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ピズモのブログ一覧

2014年08月30日 イイね!

大峰山(山上ヶ岳)登山

この日は大峰山(山上ヶ岳)に登りました。
女人禁制の山です。

大峯山 - 01
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大峯山 - 02
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大峯山 - 03
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大峯山 - 04
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大峯山 - 05
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大峯山 - 06
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大峯山 - 07
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大峯山 - 08
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大峯山 - 09
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大峯山寺は、大峯山山上ヶ岳の山頂に立つ修験道の寺院です。
現在も女人禁制の寺院です。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されています。
役行者が苦行ののち、金剛蔵王大権現を感得しその御姿を桜の木に刻んで堂宇に祭祀したことに始まると伝えられる修験道の根本道場です。
本堂は吉野山にある金峯山寺本堂(蔵王堂)を「山下(さんげ)の蔵王堂」と呼ぶのに対し、山上蔵王堂と呼ばれています。
天平年間に行基が大改築、また昌泰年間(898〜901)にも再建されたものでしたが、天文三年吉野山麓の一向宗本善寺(吉野町飯貝)との争いの末焼失し、現在の本堂は、江戸時代の元禄4(1691)年の建立です。大峯山寺は、毎年5月3日に戸開式、9月23日の戸閉式に至る143日間本堂の扉を開けています。
寺は洞川の龍泉寺、吉野の竹林院・桜本坊・喜蔵院・東南院の五ヶ寺が護持院になって維持されており、これら護持院は山上での宿坊を設けています。
大峯山 - 10
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大峯山 - 11
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大峯山 - 12
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大峯山 - 13
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大峯山 - 14
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大峯山 - 15
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Posted at 2014/09/09 21:23:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(人の車で) | 日記
2013年08月11日 イイね!

土佐紀行(2日目・檮原町)



2日目は檮原町です。
梼原は平成23年にも訪れていますので、前回訪れなかったポイントをブログにアップします。

前回訪問↓
伊予・土佐紀行(2日目その1・檮原町の史跡)



明治維新の志士、那須俊平重任、那須信吾重民の墓です。

贈正四位 那須俊平重任

梼原の郷士、山田喜馬太を槍に、三木広作に剣を学んで武道に通じ、家に道場をつくり弟子を教えました。浜田信吾を娘・為代に配し父子ともに門人を指導しました。文久2(1862)年信吾が参政・吉田東洋の首級をはね脱藩すると、人に頼んで槍術皆伝書を与え、後に父子ともに国事に尽くすことを約しました。
信吾が天誅組に参加して戦死の報があると涙を流して
「大君のみことかしこみ仕えなむ 身はずたずたによし裂かれるとも」
と感激の一首を詠みました。
元治元(1864)年6月玉川壮吉と脱藩、梼山源八郎の変名で松山深蔵の忠勇隊に参加して上京7月19日境町御門に向かいましたが、越後、会津の兵が固く守っている中に、尾崎直吉とともに槍をふるって突入しましたが、越後兵・堤五一郎に討たれました。
時、元治元(1864)年7月19日 年57才
「皇国のためともならん武人の 老の命のあらん限りは」

贈従四位 那須信吾重民
佐川の土佐藩士・浜田宅左衛門の二男で那須俊平の養子となりました。
身長六尺(182cm)津から強く健脚で25里(約100km)の高知城下へ1日で行ったといわれています。
文久2(1862)年4月8日、同志とともに参政・吉田東洋を倒して脱藩、石原幾之進の変名で国事に尽くしました。
文久3(1863)年8月、同志吉村虎太郎らとともに中山忠光卿を奉じ、南部行幸の先駆となるため兵を挙げました。
五条で鈴木源内を斬り高取藩の使者となって藩主・植村駿河守に食糧、兵器の供出を求めました。時に、京都に政変があり行幸は中止となり幕軍の追討にあい9月24日、大和の国吉野鷲家口で敵の重囲にあい決死奮戦の彦根の大将大館孫右衛門を倒しましたが狙撃せられ戦死しました。時、文久3(1863)年9月24日 年34才
「君故に惜しからぬ身をながらえて 今この時にあふぞうれしき」
(現地説明板より)
那須俊平・信吾父子の墓 - 1
那須俊平・信吾父子の墓 - 1 posted by (C)pismo

