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タケラッタのブログ一覧

2021年08月20日 イイね!

日本の自動車メーカーの沿革(いすゞ・日野編)

日本の自動車メーカーの沿革(いすゞ・日野編)昨日のブログで最終回のつもりでしたが、まだ残っているメーカーが有る事に気が付きました。


それは……


いすゞと日野です。


今はトラック専業メーカーとなっている両社ですが、かつては乗用車を作っていました。


と言う訳で、いすゞと日野の沿革について触れてみたいと思います。





前述の通り、現在はトラック専業メーカーとなっているいすゞですが、かつては乗用車も生産していました。


それどころか、戦前はトヨタ、日産と共に「御三家」と言われていた程、日本の自動車メーカーの中でも有力なメーカだったのです。


設立は1929年と古く、東京石川島造船所の自動車部門が独立し、株式会社石川島自動車製作所となったのですが、Wikipediaでは 1916年に東京石川島造船所自動車部門が出来た事を設立と記していました。


ちなみに、東京石川島造船所とは、後の石川島播磨重工業、現在のIHIです。


当時のいすゞは……というか、戦前の日本のメーカーで乗用車を生産するところなど殆どなく、主にトラック、バスを生産していました。





なお、戦後の1949年に 社名を現在のいすゞ自動車株式会社に変更しますが、その前に他のメーカーとの合併を経験しています。


その他メーカーと言うのがダット自動車製造株式会社なのですが、実はこのダット自動車製造は、日産のルーツでもあるのです。


「えっ、日産編ではそんなこと言ってなかったよね?」


すみません、あの時は「日本産業」側から見た事しか書いていませんでした。


ダット自動車製造株式会社について書くと、1911年に橋本増治郎が設立した快進社は、1914年に完成した自動車に、支援者の田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字を取ってDATと名付けました。


1926年にダット自動車製造株式会社に社名を変更すると、1930年に完成した小型車に「DATの息子」を意味するDATSONと名付けようとします。


ただ、ローマ字読みすると「SON」は損になる為、DATSUNになりました。





このダット自動車製造が、日産やいすゞとどう関わっているかですが、いすゞ側としては 1933年にダット自動車製造株式会社と合併、つまり いすゞのもう一つのルーツである会社です。


では、日産側はというと、日産の創業者である鮎川義介が、旧ダット自動車の小型車部門の譲渡を、技術者移籍や 商標「ダットサン」の譲受を含めて自動車工業(後のいすゞ)に懇請、いすゞ側は、大型車(トラック、バス)以外は不要と考え、これを受諾。譲渡された小型車部門が日産コンツェルンの自動車部門として日産自動車となったのでした。





さて、いすゞに話を戻しましょうか。


戦後になると、英国ルーツ社のヒルマン・ミンクスをノックダウン生産します。




乗用車生産のノウハウを得たいすゞは、1962年にベレル、1963年にベレットといういすゞ独自開発の車の生産を開始。




1967年にはフローリアン、1968年には117クーペの生産も始まりました。




ただ、乗用車部門は決して上手くいっているとはいえず、その結果、1971年にGMと資本提携を結ぶ事になります。


1974年にはGMのグローバルカー構想によるTカー、オペル・カデットをベースにした初代ジェミニが登場。




しかし、その後もいすゞの乗用車は商業的に成功とは言えず、1993年にRVのビッグホーンを除く乗用車生産から撤退、2002年には RVを含めた乗用車事業から完全撤退しました。




資本関係では、1971年にGMと資本提携してからはずっとGMグループに属していましたが、SUBARU編でも述べた様に、GMの経営危機で 2006年にいすゞ株も全株式が売却されました。


一時期、SUBARUと同様 トヨタがいすゞ株購入を引き受け、資本提携していた時期がありますが、傘下にトラック専業メーカーの日野自動車を持つことから 一旦は提携を解消しました。(ただ、今年の3月に、また資本提携するって発表されましたね)


なお、いすゞは、かつて日産系列のトラック専業メーカーだったUDトラック(かつての日産ディーゼル)を子会社化しています。





うーん、いすゞの話でこんなに書くとは思わなかったぞ!?


