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ピズモのブログ一覧

2017年07月16日 イイね!

房総半島(4日目その2・市川市)

現在は里見公園となっている国府台合戦の舞台・国府台城です。
「鎌倉大草子」によれば、文明10(1478)年に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城を構えたとあり、これが国府台城の始まりであるとする説があります。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っています。
これより以前の康正2(1456)年、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり、足利成氏方に抵抗していましたが、梁田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていました。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明です。
国府台は標高20~25mの下総台地の西の端で、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園の中に土塁城の城郭遺構が現存しています。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認されます。公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいですが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もあります。
この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっています。
天文7(1538)年の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いです。これに対して永禄7(1564)年の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに対抗する里見義堯・義弘らの戦いでした。〔前年の永禄6(1565)年にも合戦があったとする説もあります。〕
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走しました。
現在の国府台城跡は、この合戦の中で激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もあります。現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられています。この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり終戦を迎えました。昭和33(1958)年9月にこの付近は「里見公園」として整備されています。
(現地説明板などより)
国府台城

国府台城

国府台城

国府台城

国府台城

国府台城

総寧寺は山号は安国山、曹洞宗の寺院です。
もと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3(1383)年通幻禅師を開山として、近江国五槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院でした。
ところが、天正3(1575)年に至って、小田原城主北条氏政が、寺領20石を与えて下総国関宿(千葉県関宿町)に移しました。
その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文3(1663)年遂に徳川4代将軍家綱に願って国府台の地に移りました。その折幕府は寺領として128石5斗余、山林6万7千坪を与えています。
総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていましたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じました。しかも歴代住職は10万石大名の格式を以て遇せられ、江戸小石川には邸が与えられました。総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かります。
明治5(1872)年学制の施行によって、第一学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになりましたが、それは後、陸軍用地となり、昭和33(1958)年現在の里見公園となりました。
本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である2基五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦にまつわる夜泣石等があります。
(現地説明板などより)
総寧寺

総寧寺

総寧寺

総寧寺
Posted at 2018/01/27 12:31:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月15日 イイね!

房総半島(3日目その3・鴨川市、勝浦市、いすみ市)

清澄寺は、山号は千光山、日蓮宗の寺院です。
宝亀2(771)年、不思議法師が開創しました。当初は天台宗の寺として開創され平安時代には慈覚大師円仁が僧坊12、祠堂25を建て、房総第一の大寺となりました。江戸時代初期、仲恩房頼勢法師は徳川家康の帰依を得て再興し、これより真言宗の寺となり、格式十万石、朱印五百石を賜り、本山格の寺院となりました。京都醍醐三宝院の別院となったため菊花の御紋章を許されました。
本尊の虚空蔵菩薩は、智恵福徳の菩薩として名高く、その像は日本三大虚空蔵の一つです。
日蓮宗の開祖である日蓮聖人は、天福元(1233)年5月12日、12歳のとき、小湊からこの寺に入り道善法師に師事し、出家得度しました。
勉学修行に励んだ聖人は更に諸国に出て、各宗の奥義を学び、建長5(1253)年4月28日32歳のときに立教開宗の第一声をあげました。
聖人ゆかりの清澄寺は、昭和24(1949)年4月に日蓮宗に改宗しました。
(現地説明板などより)
清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

清澄寺

日澄寺は山号は明星山、日蓮宗の寺院です。
日蓮の小松原法難の折に殉教した天津領主工藤左近将監吉隆の居館でしたが、その嫡子日隆が父の菩提を弔うために弘安5(1282)年これを寺としました。
吉隆は、鎌倉幕府出仕中に四条金吾、池上宗仲等とともに日蓮大聖人に深く帰依しました。伊豆流罪中も遠く志を馳せて外護し、大聖人は「四恩鈔」をしたためて吉隆を教化されています。
文永元(1264)年秋、日蓮は母の病気見舞いに小湊へ帰られましたが、逗留地西条花房の蓮華寺から天津の工藤吉隆の館を訪ねる道すがら、東条の松原で地頭東条景信の伏兵に襲撃されました。文永元(1264)年11月11日、これが世にいう「小松原法難」です。この法難で、日蓮は頭部に三寸余りの刀傷をうける危難にあわれ、救援に駆けつけた吉隆は討死しました。日蓮は、吉隆の霊を弔うために出家の礼をとり、妙隆院日玉上人の法号を授与しました。
吉隆の不惜身命の法勲を当山が今に伝えています。
(現地説明板などより)
日澄寺