那須俊平・信吾父子の墓 - 2
那須俊平・信吾父子の墓 - 2 posted by (C)pismo

坂本龍馬も泊まった那須俊平・信吾父子屋敷跡です。
藩政時代の郷士那須平次兵衛、那須幾之進、那須俊平・那須信吾の邸跡です。那須信吾父子はここに道場を開き、多くの近郷の壮士が、武道を学んだ。また勤王の同士の重要な密議の場所でした。
文久2(1862)年3月龍馬らが那須邸で一泊しました。
信吾は同志を招き龍馬らと倒幕の談義を重ね合い意気投合して酒杯を交わし和歌を詠みあいました。
「春くれて 五月まつまの ホトトギス初音をしのべ 深山津野里」龍馬詠
信吾は龍馬らと一緒に西の長州へ脱藩したかったが、国の為に是非にといわれ東の刺客となりました。
「西と東に引き分けられて 合わにゃ分からんふすまの絵」信吾詠

龍馬、惣之丞らが宿泊し倒幕談義をした那須邸跡こそが、日本の夜明けの発祥の地です。
(現地説明板より)
那須俊平・信吾父子屋敷跡 - 1
那須俊平・信吾父子屋敷跡 - 1 posted by (C)pismo

那須俊平・信吾父子屋敷跡 - 2
那須俊平・信吾父子屋敷跡 - 2 posted by (C)pismo

宮野々番所は、寛永6(1629)年、設置され、宝暦年間より、明治初期まで片岡氏が世襲の番所役人を勤め、通行者を検問しました。
今も片岡氏の居宅で、その構えは旧観をしのばせています。現在の建物は昭和35(1960)年に改築されたものです。
街道は、前の川(四万川川)を渡り、稜線をつたい県境の九十九曲峠経由で、土予の交通の要所でした。
番所前の川岸は、橋つなぎの大きな榎が今も残っています。
「宮野々関門旧址」の巨大な碑があり、その裏面にここを破って脱藩した龍馬ら12名の志士の名が刻まれています。
土佐勤皇の志士脱藩で人に知られるようになり、碑は梼原村(現在の檮原町)が建立しました。
(現地説明板より)
宮野々番所跡 - 1
宮野々番所跡 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2013/09/12 23:41:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(人の車で) | 日記
2013年08月10日 イイね!

土佐紀行(1日目・白地城、高知城)

高知へ友人の車でドライブです。
白地城(白地大西城)は、南北朝時代の建武2(1335)年に近藤京帝が築城した城です。この地に城を構え、郷名をとって大西と改姓し、以来8代250年にわたる居城でした。
戦国時代は大西覚養が城主でしたが、天正3(1575)年に長宗我部元親は阿波侵略を開始し南方の海部氏が最初に領土を奪われ、天正5(1577)年には大西氏も防戦の甲斐なくその所領を侵され城主大西覚養は身をもって讃岐土佐の長宗我部元親に追われてしまいます。
長宗我部元親は白地城を大改修し、四国統一の拠点としたそうです。
それもそのはず、阿波、土佐、讃岐、伊予と四国の中心にこの城はあります。
その後元親は天正13(1585)年豊臣秀吉の四国遠征軍との戦いに敗れ土佐に退き廃城となりました。
旧城の最高地の削平地、空堀、武者ばしり等が残在していましたが、阿波池田のかんぽの宿、簡易保険保養センターの建設等によりほとんどの遺構が消滅しています。
かんぽの宿は平成18年3月31日付で閉鎖され「あわの抄」という宿泊施設になっています。
「あわの抄」の駐車場に説明看板が、隣接の大西神社に石碑が建っています。
白地城(白地大西城) - 1
白地城(白地大西城) - 1 posted by (C)pismo

白地城(白地大西城) - 2
白地城(白地大西城) - 2 posted by (C)pismo

白地城(白地大西城) - 3
白地城(白地大西城) - 3 posted by (C)pismo

白地城(白地大西城) - 4
白地城(白地大西城) - 4 posted by (C)pismo

そして、高知城です。
平成19年以来の訪問です。

土佐日記(1日目その6・夜の高知~高知城ライトアップ)
土佐日記(2日目その2・高知城と城周辺史跡~高知市郊外)