続いては日野自動車です。


日野に関しては、私が自動車に興味を持つ頃には既にトラック専業メーカーになっていた為、日野自動車に関する知識は、本社が東京都日野市にある事、ルノーのノックダウン生産や、自社開発したコンテッサの事以外の知識がありません。


なので、ほぼ Wikipediaのお世話になる事になります。(汗)


日野自動車の母体はというと……何々? 東京瓦斯電気工業株式会社!?


マジかっ、全然自動車と関係ないじゃん!(まぁ、マツダのコルクメーカーよりはマシかな?)


1930年代には、大型車両生産を強化するという国策により、東京瓦斯電気工業株式会社の自動車部が、他メーカーと合併してヂーゼル自動車工業を設立すると……えっ、現・いすゞ自動車!? マジデスカ?


その後、戦時体制下の国策により、ヂーゼル自動車工業の特殊車両製造部門である日野製造所が分離独立させられ、日野自動車の元となる日野重工業が設立され、九七式中戦車などの軍需車両の製造を行わせた……国策に翻弄されてますね。





戦後は、1953年にルノー・4CVのノックダウン生産を行います。




前述の様に、いすゞもヒルマン・ミンクスのノックダウン生産で乗用車生産を開始、日産もオースチンのノックダウン生産をしていましたし、ノックダウン生産は安直に技術を習得できる道だったのですよね。


その後、日野は自社開発の乗用車 コンテッサを発売します。




ただ、いすゞもそうだったように、日野が得意だったのは大型車(トラック・バス)だった為、乗用車生産は商業的には上手くいかず、1967年にコンテッサの生産を終了させると、以後はトラック専業メーカーとなったのでした。





資本関係では、トヨタが株式の過半数を持つ子会社であり、トヨタグループのトラック専業メーカーという立ち位置となっています。


いすゞのところでも少し触れましたが、今年の3月にトヨタ、いすゞ、日野の3社で CASEに関する新会社を設立、トヨタグループの日野はもちろんですが、いすゞもトヨタと接近している印象です。



ただ、このCASEに関する新会社には、7月にスズキとダイハツも加わったんだよなぁ。


SUBARUもトヨタの持分法適用会社になっているし、マツダも資本関係こそないが結構トヨタと近い感じです。


こうして見ると、ホンダと、ルノー系列の日産&三菱以外は、全社トヨタ陣営になっちゃった感じですねぇ。


昔は、日本には11社も自動車メーカーがあり、世界一過酷な市場でし烈な競争が繰り広げられたからこそ、そこで鍛えられた日本車は高品質になったって言われていたんだけど……変われば変わるもんですね。





今回は、“会社”としての歴史について書いてみましたが、“歴代車種”にスポットを当てた『日本の自動車メーカーの興亡史』なるブログも書いているので、よろしかったらそちらもご覧ください。

日本の自動車メーカーの興亡史 その1 … トヨタ、日産、ホンダ
日本の自動車メーカーの興亡史 その2 … マツダ、スバル
日本の自動車メーカーの興亡史 その3 … 三菱、スズキ、ダイハツ、いすゞ
Posted at 2021/08/21 02:14:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年08月19日 イイね!

日本の自動車メーカーの沿革(SUBARU・ダイハツ編)

日本の自動車メーカーの沿革(SUBARU・ダイハツ編)一昨日、日産・三菱編として日本の自動車メーカーの沿革を書きましたが、今回は残りのメーカーです。


とは言っても、残りのメーカーってどこがあったっけ?(汗)


元々が、ホンダネタのブログの時にトヨタについて問われたのが切っ掛けで、その後、トヨタ、マツダ、スズキについて書きました。


そして、前回が 日産と三菱(オマケでプリンス)。


いくら自動車メーカーが多い日本とは言え、残っているメーカーはそんなに残ってないよねぇ。


残っているのは、SUBARU、ダイハツくらいかな?





