平安神宮の次は東福寺へ向かいました。
同聚院は東福寺の塔頭の一つです。
東福寺の寺地一帯は、平安時代中期に藤原忠平が法性寺を建立した所で、寛弘3(1006)年には、藤原道長が四十歳の賀に当たって、五大明王を安置する五大堂を境内に造営しました。その後も、藤原氏が法性寺の造営に力を入れたが、鎌倉時代初期には衰微し、その跡地に九條道家が東福寺を建立しました。
同聚院は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で、五大明王のうち不動明王坐像が祀られています。像は仏師定朝の父・康尚の作品です。
東福寺は、臨済宗東福寺派の本山です。
嘉禎2(1236)年、関白九條道家が聖一国師を開山として菩提寺建立を発願、建長7(1255)年に七堂伽藍を完成しました。
「東福の伽藍面」とまでいわれ壮観を極め、京都五山の第四位の禅寺として栄えました。しかし、度重なる兵火と明治14(1881)年の失火で仏殿、法堂、庫裏などを焼失、以後、逐次再建してきました。
明治の廃仏毀釈などで規模は縮小されましたが、禅宗伽藍を代表する室町最古の三門(国宝)をはじめ、浴室、東司(便所)禅堂、鐘楼(いずれも重文)など室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建築が残ります。
忘れてはならないのは
方丈八相庭園で、その四周に庭園をもっているのが特徴です。昭和13(1938)年、重森三玲氏によって作庭された枯山水式の庭園です。釈迦成道を表現し、八相の庭といわれています。
南庭(前庭)は巨石と、砂紋による荒海の表現に加え、西方に五山を築山として大和絵風にあらわし、神仙境を表現しています。
西庭は「井田市松」の庭で、さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様になっているのが特徴です。
北庭は「市松の庭」で、作庭以前に南の御下賜門内に敷かれていた石を市松模様に配しています。
東庭は「北斗の庭」で、もと東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様地割に配している小宇宙空間を表現しています。
この方丈庭園は前から一度見てみたかった庭園です。個人的には北庭の市松模様の雰囲気が好きです。
通天橋、開山堂にも行ってみます。
東福寺の通天橋は、仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷に架けられた橋廊です。天授6(1380)年、春屋妙葩(普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたとつたえられ、歩廊入口には同国師の筆になる「通天橋」の扁額をかかげています。
南宋径山の橋を模し、聖一国師が通天と名付けました。
その後、第四十三世住持、性海霊見が修造し、後世も幾度か架け替えられました。
現在のものは、昭和34(1959)年、台風によって倒壊したものを昭和36(1961)年、再建したものです。
開山堂は、別名を常楽庵といいます。建物は文政2(1819)年に焼失し、文政6(1823)年、一条忠良によって再建されました。屋上に閣を持つ類例を見ない開山堂で、正面柱間八間、内部は禅式瓦敷(四半敷)、祀堂は床高で開山国師像を安置しています。隣には開山国師常住の方丈の普門院があり、枯山水の開山堂庭園も見事です。
芬陀院は東福寺塔頭です。
元享年間(1321-24)に関白一条内経が創建しました。「茶関白」といわれた一条昭良(恵観)ゆかりの茶室図南亭が有り、遺愛の勾玉の手水鉢が残されています。
また、雪舟作と伝える鶴亀の庭があるところから雪舟寺という名でも知られています。禅院式枯山水の庭園は、一面の苔と流れるような白砂が特徴です。
退耕庵は東福寺塔頭です。
貞和2(1346)年の創建です。応仁の乱で衰微しましたが、慶長年間に安国寺恵瓊が再興しました。現在ある客殿は関ヶ原の戦いの前年の建築です。
小野小町ゆかりの寺で、恋文をはって作った玉章地蔵と小町百歳像があります。茶室作夢軒は、忍び天井などがあり、関ヶ原の戦いの謀議をしたといわれています。
鳥羽伏見の戦いの防長殉難者の菩提所としても知られています。
拝観には、事前に予約が必要です。私は入口までしか入ることができていません。
この後は、二条城へ行きました。何度も行っている二条城ですが、目的は、
築城400年記念 展示・収蔵館です。
二条城内にある「築城400年記念 展示・収蔵館」は、昭和57(1982)年に重要文化財指定を受けた二の丸御殿障壁画の原画を恒久的に保存するため、二条城築城400年を記念して、平成16(2004)年3月に竣工し、平成17(2005)年10月10日に開館しました。
展示室では、障壁画を展示しているのはもちろんのこと、障壁画に関する資料や錺金具、城内から発掘された埋蔵文化財も展示しています。
季節ごとに展示されている障壁画は異なるようです。
この日はこれで終了。本来ならもう少し回っていたところなのですが、なにせ夏の京都は暑いです。
Posted at 2008/08/10 21:16:09 | |
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