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ピズモのブログ一覧

2015年10月31日 イイね!

明治神宮・護国寺・日本橋・門前仲町

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする神宮です。
明治天皇は崩御後、京都の伏見桃山陵に葬られましたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民(当時)から起こり、大正3(1914)年、明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として神宮建設が決定しました。御料地はかつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものです。造営は翌大正4(1915)年から開始され、全国から13,000人もの国民が労力奉仕に自発的に参加しました。
鎮座祭は、大正9(1920)年11月2日に行われ、皇室からは大正天皇の名代として皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が行啓しました。
初代宮司は公爵一条実輝です。
御苑は江戸初期以来加藤家、井伊家の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内庁所管となり、代々木御苑と称せられ、明治天皇、昭憲皇太后にはたびたびお出ましになられた、ご縁の深い由緒のある名苑です。
面積約83,000㎡あり、曲折した小経が美しい熊笹の間を縫い、武蔵野特有の雑木林の面影をとどめています。苑には隔雲亭、御釣台、菖蒲田、清正井があります。
明治神宮
明治神宮 posted by (C)pismo

明治神宮 (1)
明治神宮 (1) posted by (C)pismo

明治神宮 (2)
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明治神宮 (3)
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明治神宮 (4)
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明治神宮 (5)
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明治神宮 (6)
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明治神宮 (7)
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護国寺は、山号は神齢山、真言宗豊山派の寺院です。
天和元(1681)年2月7日、5代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護國寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜り堂宇を建立し桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像(秘仏)を本尊として、号を神齢山悉地院護國寺と称し寺領三百石を賜ったことに始まります。
現在の観音堂(本堂)国指定重要文化財は元禄10(1697)年正月、観音堂建立の幕命があり、約半年余の工事日数でこの大造営が完成し、同年8月4日落慶式が挙行さましれた
月光殿は、国指定重要文化財で近江(大津市)の三井寺の塔頭日光院の客殿を移築した桃山時代の建築で書院様式を伝えるものとして貴重な建造物です。 
境内には月窓軒、化生庵、艸雷庵(そうらいあん)、不昧軒、円成庵、宗澄庵等々の八席それぞれ数寄を凝らした茶席がありその基を築かれたのは明治から昭和初期にかけて再興に寄与された高橋箒庵翁の尽力の賜物です。
また、境内には松平治郷(不昧)、三条実美、山県有朋、大隈重信、山田顕義、大倉喜八郎らの墓所があります。
(現地説明板などより)
護国寺
護国寺 posted by (C)pismo

護国寺 (1)
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護国寺 (2)
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護国寺 (3)
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護国寺 (4)
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護国寺 (5)
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護国寺 (6)
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護国寺 (7)
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護国寺 (8)
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護国寺 (9)
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護国寺 (10)
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護国寺 (11)
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護国寺 (12)
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護国寺 (13)
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護国寺 (14)
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日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8(1603)年と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は安藤(歌川)広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造2連アーチの道路橋として明治44(1911)年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42(1967)年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47(1972)年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣の佐藤栄作の筆によるものです。
平成10(1998)年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11(1999)年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
(現地説明板などより)
日本橋
日本橋 posted by (C)pismo

日本橋 (1)
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日本橋 (2)
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日本橋 (3)
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日本橋
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日本橋 (4)
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日本橋 (5)
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日本橋 (6)
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日本橋 (7)
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日本橋 (8)
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産直鮮魚とマグロの明神丸は、宮城県女川町公認のアンテナショップ居酒屋です。
門前仲町駅下車、富岡八幡宮前にあります。
サンマ、ほや、銀鮭、ほたて、ツブ、うに、あわびや三陸の活魚、そして宮城県など東北の銘酒を楽しめるお店です。
産直鮮魚とマグロの明神丸
産直鮮魚とマグロの明神丸 posted by (C)pismo

産直鮮魚とマグロの明神丸 (1)
産直鮮魚とマグロの明神丸 (1) posted by (C)pismo

産直鮮魚とマグロの明神丸 (2)
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産直鮮魚とマグロの明神丸 (3)
産直鮮魚とマグロの明神丸 (3) posted by (C)pismo


富岡八幡宮は寛永4(1627)年、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて60,508坪の社有地を得ました。同じ地に別当寺院として永代寺も建立されました。
世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に定めました。
永代寺は、神仏分離令によって廃寺になってしまいますが、明治29(1896)年に再建されました。
境内には伊能忠敬の銅像があります。伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、平成13(2001)年に建立されました。
8月15日には、深川祭が行われます。神田祭、山王祭と並んで江戸三大祭の1つに数えられます。江戸時代には永代橋に多数の人が押し入ったことにより永代橋を崩落させたほどの人気があり、暑さ避けに水を掛けることから別名「水掛け祭」とも呼ばれ、担ぎ手に水をかける「水掛け」であれば誰でも参加ができます。
富岡八幡宮 (1)
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富岡八幡宮
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富岡八幡宮 (2)
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富岡八幡宮 (3)
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富岡八幡宮 (4)
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Posted at 2016/01/08 21:41:41 | コメント(2) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月31日 イイね!

