• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

タケラッタのブログ一覧

2019年05月23日 イイね!

アイルトン・セナの駆ったマシンたち

アイルトン・セナの駆ったマシンたち昨日、アイルトン・セナに関する動画を見て、それに関するブログを書いていて、当時の事を懐かしく思い出しました。


さて、出走162戦中41勝、65回のPPを獲得したアイルトン・セナは、1988年の最強マシン マクラーレン・ホンダ(MP4/4)などマシンに恵まれていたという印象を持たれそうですが、実際はそうでもありませんでした。


そう言う訳で、生涯、セナが駆ったF1マシンたちを振り返ってみたいと思います。








1984年、トールマン TG184


その後、ベネトン、フェラーリでシューマッハの黄金期を支える事になるロリー・バーンが設計したマシンは、二段ウィングなど独創的な特徴を備えるマシンでした。
チーム自体も、その後ベネトンとなり、コンストラクターズ・タイトルを獲得するトップチームとなるのですが、当時は弱小チーム。搭載するエンジンも、プライベート・エンジンビルダーのハート製エンジンであり、パワーも信頼性も劣るもので、お世辞にも戦闘力があるマシンとは言えませんでした。
そんなマシンでも、セナは、あの雨のモナコGPも含めて、3回表彰台に上がっています。(一昨日のブログで、1984年の最終戦でラウダがチャンピオンを獲得した時の表彰台の写真にセナも写っています)


1985年、ロータス 97T


F1 二年目のシーズンを、セナは名門ロータスで過ごす事になります。
しかし、当時のロータスは既に低迷期を迎えていました。
後のワールドチャンピオンとなる あのナイジェル・マンセルをしても1勝も出来なかった車、それが当時のロータスの戦闘力だったのです。
ロータスに積まれるルノーV6エンジンも、TAGポルシェ、ホンダといった新世代ターボエンジンや、フェラーリのエンジンに比べると見劣りします。
当時、ワークスでも参戦していたルノーは、ロータスだけではなく、カスタマー供給していたリジェ・ルノーにすらコンストラクターズランキングで後れを取り、参戦意欲を無くしていった時期でもあります。
そんなロータス 97Tを駆り、雨絡みのポルトガルGP、ベルギーGPで優勝します。
また特筆すべきは7回のPPを獲得した事。
既に、速さだけなら誰よりも速いところを見せていました。
この年、エースドライバーのエリオ・デ・アンジェリスを上回るドライバーズランキング4位で終えたセナは、翌年、ロータスのエースドライバーとなるのでした。


1986年、ロータス98T


基本的な構造は前年の97Tと同じで、大きな戦闘力の向上は無し。
むしろ、他チーム(特にウィリアムズ・ホンダ)が大幅に戦闘力をアップしたため、相対的な戦闘力はダウンしました。
それでも、シーズン序盤は第2戦スペインGP、第7戦デトロイトGPで優勝し、第7戦終了時にはセナがポイントリーダーとなっています。
しかし、ルノーエンジンの信頼性欠如などで、第8戦以降の9戦で実に5回ものリタイヤを記録、最終的にはドライバーズランキング4位に留まります。
但し、そんな中でも予選の速さは際立っていて、全16戦中の半分、8回のPPを記録しています。
良いマシンがあれば……
良いエンジンさえあれば……
セナは、ホンダエンジンの獲得を熱望するのです。


1987年、ロータス99T


メインスポンサーがJPSからキャメルに変わったこの年、待望のホンダエンジンを獲得したロータスとセナでしたが、この年から実戦投入したアクティブサスペンションに苦しみます。
空力を安定させるために、路面からの入力によらず常に車体を水平に保つと言うコンセプトは、1992年にウィリアムズFW14Bによって正しかったことが証明されますが、当時は技術的に未熟で、アクティブサスを機能させることが出来ませんでした。
当時使用していたCPUの演算能力が足りず、路面からの入力に対してワンテンポ遅れた反応をするため、正しく機能しなかったとも言われています。
セナは、そんなアクティブサスの挙動を予測し、ワンテンポ早めのアクションを起こす事で対処していったと言います。(この年、ロータスからF1デビューした中嶋にとっては、デビュー年にいきなりそんな難解なマシンに乗せられたのだから、たまったものではなかったでしょう)
この年、第4戦モナコGP、第5戦デトロイトGPと市街地コースで2連勝しますが、勝利はこの2回に限られます。
また、2年連続で最多PPを獲得していた予選も、この年は第2戦サンマリノGPの1回のみに留まっています。
まあ、この年はウィリアムズ・ホンダが強すぎたとも言えますが。