誕生寺は、山号は小湊山、日蓮宗の大本山です。
日蓮聖人は、承応元(1222)年小湊に生まれました。聖人は自らの出生を「安房国長狭郡東條郷片海海人(かたうみあま)が子なり」(「本尊問答抄」)といわれ、
聖人没後五十年頃の聖人伝「本門宗要抄」には「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子也」とあります。
誕生寺は隣村上総興津の豪族佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿(日家)、甥の長寿麿(日保)により建治2(1276)年開創され、日蓮聖人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三租とし、聖人誕生の地に建立されました。
しかし、明応7(1498)年8月の明応地震の際大津波があり堂宇坊舎ことごとく流出しましたので、秡崎(はらいざき)の南端から現在の地に移りました。
延宝8(1680)年の記録「誕生寺寺法」によれば、境内地は南北三十二町(3456m)、東西二十町(2160m)とありますから関東屈指の大寺であったことがわかります。
天正8(1580)年里見安房守義頼が四十石の田畑及寺面海上十石を、更に慶長9(1604)年市川の地二十石を、重臣正木太夫頼忠より寄進しております。
そして慶安元(1648)年徳川3代将軍家光が御朱印によりこれを認められました。現在の特別天然記念物「鯛の浦」はこの「寺面海上十石」の寺領内のものです。
この頃の小湊村は、七十石の御朱印、海上十石の運送業権を背景にして近海航路の港門前町として栄え、人口もこの地方では最も大きな港町であったといわれます。
しかし、元禄16(1703)年11月房総沖を震源地とする大地震大津波により、支院十坊、門前の人家百余戸が流出し僧俗四百八名が溺死する大災害に見舞はれました。
もちろん、当山の被害は甚大なものでありましたが、幸い水戸の徳川綱条(粛公)が先代黄門光圀の追善のため七堂伽藍を一基建立され、忽ち旧に復することが出来ましたが、それも束の間、宝暦8(1758)年大火により、三光殿(釈迦堂、祖師堂、本堂)を焼失しました。
現在の雨落十八間四面総欅造りの大祖師堂は天保13(1842)年に、又総桧造りの貴賓殿は昭和六年に、夫々十万人講、五十万人講等の全国勧募により完成したものであります。
又、明治に入り東宮殿下(大正天皇)の御祈願所となり、同時に有栖川宮熾仁殿下により有栖川宮家御霊堂(竜王殿)が境内に建立されて、御皇室とのご縁も結ばれました。
(現地説明板などより)
誕生寺

誕生寺

誕生寺

誕生寺

誕生寺

勝浦城は、天文11(1541)年の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠が入城しました。それ以前は、真里谷武田氏の砦のようなものであったろうと言われています。その後、二代時通、三代頼忠の居城となります。しかし、天文18(1590)年、豊臣秀吉により安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れます。なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうけます。高名な水戸光圀(黄門)は、お万の方の孫にあたります。また、絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、神社裏の断崖絶壁が舞台です。
養珠院於萬の方は、天正5(1577)年4月4日、上総国勝浦城主正木左近大夫頼忠の娘として勝浦城(現在勝浦市浜勝浦八幡)に生まれました。本名を萬といいました。
天正18(1590)年6月、豊臣秀吉の小田原城攻略に関連し勝浦城は落城、当時14歳の於萬は海路伊豆韮山へ逃れました。炎上する城を後に幼い弟を背負い、母と40mもある八幡岬の断崖に白布を垂らして海に下り小舟に乗って逃れたという話は、「お萬の布ざらし」として言い伝えられています。
その後、母が伊豆の土豪蔭山氏と再婚をした機会に、徳川家康に沼津本陣で見染められた於萬は、江戸城に召されて家康の側室となりました。文禄2(1593)年10月22日、17歳の時だったといいます。江戸城では於萬の方、蔭山殿と呼ばれました。慶長7(1602)年3月、京都伏見で長福丸(後の紀伊徳川家の祖頼宣)を生み、さらに慶長8(1603)年には、駿河で徳千代(後の水戸徳川家の祖頼房)を生みました。紀伊家、水戸家は共に徳川御三家として名高く、又水戸黄門の逸話で知られる水戸光圀は頼房の子であり於萬の方の孫にあたります。
元和2(1616)年家康が死去した時、40歳の於萬は仏門の人となりました。
法華教に帰依した於萬は諸寺を建立しましたが、匝瑳市(旧八日市場市)の飯高寺(飯高檀林堂)もその一つです。
生涯は仁慈貞潔のことば通りで、家康によく仕え、子弟の教育に尽くし、信仰の心篤く、病める者には医薬を恵み、貧しい者には依財を与え、刑罰にあう者には命乞いを行うなど数々の優れた業績を残したが、晩年は落飾して蓮華院と号し承応7(1653)年8月22日、享年77歳の生涯をとじました。
城が存在した場所は現在、八幡岬公園となっています。養珠院夫人の銅像が建っているほか、「養珠夫人生誕地・勝浦城址」の石碑が八幡神社参道入口に建っています。
(現地説明板などより)
勝浦城