高知城 - 01
高知城 - 01 posted by (C)pismo

高知城 - 02
高知城 - 02 posted by (C)pismo

高知城 - 03
高知城 - 03 posted by (C)pismo

高知城 - 04
高知城 - 04 posted by (C)pismo

高知城 - 05
高知城 - 05 posted by (C)pismo

高知城 - 06
高知城 - 06 posted by (C)pismo

高知城 - 07
高知城 - 07 posted by (C)pismo

高知城 - 08
高知城 - 08 posted by (C)pismo

日本100名城スタンプラリー 取得実績
004 弘前城     H24/7/12
005 根城      H24/7/13
006 盛岡城     H24/7/13
007 多賀城     H24/7/15
008 仙台城     H23/10/25
009 久保田城    H24/7/14
010 山形城     H24/7/15
012 会津若松城   H24/12/29
014 水戸城     H25/7/13
019 川越城     H25/7/15
020 佐倉城     H25/7/12
021 江戸城     H25/7/16
023 小田原城    H23/12/29
024 武田氏館    H23/12/30
025 甲府城     H25/6/15
026 松代城     H24/12/31
030 高遠城     H23/12/30
031 新発田城    H24/12/28
032 春日山城    H24/12/28
033 高岡城     H24/4/28
034 七尾城     H23/7/23
035 金沢城     H24/4/28
036 丸岡城     H23/6/18
037 一乗谷城    H24/4/28
038 岩村城     H24/6/23
039 岐阜城     H23/4/16
040 山中城     H23/12/29
041 駿府城     H23/12/28
042 掛川城     H23/12/28
043 犬山城     H24/6/23  
044 名古屋城    H24/3/24
045 岡崎城     H24/10/8  
046 長篠城     H24/10/8  
047 伊賀上野城   H24/4/1
048 松坂城     H24/3/8
049 小谷城     H23/12/23
050 彦根城     H24/1/14
051 安土城     H23/4/9
052 観音寺城    H24/1/14
053 二条城     H23/11/3
054 大阪城     H23/11/19
055 千早城     H23/12/10
056 竹田城     H23/11/16
057 篠山城     H23/11/26
058 明石城     H23/12/24
059 姫路城     H24/1/28
060 赤穂城     H24/1/28
061 高取城     H24/1/22
062 和歌山城    H24/2/18
063 鳥取城     H24/7/27
064 松江城     H23/6/27
065 月山富田城   H24/9/21
067 津山城     H24/4/14
068 備中松山城   H24/10/20
069 鬼ノ城     H24/10/20
070 岡山城     H24/1/7
071 福山城     H24/2/4
072 郡山城     H23/3/18
073 広島城     H23/3/17
076 徳島城     H24/5/21
077 高松城     H24/5/12
078 丸亀城     H24/5/12
079 今治城     H25/5/4
080 湯築城     H25/5/4
081 松山城     H25/5/4
082 大洲城     H25/5/4
083 宇和島城    H25/5/4
084 高知城     H25/8/10
086 大野城     H24/9/3
088 吉野ヶ里遺跡  H24/9/1
089 佐賀城     H24/9/2
090 平戸城     H24/9/1
091 島原城     H23/9/17
092 熊本城     H23/9/18
093 人吉城     H23/9/15
098 今帰仁城    H25/3/21
099 中城城     H25/3/20
100 首里城     H25/3/22
H25/8/10現在 78/100城
Posted at 2013/09/11 21:41:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(人の車で) | 日記
2009年11月29日 イイね!

葛城一言主神社の大イチョウ

この日は、葛城一言主神社の大イチョウを見に行きました。
葛城一言主神社は、雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、対面して同じ様相をした者が天皇と全く同じ所作、言葉を発するものが出現し、天皇が「お前は何者だ」と問いかけたところ、「私は善事も悪事も一言で言い放つ神である」と申されました。天皇はひれ伏し、その後、共に狩を楽しみ、神は久米川(現曽我川)まで天皇を送って行ったそうです。
近世では「いちごんさん」と呼ばれ、一言の願いであれば何事も聴き下される神様として、崇め親しまれ広く信仰されています。
全国各地の一言主大神を御祭神とする神社の総本社ですが、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)を合祀しています。境内の御神木は樹齢1200年といわれるイチョウの古木で、秋の色づいた姿は見事だそうです。
以前にも訪れたことがありますが、色づいた姿を見るのは初めてです。
コスモスも咲いていました。

葛城一言主神社 - 01
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葛城一言主神社 - 02
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葛城一言主神社 - 03
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葛城一言主神社 - 04
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葛城一言主神社 - 05
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葛城一言主神社 - 06
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葛城一言主神社 - 15
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Posted at 2009/12/13 11:33:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(人の車で) | 日記
2007年06月09日 イイね!