等々力渓谷

等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最高端に位置する約1kmの都区内唯一の渓谷です。
谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで侵食したもので、台地と谷との標高差は約10mあります。谷沢川が多摩川と合流する手前で、国分寺崖線を浸食してできました。「等々力」の地名は、渓谷内にある「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ことからついた、との言い伝えがあります。
昭和8(1933)年、国は等々力渓谷を風致地区として指定しました。世田谷区は、昭和49(1974)年に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。
等々力渓谷には等々力不動尊があり、その対岸には昭和36(1961)年に建築された書院建物とそれをとりまく日本庭園があります。庭園は昭和48(1973)年に著名な造園家により作庭されました。
渓谷内の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められます。
玉川全円耕地整理組合が、昭和5(1930)年から昭和13(1938)年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫でした。
都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残しています。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要です。
等々力渓谷 (2)
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等々力渓谷 (3)
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等々力渓谷 (4)
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等々力渓谷 (5)
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等々力渓谷 (6)
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等々力渓谷 (7)
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等々力渓谷 (8)
等々力渓谷 (8) posted by (C)pismo

等々力不動尊は、満願寺の別院で、正式には滝轟山(りゅうごうさん)明王院といいます。
本尊は不動明王、真言宗中興の祖興教大師(覚鑁)が夢のお告げにより開かれ、この地に不動明王を安置した霊場です。
等々力渓谷に隣接した場所にあり、関東三十六不動尊霊場の第17番霊場です。
不動尊から渓谷に降りた所には、「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人が各地から訪れています。「等々力」の地名はこの渓谷内の「不動の滝」が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。境内には150本近い桜など、紅葉も美しく、等々力渓谷を代表する自然豊かな樹林地となっています。
山門は江戸時代のもので、満願寺から移築されたものです。
等々力不動尊 (2)
等々力不動尊 (2) posted by (C)pismo

等々力不動尊 (3)
等々力不動尊 (3) posted by (C)pismo

等々力不動尊 (4)
等々力不動尊 (4) posted by (C)pismo

御岳山古墳は、多摩川の左岸、標高31mの舌状地先端部に位置しており、西側には等々力渓谷を臨んでいます。世田谷区野毛から大田区田園調布にかけて多摩川左岸の台地緑辺部一帯には、連なるように50数基から成る茂原台古墳群が形成されており、本古墳はこのうちのひとつです。西方には野毛大塚古墳(都指定史跡があり、これに次ぐ規模を有しています。全長57m、現在高7mを測り、野毛大塚古墳と同じく帆立貝形です。河原石による葺石、円筒埴輪を伴い、5世紀後半から6世紀中葉の築造と考えられています。
学習院大学の調査によって、埋蔵施設である内部主体は、木間を粘土で覆った粘土槨であると推定されています。副葬品として内行花文を文様とする七鈴鏡(都指定有形文化財)、短後甲、直刀等が出土しており、特に短甲は二領分の破片があり、その製作時期が5世紀後半に位置づけられます。
(現地説明板などより)
御岳山古墳 (2)
御岳山古墳 (2) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/08 20:59:19 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月25日 イイね!

立川市の昭和天皇記念館・西武ドーム・所沢市の史跡

昭和天皇記念館は、昭和天皇御在位五十年記念事業の一環として昭和58(1983)年に開園した国営昭和記念公園の「花みどり文化センター」内に平成17(2005)年11月27日設置され、緑を愛された昭和天皇の生物学ご研究や昭和天皇、香淳皇后のご遺品・写真等の昭和天皇ゆかりの資料を展示しています。
昭和天皇記念館
昭和天皇記念館 posted by (C)pismo

西武ドーム(西武プリンスドーム)は、埼玉西武ライオンズの本拠地の球場です。
昭和38(1963)年に竣工した西武園球場が、プロ野球開催可能な球場として昭和53(1978)年、改築工事に着手し、その最中、国土計画がクラウンライターライオンズを買収、西武ライオンズと改称し、新球場を同球団の本拠地として使用することを決定。屋外球場である西武ライオンズ球場として昭和54(1979)年にオープンしました。
西武ライオンズ球場は、元々将来を見据えドームがかけられるように設計されていましたが、平成11(1999)年、西武ドームとして生まれ変わりました。
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (1)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (1) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (2)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (2) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (3)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (3) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (4)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (4) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (5)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (5) posted by (C)pismo