勝浦城

勝浦城

勝浦城

勝浦城

勝浦城

万木城は、中世の城郭で現在までその遺構をよく留めています。
この城の立地は断層崖の急傾斜を三方に持った台地によっていますが、この丘陵の三方は夷隅川の曲流に囲まれていて外堀の役目を果たし守るには要害の地ということでできます。この中世城郭が戦国時代末期には既に完備した城郭であったことは、永禄8(1565)年の行元寺文書の存在から傍証できます。
この城郭が比較的単純であるというのは、土居の配置が単純で、ただ周囲の一部にめぐらされていたこと、空堀の築造がなかったと思われることなどですが、これは地盤の基底が硬い泥岩質で、急崖をめぐらしている崖端城ともいえる要害が然らしめたものと推定されます。
万木城については不明な点が多く、万木土岐氏には三代説、五代説、九代説があります。
土岐三代説 頼元-為頼-頼春
五代説 頼元-頼房-頼定-為頼-頼春
九代説 時政-光頼-頼金-頼為-頼元-頼房-頼定-為頼-頼春
等様々で、いずれも確証がないため、謎に包まれたままです。
天正18(1590)年には、頼春の時でしたが秀吉の命を受けた家康の部将本多忠勝に攻められ、万木城も落城しました。城址には当時のものと思われる井戸や落城のときに焼けた米が炭になって、当時米倉であったと思われる南側の台地の土中にまで散在しています。櫓台には天守風の展望台が建っています。
(現地説明板などより)
万木城

万木城

万木城
Posted at 2018/01/27 11:38:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月15日 イイね!

房総半島(3日目その2・養老渓谷周辺)

梅ヶ瀬渓谷は、養老川支流梅ヶ瀬川の侵食により形成された渓谷です。
川幅4~4.5mの渓谷の両岸には高さ30~50mの浸食崖が続いています。四季折々美しく変化し、もみじが美しい名所として知られています。
日向高鍋藩出身の教育者日高誠実が明治19(1886)年、50歳になって陸軍省を辞しこの地に隠棲したのち渓谷沿いに400株の梅を植え、梅ヶ瀬書堂を開校し近隣の生徒を指導したと言われています。
現在建物は朽ち果てましたが、屋敷跡にはもみじの大木がそびえ、落葉の時期には見事な紅葉の絨毯が見られます。
(現地説明板などより)
梅ヶ瀬渓谷

梅ヶ瀬渓谷

大多喜町の養老渓谷にある向山トンネル(共榮トンネル)です。
出口が二層式になっている不思議な形をしています。
もともと上段が出口でしたが、接続する道路への利便性をよくするため、トンネルの途中から道路はさらに深く掘削されたためこんな形をしているそうです。
東側が元々あった向山トンネルで、西側が昭和45(1970)年3月に竣工した共榮トンネルと、2つのトンネルが続いている形になります。
壁に苔が生えていて、緑の光に包まれているような不思議な色をしていました。
(現地説明板などより)
向山トンネル(共栄トンネル)

向山トンネル(共栄トンネル)

向山トンネル(共栄トンネル)

向山トンネル(共栄トンネル)

向山トンネル(共栄トンネル)

粟又の滝は、高滝とも養老の滝ともいう養老渓谷の上流にある滝です。
養老渓谷随一の景観を誇る粟又の滝は、落差30m、長さ100mに渡り水しぶきをあげて流れ落ちる房総一を誇る名瀑布です。
養老渓谷・粟又の滝

養老渓谷・粟又の滝

養老渓谷・粟又の滝

養老渓谷・粟又の滝

養老渓谷(ようろうけいこく)は、千葉県夷隅郡大多喜町から市原市を流れる養老川によって形成された渓谷です。
周囲は「県立養老渓谷奥清澄自然公園」に指定されています。変化に富んだ渓谷美と、四季折々の自然美が楽しめ、特に紅葉の名所として知られています。
養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷

養老渓谷
Posted at 2018/01/27 00:11:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月15日 イイね!