1988年、マクラーレン MP4/4


御存じ、16戦中15勝をあげた歴代F1最強マシン。
もっとも、この年のMP4/4はセナ・プロストというドライバーを含めたパッケージが最強であり、マシン単独なら1992年のウィリアムズFW14Bの方が最強だったと言うのが私の意見ですけどね。
ゴードン・マーレーの手による低重心なパッケージと、最強の名を欲しいままにしていたホンダエンジン、そして前出のセナ・プロストというドライバーラインナップは勝てない訳が無く、事実、唯一取りこぼしたイタリアGPも、トップ快走中のセナが、残り2周で周回遅れのジャン・ルイ・シュレッサーと絡んでストップしなければ勝てていました。
この年の8月、フェラーリの創始者 エンツォ・フェラーリが亡くなっていて、その4週間後に行われたイタリアGPで、トップを走るマクラーレン・ホンダがありえないアクシデントで消えてフェラーリが1、2フィニッシュを飾る。
また、セナに絡んだジャン・ルイ・シュレッサーは、1968年にホンダが1戦のみ走らせた空冷エンジン搭載車RA302で事故死したジョー・シュレッサーの甥。
さまざまな因縁が絡んだレースを落としたマクラーレンとセナですが、コンストラクターズタイトルは盤石、ドライバーズタイトルも、ベスト11戦のリザルトが有効とされる有効ポイント制により、セナが日本GP(鈴鹿)でチャンピオンを決めます。
16戦中8勝、13回のPP獲得は、いずれも当時の史上最多記録を更新するものでした。
もっとも、チームメイトがアラン・プロストでなかったら、セナはもっと圧倒的な数字を記録していたでしょうけどね。


1989年、マクラーレンMP4/5


チャンピオンを示すカーナンバー1をつけたMP4/5は、この年から変わったレギュレーションで、V6ターボエンジンから V10 NAエンジンに変更されています。
ホンダが圧倒的な強さを見せたV6ターボから変更される事で、力関係が変わるかに思えましたが、マクラーレン有利の力関係は変わりませんでした。
もっともシャシー自体はMP4/4をベースにしたもので、当時のトレンドからだいぶ遅れたマシンでしたけど……。
ホンダのV10エンジンは、パワーでフェラーリのV12エンジンをも上回り、この年のF1も支配します。
コンストラクターズタイトルは、2位のウィリアムズ・ルノーに倍近い差をつけてマクラーレンが獲得。
一方、ドライバーズタイトルは、第14戦スペインGPを終えた段階で、セナ6勝、プロスト4勝と、勝利数ではセナが上回っていましたが、2位6回など手堅くポイントを重ねたプロストがリードしていました。
セナにとっては、第13戦ポルトガルGPで、黒旗を提示され失格裁定が下っているにも拘らずに走り続けたマンセルに弾き飛ばされてリタイヤするなど、逆風が続いていました。
このマンセルの動きは、翌年からフェラーリでチームメイトとなるプロストをアシストする為とも噂されました。
第15戦 日本GPでは、プロストの前でゴールする事が絶対条件。
逆に言えば、プロストはセナに前に行かせさえしなければ、リタイヤでも一向に構わない状況でした。
そして、迎えた47周目。
シケインでインに飛び込んだセナに対して、プロストはインを閉め、2台は接触。

プロストはさっさとマシンを降りますが、リタイアするわけにはいかないセナはマーシャルにマシンを押すように要求、エンジンを押し掛けで復活させるとレースに復帰、ベネトンのナニーニをかわしてトップチェッカーを受けます。
ですが、裁定は失格。
コース復帰時にシケインを通らなかったからだと。
それまでもコースアウトしたマシンがシケインを通らずにコース復帰する事はありましたが、失格になることはなかったんですがね。
これは当時のFISA会長でプロストと同郷のジャン=マリー・バレストルがプロスト有利の裁定をしたと考えるのが一般的。
また、裁定の正当性を追認させるかのように、翌年から、マーシャルの手助けを得てレースに復帰する事も、基本的に認められなくなりました。
前述の通り、シーズン6勝をあげたセナは、去年同様13回のPPを獲得。
速さでは圧倒しながらも、政治力など外的要因に翻弄された一年でした。


