2012年12月19日
MERRY MERRY CHRISTMAS ALL !!
Posted at 2012/12/19 00:42:53 | |
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2012年12月16日
◆涙の懇願
デッドヒートの選挙区では、「お涙ちょうだい」の選挙戦を展開した候補も。長崎では選挙戦終盤の集会で、あいさつに立った前議員の長女が「何とか勝たせてほしい」と土下座し、会場がすすり泣く場面も。福岡の前議員は、演説の最後に頭を深々と下げ、「どうか助けてください」と涙声で訴え続けた。
北海道では対立する候補者が、互いに選挙戦で「懇願合戦」を展開。女性の新人候補が支持者を前に「12日間戦うのに、お支えが必要です」と雪の上にひれ伏すと、前議員は800人が詰めかけた決起集会の会場で夫婦そろって会場の床に額をこすりつけ、「勝たせてください」「助けてください」と訴えた。
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さてそんな報道を見て僕は思う。
この土下座と言うのは『なりふり構わぬ自己保身の手段』であって政治家が国民に訴えるべき自身の政策や論争から最もかけ離れた行為。としか言いようがない所作だ。
こんな候補者ばかりが立つようでは日本はお先真っ暗だ。
そうではないか?
Posted at 2012/12/16 18:27:53 | |
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2012年12月13日
MEN'S BIGIというブランドがある。
今もある。しかし1985年以降離散し、再度集合し、近年枝分かれした“生存を第一義”としたこのブランドにはかつての魔力は無い。そう全く無い。
菊地 武夫というおよそ日本人離れした感度を持つ一人の男がこのブランドを立ち上げた。
立ちあげたというより、自身のファッションへの哲学を具現化した。それがMEN'S BIGIだった。
この洋服にはとんでもない魔力が備わっていた。菊地武夫が造るMEN'S BIGIのスーツに身を包み、ウィングチップの革靴を履けば、このウエアー達は僕を無敵な存在に変えてくれた。
この魔法の洋服はどこで、何を、どのようにしていても、ただ着ているだけで、それだけで僕の一日を最高にハッピーな時間に変えてくれた。こんな洋服は今、存在しない。
たとえマッキントッシュのコートを着ていても、オールデンの靴を履いていても、ターンブル&アッサーのシャツを着ていても、グローブトロッターの鞄を転がしていても、ボランジェのシャンパンを飲んでいても、あの頃身に付けたMEN'S BIGIのスーツ以上に僕をその気にさせるモノはない。
その気にさせるとは、世界で最高のモノ。唯一絶対のモノに接している。そんな気分だ。
菊地武夫の作るMEN'S BIGIにはジャズの残り香が香った。そのスーツにはどこかにジャズが忍んでいた。ときにそれがリーモーガンだったり、アートブレイキーだったりした。
そしてジャズが聞こえてくると、そこではMONSIEUR NICOLEではなくMEN'S BIGIのスーツが必要とされた。
菊地武夫が造ったMEN'S BIGIはそんな神がかり的なスーツだった。
僕は彼の作ったMEN'S BIGIを高校生の時に手に入れた。僕にとってそれはマジック スタッフだった。
そして僕がもっとスーツを必要とする年齢になった時に彼はMEN'S BIGIを去って行った。
菊地武夫氏が去った後、MEN'S BIGIは今西氏が継いだ。
僕は1985年に今西祐次の作るMEN'S BIGIを見にMEN'S BIGIに行き、スーツに袖を通した。
そこにはMEN'S BIGIと書かれてあるが、それは僕が知るMEN'S BIGIでは無くなっていた。
それ以来僕の中にあった菊地武夫のMEN'S BIGIはレジェンドに変わり、実体としてそこに存在しなくなった。
そこに実体としてあるMEN'S BIGIと言う名の洋服には魂は無く、ジャズの残り香も又なくなっていた。
醸し出す芳醇な味わいが失われ、ジャズの匂いが失われた時、僕はMEN'S BIGIから離れた。
今も存在し、非常に繁盛しているメンズビギは僕から見ると魂の抜けたモノの残骸にしか見えない。
菊地武夫氏がビギを抜けた。その本当の理由は僕にはわからないが、彼がどうしてここを出よう。と考えるようになったかはよくわかる。
彼の求めるモノは、(今も求めているモノは)洋服の持つ意味、すなわち着るものを際立たせるそのファッションにあるからだ。会社を大きくして商売を繁盛させることが目的ではなく、良いモノ。通用するモノ。モダンジャズの様なアヴァンギャルドなモノ。それでいて英国的なトラディショナルでベーシックなモノ。
そんなエレメントが含まれたモノを希求した結果だ。
MEN'S BIGIは今も存在する。しかしそれはお洒落でいて魂の抜けた蛻の殻の様なものでしかない。
吸引力に似た魔力などは全く存在しないただの洋服でしかない。
あの頃魔法をかけた菊地武夫は今もなお色気のある服を着て、日本離れした感性を持ち続け、驚くほどにダンディーであり続けている。
年をとったら、ああなりたいものだ。
Posted at 2012/12/13 22:28:01 | |
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2012年12月12日
「攘夷(海外からの侵略者を討つ事)ができない幕府など潰してしまえ。討幕じゃ、討幕じゃ。そうじゃ討幕じゃ」
「幕府より、古(いにしえ)からの天皇じゃ。そうじゃ、天皇じゃ」
「そうじゃ、そうじゃ!!これからは尊王攘夷じゃ!!」
維新回天の夜明け前の日本はこんな感じだった。
