いかんなぁ、HONDAやSUBARUについて書き始めると止まらなくなる。(汗)
やっぱり、若かりし頃に夢中になった車、そしてメーカーなので、思う事はたくさんある。(あり過ぎる程)
昨日のブログも、書いているうちに書き過ぎてしまい、どうやって話を纏めていけば良いのか分からなくなってしまいました。
元々、駄文ばかりのブログですが、さらに纏まりを欠いた文章になってしまい、申し訳ありませんでした。
と言う訳で、本日のブログもホンダネタです。(←全然 懲りてない💦)
昨日のブログはホンダ(本田技研工業)について書いていたのですが、気が付いたら本田宗一郎についても書き始めていて、その分を端折って本日のブログに回しました。
今回、一連のホンダネタブログを書き始める発端になったプロジェクトXの中で、本田宗一郎の事を
“技術の神様”みたいに言っていましたが、私は決してそんな事は無いと思っています。
番組内で、ゲストの元エンジニアが
「神様は、人、殴りませんよねぇ」と言っていましたが(笑)、そういう意味じゃありません。
天才肌ではありましたが、宗一郎は 高等小学校を卒業後に自動車修理工場「アート商会」に入社、言ってみれば
丁稚奉公でした。
そこから技術を習得していったので、宗一郎の知識は
学問として習得した訳ではなく、実務で習得したものであり、
技術者というよりも職人と言った方が良いものだと思うのです。
ホンダにとってのブレイクスルーの多くは、学問として知識を身に着けた者によって行われました。
ホンダのバイクは、他メーカーよりも
4ストロークエンジンを好みましたが、それは
河島喜好(2代目社長)によってもたらされました。
ホンダ初の本格的なバイクであるドリーム号ですが、当初は2ストロークエンジンを搭載していました。
この2ストエンジンが評判が悪く、焼きつくだの、走らないだの、すぐ壊れるだの、クレームの嵐だったそうです。
ホンダのブランド価値は地に落ち、最初の経営危機を迎えます。
そんな頃、河島さんが、4ストに半信半疑だった宗一郎を説得する為に、当時は長い急勾配ではオーバーヒートするため一気に登れないのが当たり前だった山道を、自ら乗って休むこと無く登り切って宗一郎を驚かせたそうです。
そうして生み出された、ホンダ初の4ストロークエンジンを搭載したオートバイ
「ホンダドリームE型」は大ヒットとなりました。
まぁ、品質問題はまだ抱えていた様で、経営危機を脱する為のブランドイメージ向上策として、マン島TTレース挑戦へと繋がっていくのですが……
そして、何度も触れている
空冷vs水冷論争です。
宗一郎は空冷に信念を持っていた様で、開発を担っていた若手エンジニアたちを悩ませ、足を引っ張りました。(汗)
第1期ホンダF1は、1968年を
水冷V12エンジンを搭載した
RA301で戦います。
しかし、宗一郎が空冷エンジンの開発を指示した為、開発リソースが
空冷V8エンジンを搭載する
RA302の方にも割かれてしまいます。
当時、水冷エンジンを担当していた川本さん(
川本信彦 4代目社長)は、空冷エンジンも手掛けなければならず「戦いに挑む時に両面作戦というのは絶対に駄目ですね。1点集中で行かなきゃ勝てっこない」と後に言っていました。
RA302は、本来のワークスチームとは別枠でレースに参戦しますが、デビュー戦でクラッシュ、ドライバーが事故死をしていて、レースを走ったのはこの一戦のみに留まりました。
結局、空冷F1エンジンはモノにならず、多くのリソースを空冷エンジン開発に割いた為、ワークスチーム側の開発も滞り、この年で第1期ホンダF1は撤退となりました。
空冷vs水冷論争は市販車でも勃発していたのは既に前ブログに書いた通りで、宗一郎が推していた
空冷エンジンを搭載した
ホンダ1300がコケて、
久米是志(3代目社長)ら若手が推した
水冷&環境エンジン CVCCを搭載した
シビックが大ヒットしました。
現在のアメリカでのホンダ人気は、このシビックが無ければ有り得ませんから、考え様によってはホンダの4輪事業を生んだのは本田宗一郎ではないとも言えるかもしれません。
第1期ホンダF1のチーム監督であり、市販車の開発責任者でもあった
中村良夫氏は「結局、本田社長は
もっとも基本的な熱力学の物理法則を理解していないので、いくら言っても論争がかみ合わないのです」、「人間としては尊敬できるが、
技術者としては尊敬できない」という言葉を残しています。
黎明期はともかく、世界のホンダになるには、町の修理工場の親父レベルでは無理があったんですよね。
宗一郎が技術力でホンダを引っ張って行ったわけではないのですが、今まで名前が出てきた、その技術力でホンダを引っ張って来た若手エンジニアが、宗一郎をオヤジと親しみを込めて呼び、付き従い、時には否定し(笑)、本田技研工業を
“世界のホンダ”にしていったのです。
本田宗一郎氏がホンダに遺したもの、それは技術ではなく、思想だったのではないでしょうか?