房総半島(3日目その1・鴨川市・君津市・大多喜町)

蓮華寺は、山号は花房山、日蓮宗の寺院です。小松原法難ゆかりの宗門史跡として知られています。
日蓮聖人は建長5(1253)年4月28日、清澄山上で初めて南無妙法蓮華経と称え、念仏宗は無間地獄に落ちる法、諸宗は仏の真実の教法ではないと説いて、山の大衆を怒らせましたが、ときに座にあった地頭東条左衛門尉景信は憤怒の余り聖人を斬ろうとしました。幸い師匠道善房の取りなしで危うきを逃れ裏山づたいにここ、西条花房蓮華寺内の青蓮房に難を避けられました。
丁度このころ、寺内の阿弥陀堂の開堂供養がありましたが、ここに招かれた聖人は重ねて念仏信仰を批判し諸宗無益の法門を説かれたため腹を立てた一座の人々は聖人を暗殺しようとはかりました。急を知らされた聖人は安房を逃れ鎌倉に登り松葉が谷に草庵をむすび、ここを本拠として折伏逆化の鼓を打ち鳴らされました。然るに法華経を弘めれば必ず諸難が競い来るという経文の教えの如く怨嫉忽ち至って杖木瓦石の難をこうむり、松葉が谷草庵を焼打され、伊豆に流罪されるなど諸難に遭われますが、弘長3(1263)年、2月に流罪を許され鎌倉に帰られました。翌文永元(1264)年秋、母を小湊に見舞われてのち再びこの地に帰り、9月22日には蓮華寺の住僧浄円房のために、「当世念仏者無間地獄事」という書を著しこれを与えられています。11月11日、天津の領主工藤左近丞吉隆の請いを受け天津におもむく途中、東条小松原の大路で東条景信の手の者100人の邀撃をうけ、供をしていた鏡忍房は討死、弟子数名は重傷、急を知って救援に馳せつけた吉隆も奮戦しましたがついに毒刃に倒れ、聖人も頭に疵をうけ、すでに危うい状態でしたが不思議にも難をまぬがれ、再びこの地に潜まれました。小松原法難です。その時の疵養生をされたのがこの前方にある「疵洗い井戸」であるといわれています。
14日には師の道善房がひそかに見舞いに来られ聖人は12年ぶりに対面されましたが、この時聖人は道善房に弥陀信仰をすてて法華経を信ぜられるよう強く諫められました。この時師の坊は不快の様子でしたが、後の文永5(1268)年〜文永6(1269)年頃法華経を持ち7月頃に釈迦如来像を造立されました。このことを聞いた聖人は「いますでに日蓮、師の恩を報ず」と喜ばれています。
日蓮聖人700遠忌の報恩事業として本堂と庫裡を整備。また誕生寺にあった祖師像を修復・遷座し、昭和59(1984)年落慶法要が営まれました。
門前には、日蓮聖人御疵洗之井戸があります。
(現地説明板などより)
日蓮聖人御疵洗之井戸

蓮華寺

濃溝の滝(のうみぞのたき)は、トンネルの中を滝が流れるという珍しい滝です。トンネルからの光が滝つぼと反射してハートが現れるということで人気があります。光のハートが出来るのは、3月と9月の彼岸過ぎの晴天の6時半~7時半頃がお勧めだそうです。
トンネルは亀石の洞窟といいますが、本当の濃溝の滝は、農作業用の小屋があり、水車を回すために溝をほったため「農溝の滝」といわれた滝が下流に別にあり、そちらと混同されたとのことです。
房総半島の中心部の君津市にある清水渓流広場にあります。片倉ダムの上流、笹川の渓流沿いにある自然公園で、ここの南端に濃溝の滝があります。江戸時代、久留里藩の藩主・土屋氏によって進められた曲がった川を真っ直ぐに短縮し、農地を拡大する河川工事である川廻しによってできました。川の蛇行部分の前後に、最短で真っ直ぐ繋がる新流路を堀り、蛇行した旧流路は、埋め立てて農地としました。
濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

濃溝の滝〔亀石の洞窟〕

君津市立久留里城址資料館は、久留里城の二の丸跡に昭和54(1979)年に開館した資料館です。
市内各所の遺跡から発掘調査で出土した石器・土器、木製品などを、写真や地図と合わせて展示してあります。また、久留里城の築城伝説をはじめ、戦国時代の里見氏、江戸時代の土屋氏・黒田氏などの歴代城主や、その家臣に関する資料を紹介しています。その他人々のくらしと信仰に関する展示や、屋外には君津地方で考案された掘抜(ほりぬき)井戸の掘削技術を伝える「上総掘り」の足場(櫓)や、郷土ゆかりの偉人新井白石の銅像が建っています。
久留里城址資料館

