今年の1月ひろみ氏に連れられて「永遠のゼロ」という映画を観にいきました。
特攻隊が題材の戦争映画ですね。僕はこういう映画を映画館で観たくないんですよ。
泣いちゃうから(笑)
案の定ウルウルきちゃいました、、、恥ずかしいですわヽ(;▽;)ノ
映画はとても良かったです。でも、見終わったあと、何とも言えない気持ちになりました。
なんか悶々としてしまい、僕は決心しました!
今年は特攻隊の慰霊祭へいくどー!!
うちは親父の伯父さんが特攻隊で亡くなってまして、毎年5月3日になると遺族として慰霊祭に招待されるんです。
会場は鹿児島県知覧町という基地のあった場所であるんで結構遠いんですが、毎年両親が旅行も兼ねて出席してます。
なので映画観た次の日に頼み込んで、僕らも一緒に連れて行ってもらうことになりました。
前日2日の朝にレンタカーで出発です
途中あちこち寄り道しながら(その模様はまた別ブログにて)
うちのオカンが指宿スカイラインを爆走しながら
(||゜Д゜)ヒィィィ!
知覧のお宿に到着しました(´▽`)ノ
こちらの富屋旅館は戦時中日本軍指定の食堂だったそうで、特攻隊員達のお世話をしてたというとても縁のある宿なんですね。
そんな場所なので慰霊祭前日の宿泊は遺族優先となってます。
僕らが宿泊したのはこちらの本館ではなく、新しくてお洒落な別館でした。
夕食は宿泊客全員で本館の広間で
食後は元特攻隊のお爺ちゃんの貴重な話を聞けました。
このお爺ちゃん、板津さんは親父の伯父さんと同じ日に出撃した人。
ですが戦闘機のトラブルで不時着、その後終戦をむかえ助かったそうです。
僕らの感覚では出撃=死を意味する特攻隊で生き残れたなんてラッキーだなと思うじゃないですか。
でも話を聞くと全然違いました。
仲間達と一緒に死ねなかったことはとても不名誉なことで、恥だと仰られてました。
他の生き残った隊員さんの殆どはそれで自決されたそうです。
突撃して亡くなっていった人、運良く生き残ったあと苦悩の日々を過ごした人、どちらが良かったんでしょうか、、、
「自分は臆病者だからこうして今も生きている。」
板津さんはそう言いました。
でも板津さんが生きているからこそ、僕たちがこうして当時の話が聞けているわけで、それも勇気だと思いました。
それに一度は死を覚悟して出撃しているわけですからね。
ほかにも色々聞いている中で、特攻隊の皆さんがどういった心境で飛び立っていったか伝わってきました。
みんな親、兄弟、そして国のことを想い、護るため、とても純粋な気持ちで出撃したそうです。
それも一番下は17歳の少年ですよ。
伯父さんもまだ20歳。
みんな僕よりずっと若いのに、、、、
ここでも泣きそうでしたよ(T-T)
その出撃式の様子
左から三番目が伯父さんだそうです。
そういえばこの写真うちの爺ちゃんちにも飾ってありました。
翌日3日
両親は慰霊祭に出席
その間僕らは平和資料館を見て周りました。
残念ながら館内は撮影禁止でしたが、中には色々な物が展示されてます。
特攻隊員の写真や遺品、遺書なども数多く展示されてて、とても1日じゃ見て回れません。
戦争中実際に飛んでた戦闘機もありました。
飛燕だったかな?
日本軍の戦闘機は戦後アメリカ軍によって全て処分されたそうなんですが、一機だけ残されたやつ。
なぜ一機だけ残されたかというと銃弾、砲弾が無数に飛び交う中アメリカ艦隊に突っ込んできた日本人の勇気に敬意を表したアメリカ人の計らいだったそうです。
そしてこの資料館に展示されてるほとんどの物が板津さん1人で集めた物という。
退職金を使って遺族のとこを回って20年以上かけて集めたんですって!?
凄いですね~
開館のテープカットに参加した時のことを誇らしげに語ってました。
板津さんが一番怖いのは特攻隊のことが風化して忘れ去られてしまうことだと話してました。
それを避けたい気持ちをこんな規模で形に残してほんまスゴいですよ!
戦後も違った意味で戦ってこられたんですね。
スーパーお爺ちゃん、来年で90歳でもめっちゃ元気でした。
なかなか行く機会って無いと思いますが、日本人なら一度いって欲しいですね。
最近は映画とか話題になって、観光客が増えてるみたいだし(^^ )
外にも知覧はお茶が有名でとてもいい所ですよ(^^ )
みん友の山猫さんちを素通りしたらたどり着けます(笑)
今度行く時は山猫さんも誘って宴会だな(笑)
今回はほんといい経験ができました。
Posted at 2014/05/06 14:51:50 | |
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