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2017年07月14日

房総半島(2日目その3・南房総市・館山市)

滝田城は上滝田区根古屋の西方の丘陵上にあり、下滝田区の大手口より登ると最高所は標高140mで八幡台と呼ばれ、石宮の八幡小祠があります。ここが本丸(主郭部)と考えられ、これを囲む形で曲輪と思われる数か所の台地が見られます。東側の標高100mの中腹台地は馬場跡と伝承されています。
城址は西方に尾根が続きますが、南北に断崖がある要害の山城です。
築城の年代は明らかではありませんが、安房志では城代を里見5代義豊の妹を妻とした一色九郎としています。また快元僧都記の天文6(1537)年の項には、里見6代義尭が天文3(1534)年の犬掛合戦の後、暫く房州部久里郡に居城していたと記され、これを滝田城とする説が有力です。
また南総里見八犬伝では里見義実の居城で八犬伝発祥の城とされています。伏姫と八房の像などが建っています。
(現地説明板などより)
滝田城

滝田城

滝田城

滝田城

滝田城

岡本城は、戦国大名里見義弘が、小田原の北条氏に対する海防の要地にするため、時の城主であった岡本隨縁斉から譲り受けて修築し、元亀3(1572)年に完成させた城です。
義弘は城主として子の義頼を住まわせました。城の山腹はすべて削り上げて絶壁にし、郭や堀切が作られています。
山腹の要害と呼ぶ所は城主の館の跡で、東方の聖山は、天正7(1579)年に起きた里見一族内紛の時、義頼の弟・淳泰(梅王丸)が幽閉された所です。
聖山の北東山頂付近には、岩盤を掘り込んだ水堀・桝ヶ池があり、どんな干天にも涸れることはなかったといわれています。
現在は、里見公園となっています。
平成24(2012)年1月24日、里見氏城跡岡本城跡として稲村城跡と共に国指定史跡になっています。
(現地説明板などより)
岡本城

岡本城

岡本城

館山城は里見氏によって築かれました城ですが、この地は、鏡ヶ浦に臨む標高79,.3mの独立した小丘であり、要害の地であることから、既に保元年間(1156~1159年)に沼ノ平太こと平ノ判官貞政が居館した所と伝えられています。
 「里見氏代々記」によると、築城の頃、里見氏の居城であった岡本城は、立地に恵まれず、8代・義頼の時から館山築城を計画していました。義康は父の遺志を継いで、天正16(1588)年に築城に取り掛かり、2年半を費やして竣工しました。「房総里見誌」に「石塁峨々として築き上げ、堀は深満に等しく、矢倉高くして蒼天を仰ぎ…郭を真倉と云い、大手を根来下、搦手を藤井と云う。並びに上、中、下と町割して、四民ども日々群集して繁昌す。」とあるように、城郭、堀、楼閣、武家屋敷、城下町などが計画的に造成され、城そのものは地積約43万㎡(約13万坪)の壮麗堅固な平山城でした。
天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原征伐で里見氏は豊臣方として参陣しましたが、里見氏が保護していた御弓公方足利氏の遺児頼淳のために鎌倉を回復しようと企てたことや惣無事令に違反したことを理由に上総国は没収され、安房国一国を安堵されました。
これにより上総国の家臣は安房国へ引き上げることとなり、里見義康は居城を岡本城から館山城へ移すことになり、天正19(1591)年に館山城に居城を移しました。
慶長19(1614)年、里見忠義は外祖父である小田原城主の失脚に連座する形で安房国を没収され、伯耆国倉吉に三万石で転封となり館山城は破却されました。時に慶長19(1614)年9月20日のことでした
元和8(1622)年忠義が没すると嗣子なく里見家は断絶となりました
城山公園山頂にある三層四階天守閣形式の館山市立博物館分館は昭和57(1983)年10月31日に開館し、現在は八犬伝博物館とも称しています。里見氏を題材にした「南総里見八犬伝」に関する各種資料の展示と、現在にまで続く八犬伝の人気を紹介しています。
(現地説明板などより)
館山城

館山城

館山城

館山城

大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取り潰しの策を巡らせていました。この策により改易を命ぜられ、伯奢国・倉吉に移された房総里見氏10代・忠義は、憂悶のうちに元和8(1622)年に29歳で倉吉在の堀村で卒しました。
 この悲運の主君に従って殉死した8人の家臣は、その氏名は不詳ですが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されているのは何を暗示しているのでしょうか。
慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君・忠義と8人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく漁師の姿に身をやつして遥々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、密かに館山城の南麓に埋めたのが、この八遺臣の墓であると云われています。
この8人の殉死者が、「南総里見八犬伝」のモデルであるとも伝えられています。
(現地説明板などより)
八遺臣の墓

館山藩稲葉氏の陣屋跡・館山陣屋です。慶長19年に里見氏の館山藩が廃藩となり、館山城も破却された後、しばらく藩はおかれませんでしたが、天明元(1781)年に旗本稲葉正明が安房国で加増をうけ1万石の大名になると館山藩を立て寛政3(1791)年に館山城跡の南麓に陣屋を構えました。
現在御屋敷と呼ばれているところで、当時の区画が残され、稲葉氏の霊を祀った稲葉稲荷神社(貴美稲荷)があります。
明治4(1871)年の廃藩置県、館山県の木更津県に統合されるまで、稲葉正明、正武、正盛、正巳、正善と続きました。
館山陣屋

館山陣屋

館山市立博物館本館は戦国大名里見氏の居城跡である城山公園内に設立された、郷土の歴史と民俗の博物館です。
史実の里見氏の展示を中心に地域の歴史博物館として、安房地方の歴史や民俗資料を収集し展示しています。常設展示は歴史展示室、民族展示室、子ども展示室などで構成されています。
日曜・祝日には甲冑の着用体験も行っています。
館山市立博物館

安房国分寺は、山号は日色山、真言宗智山派の寺院です。
聖武天皇の天平13(741)年、国ごとに国分寺をおく詔がだされましたが、安房は天平宝字元(757)年に上総から分立した国のため、安房国分寺の創建はそれ以降の奈良時代末のことと考えられます。
安房国分寺跡は、昭和51年~53年(1976年~1978年)に実施された現国分寺境内を中心とする地域の発掘調査で、掘り込み地形による版築遺構が出土されました。規模は東西22m、南北15mを測り、金堂基檀跡とみられています。また、安房国分寺使用のものと推定される平瓦や布目痕のある軒丸瓦、礎石、円筒状の三彩獣脚1点などが出土しています。安房国分寺の創建は奈良時代末頃という説があります。山門をぬけると参道の傍らに当時用いられた円形の楚石が置かれ、本道横には南北朝時代の五輪塔があるほか、山門入口には「孝子伴直家主の碑」や「安房三義民の墓」があります。
昭和32(1957)年に館山市指定史跡に指定され、平成4(1992)年に千葉県の史跡に指定されました。
(現地説明板などより)
安房国分寺

安房国分寺

安房国分寺

安房国分寺

稲村城は、室町時代15世紀後半から天文3(1534)年に里見家の内紛によって里見義豊が滅ぼされるまでの前期里見氏の居城でした。
16世紀前半、3代義通が居城とした城で、4代義豊が5代義堯に攻め滅ぼされた「天文の内訌」の舞台となった城です。
ここは安房国の府中を押さえる位置にあり、里見氏による安房支配のための拠点でしたが、内紛を収めた分家の里見義堯が、本城を滝田・宮本方面へ移すと使用されなくなりました。そのため、戦国前期の城の姿がいまも残された、貴重な遺跡と評価されています。
城の中心部は、東西500m、南北500mの丘陵で、山頂に広い主郭や土塁、三ケ所の堀切などがあります。北側と西側は急斜面の要害で、東側と南側には複雑に腰曲輪を重ねるなど、数多くの遺構が残されています。
また、北の滝川は外堀の役割をもち、東・西・南を廻る丘陵は外郭の役割をはたして、東西約2km、南北約1.5kmにわたる大規模な範囲の城で、安房国の統治を主眼にした所堅固の城と考えられています。平成24(2012)年1月24日に岡本城(南房総市)とともに「里見氏城跡 稲村城跡」として国の史跡に指定されました。
(現地説明板などより)
稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

洲崎神社すのさきじんじゃ)は延喜式神名帳に「后神天比理乃咩命神社大 元名洲神」と記され、 天太玉命の后神を祀る式内大社で、元の名を洲神と称しました。
宝暦3(1753)年の「洲崎大明神由緒旧記」によると、神武天皇の時代、天富命が御祖母神天比理乃咩命の奉持された御神鏡を神霊として、洲辺の美多良洲山に祀られたことに始まります。
治承4(1180)年、安房に逃がれた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願しています。
室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請したと伝えられています。房総里見氏も当社を尊崇して、7代義弘が神領5石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下しました。
幕末の文化9(1812)年、房総沿岸警備を巡視した老中松平定信は「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納しています。
神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元寇戦勝祈願の功により勲二等に叙せられ、明治6(1873)年県社に列せられた。往時、別当寺は養老寺など五ヶ寺を数えました。洲崎明神は古来伝承されている数々のあらたかな霊験から、安産・航海安全・豊漁・五穀豊穣や厄除開運の守護神として信仰が厚く、現在に及んでいます。
本殿の屋根は銅板葺の切妻造で、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流れ造りで、柱などの軸部は朱塗りで仕上げられています。軒下の組物を、寺院建築で用いられる唐様三手先とするのは、珍しい点といえます。
社伝では延宝年間(1673〜81)の造営とされていますが、三手先の形式がくずれている点や、支輪や虹梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多い点から、その後に大規模な修理が加えられていることがわかります。
しかし本殿の正面と背面には、古い社殿の部材と思われる蟇股もあります。
とくに背面の竹に虎を配した彫物のある本蟇股は、江戸時代初期の寛永年間(1624~44)頃の様式に従っているもので、延宝年間の造営の際に再利用されたものと考えられています
洲崎踊りは、毎年、2月の初午と8月20~22日の神社例祭に奉納されます。「みろく踊
り」と「かしま踊り」の2種類からなり、地元ではこれらを「みのこ踊り」と呼んでいます。8月の例大祭には勇壮な神輿の渡御や浜祈祷も行われます。
神社裏の御手洗山の自然林は県の文化財指定を受けています。
(現地説明板などより)
洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎観音養老寺は正式には「妙法山観音寺」といい、神仏分離までは洲崎神社の社僧を勤めていました。
創建は養老元(717)年で、開祖は役行者、現在は真言宗智山派の寺院です。
開祖役行者の石造をお祀りしている岩屋があります。
役行者(役小角)は、奈良時代の山岳修験者で、修験道の開祖として伝えられています。
修験道は山岳信仰を基底におき、それに真言密教が習合したもので、全国の山々を修行の場として難行苦行を重ね加持祈祷を行う仏教の一派で、その代表が役行者ということになります。
また、役行者は海上歩行や空中歩行の神通力を持っていたことから古来より足の守護神とされ、現在でも健脚になるよう多くの草鞋が奉納されています。
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」には、役行者の化身が伏姫に仁義礼智忠信孝梯の八文字が浮かぶ数珠を授ける場面が登場します。
この物語で活躍する八犬士の所持する珠こそ役行者が伏姫に授けたものと伝えられています。
(現地説明板などより)
養老寺

野島崎にある里見義実公上陸の地碑です。
「南総里見八犬伝」で知られる戦国時代の大名、里見氏の初代里見義実公が結城の合戦に敗れて三浦半島からここ白浜の野島崎に上陸したのが嘉吉元(1441)年〔文安2(1445)年という説もあります〕のことといわれています。
義実公は白浜に居城を構え安房の国を支配していた安西氏、神余氏、丸氏、東條氏の四豪族を打ち破って安房を統一し、房総里見氏の幕開けとなりました。
(石碑より)
野島崎・里見義実公上陸の地碑

野島崎は、房総半島南端にある岬で千葉県および関東地方(伊豆諸島・小笠原諸島を除く)の最南端です。
野島崎には、白鳥の灯台とも呼ばれる野島埼灯台があります。慶応2(1866)年5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税条約」(別名・江戸条約)によって建設することを約束した8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つです。点灯は明治2年12月18日(新暦では1870年1月19日)に観音埼灯台に次いでわが国2番目に点灯しました。
野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

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