久留里城は「城成就して、三日に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」(「久留里記」)と言う説から、別名を「雨城(うじょう)」と言います。
戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷(まりやつ)武田氏の勢力下にあり、久留里城もその1族の居城でした。天文年間(1532~1555)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
永禄7(1564)年、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も1時、北条方の手に落ちています。しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の1部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正5(1577)年、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が3万石、慶長7(1602)年には、土屋忠直が2万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家2代目の利直に仕え、18~21歳までの青年期をこの久留(1679)里で過ごしています。3代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年、領地召し上げ、廃城となります。約60年後の寛保2(1742)年、黒田直純が3万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養(なおなか)の時、明治維新を迎え、明治5(1872)年、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。
昭和54(1979)年、模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されました。
(現地説明板などより)
久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

久留里城

真里谷城(まりやつじょう・まりがやつじょう)は、戦国時代の初期にあたる康正2(1456)年、上総国に進入した甲斐(山梨県)の武田信長(武田信玄の5代前の先祖)が庁南城(夷隅郡長南町)とともに上総地方を支配するため築いたもので、この地方の中心となった山城といわれています。
城は千畳敷と呼ばれる主郭(本丸)を中心に東西700m、南北400mにわたって山全体を大きく人工的に造り変えています。
城は主な出入口となる大手道を守るように四つの部分からなり、的に進入を防ぐための土塁や曲輪などがつくられています。
手前の虎口、主郭の前面(南側)には、自然の谷を利用して大きな掘切(大掘切)を設けています。
非常時の逃げ道となる搦手道を主郭の北方の尾根につくり、万田野を通って市原方面へ退くようつくられています。
この真里谷城は、永正4(1517)年から天文3(1534)年までの約20年間が全盛期であったようで、武田と里見の連合勢が北条勢にやぶれた天文5(1536)年の国府台合戦以後、武田氏一族の勢力が衰えるとともに力を失い、豊臣秀吉が関東を平定した天正18(1590)年、真里谷信高の代に城は廃止されました。
現在は、木更津市立少年自然の家のキャンプ場として、削平地を利用しています。
(現地説明板などより)
真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

真里谷城

大多喜城は、大永元(1521)年に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされています。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきましたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではありませんが、真里谷氏が築いた小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられています。
信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13(1544)年に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされました。しかし、天正9(1581)年に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたといわれています。
近世城郭としての大多喜城は天正18(1590)年、この地に10万石で封じられた徳川四天王の一人である本多忠勝によって築城されました。
本多忠勝は、関ヶ原の戦いの後伊勢桑名に移り、大多喜には5万石で次男の忠朝が継ぎましたが、大坂夏の陣で戦死し、甥の政朝が継ぎましたが、元和3(1617)年に播磨龍野に移り、阿部正次が入りましたが、元和5(1619)年、小田原に移封され、元和9(1623)年に青山忠俊が入りましたが、寛永2(1625)年に改易となりました。寛永15(1638)年阿部正次の孫阿部正能が入り、その後正春の代の元禄15(1702)年三河刈谷藩に移封されました。そして短期間で去りますが、稲垣重富が入った後、元禄16(1703)年に大河内長沢松平家の松平正久が入城してからは9代続き、最後の城主松平正質(まさただ)の代に明治維新を迎えました。
現在は、本丸付近に土塁が、大手門付近に堀跡が残り、二の丸に大井戸が残ります。本丸跡と大井戸は「上総大多喜城本丸跡 附 大井戸、薬医門」の名称で千葉県指定史跡に指定されています。
建造物としては、大多喜高校に保存されている二の丸御殿薬医門が現存しており、前述の通り「本丸跡」の附指定で千葉県指定史跡となっています。
再建天守は昭和50(1975)年に天保13(1842)年模写の三層天守絵図などを元に、江戸時代の一般的な天守を参考として、推定復元を行って建築したものです。千葉県立中央博物館大多喜城分館として房総の中世から近世までの武器・武具や城郭、武家社会などに関する歴史 資料を展示紹介する専門館と総南地方の地域の文化財を紹介しています。
大多喜城