株式会社SUBARUは、2017年に社名を変更するまでは「富士重工業株式会社」でした。


“重工業”を名乗っているくらいなので、航空宇宙部門など 自動車以外の部門もあるのですが、売り上げの殆どはスバルブランドの自動車が占めていました。


そんなSUBARU(富士重工業)の発祥はというと、旧中島飛行機であり、今は無きプリンス自動車のルーツの1つである「富士精密工業」と同様、GHQにより中島飛行機(敗戦後、富士産業と改称)が財閥解体の対象となった為に生まれたのでした。


名機「隼」を作った中島飛行機だけに、戦闘機に比べれば自動車なんて技術的には大した事は無い……しかし、問題は資金でした。


1954年2月、後に「スバル1500」と名付けられる試作車 P1が完成します。




P1は、1.5ℓで48馬力、6人乗りで最高速度が100キロと、翌年に発売されるトヨタのトヨペットクラウンとほぼ同じスペックの車でした。


しかし、P1が発売される事はありませんでした。


P1、いや スバル1500を発売するには銀行からの支援が必要、しかしメインバンクの日本興業銀行がスバル1500の発売を許さなかったのです。


何しろ、富士重工の歴代社長は興銀出身者であり、富士重工の事を『興銀自動車部』と呼ぶ者もいたくらいでした。


「日産があれば富士重工はいらない」


興銀の判断によって、クラウン以上の車を開発したのに、その車を発売することが出来なかったのです。


その後、通産省の国民車構想が明らかになり、富士重工は再び自動車開発にチャレンジします。


しかし、国民車構想は絵空事に近く、実現不可能と思われました。


それを実際に開発し、スバル360を販売してしまったのですから、富士重工の技術力が如何に高かったのかが分かります。






その後、富士重工は日産と資本提携します。


前述の通り、メインバンクが同じ日本興業銀行だったからこその提携でしたが、富士重工の水平対向エンジン&縦置きFFの車と日産の車との間には共用化できる部品も少なく(レオーネ4WDのプロペラシャフトにブルーバードのドライブシャフトを使ったくらい?)、両社にとっては上手く生かし切れていない提携でした。


しかし、バブル崩壊によって日産自動車が経営不振に陥ると、日産自動車は保有する富士重工業株を売却、全株式をGMが購入します。


ただ、今度はGMの業績悪化で、再び富士重工株が売却されます。


この時、GMが売却した株式を引き受けたのがトヨタだったのですが、GMが保有していたのは富士重工株の20%、しかしトヨタが購入したのは8.7%でした。


当時のトヨタは、既にダイハツや日野自動車を傘下に収めており、さらに富士重工まで傘下に収めると独禁法とか色々とややこしい事になる可能性もありました。


それでもトヨタが株購入を引き受けた理由は、「株購入による富士重工支援」だけではなく、「株を売却するGMへの支援」の意味合いもあり、さらには「防衛部門を持つ富士重工を外資ファンドから守る」という日本政府からの働きかけもあったようです。


その後トヨタは富士重工(SUBARU)への出資比率を高めていき、今では20%となり持分法適用会社となりました。


しかし、トヨタが富士重工に出資する際には、「トヨタにはならないでください」と言われ、提携後もSUBARUらしい車造りを行っています。


もちろん、86/BRZ等の共同開発車もあり、トヨタとの提携は多くの実を結んでいます。



これぞ、Win-Winの関係でしょうね。


なお、関連会社にはトヨタ出身の人材を社長に据える事の多いトヨタですが、SUBARUの社長はSUBARU(富士重工)生え抜きの社長が続いています。





やべ、書き過ぎた。(汗)


お次はダイハツです。


ダイハツは、実は日本の自動車メーカーとしては最も古い歴史を持つ会社です。


1907年、大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)の研究者を中心に「発動機製造株式会社」が設立され、日本初となる国産エンジンを発明。


