一昨日、日産・三菱編として日本の自動車メーカーの沿革を書きましたが、今回は残りのメーカーです。
とは言っても、残りのメーカーってどこがあったっけ?(汗)
元々が、ホンダネタのブログの時にトヨタについて問われたのが切っ掛けで、その後、トヨタ、マツダ、スズキについて書きました。
そして、前回が 日産と三菱(オマケでプリンス)。
いくら自動車メーカーが多い日本とは言え、残っているメーカーはそんなに残ってないよねぇ。
残っているのは、SUBARU、ダイハツくらいかな?
株式会社SUBARUは、2017年に社名を変更するまでは「富士重工業株式会社」でした。
“重工業”を名乗っているくらいなので、航空宇宙部門など 自動車以外の部門もあるのですが、売り上げの殆どはスバルブランドの自動車が占めていました。
そんなSUBARU(富士重工業)の発祥はというと、旧中島飛行機であり、今は無きプリンス自動車のルーツの1つである「富士精密工業」と同様、GHQにより中島飛行機(敗戦後、富士産業と改称)が財閥解体の対象となった為に生まれたのでした。
名機「隼」を作った中島飛行機だけに、戦闘機に比べれば自動車なんて技術的には大した事は無い……しかし、問題は資金でした。
1954年2月、後に「スバル1500」と名付けられる試作車 P1が完成します。
P1は、1.5ℓで48馬力、6人乗りで最高速度が100キロと、翌年に発売されるトヨタのトヨペットクラウンとほぼ同じスペックの車でした。
しかし、P1が発売される事はありませんでした。
P1、いや スバル1500を発売するには銀行からの支援が必要、しかしメインバンクの日本興業銀行がスバル1500の発売を許さなかったのです。
何しろ、富士重工の歴代社長は興銀出身者であり、富士重工の事を『興銀自動車部』と呼ぶ者もいたくらいでした。
「日産があれば富士重工はいらない」
興銀の判断によって、クラウン以上の車を開発したのに、その車を発売することが出来なかったのです。
その後、通産省の国民車構想が明らかになり、富士重工は再び自動車開発にチャレンジします。
しかし、国民車構想は絵空事に近く、実現不可能と思われました。
それを実際に開発し、スバル360を販売してしまったのですから、富士重工の技術力が如何に高かったのかが分かります。
その後、富士重工は日産と資本提携します。
前述の通り、メインバンクが同じ日本興業銀行だったからこその提携でしたが、富士重工の水平対向エンジン&縦置きFFの車と日産の車との間には共用化できる部品も少なく(レオーネ4WDのプロペラシャフトにブルーバードのドライブシャフトを使ったくらい?)、両社にとっては上手く生かし切れていない提携でした。
しかし、バブル崩壊によって日産自動車が経営不振に陥ると、日産自動車は保有する富士重工業株を売却、全株式をGMが購入します。
ただ、今度はGMの業績悪化で、再び富士重工株が売却されます。
この時、GMが売却した株式を引き受けたのがトヨタだったのですが、GMが保有していたのは富士重工株の20%、しかしトヨタが購入したのは8.7%でした。
当時のトヨタは、既にダイハツや日野自動車を傘下に収めており、さらに富士重工まで傘下に収めると独禁法とか色々とややこしい事になる可能性もありました。
それでもトヨタが株購入を引き受けた理由は、「株購入による富士重工支援」だけではなく、「株を売却するGMへの支援」の意味合いもあり、さらには「防衛部門を持つ富士重工を外資ファンドから守る」という日本政府からの働きかけもあったようです。
その後トヨタは富士重工(SUBARU)への出資比率を高めていき、今では20%となり持分法適用会社となりました。
しかし、トヨタが富士重工に出資する際には、
「トヨタにはならないでください」と言われ、提携後もSUBARUらしい車造りを行っています。
もちろん、86/BRZ等の共同開発車もあり、トヨタとの提携は多くの実を結んでいます。
これぞ、Win-Winの関係でしょうね。
なお、関連会社にはトヨタ出身の人材を社長に据える事の多いトヨタですが、SUBARUの社長はSUBARU(富士重工)生え抜きの社長が続いています。
やべ、書き過ぎた。(汗)
お次はダイハツです。
ダイハツは、実は日本の自動車メーカーとしては最も古い歴史を持つ会社です。
1907年、大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)の研究者を中心に「発動機製造株式会社」が設立され、日本初となる国産エンジンを発明。
1919年には純国産エンジンを搭載する軍用自動車を試作、1930年にオート三輪「ダイハツ號(号)HA型」を開発し本格的に自動車業界に参入しました。
現在の社名「ダイハツ工業株式会社」は、1951年に変更されたもので「
大阪の
発動機」から来ています。
ダイハツの主力商品は、暫くはオート3輪のミゼットでした。
ダイハツも4輪市場への参戦を目指し、コンパーノを開発します。
しかし、同時期にダイハツ同様に3輪から4輪市場を目指したマツダ、2輪から4輪市場を目指したホンダ同様、通産省から難色を示されました。
さらには、上記のマツダのロータリーエンジンや、ホンダのF1などのスポーツイメージのような特徴の無かったダイハツにとって、新規顧客を獲得するのは容易ではありませんでした。
結局、ダイハツは 1967年にトヨタと業務提携を結びます。
プリンスの様に吸収合併されるわけではなく、また同時期にトヨタ傘下入りした日野と違って対等な関係でした。
しかし、トヨタ提携後に登場した登録車は、パブリカベースのコンソルテや、カローラベースのシャルマンなど、ダイハツ独自の車ではありませんでした。
1977年にダイハツ独自開発のシャレードが登場しますが、4代続いたシャレードの後継者としてストーリアが登場したあたりから、トヨタの最廉価モデルとしての意味合いもある車になってしまいました。
まあ、本家ダイハツディーラーで販売される台数の数倍をトヨタディーラーで販売されるのですから、そういう車作りになってしまうのも仕方が無いのかもしれませんが、ダイハツならスズキのスイフトのような車が作れるんじゃないかとも思うのですがねぇ。(まあ、最近のロッキー/ライズ、トール/ルーミーの売り上げを見ていると、単に安いだけの車ではないのでしょうけど)
勿論、ダイハツの主力車種は軽自動車であり、こちらはダイハツ渾身の車作りとなっております。
トヨタの最廉価モデルの開発を担う会社となったダイハツ。
会社としても、1998年にトヨタが株式を51.2%取得し、トヨタの連結子会社となり、2016年には100%子会社になりました。
もし、SUBARUやマツダがトヨタの100%子会社になったら、それを嘆くファンが多いと思いますが、ダイハツは……
まあ、ダイハツは堅実な会社ではありますが、派手さも無く熱狂的なファンもいない会社でしたからねぇ。(シャレードが商業的にもう少し成功していたら、流れも変わっていたのでしょうけどね)