
最初に、私の趣味が電気からモータースポーツへと変わった事をお伝えします。
私の中学生時代は鉱石ラジオ、4球真空管ラジオ、5球スーパーヘテロダインそしてプラモデル等の製作が趣味でした。この頃は真空管の全盛期です。
テレビは白黒でこの様な形をしていました。映像は加山雄三さんです。

モータースポーツに関心を持ち始めた切っ掛けは、1969年日本グランプリをテレビで見た時からです。このレースでは日産R382が優勝。

その後、レース関係のテレビ、映画、AUTO SPORT誌は殆ど見ました。
(AUTO SPORTは非常に長い歴史を持った雑誌です。)
映画は1971年放映『栄光のル・マン』1969年放映『レーサー』他に『フォーミュラ1』等。
(数年前テレビで放映されたものをDVD-R化しました。)

自動2輪の免許を取得するまでは自転車で日産プリンス販売店巡り、スカイラインとレースに関する景品を沢山もらった。記憶にあるのはCMソングのソノシートを頂いたことです。
ソノシートって分かりますか?
学校卒業後、日産へ入社、その当時の日産ワークス『特殊車両部・第1特殊車両課』に配属。
オイルショックの時期でワークス活動は中止。
でも開発は続けていました。日産追浜で製作し「辻本レーシング」でエントリー、
ドライバーは高橋国光さん、北野元さん、長谷見昌弘さん

KPB210レース車以外には、F10レース車、KP710ラリー車、PA10ラリー車、
KP710&PA10シルエットフォーミュラの開発をしていました。
1978年8月に有給休暇で欧州旅行に出かける。ル・マンサーキット、モナコF1市街地コース、
モンツァサーキット、ホッケンハイムサーキットを見学、モンツァは走行も出来ました。
写真はル・マンサーキット、撮影日は1978円8月10日

横にいるのは、現在もスウェーデン在住の姉です。

その後の開発車は、S110ラリー車、NISSAN 240RSラリー車、P910ラリー車、P910国内ラリー車、
R30シルエットフォーミュラ、グループC。
1985年8月にNISMOへ出向。
グループC、グループA、WD21パリ・ダカールラリー車、S12ラリー車、国内ラリー車、
マーチ・スパーターボレース車、N13ストリート用チューンアップ等の開発を担当。
1986年ル・マン24時間レース参戦。
この時のグループCはマーチのシャシを使用していたので、日本のレース終了後、英国マーチ社へ空輸。作業はマーチ社内で実施。
マーチエンジニアリング社前で記念撮影。

英国シルバーストーンサーキットでチェック走行後、フランスのル・マン入り。
この頃のル・マンは、ミュルサンヌ・ストレートにシケイン無し、
ミュルサンヌ・ストレート後の直角コーナー内側にサインボードエリアが有りました。
サインボードエリアは、1m30cm高さのコンクリートブロック上でサインボード(照明付き)提示、
内側に小屋があり、ピットとの連絡用に電話がありました。
(現在はピット前でサインボード提示へと変わっています。)
予選中86Gニチラ車がガス欠の為、サインボードエリア前で停車。
私は予選終了後オフィシャルカーに牽引されてですが、ピット迄86Gを私が運転しました。

結果は皆さんご存知の通り、85Gアマダ車が日本車唯一の完走を果たしました。
初参戦で総合16位。
最後のほうはブローバイガス噴出が多く、かなりペースダウンしました。
数年後にグループC専用エンジン、専用ギアボックス、専用シャシ開発へとなりました。
ローマは1日にしてはならず、ル・マンも同じです。
今年優勝のアウディをサポートしたのはル・マンを知り尽くしている「ヨースト・レーシング」でした。
「ヨースト・レーシング」は過去にポルシェ、アウディをサポート、総合優勝13回の実績があります。
今回、日産、トヨタが久々の参戦、マツダもディーゼルエンジンで参戦表明、1年だけで終わらず長く参戦して欲しいものです。
また日産には賞典外カテゴリー参加ではなく、同一カテゴリーで総合優勝を目指していただきたい。
長くなりました。最後まで見て頂き、有難う御座いました。