1919年には純国産エンジンを搭載する軍用自動車を試作、1930年にオート三輪「ダイハツ號(号)HA型」を開発し本格的に自動車業界に参入しました。


現在の社名「ダイハツ工業株式会社」は、1951年に変更されたもので「阪の動機」から来ています。




ダイハツの主力商品は、暫くはオート3輪のミゼットでした。




ダイハツも4輪市場への参戦を目指し、コンパーノを開発します。




しかし、同時期にダイハツ同様に3輪から4輪市場を目指したマツダ、2輪から4輪市場を目指したホンダ同様、通産省から難色を示されました。


さらには、上記のマツダのロータリーエンジンや、ホンダのF1などのスポーツイメージのような特徴の無かったダイハツにとって、新規顧客を獲得するのは容易ではありませんでした。


結局、ダイハツは 1967年にトヨタと業務提携を結びます。


プリンスの様に吸収合併されるわけではなく、また同時期にトヨタ傘下入りした日野と違って対等な関係でした。


しかし、トヨタ提携後に登場した登録車は、パブリカベースのコンソルテや、カローラベースのシャルマンなど、ダイハツ独自の車ではありませんでした。


1977年にダイハツ独自開発のシャレードが登場しますが、4代続いたシャレードの後継者としてストーリアが登場したあたりから、トヨタの最廉価モデルとしての意味合いもある車になってしまいました。



まあ、本家ダイハツディーラーで販売される台数の数倍をトヨタディーラーで販売されるのですから、そういう車作りになってしまうのも仕方が無いのかもしれませんが、ダイハツならスズキのスイフトのような車が作れるんじゃないかとも思うのですがねぇ。(まあ、最近のロッキー/ライズ、トール/ルーミーの売り上げを見ていると、単に安いだけの車ではないのでしょうけど)


勿論、ダイハツの主力車種は軽自動車であり、こちらはダイハツ渾身の車作りとなっております。




トヨタの最廉価モデルの開発を担う会社となったダイハツ。


会社としても、1998年にトヨタが株式を51.2%取得し、トヨタの連結子会社となり、2016年には100%子会社になりました。


もし、SUBARUやマツダがトヨタの100%子会社になったら、それを嘆くファンが多いと思いますが、ダイハツは……


まあ、ダイハツは堅実な会社ではありますが、派手さも無く熱狂的なファンもいない会社でしたからねぇ。(シャレードが商業的にもう少し成功していたら、流れも変わっていたのでしょうけどね)
Posted at 2021/08/20 04:21:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年08月17日 イイね!

日本の自動車メーカーの沿革(日産・三菱編)

日本の自動車メーカーの沿革(日産・三菱編)昨日のブログで、日本の自動車メーカーのうち、同族経営の会社について書きました。


それは、トヨタ自動車 についてブログを書く為の、プロローグの様なものだったのですが、同族経営以外の会社について触れないのも何なので、トヨタ自動車編の本編に入る前に、残りの会社の沿革について触れておこうと思います。





日産自動車と言えば、長らくトヨタ自動車のライバル関係にあった会社です。


タケラッタの様なオッサンは、トヨタと日産が2大メーカーだった頃を知っているのですが、今の若い人には想像もつかないかもしれませんね。


日産(日本産業株式会社)の創業者は鮎川義介であり、発祥は 経営危機の他財閥を引き継いだ日産コンツェルン(鮎川財閥と呼ぶこともある)であり、日本鉱業(ジャパンエナジー → 現在は ENEOSに統合)が源流会社と言えます。


日産コンツェルンには、上記の日本鉱業以外にも、日立製作所を始めとした日立系の会社が名を連ねていましたが、戦後の財閥解体後は、源流会社の日本鉱業も日産の名を継がず、自動車製造部門のみが“日産”の名を継ぎました。


一応、かつての同門という事で、『日産・日立グループ』という枠組みと、グループ会社の社長会『春光会』というものがあるようですが、余程 経済界に詳しくないと知らないでしょうね。





