
まあ、自分の評価方法を知っていて損は無いんじゃない?
以上です。

Posted at 2012/10/08 18:41:43 | |
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2012年10月07日
左翼のトレンド思考というのは、規準がよく解らないという話題です。
その規準は左翼思想を基盤に育ったハズの私からも、不可解な結論を多く産み出します。
その原因が何なのか、よく疑問に駆られますが
接してみると、いくつかの層が存在するようで、
・本来の自由思想を廃した反体制のアナーキズムの亜種というトレンド
・自嘲をトレンドとしてマジョリティと解釈する文学派
特にこの二つが目立つのかなと感じます。
その前に、権利云々の話。
政治思想を語る前に
http://www.visualecture.com/type/index.html
自分の考えが、どの属派に入るのか、その理由が何なのか、自分の個性を理解しないと、他人の考えを理解する事は出来ませんよという物。
左翼思想の中での矛盾を見ると、どうもそれを通り越してるように見えるという話。
まあでも、権利が全てに先立つと理解出来るのかなーという話も多々あります。
その中で、私みたいなのが特に解釈に苦しむのが「ファッション左翼」。
最近知った言葉なんですが、団塊世代の呪いでもあります。
70ー80年代の遺物だそうで、ニヒルな俺、反体制の俺格好良い、という思想のファッション化が現代に残ってるという物。
そのトレンドの主流が先に紹介した反体制と自嘲のマジョリティ化です。
実際こういう例をネットでは良く見るんです、
訳の解らない自嘲を理屈に組み込んで、マジョリティの意見として扱い、反論をうけると、自信があるのはマジョリティではないよと。
こういう流れ(笑)
もしくは、反体制なら、何の自由だか解らない自由を原理において、反論をうけると、自由じゃないのは民主主義じゃない。
マニアックで文化的、トレンドとして扱わないと、ああ君は「違う」のね、と。
そこに理屈は無いんです。
もう本当にこういうのは出会うと気持ち悪い。
ただネットとしては、使い方は間違ってなかったりしますが(笑)
このようなファッション左翼が、左翼の一端だということは、全体の評価としてもったいないのかなと思います。
少子化の中で、こういう政治的なボトルネックを内包していく社会は先々危ういんじゃないかとね、危惧してしまいます。
その最たる例が大手のマスメディアなんですから。
まあ、政治思想なんてのもファッションと変わらないんですよね(笑)

Posted at 2012/10/07 13:55:16 | |
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