もう少しやります。幸田露伴の『努力論』です。
若し運命といふものが無いならば、人の未來はすべて數學的に測知し得べきもので、三々が九となり、五々が二十五となるが如く、明白に今日の行爲をもつて明日の結果を知り得べきである。併し人事は複雜で、世相は紛糾して居るから、容易に同一行爲が同一結果に到達するとは云へぬ。そこで何人の頭にも運命といふやうなものが、朧氣に意識されて、そして其の運命なるものが、偉大の力を以て吾人を支配するかのやうに思はれるのである。某(ぼう)は運命の寵兒であつて、某は運命の虐待を被つて居るやうに見えるといふことがある。自己一身にしても或時は運命の順潮に舟を行(や)つて快を得、或時は運命の逆風に帆を下して踟するやうに見えるといふことがある。そこで『運命』『運命』といふ語は、容易ならぬ權威のある語として、吾人の耳に響き、胸に徹するのである。
但し聰明な觀察者となり得ぬまでも、注意深き觀察者となつて、世間の實際を見渡したならば、吾人は忽ちにして一の大なる急所を見出すことが出來るで有らう。それは世上の成功者は、皆自己の意志や、智慮や、勤勉や、仁徳の力によつて自己の好結果を收め得たことを信じて居り、そして失敗者は皆自己の罪では無いが、運命の然らしめたが爲に失敗の苦境に陷つたことを歎じて居るといふ事實である。即ち成功者は自己の力として運命を解釋し、失敗者は運命の力として自己を解釋して居るのである。
此の兩個の相反對して居る見解は、其の何(ど)の一方が正しくて、何の一方が正しからざるかは知らぬが、互に自ら欺いて居る見解で無いには相違無い。成功者には自己の力が大に見え、失敗者には運命の力が大に見えるに相違無い。
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2012/01/18 18:53:04