話を日産自動車に限定すると……日産の名を継いだ日産自動車でも、創業者一族の鮎川家の存在は感じられません。


むしろ、日産と言うと「労使闘争」のイメージで、社長よりも労組のトップの方が力を持ってるんじゃ……なんて時期もありました。


特に9代目社長の川又克二の時は労組側の塩路一郎と癒着、塩路の専用車はプレジデント、品川区に7LDKの自宅、自家用ヨットを所有し、日産社内では「塩路天皇」と呼ばれていました。(ヨット……確かレバノン人も豪華ヨットを所有していたよね)


もう、この頃から上層部が会社を食い物にする“文化”が日産にはあったんですねぇ。


11代目社長の石原俊は、川又ー塩路ラインを突き崩す為に、まず会長だった川又を相談役に退け、塩路委員長の女性問題や ヨット所有などの豪華すぎる生活をリークさせ、塩路を役職から退かせたのです。


日産自動車の創立50周年パーティーで握手する(右から)自動車労連会長の塩路一郎、会長の川又克二、社長の石原俊(肩書はいずれも当時)


んー、この辺も「ゴーンを売った」事に繋がってる気がする。


日産の経営陣って、ドロドロとした感じが拭えませんわ。(汗)





お次は、日産傘下となった三菱自動車です。


その名の通り、本来は三菱財閥の自動車メーカーです。


三菱財閥自体は、土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会が発祥であり、三井、住友とともに三大財閥と言われていますが、その殆どの会社に“三菱”の名を名乗り、最も結束力が強い財閥という印象です。(逆に、メガバンクで“三井”と“住友”がくっついた時は、とても驚きました)


ちなみに、三井系の自動車メーカーがトヨタで、住友系の自動車メーカーがマツダです。(ホンダは三菱銀行と関係が深いが、それは単なるメインバンク)




さて、三菱自動車に話を絞ると、1970年に三菱重工業から独立した会社であり、三菱自動車自体に創業者がいる訳ではありません。


ちなみに、初代ギャラン(コルト・ギャラン)が発表された1969年は、まだ三菱自動車ではなく三菱重工でした。




三菱重工と言えば、ロケットや戦闘機を作っている会社であり、天下の三菱系の会社という事もあり、恐らくエンジニアの学歴に関しては自動車メーカーの中でもトップクラスだった筈です。


ただ、“親方日の丸”ではありませんが、三菱の旗の元、安定というぬるま湯に油断があったのでしょうか、2度のリコール隠しや、軽自動車の燃費偽装などで、ユーザーの信用失墜を経験。


2度のリコール隠しの時はオール三菱で三菱自動車の経営再建にあたりましたが、軽自動車の燃費偽装では、不正発覚後も国交省の指導した方法を用いず不正な方法で燃費測定し続けていたことが明らかになると、遂に三菱グループも支えきれなくなり、日産の軍門に下る事になりました。




三菱の社長と言うと、上の写真の益子修氏くらいしか思い浮かびません。


2005年に、前年に発覚した2度目のリコール隠しの影響でどん底の三菱自動車の社長になったので、それはそれは大変だったとは思いますが、益子氏の代で三菱を代表する殆どのモデル(コルト、ランサー/ランエボ、ギャラン、ディアマンテ、パジェロ、etc...)が生産中止、または 生産中止の決定がなされました。


売れない車種の整理は致し方ないとは思いますが、売れる車にするために努力はしたのですかね?


名門、三菱自動車は、今は見る影もありません。


“三菱”の誇りを持っていた筈の歴代社長は、今の三菱自動車をどう思っていますかね?(ちなみに、三菱自動車の社長の学歴を見たら、2代目から8代目まで東大、もしくは 京大でした。さすが三菱!)