西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (6)
西武ドーム〔西武プリンスドーム〕 (6) posted by (C)pismo

狭山不動尊(不動寺)は、山号は狭山山、天台宗の別格本山の寺院です。
ユネスコ村として昭和26(1951)年にオープンした遊園地に数多くの寺院建築が移築されていましたが、敷地内に昭和50(1975)年に、西武鉄道グループにより狭山不動尊が建立されました。なお、ユネスコ村は平成2(1990)年に、後を引き継いだユネスコ村大恐竜探検館は、平成18(2006)年に閉園しています。
勅額門や御成門は、増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から、丁子門は、増上寺にあった崇源院(お江の方)霊廟から移設したもので重要文化財に指定されています。
第一多宝塔は、大阪府高槻市の畠山神社から昭和36(1961)年に移築され、第二多宝塔は昭和39(1964)年に兵庫県加東市の掎鹿寺から移築されたものです。その他、毛利家江戸屋敷の門を移築した総門、奈良県五條市の桜井寺の山門から移築された桜井門など寺院建築が数多く移築されています。
また、近くの西武ドームを本拠地とする埼玉西武ライオンズが必勝祈願をする寺院としても知られています。
狭山山不動寺
狭山山不動寺 posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (1)
狭山山不動寺 (1) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (2)
狭山山不動寺 (2) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (3)
狭山山不動寺 (3) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (4)
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狭山山不動寺 (5)
狭山山不動寺 (5) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (6)
狭山山不動寺 (6) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (7)
狭山山不動寺 (7) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (8)
狭山山不動寺 (8) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (9)
狭山山不動寺 (9) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (10)
狭山山不動寺 (10) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (11)
狭山山不動寺 (11) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (12)
狭山山不動寺 (12) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (13)
狭山山不動寺 (13) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (14)
狭山山不動寺 (14) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (15)
狭山山不動寺 (15) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (16)
狭山山不動寺 (16) posted by (C)pismo

狭山山不動寺 (17)
狭山山不動寺 (17) posted by (C)pismo

小手指ヶ原は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入曾(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場となることが多かったのです。
特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3(1333)年上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年5月8日に義貞は北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は11日にここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは150騎ほどだった一行は進むにつれ沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。
新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で30余回も討ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌12日に新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(府中市)まで退きます。その後幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
なお、背後の小高い塚は白旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
(現地説明板より)      
小手指ヶ原古戦場 (1)
小手指ヶ原古戦場 (1) posted by (C)pismo

小手指ヶ原古戦場
小手指ヶ原古戦場 posted by (C)pismo

白旗塚は、新田義貞と鎌倉幕府軍が元弘3(1333)年に戦った小手指ヶ原の戦いの際、源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
この白旗塚は、一説には古墳とも言い伝えられてきましたが、慶応4(1868)年、村民の手により浅間神社の石祠を建て、浅間信仰の塚になりました。
以降140年余りにわたり風雨に晒され、表土の流出が続き、ここにきて白旗塚碑や石祠土台が露出転倒する事態になりました。
白旗塚隣接地に農園を持つ北野中学校は郷土の文化財を守ることは体験活動の一環に取り入れるため、塚主の快諾を得て平成19(2007)年修復工事に着手しました。        
(白旗塚土盛修復記念碑などより)
白旗塚
白旗塚 posted by (C)pismo

白旗塚 (1)
白旗塚 (1) posted by (C)pismo
Posted at 2016/01/05 23:01:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月24日 イイね!

靖國神社・皇居・東京タワー

この日は、人を案内して靖國神社と皇居を訪れました。
大村益次郎の銅像
靖國神社
靖國神社 posted by (C)pismo

靖國神社
靖國神社 (1)
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遊就館

靖國神社 (2)
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靖國神社 (3)
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靖國神社 (4)
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靖國神社 (5)
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靖國神社 (6)
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靖國神社 (7)
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皇居(江戸城)
東京タワー
東京タワー posted by (C)pismo
江戸城
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江戸城 (1)
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KITTEより東京駅
KITTEより東京駅 posted by (C)pismo

東京タワーは、正式名称は日本電波塔といい、高さ333mある東京の観光名所です。
昭和33(1958)年12月23日に竣工しました。
電波塔としての機能は、デジタルテレビ放送設備はスカイツリーに移行しましたが、バックアップとして利用されているほか、ラジオ放送にも使われています。また、東京都環境局の風向風速計、温度計、硫黄酸化物測定器などが高度別に取り付けられています。
東京タワー (1)
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東京タワー (2)
東京タワー (2) posted by (C)pismo

東京タワー (3)
東京タワー (3) posted by (C)pismo

東京タワー (4)
東京タワー (4) posted by (C)pismo

東京タワー (5)
東京タワー (5) posted by (C)pismo

東京タワー (6)
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東京タワー (7)
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東京タワー (8)
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東京タワー (9)
東京タワー (9) posted by (C)pismo

Posted at 2016/01/05 19:39:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年10月17日 イイね!

