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池田雄二のブログ一覧

2013年07月27日 イイね!

1906年フランスのゼネスト

 フランスにおけるストライキ運動は1880年から飛躍した。そして1906年にゼネラル・ストライキに一つの到達点をみる。ただそれまでのストライキにも幾つかの波や特徴がある。
 1893年にストライキの波があった。このストライキは一つの分岐点を示している。このストライキの中心には熟練労働者が位置している。しかしこのストライキ以後、彼らは相対的重要性を失ってゆく。まだ全国的組織による運動全体の調整は存在していない。
 1899年から1900年にも波があった。この時は近代的大量生産工業と第3次産業が初めてストライキ運動の主導的産業となった。ただし1893年と同じく全国的に調整された運動ではない。
 1906年のストライキは、その件数が1354件、ストライキ参加者は43万7800名であった。これはそれ以前の全ての年よりも上回っていた。この参加者の記録は1919年まで破られなかった。ただこのストライキの画期的な特徴は件数や参加者にあるのではない。前もって準備され、初めて中央組織が地方組織の行動を領導した運動だったことに特徴がある。この年のストライキこそがパリ所在の中央組織による全国運動の指導を定著させた。また農業労働者を含むあらゆる部門の労働者が同時参加し、パリの自動車工業も初めてストライキ参加者を出したという特徴もある。
 ただこの年のストライキは社会革命が近いと信じた個々の無名活動家、つまり革命的サンディカリストによって生み出され、社会革命を実現させるためのゼネストとして捉えられた側面もあることが指摘されている[1]。


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[1]原輝史編『フランス経営史』(有斐閣、1980年)235-237頁(木下賢一執筆)。
Posted at 2013/07/27 23:29:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2013年07月26日 イイね!

オート=マルヌ県のフロンクル工場の展開

 19世紀後半、オート=マルヌ県はロレーヌ製鋼業と生産された鉄鋼消費地であるパリの中間地にあるという利点を活かして錬鉄、鉄鋼の一次加工へと特化したことについては19世紀後半のオート=マルヌ県の製鉄業の項で前述した。そしてフロンクル製鉄所はそうした工場の一例である。
 フロンクル製鉄所はフロンクル村にある。1757年に領主ド・ピムーダンDe Pimoudinが近隣諸村の製鉄業の繁栄をみて鉄板工場を建設したことに始まる。
 1775年に高炉建設が許可されて本格的な製鉄所になった。
 1788年には高炉1、製錬炉2、熟錬労働者7名を雇用していた。
 革命期に入ると、ド・ピムーダンは亡命したので、工場は政府により没収・売却され、所有者を転々としたが、帝政期に一度繁栄を取り戻した。
 しかし1814年には戦禍に巻き込まれて工場は荒廃し、高炉の火も消えた。
 平和が戻ると、工場は再度発展し、1835年に全高炉が再点火された。経営者はルイ・ド・ボルカーズLouis de Bonnecazeである。当時の労働者は16名で錠前製造用の引当版を制作していた。
 10年後に労働者数は3倍になった。ただしパドル炉は導入しなかった。19世紀前半のオート=マルヌ県の製鉄業の項で前述したように木炭錬鉄の方がパドル炉錬鉄よりも品質が良いからである。
 1847年からの不況では工場は苦境に陥り、1856年には労働者が4名になった。同年に息子のテレフTélèpheが工場を引き継ぎ、鉄道開通を機に工場を大改造して鉄板を大量生産することを企図した。
 1858年末にはパドル炉2と蒸気機関が稼働した。また融資を受けて工場を拡大した。
 1864年には木炭使用を廃止した。この事件の設備はパドル炉4、蒸気ハンマー1、圧延機3、蒸気機関2。労働者は70名である。
 しかし融資返済は困難でテレフは1870年に破産した。そして工場は債権者ド・ヴァルシュズネーDe valsuzenayの手に渡った。
 新経営者の下での工場は軌道に乗り、1881年時点では160名の労働者がスコップ、すきべら、座金[1]等を製造していた。その後もガスタンクや炭水車等も制作し続けた。
 1907年に株式会社となり、鉄板製造の最新技術も導入し、発展し続けた。そして1929年にシトロエン傘下に入り、その後も同県有数の鉄工所として存続し続けた[2]。


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[1]「座金」は「ざがね」。ボルトを締めるとき、ナットの下に挟む薄い金属板。
[2]原輝史編『フランス経営史』(有斐閣、1980年)211-212頁(中島俊克執筆)。
Posted at 2013/07/26 00:14:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 経済 | クルマ
2013年07月13日 イイね!

