2012年10月23日
Sonny Rollins - Strode Rode
泣く子も黙る?、ロリンズの『サキコロ』から
僕が一番好きな曲Strode Rode
Posted at 2012/10/23 23:54:27 | |
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jazz at jacob's hall | 日記
2012年10月23日
Stanley Turrentine - Sugar.avi
インスパイヤーされて 僕もStanley Turrentineをライブで一曲。
Posted at 2012/10/23 23:50:23 | |
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jazz at jacob's hall | 日記
2012年10月23日
Freddie Hubbard - 06 "Blues for Brenda"
本当はアルバム『MISTRAL』を紹介したかった。
彼フレディとアートペッパーが一緒にやったアルバムで二十数年ぶりにCD化されて最近発売された。 僕は昨日購入してきた。YOU TUBEには残念ながらまだ無かった。
夏に聞きたかった。素晴らしい西海岸ジャズだった。
楽しみは来年の夏までとっておく。とする。か?。
所で夏、海と言えば僕の好きな鎌倉御成スタバの隣に10/7に新しいお店が出来たようだ。
「ガーデンハウス」と言うらしい。ちょっとイイらしい。週末晴れたら行ってみようかな。
Posted at 2012/10/23 23:39:26 | |
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jazz at jacob's hall | 日記
2012年10月23日
人は皆だれしも好きなモノに囲まれて生きていたい。と考える。
しかし好むと好まざるとにかかわらず、人は見たくないモノ、聞きたくないモノとも接して生きて行かなければいけない社会性のある生き物だ。
朝通勤電車でイヤーホンを耳にしている人を良く見かける。それは全体の40%以上に上る。
外国語習得の勉強、音楽の視聴、その他 使用目的はあるだろうが、この人々は世間にコミットせずにわずか数十分ながら、自分の世界で生きている。それから寝るまでの一日は「おひとり様」で無い限り、誰か(誰かというよりはむしろ社会と)コミットして生きている。
二十四時間、三百六十五日、好きなモノだけで生きたら人はどうなるか。
秋葉原や中野のブロードウエイに行くとそんな「好きなモノにだけ囲まれて過す人々」に会う事が出来る。彼らが好きなモノと僕が好きなモノはまるで違うので趣味の接点は見出せないが、好きなモノに寄り添って生きて行く事は幸せなことだ。ということに変わりはない。ように思われる。
僕から見ると彼らはすこし変わり者だが、幸せに過ごしているという点でなによりも幸せなことだと思う。
さて、「自分の世界」についてだが、
無責任な剽窃が素晴らしい数寄者たちが造ったものをいとも容易く、世の中から排除してしまうケースに僕たちは気付いているだろうか。
世の中に存在しない、何か素晴らしいモノを、望む人がそれを作りだし、市場に流通させ、売り、そして購買者が購入して世間に広まると、製造者も購買者も“好き”が高じた結果、出来上がった製品だけにそのこだわりぶりもあいまって、所有出来た大きな満足と、使用して感じる機能性に歓びが満ちる。
20世紀はそんな時代だった。
そして21世紀にはいって、情報戦争が始まり、売れ筋となった数寄者たちが苦心惨憺練って作り上げた上澄みだけ真似た製品を世に大量に放出して粗利を稼ぎ、市場性が潰えたとみるや次の標的に移って骨まで食い散らかす。そして次、次と渡り歩く。その姿はまるでイナゴの大群のようなものが現れた。
僕はユニクロの話をしているのだ。
ユニクロがフェアアイル柄(と言えないほど醜いフェアアイル調)の製品を販売していた。
ユニクロは過去、パタゴニアのシンチラを真似てフリースを販売し、(後日レトロXも真似て)市場からパタゴニアの顔ともいえる製品を隅っこへと追いやった。
創造者の苦労など全く関係ないユニクロにとって利益はなによりも優先事項でプリンシプルなどは皆無なのだ。「売れる事。それが彼らのプリンシプルだ」
そのような経緯で販売される製品を
安く購入できた。としても購買する歓びはほんの一瞬でしかない。
(本物と雲泥の差で造られた類似品を)所有する歓びなんて、ゼロ。皆無だ。
ユニクロ型ビジネスを一つの成功例と捉え賛美する人々は多いが、その先には「ゴミと共に暮らす」未来が待っている。ユニクロの製品はゴミだ。大量に作り得ないモノは決してゴミにはならない。
僕は十年以上愛用出来るものに囲まれて生きている。決して僕の家からはその手のゴミは出ない。
ユニクロは一つの代表的な固有名詞にすぎない。
市場に好意的に迎え入れられた、(多少高価だが)オーセンティックな製品を、剽窃(モノマネ)によって拙速に作り上げた魂の無い似て非なる類似品を製造販売する会社はいづれ淘汰される。
人々は製品に感動を求め、感動を身に纏うのだ。
感動とは、「よくぞこんなものを作ってくれた。ありがとう」という感謝の気持ちを内包した、製作者と共に感じる、ある高い価値観への喜びだ。
Posted at 2012/10/23 22:55:16 | |
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2012年10月23日
『ハシシタ 奴の本性』
タイトル(表題)とはわずかな言葉で構成される。しかしその言葉は、ただそれだけで、本題の内容を表すものとして採用されなければいけない。だから熟考の末に『表題』は定められる。
この表題を見てとれるように、(作者と出版社の意図は明白で)第三者を指して「奴」という言葉をわざわざ選んで表題とした。
先ず「奴」と言う表現はエネミー オブ ソサエティー(社会の敵)を指す言葉である。それは超悪超善明らかにして善が悪を指して使用する言葉である。そして相手を貶め、誹謗する際に意図的に使用する言葉だ。
週刊朝日、並びに佐野 某氏は何を思ってこのような記事を世に出したのだろうか。
彼らは取材を重ね、それを出版し、抗議を受け、謝り、連載を中止した。
しかし彼らは成し遂げたのだ。週刊誌は売れ、話題になり、公表したい記事の内容を衆目にさらしたのだ。謝ろうが、連載を中止しようが、目的は達せられたのだ。
そこで僕は一言だけ言いたい。
それは彼らが言うところの『言論の自由』についてだ。
自由とは誰かに与えられるものでも許されるものでもない。だから自由はただ自由だ。
それを拘束する事は誰にも何もできない。何を選ぶか、何を表現するか、それは個人の自由だ。
言論や表現には当然、自由が与えられている。そしてその自らが行った行動の結果に対しては常に義務が付属している。それが大人が構成する社会の掟だ。
彼らは謝ったから、連載をやめたから自身の社会的義務を果たした。と考えているようだが、果たしてそうか?彼らが『言論の自由』を、命をかけて守るのであれば、その結果生じた事態についても徹底的に表現者の義務を全うするではないのか?。
彼らは謝った。謝るという事は非を認めたという事だ。責任は我らにあり。とした。
ジャーナリズムを傘にし、大義名分の名を借りた、誹謗中所を目的とした下劣な三文記事を公に出した責任は我々にあるとした。だがジャーナリズムという大義名分の基に個人が中傷されて良いというばかげた話が一体どこにあるのか。橋下氏は言葉によってすでに殺されたようなものだ。彼と彼の家族に残った心の傷は、生涯に渡って癒されるものではない。
僕は彼らに言いたい。責任の所在は我にありと言ったのならば、被害者の精神的苦痛に対して最大限の努力をして償うべきだと。
今回のこの様な事を、あっさりと終わらせて許すようならば日本と日本人はおしまいだ。
これは白日、報道の自由、表現の自由の基に行なわれた殺人に他ならない。
Posted at 2012/10/23 22:06:42 | |
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