昨日みた夢はこうです。私は進学を目指して隣接市の学習塾に通うことになりました。塾長は初老でやや背の高い眼鏡の男性です。塾内の試験を通じて実力upを図るんだそうです。私はここにバイクで通おうか考えています。今日みた夢はこうです。下大槻の
秦高西側を東名高速道路に沿って歩き、鳥居松橋方面へ向かっているようです。しかし丘頂との比高が現実よりも低く、流水のない川床が底に南北に通っています。私はその東側の細い道を歩き、橋を渡り、西側に行き、鳥居松橋の方へ向かいました。その行程は繰り返され、道を覚えている筈が、鳥居松橋方面とは逆の東側へ来たようで、
東海大学国際交流会館(通称外人センター)が遠くにみえます。それから秦野市街地に行ったようです。
まず昨日の夢です。学習塾の件の原因は、
南陽堂で購入した、
アテネ『鳩山家の勉強法』(
ごま書房、1996年)の影響だと思います。購入動機は他に目を引く本がなかったからにすぎませんが、少しだけ鳩山家に興味がありました。勿論、鳩山家と私はほぼ無関係ですが、私の師匠の内2人の師匠の師匠の師匠あるいはもう一人の師匠の師匠の師匠の師匠の師匠が鳩山秀夫博士(1884年-1946年)なのです。おじいさん師匠の時点で面識ないのですから、ここまで来ると限りなく無関係ですし、民法学研究者の系譜を辿ればかなり多くの先生が鳩山博士に遡るはずなので、別に何でもないことです。塾長の風体はこの本の著者が旧制中学校ご出身だったことに因ります。1996年時点だと夢見のような感じかな、と思いました。バイクの件は、普通二輪免許(小型限定)にちょっと関心があったことに因ります。中型自動車免許保持者は取得が容易みたいですね。郵便局勤務時代、といっても年賀状とかの配達ですが、配達用バイクには原付と小型二輪があり、後者に乗れずに悔しい思いをしたのです。当時、中免(今は自動車免許をさすらしい)とるとかいってましたがね、取らずじまい。それで嘘ついちゃったりして・・それで「夢よ!(今更何の?) もう一度」ってところですね。
次に今日の夢です。現実と地形が相当違いますが、その近辺を歩いた体験は7月26日です。
岩井戸横穴墓群調査、
広畑古墳群調査に行きました。結局、前者は数基発見しましたが、後者は発見できませんでした。場所的には下大槻団地2街区西端、秦高近くのはずで探索している内に夢見近辺を歩いたのです。一部、秦高東側にあると、市史に書いてあるのでもう一度、調査する動機がなくもないのですが、地元人の私が全く見当つかないのでとっくに覆滅しているかもしれませんし、冬にならないと草木が繁茂して調査しにくいので、積極的に行く動機もないのです。それにもかかわらず、こういう夢見になったのは以上が気になっていることと、
1日の夢見で下大槻の夢見をみたせいかと思います。
ところで1947年(昭和22年)に現行制度になる前の旧制中学校は1872年(明治5年)の学制に始まり、1886年(明治19年)に尋常と高等の2段階とされました。そして1894年(明治27年)に高等が旧制高等学校となりました。内村鑑三(1861年-1930年)の不敬事件は1890年(明治23年)、第一高等中学校で起こった事件ですから、当時はまだ旧々制中学校時代ですね。そして尋常の方が通常いうところの旧制中学校になったのです。これは5年制の男子を対象とした中等教育機関で、義務制ではありません。旧制中学校は1943年(昭和18年)、中等学校令によって4年に短縮され、終戦後に再び5年制に復帰しました。1947年には現行中学校が創設されるので、旧制中学校の多くは次のような移行措置をとりました。まず1947年(昭和22年)度募集をやめ、その時点の1年生と2年生は4月から過渡的に設置された併設中学校に新2年生、3年生として収容し、彼らの卒業と同時に併設中学は廃校とし、旧制中学校の大部分は現行高等学校となりました 。
人生色々ですが、確か私が初めてアルバイトをした16歳。目的は刀匠になる修行のための資金集めと確か中免取得資金獲得だった気がします。前者はつまりアパートとか借りるための資金です。結果としては三重県津市で飛び込み就職してからアパートを借りたことは
麗夢の夢で前述しましたが(無期限非公開中)、元の計画はアパートを借りてから職探しするつもりでした。でも世の中そう甘くないのです。職をまず決めないと、部屋を貸してくれなかったのです。後者は実現しなかったんです。いやまだ実現していないんです。しかしなあ、今更実現させる意味は何だろう?
Posted at 2012/11/04 16:44:14 | |
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