前回の続き。
運命が善いの惡いのと云つて、女々しい泣事を列べつゝ、他人の同情を買はんとするが如き形迹を示す者は、庸劣凡下(ぼんげ)の徒の事である。苟も英雄の氣象あり、豪傑の骨頭あるものは、『大丈夫命を造るべし、命を言ふべからず』と豪語して、自ら大斧を揮ひ、巨鑿を使つて、我が運命を刻み出して然る可きなのである。徒らに賣卜者、觀相者、推命者流の言の如き、『運命前定説』の捕虜となつて、そして好運の我に與(く)みせざるを歎ずるといふが如きことは爲すべからざる筈である。
およそ世の中に、運命が自己の生誕の日の十干十二支や、九宮二十八宿やなんぞによつて前定して居るものと信じたり、又は自己の有して居る骨格や血色やなんぞに因つて前定して居るものと信じて、そして自己の好運ならざるを歎ずる者ほど、悲しむ可き不幸の人は無い。何故となれば、其の如き薄弱貧小な意氣や感情や思想は、直に是れ否運を招き致し、好運を疎隔するに相當するところのもので有るからである。生れた年月や、おのづからなる面貌やが、眞に其人の運命に關するか關せぬかは別問題としても、然樣(さう)いふことに頭を惱ましたり心を苦しめたりするといふことが、既に餘り感心せぬことである。
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2012/01/18 18:50:03