1990年、マクラーレンMP4/5B

カーナンバー1を失ったセナは、ジル・ビルヌーブに由来する27番で戦いました。

フェラーリへと去ったプロストにMP4/5Bのリアセクションを見せつける!
その合言葉にもなったディフューザーは通称「バットマン・ディフューザー」と呼ばれました。

しかし、そんな思いとは裏腹に、マクラーレンMP4/5Bのエアロ性能の遅れが目立ち始めます。
洗練を欠いたボディワークは、ただひたすらにウィングを立てる事でダウンフォースを得ようとしますが、当然、空気抵抗は大きくなります。
まあ、そんな事が出来るのもホンダエンジンにパワーが有ればこそ。
フェラーリのV12に対して、ホンダのV10パワー頼みという逆転現象。
シャシー性能は、大きく重いV12エンジンを積んでいるフェラーリの方が上でした。
それでもアイルトン・セナという類稀なドライバーによってチャンピオンシップをリードします。
立場を変えて、セナリードで迎えた鈴鹿。
予選でPPを獲得したセナは、決勝のグリッド位置の変更を求めていました。(ちなみに変更を求めたのはPPを獲得する前で 水曜日)
今でこそ、PPはレコードラインのアウト側ですが、当時はイン側でした。
この要求は通らず、この結果がスタート直後の1コーナーでの出来事の伏線となったのです。
グリップに勝るレコードラインから好スタートを決めたプロストが前で1コーナーに入りますが、そのインに無理やりセナがマシンをねじ込みます。

1コーナーの砂塵に消えた2台。
2年連続で接触でチャンピオンが決まる―――後味の悪さが目立ちました。
この年、セナは6勝、10回のPPを獲得、相変わらず速さを見せていましたが、この年は手堅さも見せ、それ故、2度目のチャンピオンを獲得できたと言えるでしょう。



1991年、マクラーレンMP4/6


ふたたびカーナンバー1となったセナ。
ホンダは昨年までのV10からV12にエンジンを切り替えました。
その際、大きくなった燃料タンクの為でしょうか、サイドポンツーンは高くなり中央部をラウンドするような―――まるでフェラーリの640シリーズのようなデザインになっていました。
セナはジョークで「フェラーリのような車に乗りたいと言ったらこうなった」と言ってました。(笑)
開幕直前にようやく完成したMP4/6は、開幕戦がシェイクダウンという状況でも勝ってみせます。
そしてブラジルGPでは遂にセナが母国GPで勝利を飾ります。
傍目には危なげない勝利、終盤は勝利を確信してのクルーズ状態―――しかし実態はギアを無くして6速トップギヤのみという絶体絶命の状態でした。
チームの無線を傍受していた現地TVがひろったセナの声にならない叫びが印象的でした。
開幕4連勝と最高のスタートを切ったMP4/6とセナですが、ウィリアムズが信頼性を増してくると、シーズン中盤は完全に勢いが逆転します。
この年、エイドリアン・ニューウェイが加わって空力的に洗練されたウィリアムズに、ホンダパワー頼みでウィングを立てるしかないマクラーレンは次第に敵わなくなっていくのです。
そんな状況で迎えたのが第10戦ハンガリーGP、直前に本田宗一郎氏が死去していて、喪章を付けて挑んだレースで、セナはポールトゥーウィンを果たし、6戦ぶりに優勝するのです。(この辺は、1988年のイタリアGPのフェラーリを思い起こさせますね)
その後、イタリア、ポルトガル、スペインと、ウィリアムズに3連勝を許しますが、ポイント上では開幕4連勝が効いていて、またしても鈴鹿でチャンピオンを決めたセナでした。
この年、セナは7勝、8回のPPを獲得します。
サーキットによってはウィリアムズに敵わなくなったマクラーレンMP4/6ですが、それでも全16戦の約半数で勝利、及び PPを獲得しているのですから、さすがセナと言えます。


