
秋冬のシーズンが始まると、このタグを付けた製品を良く見かけるようになったのはここ数年の話だ。
僕はこと洋服に関して言えばツイード素材に関わらず、元来トラディショナルなスタイルが大好きなので、秋が来ればツイードのジャケットやハンチング帽は必需品となってくる。これは二十数年来変わらないスタイルでむしろそれらを着る事は習慣だ。そしてそれらの“裏側に”このタグが付いてある。
トラディショナルなスタイルやツイードのジャケットと言えばその卸元はヨーロッパのイギリスと相場が決まっている。英国紳士と日本で言われるようにアヴァンギャルドなイタリア・フランスのファッションに比べ、英国のファッションはコンサバティブで地味だ。
パット見た目、センセーショナルで人目を引くデザイナーズブランドの(例えばD&Gやディーゼルなどを筆頭にしたイタリーファッションの様な)洋服は僕的には全く興味がわかない。
華々しく、記憶に残る程のインパクトがある洋服は、残念なことに来年着れないのだ。
同様に流行を追いかけたファッションと言うのは、買った時がピークで、あとは下降線を下るのみ。すぐに廃れる日がやってくる。
そこへ行くとトラディショナルなスタイルは良い。
例えばバランタインのカシミア紺色セーターなどは十年着ていても十年物とは思えない。
今日も、昨日も、明日も、お店に行けば同じような製品が陳列され定価で売られている。靴も同様。
例えばオールディンのチャッカーブーツを十年間履いていて、十一年目にお店に行っても同じ色、同じデザインでそこで売ってある。
ようするにそれらのモノは廃れないのだ。
普遍的なモノ。僕が大好になるモノの価値基準はここにある。
一時のブームや一過性の流行ではなく、静かに流れる清流のように、いつも、いつまでもそこに同じように存在し続ける。時代の風雨にさらされても耐える事が出来る素材であり、デザインであるモノ。
そこに対価を払ってでも買う価値を見出す。と言う訳だ。
そして英国流ファッションにおいて重要な事は、見せない事だ。
裏地にレイヨン素材ではなくキュプラ地を使用し、見えない場所の素材にこだわりをもっても、それを表面に見せない。そんな見せないおしゃれ。そこにダンディズムは宿る。
所が近頃街を歩けば、洋服に、バッグに、帽子に、このハリスツイードの認定ロゴマークを見えるように張り付けている製品を実に多く見かける。
英国のブランドや英国人の気質において、これ見よがしに見せるお洒落というのは存在しない。
寧ろそれは恥ずかしい事なのだ。というのが英国の常識であり基準でもありプリンシプルでもある。
それをないがしろにして表面に張り付けるようにして見せている愚かな(としか言いようがない)ファッションをした人を本当によく見かける。他にも、分かりやすい例で、アメリカのブランド、ニューエラ社の作った帽子の唾に貼ってあるステッカーをいつまでも貼ったままかぶっている黒人かぶれした若者。と言うよりもバカ者。そしてカシミア素材のコートの袖に付いた「カシミア」の製品表示生地をいつまでも付けたままコートを着用しているお嬢さん。
あなた方はおかしいのだ。早くそれはおかしな行為なのだ。という事に気付いた方が良い。
さり気ないお洒落。と言うのが洗練されたファッションであって、過剰に主張する行為はどこまで行ってもドレス・アップにはつながらない。
それは車においても同様で、過剰な装飾を施すとその車が本来有する造詣の美しさからどんどん外れて行く事になる。
過剰な装飾は、過度な整形手術の繰り返しによって、本来あった自然さを持たない、
“造られた寂しさのみが漂うルックス”を生じさせる。
だから“作ること”はなるたけやめた方が良い。
出来るだけシンプルに、そして長く飽きのこない奥ゆかしさを秘めたスタイル。そんなモノの良さがわかり、それを模索し始めると英国の美意識や美学に辿り着く。
日本が明治時代を迎え、侍が髷を落とし、帯刀をやめた後、模倣したのはそんな英国の美学だった。
美意識の高いサムライ達が新たなスタイルとして唯一認めたのが、英国紳士のスタイルだった訳だ。
どうだろ、僕的には然もあらん。という気がしてならない。
日本人は元来、かなりのこだわりモノでいて、美意識の高い民族なのだから。
Art Blakey & The Jazz Messengers - A Night in Tunisia.wmv
Posted at 2012/10/15 00:03:29 | |
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