えー、日産・三菱編ではありますが、もう一社の沿革を最後に記します。


それは……


プリンス自動車です。


1966年に日産自動車に吸収合併された、今は無き自動車メーカーですが、それだけではなく、結構な変遷を辿っているので、詳しく知っている人は少ないでしょう。(かく言う私も Wikiのお世話にならないと分からないし……)


創業当時は、電気自動車の生産から始めた様です。




石川島飛行機製作所を前身とする会社は、「東京電気自動車」、「たま電気自動車」、「たま自動車」と数年おきに社名を変更、1952年(昭和27年)にプリンス自動車工業株式会社となります。


その後、中島飛行機系の企業である「富士精密工業」と1954年に合併、但し、この合併では富士精密を存続会社としたので、一旦“プリンス”の名は消えます。


1961年に富士精密工業株式会社がプリンス自動車工業株式会社に社名を変更、“プリンス”の名が復活します。


そして、1964年の第2回日本グランプリで、スカイラインが 一瞬ではありましたがポルシェ904の前を走ったことで、スカイラインは伝説となったのです。





1966年、プリンス自動車は日産自動車に吸収され、メーカーとしてのプリンスは消滅します。(販売会社としては、今でも『日産プリンス○○販売』という会社があります)


1968年に発表されたスカイラインは、プリンス自動車で開発されていたものの、登場時は 日産・スカイラインとして発表されたのでした。







今回のブログでは、日産 及び 日産と関係のある 3社の沿革について纏めてみました。


いずれの会社も、経営は上手くいっていないんですよねぇ。(プリンスに至っては、会社が消滅)


やっぱ、同族経営の方がいいのかねぇ?
Posted at 2021/08/18 00:29:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年08月16日 イイね!

日本の自動車メーカーと同族経営

日本の自動車メーカーと同族経営えー、今回のネタをブログに書こうと思ったのは、一ヶ月前にホンダ(本田技研工業、及び 本田宗一郎)について書いた時に頂いたコメントに、『トヨタって親族経営なんですね』というコメントを頂いた事がきっかけでした。


って言うか、「一ヶ月も放置してたのかよっ!」て言われそうですが……。(汗)





本田技研工業の創業者が本田宗一郎であり、それ故“本田”の名前が会社名となっている訳ですが、同じ事がトヨタにも言えます。


現在、トヨタの社長を務める豊田章男氏は、トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎の孫であり、章男氏の父親である豊田章一郎氏だけではなく、歴代社長には、豊田英二豊田達郎など、豊田家から多くの社長が出ています。


もっとも、章一郎氏の弟、達郎氏が社長を退任した後は、奥田碩氏、張富士夫氏、渡辺捷昭氏と、豊田家以外の社長が続きましたけどね。


トヨタ自動車、及び、豊田家に関するストーリーは、とても一回のブログには収まらないので、また改めて別の回で書こうと思います。





ホンダ、トヨタと共に、創業者の名前を冠した自動車メーカーは他にもあります。


マツダ、そして スズキです。


マツダに関しては、ロータリーエンジンについて書いた時に若干触れていますが、ロータリーエンジン開発を決意したのが当時の松田恒次社長であり、実質的な創業者である 松田重次郎の長男でした。


社長在任中に死去した恒次氏の後任には、恒次の長男である松田耕平氏が社長に就任します。


耕平氏は、ファミリア、カペラ、ルーチェといった主力車種に次々とロータリーエンジンを搭載しますが、これがオイルショックでは災いし、経営状態が悪化。


銀行主導での経営再建を目指す事となり、耕平氏は代表権を有しない会長に退きました。


その後も販売店の5チャンネル化がバブル崩壊では災いし、再び(三度くらいかな?)経営状態が悪化してフォード傘下になったり、リーマンショックで親会社であるフォード自身が経営危機となり、半ば見捨てられるようにフォード傘下を離れたりと、激動の経営状態が続きましたが、松田家から社長が出る事はありませんでした。


