2日目です。
八代神社は、妙見宮とも呼ばれ天御中主神を祀る神社です。
上宮、中宮、下宮の三社よりなり、本社はその中の下宮です。
延暦14(795)年、桓武天皇の勅願によって上宮が創建されて以来、永暦元(1160)年に中宮、そして下宮は、文治2(1186)年、八代平野の要の位置にあたるこの地に建立されました。
現在の建物は、元禄12(1699)年と寛延2(1749)年に本格的に改築されたものです。
社殿は県指定の重要文化財になっており、屋根は入母屋造りで、正面に千鳥破風が設けられ、これらの妻飾りには数多くの彫刻が使用され、江戸 時代中期から後期にかけての社寺建築の特徴をよく表わしています。
11月中旬にある祭礼は、九州三大祭りの一つに数えられ、神事の神幸行列は、県の無形民俗文化財に指定されています。(説明看板などより)
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妙見中宮跡は懐良親王墓所から200mほど中宮川を上った場所にあります。
永暦元(1160)年3月18日、二条天皇の勅願により肥後国司であった従五位肥後守平貞能が社殿を妙見上宮の麓にあるこの地に創建したと伝えられています。
貞能は南北十町東西一里にわたって殺生狩猟を禁止し、同時に神領40町歩を寄進しました。
文治2(1186)年に下宮が創建されるまでの27年間は、平家の全盛期であり、神仏混淆の宮寺が栄えた時代です。
本地垂迹思想が広まる頃で当時の宮寺には神宮寺・別当寺・本地堂・塔その他伽藍を配置し、祭祀には僧侶の修法、勧行などの作法を加え神社が仏寺のように変遷する時期でもありました。
中宮が信仰の中心として栄えた時代は短期間ですが庶民信仰が高まり社前には定期の市が開かれ、門前町が開かれました。江戸時代中期の妙見宮祭礼には下宮より中宮への神輿の行幸が行われ御幸所(御旅所)として今日に至っています。
昭和40(1965)年5月18日、八代市の指定史跡となっています。また、熊本県平成の名水百選にも選ばれています。
(説明看板などより)
妙見中宮 - 1 posted by
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懐良親王は後醍醐天皇の皇子です。
征西大将軍となり、九州における南朝方の中心人物として活躍し、弘和3(1383)年に亡くなりました。
親王は福岡県八女郡矢部村で亡くなりましたが、縁の深かった八代に墓が築かれました。
征西将軍を継いだ後村上天皇の皇子良成親王の命により菊地武朝が造営したといわれています。
御墓の中には懐良親王直筆銘と伝えられている宝篋印塔が建てられています。
懐良親王陵 - 1 posted by
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悟真寺は、山号は中宮山、曹洞宗の寺院です。
南北朝時代に懐良親王の菩提を弔うために大原孚芳和尚を開山とし、創建されたと伝えられています。
寺名年は親王の法名「悟真大禅定門」に由来します。
しかし、創建の時代については、元中7(1390)年説の他に諸説があり定かではありません。
中世の悟真寺は、菊池氏や相良氏等の庇護を受け、八十あまりの末寺を持つほどの勢力を誇りました。
中世末から近世初頭にかけての時代の転期には庇護者もなく衰退しましたが、近世の肥後藩主加藤氏により再興され、続く細川氏からも寺領の寄進を受けました。
本堂の本尊として釈迦如来を祀る一方、境内の御霊殿には懐良親王の霊が祀られ、懐良親王御自筆銘の御両親御霊牌(市指定文化財)や懐良親王画像(元文2(1737)年)などが奉安されています。
その他、応永30(1423)年銘の「悟真寺の雲版」(県指定文化財)、木造地蔵菩薩座像(南北朝時代)、木造大原孚芳像(江戸時代)、銅造誕生仏(朝鮮・高麗時代)など中世の貴重な文化財が伝えられています。
(説明看板などより)
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宗覚寺は、山号は泉福山、日蓮宗の寺院です。
加藤清正の嫡男忠正の菩提寺として、慶長13(1608)年泉福山本成寺として建立されました。
その後、寛永11(1634)年に本成寺は八代城下に移転したため、草庵をその跡に建て、墓守りを置き、本町本成寺から50年の間供養を続けました。
延宝8(1680)年に当時の八代城主松井直之の斡旋で、藩主細川綱利は宗覚寺住職として本山の日達を据え、寺号は忠正の法名「理性院殿宗覚日等居士」によって宗覚寺とし天和3(1683)年に本堂が創建されました。
宗覚寺は創建以来寺領などすべて細川家の寄進をもって経営され、経済的基礎が確立しました。
当時の本堂と庫裏は、明治10(1877)年の西南戦争で薩摩軍の本部が置かれたため、兵火で全焼しました。
その後本堂と庫裏は明治18(1885)年頃再建され、さらに今の庫裏は昭和60(1985)年に新築されたものです。
(説明看板などより)
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加藤主計頭忠正の墓所は悟真寺に近い宗覚寺境内の東の丘上にあります。