戦中戦後のルノー-ルノー国有化

 ルノーは恐慌期には軍需をえるための軍部への陳情も積極的に行ったは恐慌期のルノーの項で前述した。占領下フランスでは、第2次大戦を企業拡張の好機と考えたのであろうが、ドイツ軍に協力し、製品販路を確保した。
 しかし1944年8月25日のパリ解放後はこのドイツ軍への協力が裏目にでた。ルノーは私企業としての生命を奪われた。
 ルノー工場の国有化に関する1945年1月16日のオルドナンスOrdonnance n°45-68 du 16 janvier 1945〔RELATIVE A?〕NATIONALISATION DES USINES RENAULTは、ルノー工場の全資産および負債を国家に全面的に委譲し、この解散されたルノーの経営のために公団Régie Nationaleが設立された。
 その後ルノー公団はめざましい発展を遂げ、1973年には141万台の生産台数と140億フランの純売上高を記録し、プジョーの71万台を大きく引き離し、フランス第1位の自動車企業へと成長した。ルノー公団はヨーロッパ中でのフォルクスワーゲン、フィアットの次ぐ第3位の地位を占め、全世界で8位の自動車企業に成長した[1]。


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[1]原輝史編『フランス経営史』(有斐閣、1980年)82頁(原執筆)。図は95-97頁。
Posted at 2013/07/13 23:06:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 経済 | クルマ
2013年07月07日 イイね!

恐慌期のルノー

 ルノーは1907年と1920から1921年、それと1929年からの恐慌を体験している。しかしルノーは恐慌に対して強い抵抗力を発揮した。
 1929年のフランス全体の自動車生産台数は25万4000台。これが1935年には16万5000台に急減した。しかし同時期のルノーの生産台数は5万4000台から5万8000台と増加している。
 また1929年のフランス自動車企業数は90社を数えたが、1935年には28社に減少した。この中で3大自動車企業であるルノー、シトロエン、プジョーの寡占体制が成立した。そのシェアは1929年に65%。1936年には75%に達した。この中でルノーのシェアは順調に拡大し、1930年の20.3%から1933年の26.4%を経て、1935年には35.1%に増大した。
 この頃のルノーの経営政策は以下の通りであった。
 まず第1に、製造原価の切り下げ。具体的には労務費や家族手当の廃止。
 第2に販売条件の改善。これはシトロエンの例を参考にし、1929年の販売部門合理化の後に実行された。具体的には販売価格の切り下げ、製品の多角化。後者は具体的には戦車、貨物自動車、航空エンジン、ジーゼル・エンジンバス等も製造し、軍需をえるための軍部への陳情も積極的に行った。
 第3に、株主配当の廃止。
 第4に、信用販売の極度の制限。
 以上の経営政策によりルノーは恐慌を乗り切った。この恐慌期間、1930年と1932年8月には工場閉鎖を余儀なくされている。また1934年には労働時間を30時間に短縮しなければならなかった。そして恐慌期にもかかわらず、工場労働者は1929年の2万4000人から1935年の3万2600人へと増加している。このことは恐慌後も拡張路線として継承された[1]。
ただし軍部への協力は後にルノーの国有化を招く。

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[1]原輝史編『フランス経営史』(有斐閣、1980年)82頁(原執筆)。図は91-92頁第3表より。
Posted at 2013/07/07 19:19:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 経済 | クルマ
2013年07月06日 イイね!

ルノーの発展-1904年以後

 ルノーは3人の創業者、ルイ、マルセル、フェルナンの内、マルセルが1903年に死去した後も飛躍的発展を続けた。
 例えば、1905年にフランス・タクシー会社Cie Française des Automobiles de Placeの注文を引き受け、自動車生産台数は1908年までに3倍になった。
 しかし1909年、営業部門を担当していたフェルナンが長い病床生活の末、死去した。
 こして二人の兄を失ったルイの双肩に経営の全責任が担われた。そしてその後も順調な発展を遂げた。
 例えば、国内の販売体制も整備されてゆく。
 1910年には東部自動車販売会社Société de l’Est Automobileが設立された。
 1911年にはボルドー中央販売会社Société Centrale de Bordeauxが設立された。
 海外進出も積極的に進められた。例えば、1914年にはロシア進出が開始され、ペトログラード等に工場が建設され、ロシア・ルノー会社が創設された。
 この間の成長は以下に図示する通りである[1]。



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[1]原輝史編『フランス経営史』(有斐閣、1980年)82頁(原執筆)。図は83頁第3表より。なお1903年以前についてはルノーの発展-マルセル死去までの項
Posted at 2013/07/06 20:52:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 経済 | 日記

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