大多喜城

大多喜城

大多喜城

大多喜城

大多喜城

大多喜城

良玄寺(りょうげんじ)は、山号は金澤山。本尊は阿弥陀三尊像、浄土宗の寺院です。
天正18(1590,)年10万石の領主として大多喜に入城した本多忠勝は、菩提所としてここに良信寺を建立して、文禄4(1595)年下総小金(現、松戸市)東漸寺の僧了学を招き開山とし、寺領に100石を寄進しました。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の翌年に忠勝は、伊勢桑名に転封となり、二男の忠朝が大多喜城主となりました。元和元(1615)年、忠朝は大坂夏の陣で戦死し、甥にあたる政朝があとをつぎ、寺の名を忠朝の法名(戒名)をとって良玄寺と改めました。
この寺を開いた了学は、のちに飯沼弘経寺〔ぐきょうじ・現、常総市(旧水海道市)〕を再興しましたが、忠勝没後、桑名に西岸寺を開いて、再び弘経寺へ帰りました。その後、寛永9(1632)年、了学は徳川秀忠に召されて江戸に入り、芝増上寺17世となりました。
寺に伝来する紙本着色本多忠勝画像は、特色ある武将の像としてすぐれた作品であり、千葉県指定文化財になっています。
また、境内にある忠勝・忠勝夫人・忠朝の五輪の墓碑や寺領寄進状は、大多喜町指定文化財になっています。
忠勝は慶長15(1610)年、63歳で桑名、または一説に江戸で没したといわれ、桑名浄土寺に葬られましたが、大多喜の墓は分骨して建立されたものです。
忠勝夫人は、忠勝が桑名に転封後も大多喜に残り、慶長18(1613)年、大多喜城で没したといわれています。
忠朝は、大坂夏の陣で34歳で戦死し、大坂の一心寺に葬られましたが、分骨してこの地に埋め、その法号により良信寺は良玄寺と改められました。墓所は平成17(2005)年3月に隣接した場所に公園が整備され、忠勝公園として地域住民に親しまれ今日に至っています。
(現地説明板などより)
良玄寺

良玄寺

良玄寺

良玄寺
Posted at 2018/01/26 23:59:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月14日 イイね!

房総半島(2日目その3・南房総市・館山市)

滝田城は上滝田区根古屋の西方の丘陵上にあり、下滝田区の大手口より登ると最高所は標高140mで八幡台と呼ばれ、石宮の八幡小祠があります。ここが本丸(主郭部)と考えられ、これを囲む形で曲輪と思われる数か所の台地が見られます。東側の標高100mの中腹台地は馬場跡と伝承されています。
城址は西方に尾根が続きますが、南北に断崖がある要害の山城です。
築城の年代は明らかではありませんが、安房志では城代を里見5代義豊の妹を妻とした一色九郎としています。また快元僧都記の天文6(1537)年の項には、里見6代義尭が天文3(1534)年の犬掛合戦の後、暫く房州部久里郡に居城していたと記され、これを滝田城とする説が有力です。
また南総里見八犬伝では里見義実の居城で八犬伝発祥の城とされています。伏姫と八房の像などが建っています。
(現地説明板などより)
滝田城

滝田城

滝田城

滝田城

滝田城

岡本城は、戦国大名里見義弘が、小田原の北条氏に対する海防の要地にするため、時の城主であった岡本隨縁斉から譲り受けて修築し、元亀3(1572)年に完成させた城です。
義弘は城主として子の義頼を住まわせました。城の山腹はすべて削り上げて絶壁にし、郭や堀切が作られています。
山腹の要害と呼ぶ所は城主の館の跡で、東方の聖山は、天正7(1579)年に起きた里見一族内紛の時、義頼の弟・淳泰(梅王丸)が幽閉された所です。
聖山の北東山頂付近には、岩盤を掘り込んだ水堀・桝ヶ池があり、どんな干天にも涸れることはなかったといわれています。
現在は、里見公園となっています。
平成24(2012)年1月24日、里見氏城跡岡本城跡として稲村城跡と共に国指定史跡になっています。
(現地説明板などより)
岡本城

岡本城

岡本城

館山城は里見氏によって築かれました城ですが、この地は、鏡ヶ浦に臨む標高79,.3mの独立した小丘であり、要害の地であることから、既に保元年間(1156~1159年)に沼ノ平太こと平ノ判官貞政が居館した所と伝えられています。
 「里見氏代々記」によると、築城の頃、里見氏の居城であった岡本城は、立地に恵まれず、8代・義頼の時から館山築城を計画していました。義康は父の遺志を継いで、天正16(1588)年に築城に取り掛かり、2年半を費やして竣工しました。「房総里見誌」に「石塁峨々として築き上げ、堀は深満に等しく、矢倉高くして蒼天を仰ぎ…郭を真倉と云い、大手を根来下、搦手を藤井と云う。並びに上、中、下と町割して、四民ども日々群集して繁昌す。」とあるように、城郭、堀、楼閣、武家屋敷、城下町などが計画的に造成され、城そのものは地積約43万㎡(約13万坪)の壮麗堅固な平山城でした。
天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原征伐で里見氏は豊臣方として参陣しましたが、里見氏が保護していた御弓公方足利氏の遺児頼淳のために鎌倉を回復しようと企てたことや惣無事令に違反したことを理由に上総国は没収され、安房国一国を安堵されました。
これにより上総国の家臣は安房国へ引き上げることとなり、里見義康は居城を岡本城から館山城へ移すことになり、天正19(1591)年に館山城に居城を移しました。
慶長19(1614)年、里見忠義は外祖父である小田原城主の失脚に連座する形で安房国を没収され、伯耆国倉吉に三万石で転封となり館山城は破却されました。時に慶長19(1614)年9月20日のことでした
元和8(1622)年忠義が没すると嗣子なく里見家は断絶となりました
城山公園山頂にある三層四階天守閣形式の館山市立博物館分館は昭和57(1983)年10月31日に開館し、現在は八犬伝博物館とも称しています。里見氏を題材にした「南総里見八犬伝」に関する各種資料の展示と、現在にまで続く八犬伝の人気を紹介しています。
(現地説明板などより)
館山城