1992年、マクラーレンMP4/7A


この年の前年、1992年でのウィリアムズ移籍に関する交渉が行われていました。
既にシャシー性能はウィリアムズが上回っていましたし、セナも乗り気でしたが、ホンダやマクラーレンに説得され、マクラーレンに残留します。
また、ハンガリーGPで本田宗一郎氏の死去に伴い、喪章をつけてレースに臨んだセナに、ホンダに対する強い思いがあるのを感じ取ったフランク・ウィリアムズは、セナ獲得を諦めたといいます。
しかし、「やはりウィリアムズに移籍しておけば良かった」と思わせる状況が、開幕戦から起こっていたのです。
ウィリアムズが、前年のFW14をベースにリアクティブサスペンションを装備したFW14Bが圧倒的な速さを見せるのです。(ちなみにウィリアムズはFW15を用意していたのですが、出す必要がなかったため、FW14Bのままシーズンを終えます)
マクラーレンは、シーズン序盤を新車MP4/7ではなく、信頼性を優先させて 改良型のMP4/6B で乗り切ろうとしました。
しかし、旧型のMP4/6B ではウィリアムズに太刀打ちできない為、急遽 第3戦ブラジルGPより新型のMP4/7Aを投入する事にしたのです。
MP4/7は、シーズン中のBスペック投入を前提として、当初からAスペックとしてMP4/7Aと名乗る異例の展開。(もっとも、MP4/7Bが投入される事は有りませんでした)
さらにはMP4/7Aを投入したブラジルGPのマクラーレンのピットには旧車MP4/6Bが3台と新車MP4/7Aが3台、 計6台が並びました。これはMP4/7Aがまだテスト不足で信頼性に欠ける為でした。 しかしセナは、MP4/6Bでは負けることは明白であると判断し、 敢えて新車を使うことにしたのです。
そのMP4/7Aですら2台のウィリアムズには敵いません。何とか3位をキープするもペースが上がらずセナを先頭に数珠繋ぎとなります。結局、新車特有のトラブルで母国GPをリタイアで終えます。
その後も勝ち続けるウィリアムズ&マンセルは、去年セナが成し遂げた開幕4連勝をアッサリと更新してしまいます。
そして舞台はモナコ、モンテカルロ市街地コースとなる訳です。
順調にレースをリードするマンセル。
しかし左リアタイヤのトラブルでピットインを余儀なくされる。

ラスト数周、セナのマクラーレンの後ろで、右に左にラインを変えてプレッシャーをかけるレッド5、マンセルのウィリアムズ。
しかし、セナはマンセルを抑え続け、遂に1992年の初勝利を挙げます。
マンセルの開幕6連勝も、モナコ初勝利も、ルノーエンジンのモナコ初勝利も、何もかもが消えた、モナコ50回目に相応しい熱戦でした。
しかし、この年のマクラーレンのマシンの劣勢は明らかで、セナはこの年、優勝3回、PP1回で終えるのです。
追い打ちを掛けるように、ホンダが、この年をもってF1活動を一時休止する事を表明します。
セナは、来期の展望が見えない状況に追い込まれていくのです。


1993年、マクラーレンMP4/8


ホンダエンジンを失ったマクラーレンは、代替エンジンに苦労します。
有力なエンジンは供給先が決まっていた為、フォードのV8エンジンをカスタマー契約で供給してもらう事に落ち着きますが―――カスタマー契約の為、型落ちのエンジンしか供給されません。
これは、当時の弱小チーム、ミナルディと同じ扱いでした。
そんなマクラーレンとセナは、シーズンが始まるまでに契約を交わす事が出来ません。
結局、レース毎に1戦1戦契約を交わすという前代未聞の状態となりました。
一方で、ウィリアムズは、1年休養し、満を持して復帰するプロストのチームメイトに、実績の殆どないデーモン・ヒルを選びます。ウィリアムズにとって敵らしいチームは見当たらず、そして唯一ライバルになりそうなチームメイトはデーモン・ヒル―――全戦プロストが勝ってしまうのではないか、という予想までされていたのです。
しかし、そんな予想は2戦目にして崩れます。
ブラジルGPの開催地 サンパウロの空から突然の雨。
この雨に、文字通り足元をすくわれたのがプロストでした。