父は加藤清正・母は菊池武宗の娘本覚院で、清正の長男が早世したので嫡男として慶長4年(1599)に江戸で生まれました。
忠正の幼名は熊之助、将軍秀忠の一字を賜り忠正と名乗りましたが 慶長12(1607)年正月疱瘡にかかり、秀忠から名医を遣わされましたがその甲斐なく、27日に江戸屋敷で9才の若さで亡くなりました。
ある夜、忠正は両親の夢枕に現れ、「私は北の方へ流れる谷川の近くで毎日遊んでいます。」といって指差しました。清正はさっそく絵図面を開き、夢の場所を定め、忠正の遺骨をここに葬って高さ1.5mばかりの五輪塔を建てました。
法名は「理性院殿宗覚日等大居士」とし、翌年2月この墓所下に泉福山本成寺を建立して菩提寺としました。
その後寺は八代城下に移され、延宝8年(1680)に宗覚寺を建て今日に及んでいます。墓所の広さは一坪、瓦葺の御霊屋に凝灰岩の五輪塔一基が祀られています。
五輪塔には「慶長一二丁未正月二七日」「加藤主計頭宝塔」とあります。忠正の墓は古来疱瘡の神として広く信仰されました。
(説明看板などより)
宗覚寺・加藤忠正の墓 - 3 posted by
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春光寺は、八代城主松井家の菩提所で、山号は江東山、臨済宗南禅寺派の末寺です。
創建は天正11(1583)年初代松井康之が亡父正之追善のため丹後久美浜に常喜山宗雲寺を建立したのに始まります。その後豊後杵築、豊後小倉、肥後熊本と移りました。
正保3(1646)年、熊本藩筆頭家老松井興長が八代城に入城し、当時北の丸にあった泰勝院を宗雲寺と改めて松井家の菩提所としました。
その後、藩主細川綱利は松井家の菩提所として古麓町に春光寺を創建させ、延宝5(1677)年に現在地に移転し江東山春光寺と改称しました。春光寺の寺号は松井康之の法号「春光院英雲宗傑」に因んだものです。
明治10(1877)年の西南の役では、この地は戦場となり、所々に弾痕が残っています。
境内の本堂、鐘楼は明治時代の再建ですが、大書院及び庫裏は熊本の臨川山松雲院(子飼町)から移築したままの姿を留めているそうです。
裏山には松井康之、松井興長など松井家歴代の古廟、新廟3棟と主君に殉じた家臣10名の墓があります。殉死者の一人田中志摩守は明智光秀の家老でした。
また八代城の現存建物である永御蔵御門・番所が昭和61(1986)年に移設されています。
(説明看板などより)
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古麓城はかつては八代城と呼ばれていました。
建武元(1334)年に名和義高が八代荘の地頭に任ぜられ、翌年には代官として一族の内河義真が下向し、南北朝の騒乱に備えて築城したと伝えられます。
古麓城は、居城飯盛城のほか丸山城、鞍掛城、勝尾城、詰めの城の八町嶽城の五城群からなっていました。
古麓城を中心に八代を治めていた名和氏と、人吉・球磨地方を拠点とする相良氏は、交通の要衝である八代地域をめぐって争っていました。
室町時代の文明16(1484)年に相良為続は古麓城を落城させて名和氏を追放しましたが、明応8(1499)年に肥後国守護職の菊池能運の援助によって名和顕忠が八代に復帰しました。
しかし、永正元(1504) 年に相良長毎が古麓城に入城して八代を領地とし、天文3(1534)年に相良長唯によって城の大規模な整備と城下町の整備が行われました。相良氏の時代に新たに鷹峰城・新城が築かれました。
天正9(1581)年 には響野原で相良義陽が戦死して島津氏の領地となり、天正10(1582)年に島津氏は肥後に侵攻し、島津義弘を守護代に据え、古麓城には平田光宗が常駐することとなりました。
しかし、天正15(1587)年の豊臣秀吉による九州攻めの後、肥後は佐々成政の領地となりましたが、佐々成政は国衆一揆の責を負わされて切腹しその後、八代は小西行長の領地となりました。
行長は城を球磨川対岸の麦島に移したため、古麓城は廃城となりました。
(説明看板などより)
登ったのは新城で、春光寺から登ってみました。
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球磨川の萩原堤沿いに
「宮崎八郎戦没ノ碑」(碑銘は司馬遼太郎氏の書)が建っています。萩原堤は、明治10(1877)年の西南戦争の際に多数の死傷者がでた激戦地です。
宮崎八郎は、玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)の出身で、中江兆民の民約論に影響を受け、明治8(1875)年に植木学校を設立するなど自由民権運動で活躍しました。
八郎は西南戦争では民権家たちと熊本協同隊を結成し、薩軍に味方しました。
参謀長だった宮崎八郎は薩軍を援助し奮戦しましたが、4月6日に戦死しました。
時に若干27歳でした。
司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」では物語の主要人物として登場します。
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