で、幕府を倒し、新政府が樹立した後、夷敵との関係はどうなったか。政府首脳は諸国漫遊の旅に出て(実際はそんなのんきなものではなかったが)条約改正に奔走した。しかし当然のことながらそこでは、「お前たち、馬鹿言ってんじゃないよ」とまで露骨な対応はされなかったが日本と日本代表たちは軽くあしらわれた。もちろん、攘夷どころではなかった。
「国家が強くないと、個人の発言力など皆無だ」
彼らは欧米を周りその様を見て、身に沁みてそう感じた。その後、2年近く外遊し帰国した大久保利通は、このまま仕官する事さえ思い悩み、先の見えない日本の復興を考えた時に、そこにある現実と理想との落差あるギャップ、そして日本と諸外国との間にある文明のあまりにも大きな乖離状況に愕然として放蕩し京都嵐山を訪ねた。
戊辰戦争によって荒れ果てた嵐山の景色を観た大久保に彼らは語りかける。無論、彼ら地元民は彼が大久保利通とは知らない。
「幕府の頃は良かった。公共事業によってこの辺は美しい景観を保ったものだった。それが新政府様は他が忙しいようで、嵐山などは後回し、放置状態じゃ。全く世の中悪い方に変わったものじゃ。徳川様が懐かしいわい」
大久保は考えた、我々の目的は何だったのか。
薩摩藩で生まれ育った大久保は諸国に出て同じ事を感じた。薩摩隼人が日本国内で主導権を握れたのは最強の国、薩摩藩が背景にあったからだ。これが無ければおい達の発言など受け付けてもらえなかったはず。雄藩に対して革命の主導権を握れたのは強い国家と言う後ろ盾があったからだ。
それ以降大久保は強い国家を目指し、強い国家と共に常にあった。薩摩藩にいた頃とその手法はまるで変わっていない。不敗の宰相の鉄則がここにある。
明治維新によって日本人は初めて国民国家を持った。だから幕末から明治に生きた人々。
すなわち日本国民の第一世である日本人は出来たての国家を非常に愛し、大切に思った。
そして連戦連勝し夷敵を破った。
日本はあの時夢見た通りの念願がかなって攘夷出来るほどに富国強兵化した。
そうした国力を背景にこの国は世界で「個人が発言出来る」までに至った。
あの日、大久保が夢見た通りになった。その夢がかなったのは、大久保の後の世代。二世の時代だった。そして高慢になり邁進した日本人三世は太平洋で暴れて、基の黙阿弥とも言える国家衰亡の道を辿った。太平洋戦争に敗れ。世界の理事国でもなくなり、敗戦国として国際社会に身を委ねた。
それ以来、この国は世界に出て「個人の発言」が許される環境ではなくなった。
このはねっ返りの三世による敗戦以降、日本人は女性が逞しく成長し国家の礎となるべく又、自身の地位向上をも含め懸命に社会に躍進した。狭い視野のままで。
そして彼女たちは目先の生活に焦点を合わせた飛躍しない安定した日常を目指した。ここに市場ありと女性の消費力に目を付けた企業は、その市場性を勘案したために社会全体がその方向に沿って舵を切り歩き始めた。
「日本はアメリカの州であったほうが良かった」と若者たちが思うほどに、そこに日本らしさという本来持っていた顔をしていない、顔の無い国家になってしまった。
大久保は昔考えた。「(革命を起こした)我々の(本来の)目的は(一体)何だったのか」
今、僕たちがそれを考えるべき時に来ている。「我々の本来の目的は何だったのか」
時代は下がり選挙制度が出来て選挙がおこなわれるようになった。
最初はクリーンな選挙でもなければクリーンな政治家達でもなかった。しかし彼らは仕事をした。
現在の政治家たちは、綺麗事を並べて頭を垂れるが、何もしない政治家のなんと多い事だろうか。
明治の頃を思えば「維新」とは軽い言葉や思想ではなかった。
そして新たなるものの考察方法や試行がない思想に対し、「維新」と言えばそれは詐欺行為に等しい。
政治家の諸君。
もっと頭を柔らかくして未来につながりすそ広がりに広がるような新規なる大綱を編んでくれないかね。
僕たちが票を投じたいのは、その改まる事に対してなんだよ。
もっとアイディアを持ち出し、もっと実現し、もっと風呂敷を広げ、実行力をもってそれをやって行きます。と言うような、そんな選挙戦を見たいものだ。
週末は選挙に行きましょう。僕たちは国家を持つ栄誉ある国民なのだから。
Posted at 2012/12/12 23:29:58 | |
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2012年12月11日
12月8日 土曜日
いつもの通り6:00に起きて6:30に出発。8:20には御成り町のスタバへ。
今日は、予定通りRAPHAのHARDSHELL JACKETを羽織って走った。
感想を以下に記す。
その性能は抜群としか言いようがない。このウエアーはパーフェクトだ。
ウインタージャケット系のいわゆるシャリシャリした感じがこのジャケットには全くない。
胸から腰にかけてのフィット感は最高のホールド感で密着し、広いアームホールによって肩は非常にリラックスできる。まずもって防風については完璧で、予想以上の保温力だった。
この生地を開発したのは東レか?三菱レイヨンか?
日本製らしいが、大したものだ。これだけ軽くて機能的でスタイリッシュなウインタージャージは存在しない。
僕のRAPHA HARDSHELL JACKETに関するREVIEWは「パーフェクト」の一言に尽きる。
このジャケットの価格はUS$375だが、それ以上の価値がそこにはある。
そういう意味ではお買い得なジャケットだ。
それにしても土曜日はウィンディーな一日だった。追い風で平地で52㌔も出たのには驚いた。
逆に向かい風の時は立ち漕ぎでも10㌔がやっとだった。
いろいろな意味で心拍数のあがる週末だった。
Posted at 2012/12/11 00:48:10 | |
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Rouleur - fun to ride - | 日記