蘆花恒春園・深大寺

蘆花恒春園は、明治・大正期の文豪、徳冨蘆花(健次郎)と愛子夫人が、後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした旧邸地部分とその周辺を買収してつくられました。
蘆花は「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られています。蘆花は「不如帰」で恋愛を描き、当時のベストセラーとなり、対立していた兄から自立する足がかりとなります。
明治40(1907)年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、その後、民友社を退社した蘆花は土に親しむ生活を求め、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称しました。そして蘆花46歳のときに、山本覚馬の娘久栄との恋愛を描いた「黒い眼と茶色の目」を出版します。この作品を世に出すことで、ようやく過去の恋人と決別できたといいます。
この地で徳冨蘆花は昭和2(1927)年9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送りました。
昭和11(1936)年の蘆花没後10周年忌に際し、愛子夫人から当時の家屋、耕地など旧邸地の一切が東京市に寄贈され、市では昭和13(1938)年、夫人の意向に沿って、武蔵野の風景を保存し、公園として公開を開始しました。これらの建物は老朽化により昭和58(1983)年~昭和60(1985)年度にかけて改修を行い、「徳冨蘆花旧宅」として、昭和61(1986)年3月10日東京都の史跡に指定されました。
邸地とともに寄贈された身辺具、作品、原稿、手紙、農工具などの遺品を収めるために昭和34(1959)年に建設された蘆花記念館、母屋、秋水書院、梅花書屋、蘆花自身の手植えの竹林、長兄の徳富蘇峰氏が銘を刻んだ自然石の墓碑の徳富蘆花夫妻の墓などがあります。
平成25(2013)年の大河ドラマ「八重の桜」第46回「駆け落ち」の八重の桜紀行でも紹介されました。
蘆花恒春園 (2)
蘆花恒春園 (2) posted by (C)pismo

蘆花恒春園 (3)
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蘆花恒春園 (4)
蘆花恒春園 (4) posted by (C)pismo

蘆花恒春園 (5)
蘆花恒春園 (5) posted by (C)pismo

蘆花恒春園 (6)
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蘆花恒春園 (7)
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蘆花恒春園 (8)
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蘆花恒春園 (9)
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蘆花恒春園 (10)
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蘆花恒春園 (11)
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蘆花恒春園 (12)
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蘆花恒春園 (13)
蘆花恒春園 (13) posted by (C)pismo

蘆花恒春園 (14)
蘆花恒春園 (14) posted by (C)pismo

蘆花恒春園 (15)
蘆花恒春園 (15) posted by (C)pismo

深大寺は、山号は浮岳山、天台宗別格本山の寺院です。
天平5(733)年満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝えられています。
貞観年間(859〜877)に恵亮和尚が天台宗に改宗しました。
慶応元(1865)年に火災に遭っており、堂宇の大半を失っています。現在の本堂は大正年間の再建です。
山門は、元禄8(1695)年に建てられたもので、深大寺で最も古い建造物です。
深大寺では昔から蕎麦をつくり、徳川時代には深大寺蕎麦として、将軍家や上野東叡山にも献上され、また蜀山人などが大いに喧伝、来詣者に賞味されてきました。現在も門前には深大寺そばの店がたくさんあります。
深大寺 (2)
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深大寺 (3)
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深大寺 (4)
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深大寺 (5)
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深大寺 (6)
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深大寺 (7)
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深大寺 (8)
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深大寺城は、築城時期は不明です。
大永4(1524)年、扇谷上杉朝興は、北条氏綱によって江戸城を奪われました。
そして、江戸城奪回を目指す扇谷上杉朝定が、その拠点として天文6(1537)年に古城を再興したものです。しかし、北条氏綱に本拠河越城を奪われたためその後使用されず、 廃城になったと考えられています。
深大寺城は半島状の台地先端部にあり、現在は神代植物公園の附属施設である水生植物園となっています。
三つの郭からなっていて、第一郭及び第二郭が残っています。空堀や土塁を見ることができます。
平成10(1998)年に東京都指定史跡となり、平成19(2007)年7月26日付けで国の史跡に指定されました。
深大寺城 (2)
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深大寺城 (3)
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深大寺城 (4)
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深大寺城 (5)
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深大寺城 (6)
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Posted at 2016/01/02 11:04:59 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記

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