プロストを失ったウィリアムズはセナを抑える事が出来ませんでした。
続く3戦目のヨーロッパGPも雨で、セナは勝利します。
皮肉にも、ホンダエンジンを失ったマクラーレンは軽量なパッケージングを得る事が出来、また、この年になってようやくライバルチーム並みのハイテク装備も進んだため、セナの予想を上回るポテンシャルを発揮するのです。
モナコもライバルの自滅(プロストのフライング=ペナルティ、シューマッハのトラブル=リタイヤ)によって制したセナは、この年、望外な5勝を挙げます。
しかし、驚くのは、圧倒的なマシンのポテンシャル差がありながらも、最終戦のオーストラリアGPでウィリアムズを上回り、PPを獲得した事です。
PPは、レースでの勝利の様に巡り合わせで取れる事はまずありません。
純然たる速さが無いと獲得は出来ないのです。
それを、最強マシンFW15Cに乗るプロストに約0.5秒の差をつけて獲得してしまうのですから。
ちなみに、これはあのシューマッハですら成しえなかった事です。(っていうか、シューマッハが初めてPPを獲得するのは、セナが亡くなった後、1994年のモナコGPまで待たねばなりません)
日本人として、ホンダからの縁が切れてしまった事は残念でしたが、この年のセナを見ていたとき、改めてすごいドライバーなんだなぁと思いました。


1994年、ウィリアムズFW16


タダでいいからウィリアムズに乗りたい。
そう言い続けていたウィリアムズに、セナはようやく乗る事が出来る事になります。
この年からスポンサーがロスマンズになったウィリアムズですが、色味自体は青ベースで前年から然程イメージは変わりません。
また、外観もFW14から続くイメージで、引き続き “強そう” に見えました。
しかし―――
FW16は、この年からのレギュレーション変更でアクティブサスペンションなどハイテク装備が禁止された影響をもろに受けます。
そもそもウィリアムズが強かったのは、エイドリアン・ニューウェイによる空力ボディがアクティブサスによって常に一定の姿勢を保てていた為です。
そのアクティブサスが禁止された為、FW16の空力ボディは姿勢の変化に非常にナーバスなマシンになっていたのです。
如実に物語っているのが開幕戦であるブラジルGP。
セナ地元中の地元サンパウロのインテルラゴス・サーキットでスピンしてリタイアしてしまいます。
扱い辛いマシンと格闘したセナは、それでもPPは獲得してみせます。
2位シューマッハとの差は約0.3秒。
しかし、チームメイトのヒルには約1.5秒の差をつけています。
セナだからこそ獲得できたPPだと言えるでしょう。
このマシンでの成績は、3戦中 PP3回獲得―――しかし、完走は0。
このマシンに乗ってセナは旅立っていきました。











アイルトン・セナにとって、本当に優れたマシンに乗っていたのは1988、1989の2年だけです。


もし、フェラーリ時代のシューマッハの様に―――
今のハミルトンの様に、最強マシンに長年乗る事が出来ていたら―――


そんな風に考えたのは一度や二度ではありません。


もっとも、強いマシンで勝つのは当たり前ですから、もし、そうだったら、今ほど記憶に残るドライバーにはなっていなかったかもしれませんね。

Posted at 2019/05/23 23:29:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | アイルトン・セナ | 日記

プロフィール

「F1中国GPで、ウィリアムズのアルボンがスペシャルカラーのヘルメットを使用…って、パンダ柄?」
何シテル?   04/19 13:08
タケラッタです。 子供の頃からの夢、ポルシェを手にしただけでは飽き足らず、遂にロータスまで買ってしまいました。 実用性はないかもしれないけれど、運転する事自...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2019/5 >>

   1234
567891011
12131415 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 

リンク・クリップ

房総半島ドライブ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2023/11/19 19:05:40
#ポルシェ止まり 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2023/03/11 18:23:53
ハードトップ取り外し 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2021/08/25 21:33:21

愛車一覧

ポルシェ 911 ポルシェ 911
2014年に買った997 GT2。 購入時にはオレンジ色のラッピングを纏っていましたが、 ...
ポルシェ 911 ポルシェ 911
ポルシェ乗りになってから、ずっと興味のあった空冷ポルシェを、遂に購入してしまいました。
アルファロメオ ジュリア ジュリア 初号機 (アルファロメオ ジュリア)
2台目のアルファ・ロメオ、アルファ・ロメオ ジュリア クアドリフォリオです。 家族を乗 ...
BMW M5 BMW M5
前々から気になっていたE60 M5ですが、病気を機に、楽しめる物は楽しめるうちにと考える ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation