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2007年09月05日

石見~長州~豊前ドライブ(1日目その2・雪舟、益田氏と石州口の戦いの史跡が残る益田)

次は益田です。ここにはかなり歴史が詰まった町と言うことを聞いていましたので、以前から訪れたいと思っていました。
最初に、益田市立雪舟の郷記念館を訪れました。益田市は、雪舟の終焉地といわれています。平成2(1990)年10月に雪舟の墓がある雪舟廟大喜庵に隣接してオープンした雪舟や雪舟の画法を受け継いだ雲谷派の絵画などを展示しています。


隣接地の大喜庵は、元々は妙喜庵東光寺と呼ばれ、雪舟が最晩年を過ごした寺といわれています。雪舟は益田氏の招聘により石見を2度訪れました。終焉地は東光寺の他、山口の雲谷庵、備中の重源寺、同真福寺など諸説がありますが、墓があるのはこの大喜庵のみです。雪舟の墓は、東光寺の荒廃と共に寂れましたが、江戸時代中頃の宝暦年間に乙吉村の庄屋金山太右衛門が施主となり、願主である佐渡の浄念とともに改築したものが現在の墓です。境内には雪舟の銅像もあります。


小丸山古墳は、益田平野を一望する山頂に立地している前方後円墳です。雪舟の郷記念館、雪舟廟大喜庵に隣接している場所にあります。
古墳時代後期の6世紀の初め頃に造られたもので、この地方を支配した首長の墓と考えられています。
墳丘の全長は52mあり、石見地方では第4位の前方後円墳です。
平成4(1992)年度にふるさとづくり特別対策事業により復元しました。


三宅御土居は、益田氏の居館でした。ちなみに御土居とは武士の館があった場所を指す「土居」の敬称です。
益田氏第11代益田兼見により、室町時代の応永年間(1368~75)年に築かれ、天正11(1583)年頃に改修されたといわれてきましたが、都市計画道路の整備に伴う発掘調査により、12世紀にさかのぼる中国製の白磁や青磁も多数出土したことから、平安時代の末期頃から拠点的な施設が成立していたと考えられます。館の周囲は堀と川で守られ、その敷地は東側が北に突出した長靴形で1町(約109m)四方といわれる通常の館の倍の規模だったことが分かっています。御殿などの主要建物はまだ確認できていませんが、倉庫や作業場と考えられる建物跡などが確認されています。現在は一部をおどい広場として復元しており、あずまやと、井戸屋形が復元されています。土塁跡は、墓地になっています。
平成16(2004)年9月30日、七尾城とともに益田氏城館跡として国指定史跡となりました。


医光寺は、臨済宗東福寺派の寺院で、元は天台宗崇観寺の後進です。崇観寺は貞治2(1363)年、斎藤長者の妻により創建され、益田兼弘の保護と援助を受けて栄えました。
室町時代に益田宗兼が、現在地に医光寺を建立し、栄えました。享保14(1729)年に大火で延焼し、再建されて現在に至っています。
文明年間に雪舟が訪れ、作庭した庭園は池泉鑑賞半回遊式の庭園で、鶴を形どった池の中に亀を浮かべています。また、総門は七尾城の大手門でしたが、関ヶ原の戦いの後、益田氏が須佐に移ったため、廃城となり医光寺の総門として移築されたと伝えられています。


萬福寺の近くにある益田兼見の墓です。益田兼見は、益田氏第十一代当主で、山道庶子家から入って益田惣領家を継いだ知勇兼備の武将です。兼見は、南北朝の争乱の際、暦応3(1340)年、足利尊氏が派遣した石見の守護上野頼兼を助け豊田城、高津城、稲積城、三隅城を攻略するなど北朝方として石見の各地に転戦しました。
その後、正平4(1349)年に足利尊氏の子で足利直義の養子の直冬が九州に移って南朝に帰順すると、兼見も南朝に転じました。直冬の死後正平19(1364)年に南朝方として石見に進出してきた大内弘世が幕府に下ると、兼見も弘世に従い北朝方として三隅氏や福屋氏と戦いました。以後、益田氏は大内義隆がその家臣の陶晴賢に滅ぼされるまで大内氏に従属していました。
また、兼見は三宅御土居を中心に益田の町の整備を行い、萬福寺、崇観寺、医光寺、滝蔵権現(天石勝神社)など寺社の創建にも力を注ぎました。
兼見は時宗に帰依し、応安7(1374)年、中須の安福寺を現在地に移転改築し、萬福寺と改め、自らの菩提寺としました。兼見は明徳2(1391)年に亡くなり、万福寺境内の椎山麓に墓が建てられました。しかし、昭和58(1983)年の豪雨災害復旧工事により、現在地に移設されました。暮石は高さ1.6mの五輪塔です。傍らの小さい墓は父の益田兼方の墓です。


雪舟庭園は萬福寺にもあります。時宗益田道場清瀧山、浄光院萬福寺は、もとは安福寺と号し、石見国中洲浦にあった天台宗の大寺でしたが、万寿3(1026)年5月の大津波で堂塔ことごとく流失しました。
その後小庵を建て、わずかに寺号と法灯を守っていましたが、承和2(1313)年に遊行第4代呑海上人が再興し時宗の道場となりました。応永7(1374)年には、益田越中守兼見がこの地に移築し、萬福寺と改め、益田氏の菩提寺となりました。
文明年間には雪舟が滞在し、庭園を作庭しました。須弥山世界(仏教の世界観)を象徴した石庭で、曼荼羅(悟りの境地を表現したもの)を連想させる雪舟の墨絵に似通う趣も感じられる見事な庭園です。国の史蹟及び名勝です。
本堂は鎌倉時代の正和年間(1312~1316)年のものといわれ、応永7(1374)年に益田兼見が移築したものと伝えられ、国の重要文化財に指定されています。
慶応2(1866)年の第二次長州征伐・益田戦争の際には福山藩、浜田藩の陣営となり、兵火のために総門が焼失しましたが、本堂や庫裏は無事でした。


益田市立歴史民俗資料館は、歴史資料や民族資料の展示を行っており、七尾城や、三宅御土居の発掘資料、復元模型などを見ることができます。この地の豪族益田氏の歴史も学べるので、益田の歴史に興味のある方は必見です。
建物は、大正10(1921)年に建てられた美濃郡役所です。その後益田警察署などに使用され、昭和58(1983)年に歴史民俗資料館としてオープンしました。平成8(1996)年に国の登録文化財になりました。


染羽天岩勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ)は、社殿の東側、弁天池の背後にある注連岩(しめいわ)を石神とした自然崇拝を起源とし、神亀2(725)年に天岩勝命を祭神として創建された神社です。
滝蔵権現と呼ばれており、承平元(931)年には、別当寺の勝達寺を建立し、中世には益田氏の庇護を受けて発展しました。明治の廃仏毀釈に伴い勝達寺は廃寺となり、神社も染羽天岩勝神社と改めました。勝達寺の本尊であった不動明王は、鎌倉の極楽寺に現存し、国の重要文化財に指定されています。
染羽天岩勝神社の本殿は、天正9(1581)年に火災で焼失しましたが、益田藤兼、元祥親子により再建されました。昭和4(1929)年に旧国宝になり、戦後重要文化財に指定されました。


次はいよいよ七尾城です。その前に七尾城の中腹にある住吉神社を参拝しました。益田兼高が、源平合戦で源義経に属して一ノ谷、壇之浦で功績を挙げ、七尾城を築城した際に、城山鎮護の神として、建立しました。現在の本殿、拝殿、参道は昭和49(1974)年に三箇年の歳月を経て改築したものです。


七尾城(益田城)は、中世400年間にわたり西石見に勢力を誇った益田氏歴代の居城でした。
七尾城は七尾山全体に築かれており、北方を流れる益田川に向かって開く、東西二つの丘陵を中心に大小40あまりの曲輪を設けた堅城でした。
南北朝時代には既に築城されており、延元元(1336)年には南朝方の三隅氏が攻め寄せた記録が残っています。
発掘調査の結果、戦国時代末期には、陶晴賢に味方した益田藤兼が毛利氏の攻撃に備えて大改修を行い、城の中心部には礎石建物が建ち、益田氏の当主とその家臣が居住していたことが明らかになりました。
しかし、その後益田氏は毛利氏の軍門に降り、藤兼の嫡子元祥は吉川元春の娘を正室に迎えて毛利氏の家臣となりました。
慶長5(1600)年、益田氏20代元祥が関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏の家老として長門国須佐に移ると七尾城は廃城となりました。医光寺の総門は七尾城の大手門を移築したと伝えられています。
平成16(2004)年9月30日、益田氏城館跡として三宅御土居と共に国指定史跡となりました。
現在も土塁や堀切、井戸跡などがよく残っています。登城は住吉神社の参道を登ると、住吉神社社殿の左手に登城口があります。


妙義寺は益田氏の菩提寺です。
第二次長州征伐・益田戦争では長州軍の本陣になりました。
門前(道路を挟んだ向かい側)には益田兼堯公の銅像が建っています。益田氏第十五代当主で応仁の乱などでも活躍し、益田氏中興の英主といわれています。益田兼堯の時代に雪舟も益田を訪れ、「益田兼堯像」は国の重要文化財に指定されています。


益田藤兼の墓です。益田藤兼は益田氏の第十九代当主です。
藤兼は、陶晴賢の叛乱の時、陶氏との縁戚関係により陶晴賢に味方しました。晴賢が毛利元就に敗れると藤兼は七尾城を修築し決戦に備えました。しかし元就の子吉川元春の仲介により以後元就に忠誠を尽くしました。
その後毛利氏と三隅氏の戦いに際しても、藤兼は先頭に立って活躍しました。毛利、益田軍により石見は平定されました。また、藤兼は勤王の精神が篤く織田信長の皇居造営に対し献金を行い、正親町天皇より大蘊全鼎大居士の号と、従四位下侍従の官位を与えられています。


次は益田訪問において、どうしても行きたいと思っていた扇原関門と岸静江国治の墓に行きました。最初に岸静江国治の墓を訪れました。扇原関門に程近い多田温泉近くの道路沿いにあります。
慶応2(1866)年6月16日朝、横田を出発した大村益次郎(村田蔵六)の指揮する長州軍は九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り、開門を要求しました。浜田藩隊長の岸静江国治はこれを拒絶し、僅かな部下を急募の農民と共に関門の守りにつきました。圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、関門は重大な危機に直面したので岸はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守する内不幸にも銃弾を受けて三十一歳を一期として壮烈な戦死を遂げました。
昭和8(1933)年、岸静江国治は靖國神社に合祀されました。



扇原関門は、元治元(1864)年、江戸幕府と長州藩が緊迫し始めた頃、浜田藩と津和野藩の藩境にあるこの扇原に番所が設けられたといわれています。
慶応2(1866)年6月16日朝、横田を出発した大村益次郎(村田蔵六)の指揮する長州軍約1500名は横田方面からこの地にさしかかり、扇原関門の浜田藩隊長の岸静江国治は通過を許さず、ついに戦闘が開始されました。俗に「石州口の戦い」と言われ、大島口(周防大島)、芸州口(安芸)、小倉口(九州小倉)の戦いと併せ四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となりました。
圧倒的多数の敵兵を前に岸静江は仁王立ちのまま絶命し、関門を通過した長州軍は翌17日には医光寺、勝達寺、萬福寺に布陣していた幕府軍(浜田藩、福山藩)を敗走させました。
岸静江の最後については、司馬遼太郎の小説「花神」で劇的に取り上げられています。小説では、大村益次郎は岸静江に感動した様子が描かれており、また兵制改革を行った大村益次郎と「最後の侍」ともいえる岸静江とを描くことで時代の変革を象徴するシーンとして描いています。
岸静江国治の墓のある場所に案内看板があり、そこから脇道に入ります。「岸静江戦死の地」の石碑、「従是北濱田領」、「従是南津和野領」の石碑などが建っています。


次は、津和野へ向かいます。
ブログ一覧 | 日記
Posted at 2007/09/17 21:50:38

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この記事へのコメント

2007/09/17 22:06:34
こんばんは~♪

さすがにここっ!というスポットは全部訪れてはりますね~村田蔵六は石州口で

は、ハシゴを使って屋根に上り、的の行動を良く観察した上で屋根から銃撃を加え

たとあります。

岸静江は戦国の世には生まれず太平の世に生まれましたが「武士とはこうあるべき

だ」という事を理想としていた、侍ですね~♪

石州口についての長州の兵力については、1500説と700説とあります。

はっきりいってどちらかは分かりません・・・

ですが、四境戦争の必要上、小倉口にどうしても兵力を集中する必要があり、石州

口にはそんなに連れて行けなかったのは確かなようです・・・
コメントへの返答
2007/09/17 22:25:37
こんばんは。
石州口の戦いは大村益次郎の采配が光った戦いでしたね。兵力はそんなになかったようですが・・
岸静江については、本当に江戸時代の教養時代が造った武士の理想像ですね。
敵にも感動を与えたというのは、幕府方の戦死者には珍しく靖國神社にも祀られていることに現れているような気がします。
2007/09/18 01:14:31
随分ご無沙汰しました。

益田がこんなに歴史ある街とは知りませんでした。
特に雪舟終焉の地であるとは知らなかったです。

関東に住んでいると、山陰は寂れた寒村のイメージが強いのですが、ビズモさんのブログを読むようになって、京都と地理的に近いせいか、非常に高い文化水準にあったことが良くわかります。それと保存状態が比較的良好な史跡が多いですね。
コメントへの返答
2007/09/18 22:49:48
こちらこそ随分ご無沙汰しております。
益田はかなり歴史のある町ですね。益田氏が支配していた時代が長いですが、その中で文化も花開いていたようです。
雪舟の終焉の地はいろいろ説があるようですが、一つの町にこれだけ足跡が残っているのも珍しいと思います。山陰は大陸にも近いこともあって、中世以前は山陽地方よりも文化水準が高かったのかもしれません。銀山や良い港もありますし。
2007/09/18 23:05:37
はじめまして。みかわぼっちと申します。凄いですね。歴史をよく勉強されてますね。私も益田にはよく行きますが、こんなにじっくりとは見てません。中国地方、とりわけ毛利氏、尼子氏、大内氏の時代の歴史は他県の人には知られていない、関心を持たれていないと思っていますが、さにあらずですね。恐れ入りました。
コメントへの返答
2007/09/19 00:15:25
はじめまして。コメントありがとうございます。
益田にはよく行かれるのですね。私は初めてで、以前から行きたいと思っていたので今回念願が叶いました。
中国地方の毛利、尼子、大内氏の歴史は面白いですね。特に幕末の毛利氏の家臣の姓には中国地方の地名を使用しているケースが多く、歴史の長さを感じます。
2008/04/21 14:55:24
こんばんは。益田です。もう40年も前になりますが、子供の頃家族で益田を訪れました。先日76歳になる父から益田家の歴史を聞きもっと詳しくしりたく、このブログにたどり着きました。関ヶ原の戦いのあと須磨に移ったこと、父も話していました。あとはうちの祖父が昭和初期、豪族益田の出身だったことも祖母(宇野家出身)から子供の頃きいていました。それらの話が、このブログで紹介され、改めて自分家の歴史を学べました。ありがとうございます。
コメントへの返答
2008/04/21 21:49:54
こんばんは。
益田氏の一族の方ですか。私も益田氏の歴史についてはもっとよく知りたいと思っています。
萩に移った毛利輝元が最も信頼していたのが毛利氏にとっては外様であるはずの益田元祥で、幕末には益田右衛門介が蛤御門の変で表舞台に出てくるなど、中国地方の歴史にとって戦国時代のみならず、江戸時代にも欠かせない一族ですね。
益田の町も津和野ほど観光都市ではありませんが、なかなか趣があって素敵な町でした。
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