2012年11月13日
「悲しい色やね」
この歌を初めて聞いた時、僕は衝動的に新幹線に乗って、東京駅から新大阪に向かった。
ジーンズのポケットにはSONYのウォークマン。60分のTDKのカセットテープには上田の歌が録音されていた。僕はヘッドホンでその音楽を聴きながら、たしか道頓堀あたりを陽が暮れるまでうろついた。
どこかで、たこやきを食べた。川を見ながら食べた。そして日暮れと共にビールを買ってきて飲んだ。
川を見ながら飲んだ。
「このタコ焼きをお土産にしたら喜ぶだろうな」と思ったがブルースで満たされた僕の心がそれを許さなかった。
僕はもう一本ビールを飲み、大阪を後にしようと決めた。
日が暮れて、星空が見えて来た。星が見えてくると急に里心がついた。
「このまま五反田の彼女の家に行こう」そう思うともうすぐにでも戻りたい衝動で新幹線に飛び乗った。
五反田の彼女の家に行き、「今日上田を持って大阪に行って来たよ。大阪で聴く上田は一味違っていいもんだね」と僕が言うと「また嘘ばっかり」と彼女に言われた。司馬遼太郎の書いた「峠」を持って水上から上越に行った時も、「また嘘ばっかり」と言われ、他でも何度か彼女には「また嘘ばっかり」と言われた。
僕は彼女に嘘をついた事は一度もなかったが、今考えると「また嘘ばっかり」というのは彼女の口癖だったようにも思われる。
さて、あの頃僕が見た大阪は全く「悲しい色」ではなかった。ネオンが輝き、人々は飲み、喰い、酔い、笑い。活気に満ちた街だった。
でも川面に映るネオンの揺らめきにふと目を落とすと、それはなんだか「悲しい色」のように思えた。
今思えば、あの頃が僕にとっての青春だったように思える。
- OSAKA BAY BLUES - MASAKI UEDA
Posted at 2012/11/13 01:09:22 | |
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2012年11月13日
僕が中学生の頃、ラジオを作るのが流行っていた。ラジコンカーもやはり流行っていてプラモデル屋
の中をのぞき、“タミヤ”のロゴマークを見れば居てもたっても居られなかった。
さて、ラジオだ。
僕は自作のラジオを完成させた。そしてそのスピーカーから音が出た時はとんでもないくらいに感動した。やがて新聞を広げてラジオ番組をチェックし、放送される番組のどれを聴くべきか。チャンネルはどこにすべきか。をノートに書きとり、その週のオンエアーをチェックした。友達とは昨日の放送について翌朝話し合うのがたのしみの一つになった。
当時ラジオのDJはラジオ・パーソナリティなどと言った。
この時代、“しゃべり”を賄っていたのは“お笑い芸人”でも“タレント”でもなく、歌手だった。
しかも彼らは作詞作曲を自分で行い歌う、いわゆるシンガー、ソング・ライターだった。
とくにフォークシンガー達は、作詞・作曲の能力もさることながら、その“しゃべり”の能力が非常に高く、ものすごく面白く、そのしゃべりの運びが大変上手だったので、今のお笑いタレントの100倍は面白かった。
月曜日は中島みゆき 火曜日は松山千春 水曜日はタモリ 木曜日は桑田圭祐 金曜日は長渕剛
そして土曜日は笑福亭鶴光。彼らは僕が知っているオールナイトニッポンのゴールデン・パーソナリティだ。
毎晩繰り広げられるその“お話”は兄貴や姉きに語りかけてもらってるような、人生の片隅を垣間見るような、何とも言えない大人への階段を登るような気分にさせてくれた。有意義な時間の過ごし方だった。
そしてどういう訳かラジオを聴いている時、右手にはいつも鉛筆があり、思い起こせば、四六時中常に勉強していたような気がする。しかし、本当のところはそうではなく、勉強する傍らにいつもラジオがあったのだ。
今、時代はインターネットなどの普及で、人々はTVから離れて行きつつある。しかし、なんとなく懐かしいラジオを思い出せば、傍らにラジオを置いておきたい衝動が沸き起こる。
ラジオが最も輝いていた時代の懐かしい音楽を二つ。
これは昭和の時代にシングルレコードで大変ヒットした曲で「季節の中で」そしてもう一曲はそのシングルレコードのB面に入っていた「青春Ⅱ」
僕はこの二曲を聴いて、もう一度ラジオに戻ろうと思った。自作のラジオから音が聞こえた時程の感動はなくても、別の意味で充足感が漲るかもしれない。
そう、例えばブルーノートレコードの4209番の『ディッピン』を古レコード店で見つけた時のような...................................................
季節の中で
青春Ⅱ
Posted at 2012/11/13 00:41:59 | |
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