
より‐どころ 【▽拠り所/▽拠】
1 頼みとするところ。支えてくれるもの。「心の―」「生活の―を求める」
2 ある物事が成り立つもとになるもの。根拠。「判断の―を明らかにする」
西洋の場合、「元々生まれついての人間と言うモノは野蛮なモノだ」という概念の基、「寄らしめよ知らしめよ」を名分に宗教を広めた。
その甲斐あって獰猛な野蛮人達は飼いならされ、社会性を帯びた「人」となった。
西洋人が「有り難う」と「ごめんなさい」を相手の目を見て、大きな声で言うのはそのためだ。
同様に“飼いならされた”日本のサムライ達もきびきびとしたリアクションと共に、「御免(ごめん)」と告げて颯爽と立ち去る姿は正に、「人」を感じる。
この武士道ならぬ武士の立ち振る舞いは宗教によるものではなく、侍の家に元々ある家庭内教育に始まり、寺子屋や薩摩藩で言う“郷中”や会津藩の“什”等によって完成した。
彼らはおのおのの藩という“よりどころ”がある事で、自分の存在を認識し、振る舞っている。
さて、拠所について僕が思うのは人間とは社会性の生き物だから、とにかくどこかに所属しないと生きて行けない。と言う常識についてだ。
結局、日本の場合は宗教と無関係の所で拠所を持っている為に、自分が存在する為に所属する場所を主に会社に求める。会社は昔で言う藩の様なモノだ。
だから皆、藩(会社)から抜けるという事は、所属する拠所を無くす。と言う事になり、そうなればすなわち、自分が社会的に無所属になると言う、考えるだけで恐怖を感じる。と言う事に通じる。
だから、日本では離職率や転職率は低く「寄らば大樹の木」的な発想で大企業、上場企業を目指す。
それに比べて宗教は天(神)と自分との契約なので、そこに所属する団体は不要となる。
強いて言えば例えばキリスト教という団体に付属する(所属ではない)個人。という程度か。
そうするとその人の拠所は、信じるGODであって会社でも社会でもなくなる。だから簡単に所属する会社とは契約を解除、解約しておさらばできる。実に身軽な生き方だ。
人は誰かに何かを期待する為にそこを拠所にしてそこに所属する。それは宗教以外の場合、例えば国家であったり、家庭であったり、地域であったり、夫であったり妻であったりする。
しかし神を拠所にして神ととつながれば、そこに国家も家庭も無関係となり、その人は心の安らぎと共にあり、強く、身軽に生きて行けるに違いない。
しかし無宗教な僕の心にはその様な安らぎはなく、拠所と呼べるほどの思想も持ち合わせていない。
さらに会社に帰属していようとも、所属している。という安堵感はとうの昔に捨てた。
僕は愛社精神を持つことの無意味さを何度も味わってきたので、会社を拠所などと考えた事はない。
しかしながら、この“拠所”と言うのは非常に大切な事で、「一体、今の自分は何に拠っているのか?」を考える時、では一体自分は何に拠っている時に、喜びや、「生きていて良かった!!!」という気持ちになるのか。を考えさせられる事になる。
そうすると「好きに拠る」と言う事になる。
どうだろう、それが出来れば、これ以上の人生は無いように思える。そこには心の安らぎがあり、機知は漲り、充足した瞬間と、未来に向けて活力が溢れる。
だから人間は自分を研究し、己を知り、己の欲するところを良く感じとり、考えたうえでそこに所属し、また、所属する場所がなければ自らが作りだし、そこにどっぷりとつかる。事が良き人生につながるような気がする。
僕自身も、そこを人生の拠所としたい。
強い人間は誰かや何かに頼らない。自分の正しいと思う思想にだけ拠れば、その時に人は強くなれる。
信じるのは自分の中にふわっと芽生える使命感だ。
「俺は(私は)これをするために生まれて来たんだ」という天から与えられた使命を見つけ、使命感に燃える時こそ人は無敵になれる。
時に高慢に、時に自己犠牲の精神を持って使命感に燃えて生きる。
その使命感こそが人の(精神的支柱)拠所なのかもしれない。
Posted at 2012/11/22 23:36:45 | |
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