ちなみに、マツダの旧社名は東洋工業ですが、1920年の創業時は自動車メーカーではなく“コルク”を生産する会社で、創業時の社名は「東洋コルク工業株式会社」でした。





ホンダもマツダも、今は同族経営とは言えませんが、今でも同族経営となっているメーカーがスズキです。


つまり、この2人は両者(両社)同族経営をしている会社の社長っていう訳です。




スズキの発祥は1909年の「鈴木式織機製作所」で、トヨタと同様、織機のメーカーでした。


創業者である鈴木道雄氏が、自動2輪や、軽4輪のスズライトを導入、社名が「鈴木自動車工業」となります。


2代目社長は道雄氏の長女婿養子である鈴木俊三氏、3代目社長は道雄氏の三女婿養子である鈴木實治郎氏が就任。


そして、1978年に俊三氏の長女婿養子である鈴木修氏が4代目社長に就任します。(創業家だけど、婿養子ばっかだねぇ)


5代目、6代目(社名がスズキになってからだと、それぞれ2代目、3代目)は創業家以外の社長となりましたが、7代目社長は修氏の長女婿の小野浩孝氏が社長に就任……の筈だったのですが、小野氏が病死した事で、2008年に当時78歳の修氏が社長に復帰したのでした。


結局、修氏は今年の6月まで会長職を務めていました。(1930年1月30日生まれなので91歳! お疲れ様でした)


なお、社長職は2015年に長男の鈴木俊宏氏が8代目社長に就任しています。





よく、同族経営の会社に関して「3代目が会社を潰す」って言われますが、トヨタやスズキに関しては、潰すどころか、さらに会社を大きくしている感じですね。


この2社を見ていると、むしろ同族経営の方が良いのではないかとさえ思ってしまいます。


とはいえ、マツダの例もあるからねぇ……。(汗)
Posted at 2021/08/17 00:19:59 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年08月13日 イイね!

続・水平対向エンジンの話

続・水平対向エンジンの話昨日のブログで水平対向エンジンについて書きましたが、本日のネタも水平対向エンジンについてです。


前ブログでフォルクスワーゲン・ビートル誕生から始まった“水平対向エンジンの歴史”的な事を書きました。


“続” と付けるからには、前ブログで紹介した車以外の話題にしないといけないのですが……


皆さんはそれ以外(・・・・)の水平対向エンジン搭載車って知っていますか?


あ、バイクじゃないですよ!?


車には水平対向エンジンを搭載しないBMWやHONDAも、バイクには水平対向エンジン搭載車が有るんですよねー。




ただ、私はバイクに関しては全く詳しくないので多くを語れません。





じゃあ、何を語るつもりなのか?


水平対向エンジンの採用例としては、航空機用エンジンとしての採用例があるようですが、これまた興味の範疇外なので全く語れません。


そう、私には、自動車用以外の知識など無いに等しいのです。(汗)


前ブログがフォルクスワーゲン・ビートル誕生以降の話なので、今回はビートル誕生以前の話を書きたいと思います。





前ブログで取り上げた、“ビートル”こと フォルクスワーゲン・タイプ1ですが、プロトタイプ車の完成が1938年で、実際に生産が始まったのは1941年でした。


ただ、第二次大戦により軍用車両の生産が優先された為、タイプ1は軍人や要人向けに生産されたに過ぎず、本格的な生産は戦後(1945年)になってからでした。


そんなビートルよりも一足早く生産されていた水平対向エンジン搭載車があった事を、皆さんはご存じでしょうか?


って言うか、既にタイトル画像に出しちゃっていますけどね。(笑)


その車こそ タトラT97 でした。




えっ、あの(・・)“タトラT97”をご存じない!?


