人は、生まれて、育って、死ぬ。
人に限らず、動物も植物も星も宇宙も、いつか産まれて、いつか死ぬ。
このストーリーは、生まれる前から決まっていて、誰にも書きかえることができないのだろうか。
でももし、このストーリーを決める神様みたいなの」がいたとしたら、僕はそいつをぶっ殺しに行きたい。もし、このストーリーを書きかえることのできる「神様みたいなの」がいたら、僕はそいつをぶっ殺しに行きたい。
僕は今、幸せに生きている。多少の体調不良は構わない。自分の足で歩けて、自分の手で食べることができて、見たいものを見て、聴きたい音を聴けて、言いたいことを言える。これ以上の幸せは、あったほうがいいけど、なくてもいい。十分に幸せだから。
バイトで一緒だった後輩の女の子が、ある日突然、交通事故で亡くなった。「高級車」の助手席に乗ってたのに亡くなった。
付き合ってた彼女の母親が、ある日突然、くも膜下出血で亡くなった。3時間前に電話で元気に話してたのに、亡くなった。
この年、他にも何人かの友人やその家族が、不慮の事故や病気によって亡くなった。なんでそんなことになる?誰が決めた?この時は、むしろ「神様みたいなの」のが、「いる」んじゃないかと思った。いて、その意図は知らないけれど、そういうシナリオを書いてるんじゃないかと思うほど、
人の命に関わる事故が次々と起こった。
ある年配の友人にこの時の話をしたら、彼が昔一緒に仕事をしたガーナ人の話をしてくれた。そのガーナ人の彼は日本に来る前に交通事故で恋人を失ったらしい。彼自身も大けがをし、体に大きな傷が残っていて、聞くのをためらったそうだが、
「交通事故で恋人を失って、自身も瀕死の大けがを負って、それでも、こうして仕事ができるのはどうして?」
と問うてみたら、
「生きるか死ぬかは、神が決めることであって、抗うことはできない。彼女は死ぬ運命にあって、僕は生きる運命を与えられた。だから、一生懸命生きるだけだ。」
と、力強い答えが返ってきて、その価値観の違いに衝撃を受けたという。
運命とか、死後の世界とか、生きる意味とか、生まれてきた理由とか、そういう類のものは今も昔も色々な人々がその存在を追い求めて入るけれど、いまだにコレだ!というものは見つかっていないように思う。あると信じるもよし、ないと信じるもよし。だ。
でも、「満足に生きる」ということだけは、人それぞれではあるけれど追求する価値があるし、手に入れられるチャンス可能性がある。
それは、
「できるだけ笑顔でいる」
ということだと思う。
今年の3月、採用試験の最後の質問で、
「東日本大震災で、多くの人が亡くなりました。あなたは何を感じますか?あなたにできること、あなたがすべきことは何ですか?」
と問われた。一瞬、
「非常に悲しいく胸が締め付けられる思いです。遺族の方々の悲しみははかり知れず、
今も過酷な避難生活を強いられていることを思うと、何かしてあげたい気持ちでいっぱいです。
でも今は募金くらいしかできません。今後の日本だけでなく世界の経済も危機的状況に陥ることが予想され、社会人として気を引き締め・・・」
という、いかいもな答えが頭を過ったのだけれども、つい、、
「自分の愛車で降り立った仙台港や、友人に連れて行ってもらった多賀城の町や、遊び疲れた喜びに満ちて飛行機を待った仙台空港が壊滅しているなんて、信じられません。
あの濁流に人が呑みこまれて大勢の方が亡くなっていることや、がれきの下で助けを待ちながら亡くなったということも、想像がつきません。何を感じるかという点については、『何も感じないように、自分の脳が逃げている』ことを感じます。そんな自分を卑怯だとも思うし、不思議だとも思います。いつなにが起こるかわからないということを思い知りました。今僕にできること、僕がすべきことは、家族や友人や恋人、僕の周りにいる人々に、優しくすることです。」
という、なんとも自分勝手で正直な気持ちをぶちまけてしまった。
どう評価されたのかわわからないけれども、そう話したことに後悔はしていないし、実際に僕ができることはそれくらいしかないし、今改めて思うのは、
自分と、その周りにいる人をちょっとくらいは楽しませられる人間になってから、他人様に手を差し伸べればいいのかな、
ということ。これがまた、実践しようとしても難しい。募金するより難しい。
でも自分で言っておいてこういうのもアレなんだけれども、
「自分と、自分の周りの人をちょっとくらい楽しませるように生きていく」
という生き方は、割とイイんじゃないかと思う。みんながそう思っていれば、結果的には凄く多くの人たちが幸せになれるんじゃないかと思う。
小さな幸せを積分するのが重要なのかもしれない。
音楽は、まさにそういう概念の塊であるように思う。ミュージシャンは、唄いたい歌を唄う。もちろんそれは自分のためで、きっと唄ってる瞬間は幸せだろう。
その歌を聴いて幸せになる人がいれば、救われる人が一人でもいれば、それでいい。そんな現象が重なりあって、積み重なって、音楽という巨大な「文化」となっているのだろう。
僕は、自分の一生を何かの役に立てるなら、そういう「文化」を守り続けたいし、新しい「文化」を創る人になりたい。
こんな話をした後だからむしろ胡散臭く聞こえるかもしれないけれど、僕が学生時代の持てる時間と能力をつぎ込んで知ろうとしてきたのが「スポーツカー」という世界であり、そのきっかけとなったのが「ロードスター」というクルマである。そして、今僕にできることとしてそれをカタチしたのが、
「ロードスターふらの北海道ミーティング」
で、これを一緒に創る仲間たちは、遠からず似たようなことを考えて生きている。
僕は携わって5年目4回目だけれども、ここに集う仲間たちには、その幸せが十分に伝わっているような気がするし、毎年はるばる遠くからやってきてくれる人たちとは、いい年こいて一緒に泣きながら笑ったりする。
「しあわせ」の定義は僕にはまだわからないけど、「しあわせ」の本質に近いものは、ここに十分詰まっていると思う。
もし「神様みたいなの」がいるのであれば、文句を言ってやりたい。
でも、
もし「神様みたいなの」がいたとしても、こう言ってやる。
「俺たち、一瞬たりとも逃さず楽しく生きてやるもんねー!!いつでもかかってこい!!バーカ!!!!」
僕らは、僕らと、ここへ来たあなたが、ちょっとくらいは笑顔になれるように頑張ってみるので、
どうぞいらっしゃいませ。
--------------
--------------
ロードスターふらの北海道ミーティング
http://furami.rock-s.info/