館山城

館山城

館山城

大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取り潰しの策を巡らせていました。この策により改易を命ぜられ、伯奢国・倉吉に移された房総里見氏10代・忠義は、憂悶のうちに元和8(1622)年に29歳で倉吉在の堀村で卒しました。
 この悲運の主君に従って殉死した8人の家臣は、その氏名は不詳ですが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されているのは何を暗示しているのでしょうか。
慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君・忠義と8人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく漁師の姿に身をやつして遥々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、密かに館山城の南麓に埋めたのが、この八遺臣の墓であると云われています。
この8人の殉死者が、「南総里見八犬伝」のモデルであるとも伝えられています。
(現地説明板などより)
八遺臣の墓

館山藩稲葉氏の陣屋跡・館山陣屋です。慶長19年に里見氏の館山藩が廃藩となり、館山城も破却された後、しばらく藩はおかれませんでしたが、天明元(1781)年に旗本稲葉正明が安房国で加増をうけ1万石の大名になると館山藩を立て寛政3(1791)年に館山城跡の南麓に陣屋を構えました。
現在御屋敷と呼ばれているところで、当時の区画が残され、稲葉氏の霊を祀った稲葉稲荷神社(貴美稲荷)があります。
明治4(1871)年の廃藩置県、館山県の木更津県に統合されるまで、稲葉正明、正武、正盛、正巳、正善と続きました。
館山陣屋

館山陣屋

館山市立博物館本館は戦国大名里見氏の居城跡である城山公園内に設立された、郷土の歴史と民俗の博物館です。
史実の里見氏の展示を中心に地域の歴史博物館として、安房地方の歴史や民俗資料を収集し展示しています。常設展示は歴史展示室、民族展示室、子ども展示室などで構成されています。
日曜・祝日には甲冑の着用体験も行っています。
館山市立博物館

安房国分寺は、山号は日色山、真言宗智山派の寺院です。
聖武天皇の天平13(741)年、国ごとに国分寺をおく詔がだされましたが、安房は天平宝字元(757)年に上総から分立した国のため、安房国分寺の創建はそれ以降の奈良時代末のことと考えられます。
安房国分寺跡は、昭和51年~53年(1976年~1978年)に実施された現国分寺境内を中心とする地域の発掘調査で、掘り込み地形による版築遺構が出土されました。規模は東西22m、南北15mを測り、金堂基檀跡とみられています。また、安房国分寺使用のものと推定される平瓦や布目痕のある軒丸瓦、礎石、円筒状の三彩獣脚1点などが出土しています。安房国分寺の創建は奈良時代末頃という説があります。山門をぬけると参道の傍らに当時用いられた円形の楚石が置かれ、本道横には南北朝時代の五輪塔があるほか、山門入口には「孝子伴直家主の碑」や「安房三義民の墓」があります。
昭和32(1957)年に館山市指定史跡に指定され、平成4(1992)年に千葉県の史跡に指定されました。
(現地説明板などより)
安房国分寺

安房国分寺

安房国分寺

安房国分寺

稲村城は、室町時代15世紀後半から天文3(1534)年に里見家の内紛によって里見義豊が滅ぼされるまでの前期里見氏の居城でした。
16世紀前半、3代義通が居城とした城で、4代義豊が5代義堯に攻め滅ぼされた「天文の内訌」の舞台となった城です。
ここは安房国の府中を押さえる位置にあり、里見氏による安房支配のための拠点でしたが、内紛を収めた分家の里見義堯が、本城を滝田・宮本方面へ移すと使用されなくなりました。そのため、戦国前期の城の姿がいまも残された、貴重な遺跡と評価されています。
城の中心部は、東西500m、南北500mの丘陵で、山頂に広い主郭や土塁、三ケ所の堀切などがあります。北側と西側は急斜面の要害で、東側と南側には複雑に腰曲輪を重ねるなど、数多くの遺構が残されています。
また、北の滝川は外堀の役割をもち、東・西・南を廻る丘陵は外郭の役割をはたして、東西約2km、南北約1.5kmにわたる大規模な範囲の城で、安房国の統治を主眼にした所堅固の城と考えられています。平成24(2012)年1月24日に岡本城(南房総市)とともに「里見氏城跡 稲村城跡」として国の史跡に指定されました。
(現地説明板などより)
稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