まぁ、そりゃそうですよね。


“タトラ”なんて自動車メーカーなんて聞いた事が無い人が殆どでしょう。





“タトラ”は、チェコの自動車メーカーです。


現在は乗用車生産から撤退し、大型トラックなどを作っておりますが、かつては乗用車を生産していました。(私が自動車に興味を持った頃もまだ乗用車を作っていた)


そもそも、チェコ(当時はチェコスロバキア)は、東西冷戦で東側の一員となってしまった為、技術的に西側メーカーに後れを取ってしまいましたが、戦前は結構な工業国で、戦後も旧東欧諸国の中では工業技術が進んでいた国でした。


東西自由化当時、東ドイツの“トラバント”が有名になりましたが、技術的にはチェコスロバキアの“タトラ”“シュコダ”の方が上だったんです。


トラバント


とは言っても、閉ざされた東欧の技術では西欧のメーカーに適う訳もなく、“タトラ”は乗用車から撤退、“シュコダ”はフォルクスワーゲン傘下となりました。





イカン、このままではチェコの自動車メーカーの話になってしまう!(汗)


話を“タトラT97”に戻します。


元々、タトラは1850年に馬車メーカーとして創業された歴史あるメーカーで、1897年には自動車製造を開始、1919年に“タトラ”ブランドの車が登場しています。


1920年代には“SOHCエンジン”や、“四輪独立懸架” など、当時の最先端の車を生産していました。




1930年代になると、“流線形”、“モノコック” など、戦前の車とは思えない車 “タトラT77”が登場しました。



そして、この車が採用したのがRR(リアエンジン・リアドライブ)であり、空冷エンジンでした。(但し、水平対向エンジンではなく、V8でしたが)


改良型のT77aでは 3,380ccから70HPを発揮し、空力に優れたボディを持つことから最高速度は140km/hに達しました。





うーん、中々 “タトラT97”に辿り着かないぞ。(汗)


1800kgと重量級だったT77aを軽量化した T87は、全長・ホイールベースの短縮なども行った為、1370kgまで軽量化されていました。


空力ボディはアンダーカバーまで備え、最高速度は160km/hにまで達しました。



T87は、多くはチェコ国内で販売されたものの、ドイツなどにも輸出され、最先端の高性能流線型車として注目されたそうです。





1937年、タトラは V8搭載のT87よりもコンパクトな車、T97を登場させました。



T77から続く先進性を備えつつ、リアには大きなV8から、コンパクトな水平対向4気筒エンジンが搭載されました。


RR、空冷、水平対向エンジン……まんまビートルですね。


いや、ビートルがOHVだったのに対して、T97は既にOHCを採用していました。


ビートルのプロトタイプ(1938年)よりも先に、ビートルより進んだ車として登場したT97でしたが、1939年には製造中止となってしまいました。


これは、チェコスロバキアが1939年にドイツに併合されてしまった為、ビートルとコンセプトが酷似しているT97が、ドイツ側から製造中止を命じられてしまったと言われています。(T87は、ドイツ併合後も生産継続を許された)


このような因縁がある為でしょうが、ビートルに関しては『タトラ模倣説』なるものもあるようです。





歴史的名車として2000万台を優に超える(2152万9464台)生産量を誇るビートルに対し、T97は わずか508台で製造中止となってしまったのですが、もしチェコスロバキアがドイツに併合されていなければ、自動車の歴史は大きく変わっていたかもしれません。


もしかしたら、世界的名車となったのは“タトラT97”の方だったかもしれない。


あ、でも、それだとポルシェも生まれていなかったかもしれないなぁ……。


やっぱり、タトラが乗用車から撤退し、スポーツカーメーカーのポルシェが生まれる、今の世界が良いです。(笑)
Posted at 2021/08/14 00:03:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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「中国で感染拡大が懸念されている『ヒトメタニューモウイルス感染症』。
何か聞いた事があるなぁと思ったら、去年、感染したヤツだった💦

https://minkara.carview.co.jp/userid/1408953/blog/47959587/
何シテル?   01/09 02:49
タケラッタです。 子供の頃からの夢、ポルシェを手にしただけでは飽き足らず、遂にロータスまで買ってしまいました。 実用性はないかもしれないけれど、運転する事自...
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ポルシェ終活、始めました 
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房総半島ドライブ 
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