ホンダのスタートは、自転車にエンジンを付けただけのバイクでした。
そもそも、最初に売り出した
“バタバタ”は、自前のエンジンではなく、陸軍が使用していた無線発電用エンジンを使っていたんですから。
技術が云々ではなく、ガソリンが満足に手に入らない時代に、ガソリン消費が少なく、自転車に在り物のエンジンを取り付けるだけの安価な商品を庶民に提供する、この延長線には世界一売れている2輪車
“スーパーカブ”にも受け継がれているでしょう。
安価な商品を庶民に提供するという意味では、大ヒットとなった
“N360”もそうでしょう。
そして、その思想は
“歴代シビック”にも息づいていると思います。
(宗一郎が推したのは、シビックじゃなくて 空冷のホンダ1300の方でしたけどね)
ただ、その思想が新しいシビックにも息づいているかと言うと……
だいぶ立派になりましたねぇ。
他にも、
レースはホンダのDNAだというのに、F1から撤退してしまいます。
今頃、本田宗一郎が
「一度始めた事を、簡単にやめるんじゃない!」って言って、怒ってるんじゃないですかね。
「人真似をするな」についても、最近のホンダ車はどこかで見たような車になっちゃっている気がします。
“CXハリアー”と揶揄されたヴェゼル。
アルファード路線に走ったオデッセイ。
かつてストリームのコンセプトをトヨタ(ウィッシュ)にパクられた時、CMで「ポリシーはあるか」と訴えたホンダが、今はパクる側ですか?
イカン、話が逸れた。(汗)
技術では若手エンジニアに敵わなくなってからも、思想や人柄でホンダを引っ張り、社長の座を降りてからも、その思想は本田技研工業に脈々と受け継がれていったのでした。
1987年 CIVIC新車発表会にて(左から久米是志社長、河島喜好前社長、そして本田宗一郎)
社長を退任し、現役を退いた後も、数ヶ月は会社に行って車を走らせていたそうです。
いつまでも技術者でいたかったんでしょうね。
その後、宗一郎は、全国のHondaディーラー店へ3年掛けて御礼参りの旅に出ることにしました。
とあるディーラーで、整備担当者と握手をしようとしましたが、自分の手が油だらけな事に気付いた整備担当者が手を洗いに行こうとします。
しかし、技術者でもあった宗一郎は
「その油まみれの手がいいんじゃないか」と言って、その場で握手したのです。
ただ、この技術者気質は、引退後も周囲の人間を困らせました。
皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際、
「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言って、その服装で出席しようとしたのです。
天皇陛下に拝謁するにあたって、ツナギって……。(汗)
さすがにこれは周囲に止められ、最終的には社員が持っていた燕尾服を借りて出席しましたけどね。
第1期F1の中村監督が「人間としては尊敬できるが、技術者としては尊敬できない」と言っていましたが、逆に言うと技術的に対立していたとしても
“人間としては尊敬できる”存在、それが本田宗一郎だったのです。
偉人、立志伝中の人といった感じで、外部の人間には雲の上の人の様にも思えますが、ホンダの人たちには『愛すべきオヤジ』だったのでしょうね。
天皇陛下にツナギ姿で会おうとする、困ったオヤジですが……。(爆)
本田宗一郎
(1906年11月17日 - 1991年8月5日)
1922年(大正11年) 東京市本郷区(現・東京都文京区)の自動車修理工場「アート商会」に入社
1928年(昭和3年) アート商会から のれん分けの形で浜松市に支店を設立して独立
1937年(昭和12年) 東海精機重工業株式会社(現・東海精機株式会社)を設立し、社長に就任
1945年(昭和20年) 所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社
1946年(昭和21年) 浜松市に本田技術研究所を設立
1948年(昭和23年) 本田技研工業株式会社を浜松に設立
1973年(昭和48年) 本田技研工業社長を退く
1981年(昭和56年) 勲一等瑞宝章を受章
1983年(昭和58年) 取締役も退く(終身最高顧問となる)
1989年(平成元年) アジア人初の米自動車殿堂入りを果たす
1991年(平成3年) 8月5日、順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去、享年84歳