稲村城

洲崎神社すのさきじんじゃ)は延喜式神名帳に「后神天比理乃咩命神社大 元名洲神」と記され、 天太玉命の后神を祀る式内大社で、元の名を洲神と称しました。
宝暦3(1753)年の「洲崎大明神由緒旧記」によると、神武天皇の時代、天富命が御祖母神天比理乃咩命の奉持された御神鏡を神霊として、洲辺の美多良洲山に祀られたことに始まります。
治承4(1180)年、安房に逃がれた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願しています。
室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請したと伝えられています。房総里見氏も当社を尊崇して、7代義弘が神領5石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下しました。
幕末の文化9(1812)年、房総沿岸警備を巡視した老中松平定信は「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納しています。
神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元寇戦勝祈願の功により勲二等に叙せられ、明治6(1873)年県社に列せられた。往時、別当寺は養老寺など五ヶ寺を数えました。洲崎明神は古来伝承されている数々のあらたかな霊験から、安産・航海安全・豊漁・五穀豊穣や厄除開運の守護神として信仰が厚く、現在に及んでいます。
本殿の屋根は銅板葺の切妻造で、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流れ造りで、柱などの軸部は朱塗りで仕上げられています。軒下の組物を、寺院建築で用いられる唐様三手先とするのは、珍しい点といえます。
社伝では延宝年間(1673〜81)の造営とされていますが、三手先の形式がくずれている点や、支輪や虹梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多い点から、その後に大規模な修理が加えられていることがわかります。
しかし本殿の正面と背面には、古い社殿の部材と思われる蟇股もあります。
とくに背面の竹に虎を配した彫物のある本蟇股は、江戸時代初期の寛永年間(1624~44)頃の様式に従っているもので、延宝年間の造営の際に再利用されたものと考えられています
洲崎踊りは、毎年、2月の初午と8月20~22日の神社例祭に奉納されます。「みろく踊
り」と「かしま踊り」の2種類からなり、地元ではこれらを「みのこ踊り」と呼んでいます。8月の例大祭には勇壮な神輿の渡御や浜祈祷も行われます。
神社裏の御手洗山の自然林は県の文化財指定を受けています。
(現地説明板などより)
洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎神社

洲崎観音養老寺は正式には「妙法山観音寺」といい、神仏分離までは洲崎神社の社僧を勤めていました。
創建は養老元(717)年で、開祖は役行者、現在は真言宗智山派の寺院です。
開祖役行者の石造をお祀りしている岩屋があります。
役行者(役小角)は、奈良時代の山岳修験者で、修験道の開祖として伝えられています。
修験道は山岳信仰を基底におき、それに真言密教が習合したもので、全国の山々を修行の場として難行苦行を重ね加持祈祷を行う仏教の一派で、その代表が役行者ということになります。
また、役行者は海上歩行や空中歩行の神通力を持っていたことから古来より足の守護神とされ、現在でも健脚になるよう多くの草鞋が奉納されています。
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」には、役行者の化身が伏姫に仁義礼智忠信孝梯の八文字が浮かぶ数珠を授ける場面が登場します。
この物語で活躍する八犬士の所持する珠こそ役行者が伏姫に授けたものと伝えられています。
(現地説明板などより)
養老寺

野島崎にある里見義実公上陸の地碑です。
「南総里見八犬伝」で知られる戦国時代の大名、里見氏の初代里見義実公が結城の合戦に敗れて三浦半島からここ白浜の野島崎に上陸したのが嘉吉元(1441)年〔文安2(1445)年という説もあります〕のことといわれています。
義実公は白浜に居城を構え安房の国を支配していた安西氏、神余氏、丸氏、東條氏の四豪族を打ち破って安房を統一し、房総里見氏の幕開けとなりました。
(石碑より)
野島崎・里見義実公上陸の地碑

野島崎は、房総半島南端にある岬で千葉県および関東地方(伊豆諸島・小笠原諸島を除く)の最南端です。
野島崎には、白鳥の灯台とも呼ばれる野島埼灯台があります。慶応2(1866)年5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税条約」(別名・江戸条約)によって建設することを約束した8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つです。点灯は明治2年12月18日(新暦では1870年1月19日)に観音埼灯台に次いでわが国2番目に点灯しました。
野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

野島崎

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Posted at 2018/01/26 22:36:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

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