2012年08月01日
「Avant-Garde and Kitsch」は米国の美術評論家、クレメント・グリーンバーグ(Jan.16, 1909 ― May 7, 1994)によって1939年に書かれた。これは当時の社会風刺と言っても過言ではないでしょう。彼の論文は繰り返し「キッチュは本物の替わり、代用品だ」と言い続けます。グリーンバーグに睨まれてしまったキッチュの行方、追いかけてみましょう。
都市型大衆文化であるこの「キッチュ」は真の文化の代替的体験を与える似非物である。「キッチュ」が成立するには本物が身近になければならない。「キッチュ」はそこからアイデアや意匠を借用し結果を求めて真似た偽物である。
グリーンバーグはこのようにひどい扱いをしたうえで、更に言います。
資本主義的な生産システムに置いて「キッチュ」は不可欠な要素であり「キッチュ」は産業革命の申し子と言われている。この「キッチュ」が生む利益は莫大で、「アヴァンギャルド」さえ魅惑するが、害悪が多い。
そして「キッチュ」は「アヴァンギャルド」に比べると社会的に優位な立場にある。「アヴァンギャルド」は先見性やオリジナリティに富み過ぎて、大衆への説得力に弱い。その為、大衆操作に関心を持つ、少数の権力者層という本来「アヴァンギャルド」の支持基盤になる資本家も失いやすい。モダニズムの衝撃を理解して受け入れる者。これは圧倒的にエリート層に多い。しかしてエリート層の弱体化によってモダニズムも弱体化し「アヴァンギャルド」も後退した。
このように前衛的、芸術的、文化的で独創的なアヴァンギャルドが市場に現れた後、すぐ、「あっ」という間にキッチュな模倣品が巷に溢れる。その事を論文の中でグリーンバーグは危惧しました。
さて、彼の論文が書かれてから今日までに70年近くの歳月が過ぎた。
現在、実際の世界はどうなったでしょうか? 結果だけを見て真似た「キッチュ」な品々は確かに量産化、大量消費化の進む21世紀において、ますます幅を利かせ、剽窃によって出来た工業製品達は、「オリジナル」を駆逐する勢いを見せる時代になりました。その為に、弱体化の一途をたどるアヴァンギャルド。しかし彼らの弱体化によって、いずれ早晩、オリジナルという「模倣する対象」を喪失したキッチュが迷走したり事故を起こしたりする事でしょう。21世紀に入ったばかりの資本主義は、実際にはまだそれを経験していませんが…………。
産業革命以降どんな時代にも存在した様に思えた「アヴァンギャルドとキッチュ」。しかしある時を境にアヴァンギャルドの灯は風前の灯となっていったのではないだろうか。僕はその移ろいゆき、消えゆく存在に我々日本の男たちの姿を見ます。
古今東西、男と言う存在は、危険を冒してでも、衆目の理解を得られなくても、挑戦し続け、新機軸を模索するアヴァンギャルドな姿勢を持ち、それがあるからこそ時代を切り開き、モダニズムを発揮してきたのだと思います。ここに不羈の風が起こり、天上天下唯我独尊という高慢な精神が興きるのであります。
その結果、人と違う道を志し、独自のスタイルを確立する。そこに男の姿がありました。
人は旅に出ます。
旅は、特に海外での旅は見慣れぬ景色や言語、文化、習慣に出くわす事で、反復運動を繰り返す反射神経だけで生きている日常生活の中で眠りに陥っている五感を覚醒させ、フル稼働させる事で洞察力が鋭くなり。行動力が沸き起こります。アヴァンギャルドを希求する心は、行動原理にも働くと言えます。
さて、最後にアヴァンギャルドとジャズの話です。
あの数奇な時代に、アヴァンギャルドを求めたジャズマンたち。
モダンジャズは今も僕達にその精神の在りどころを教えてくれます。変革の起源に携わった彼ら黎明期のビ・バッパー達が作った旋律も、円熟期を迎えたフリー・ジャズの連中が奏でる即興演奏も、どちらも未だにアヴァンギャルドであり続けています。前衛的である事を求め続けたモダンジャズは、永遠にモダンである。と私は確信しています。
Kenny Burrell Trio at the Village Vanguard - Will You Still Be Mine?
VIDEO
Posted at 2012/08/01 22:10:06 | |
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