出雲紀行(その4 松江周辺の史跡めぐり)

松江城の後は、松江市内の史跡めぐりです。
小泉八雲記念館は昭和8(1933)年11月29日に開館しました。
昭和2(1927)年、遺族から八雲遺愛の文机、椅子などが松江市に寄贈されたのがきっかけです。
そして、昭和8(1933)年には東京帝国大学の市河三喜博士らの尽力で全国的な八雲記念会がうまれ、八雲の顕彰事業として松江市に記念館を建設することを決め、遺品、史料の収集と建設資金の募集にあたりました。全国から寄せられた寄付金約6,500円で八雲旧居の隣接地に建設、開館され、昭和9(1934)年2月松江市に寄贈され今日に至っています。現在の建物は伝統美観保存指定地区のため木造平屋和風造りに昭和59(1984)年に改築されたものです。
平成2(1990)年には八雲来日来松100周年にあたることから、松江市において「小泉八雲来日百年記念フェスティバル」が開催され、内外の研究家・愛好家が一堂に会しました。そして、同時にヘルン旧居前の塩見縄手広場に八雲の胸像が建立されました。


次は隣にある小泉八雲旧居跡です。この屋敷は小泉八雲が明治24(1891)年の5月から11月までの6ヶ月間新婚生活を過ごした屋敷です。三方に庭があり、八雲は中央の部屋から三つの庭を眺めるのが好きだったと云われています。
旧居は代々根岸家の人々の手によって、八雲が住んでいたままの姿を変えることなく保存され現在に至っています。


この辺りは堀川沿いの塩見縄手の雰囲気の良い町並みですが、その一角に松江藩の中級武士の生活を伝える武家屋敷が公開されています。江戸時代初期から松江藩の六百石程度の中級藩士が、屋敷替えによって入れ替わり住んだところです。
現在のこの屋敷は、享保18(1733)年の大火で焼失後、再建されたもので、約270年前の古い姿のままよく保存され、松江市の文化財に指定されています。
長屋門、母屋、庭園など中級武士の住んだ屋敷が、当時のまま保存されているのは、全国的にも貴重なものです。武家屋敷裏門には松江市の伝統行事「鼕行列(どうぎょうれつ)」に用いられる「鼕(どう)」の展示場があります。


明々庵は茶人として知られる松江藩第七代藩主松平不昧公の好みによって、松江市殿町の有澤家本邸に建てられ、不昧公もしばしば臨まれた席です。一時は東京の松平伯爵邸に移されていましたが、その後松平家から郷国出雲に帰され、昭和3(1928)年、菅田庵のある有澤山荘の向月亭に隣接した萩の台に建てられていました。第二次世界大戦後、管理が行き届かず荒廃していましたが、昭和41(1966)年、不昧公百五十年祭を気に現在の赤山の台地に移されました。
この台地からは、松江城天守を眺めることができます。庭を眺めながらお抹茶を楽しむこともできます。お茶の盛んな松江で抹茶と和菓子を頂きながら、不昧公の世界の一端を少しでも知りたい方にはおすすめできるスポットです。


この後は、松江のお土産を買いに、島根県観光物産館に行きました。


お土産に松江の銘菓「若草」と「菜種の里」を購入。「若草」は大好物でかならず島根土産に買って帰りますが、「菜種の里」ははじめてです。

次は少し車で移動し、月照寺に行きました。月照寺は歴代松江藩主松平家の菩提寺です。もともと洞雲寺という禅林でしたが、徳川家康の孫に当たる松江藩初代藩主松平直政公が寛文4(1664)年、生母月照院様の霊碑を安置するため、浄土宗の蒙光山(むこうさん)月照寺として改称復興したのが始まりです。
更に、二代綱隆公が父の遺命により境内に廟を造り山号を歓喜山と改めて以来、9代にわたる藩主の菩提寺として栄えてきました。国の史跡に指定されている境内には、松平家九代までの各廟所のほかに、鐘桜・唐門、小泉八雲の随筆に登場する巨大亀形の寿蔵碑、茶聖七代不昧公ゆかりの茶室大円庵、毎年4月の不昧公忌に茶筌供養が行われる茶筌塚、茶の湯の井戸、不昧公の恩願を受けた力士雷電の碑などがあります。また、宝物館には松江藩主ゆかりの遺品などが数多く展示されています。また、あじさい寺として知られ、6月中旬からはあじさいの花が咲き誇ります。見頃には少し早かったですが、それでもかなりの数のあじさいが咲いていました。松江藩主の墓所もかなり立派です。


洗合城〔荒隈城〕にも行ってみました。永禄5(1562)年、中国平定を目指す毛利元就は、この辺りに山城を築き、富田城攻略の前線拠点としました。毛利元就がここに城を築いた理由は、前面に宍道湖を眺められるこの地が見通しがきき、兵員や物資の輸送に便利であること、中海と宍道湖を結ぶ水道をおさえることができること、また法吉の尼子十旗の筆頭である白鹿城を攻めるのに絶好の地であったことが考えられます。
城の範囲は東は天倫寺のある辺り、西は南平台住宅地全域、北は国屋地区の県道沿いまでであったようです。過去2回の発掘調査で、郭、土塁、柵、堀切の以降が発見されています。
ここから毛利元就は、永禄6(1563)年白鹿城を攻撃して勝利し、永禄7(1564)年には本陣を東出雲町の京羅木山に移しました。
その後、関ヶ原の戦いの後出雲に封じられた堀尾忠氏の父、吉晴が居城とすべく検討しましたが、「出雲24万石の居城にするのには、広大に過ぎ維持できない」との堀尾忠氏の意見により亀田山に松江城を築くこととしたため、城郭として使用されることはありませんでした。
天倫寺の前に案内看板がありました。


白鹿城〔白髪城〕は、松江市の中心から北方4kmの島根半島の山脈にある白鹿山(標高149.8m)に築かれた山城で、軍記物では白髪城とも書きます。また、すぐ北方の真山には、この白鹿城に対する毛利の向城として築かれた真山城があります。
尼子氏の中では富田城につぐ重要拠点の城で、松田誠保(尼子晴久の姉婿)の居城として尼子十旗の筆頭とされました。永禄5(1562)年に洗合城(荒隈城)を築いた毛利元就は、翌永禄6(1563)年、石見銀山の坑夫を雇って井戸の掘り抜きを行い、穴中合戦をしたりしながら給水路を断つなどの作戦を展開しました。松田誠保は、白米を杓にもり、灰を足して馬足に注いであたかも飲料水に不足していないように見せかけ欺こうとしましたが、結局は落城し、松田誠保は隠岐に逃れました。
今は、山上には本丸、一の床、二の床、三の床、大井戸、小白鹿山等の縄張りの遺構が残っており、備前焼の壷、甕等が発見されています。
林道のある西側から登城します。他にも登城口はありますが、西側からだと概ね20分程度で登城できます。


真山城〔新山城〕は松江市の北方の真山に築かれた城です。真山は新山とも書かれ、標高256mの頂上から一の床、二の床、三の床と階段状に区画され、、野面積みの石垣が残っています.永禄6(1563)年、毛利軍の将、吉川元春が真山に陣を布き、尼子軍が拠る白鹿城を攻めました。この戦いに尼子軍は敗れ、白鹿城は落城しました。以後毛利氏は多賀左京亮元信を入城させました。
永禄12(1569)年、尼子勝久は、山中鹿介幸盛とともに京都で挙兵し、隠岐に渡り、ついで島根半島に上陸し真山城を占拠しました。以後尼子軍は真山城を拠点として富田城に迫りましたが、尼子軍は敗北し、元亀2(1571)年には尼子勝久は真山城を去りました。以後毛利氏が修理し家臣を置きました。廃城の時期は定かではないようです。
山上からの松江の市街地、宍道湖の眺望が素晴らしいです。


この後は中海の北側、島根半島を東に向かいます。鳥取県に入り、境港市には、鳥取藩台場跡・境台場があります。
幕末鳥取藩により築かれた台場跡です。
浦富台場跡、浜坂台場跡、賀露台場跡、橋津台場跡、由良台場跡、赤崎台場跡、淀江台場跡の鳥取藩台場8カ所の一つです。
その中でも規模が一番大きく、重装備の台場がここ境台場でした。
台場の敷地約14,300㎡、原形は敷幅40m、高さ約7m、上部に8基の砲座を有し
境台場の使命は明治維新とともに終わりましたが、明治30(1897)年に境町へ払い下げられ、以降台場公園として市民に親しまれてます。台場の東北隅にある境灯台は、明治28(1895)年に開設された山陰最初の灯台を平成3(1991)年復元したものです。


これでこの日の史跡めぐりは終了です。この後は皆生温泉に入浴した後、友人の「ふぁんたすてぃっく」なドライビングで帰宅しました。
Posted at 2007/06/21 23:01:15 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ(人の車で) | 日記

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