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ピズモのブログ一覧

2011年09月16日 イイね!

肥後・島原紀行(2日目その5・天草市の史跡めぐり)

戦国時代の天草は、天草氏・志岐氏・上津浦氏・栖本氏・大矢野氏ら天草五人衆と呼ばれる領主により治められていました。
棚底城はこの内、上島に勢力を持つ栖本(すもと)氏と上津浦(こうつううら)氏が幾度も争った歴史を持つ城です。「八代日記」という相良氏家老の記した文書に、天文13(1544)年から永禄3(1560)年まで棚底城をめぐって戦があったことが記されています。
天文13(1544)年には上津浦氏の一族が在城し、その後弘治2(1556)年頃には栖本氏の領有となっていたようです。永禄3(1560)年には再び上津浦氏の手に戻っています。
天草最高峰の倉岳(標高682m)のすそ野に位置し、丸にあたる主郭を中心に合計8つの郭から構成されていました。
(説明看板などより)
平成21(2009)年、国の史跡に指定されています。
城跡は東側に登り口があります。発掘調査が行われたようですが、整備はこれからのようです。
棚底城 - 01
棚底城 - 01 posted by (C)pismo

棚底城 - 02
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棚底城 - 03
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棚底城 - 04
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棚底城 - 05
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棚底城 - 06
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棚底城 - 07
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棚底城 - 08
棚底城 - 08 posted by (C)pismo

久玉城は、中世に牛深を拠点としていた豪族久玉氏の居城と伝えられています。
城域は主軸の長さ235m、幅50mに及ぶ規模で、五つの区画を階段状に造成している。最高所に弓状の土塁に囲まれた狼煙台を設け、その北、西、東の三方に腰曲輪、南は堅堀によって堅固な城を形成しています。また、中心区画には野面積みの石垣が残っており、近世的石垣を持つ中世城として注目されています。(説明看板より)
熊本県の史跡に指定されています。
久玉城 - 01
久玉城 - 01 posted by (C)pismo

久玉城 - 02
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久玉城 - 03
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久玉城 - 04
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久玉城 - 05
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久玉城 - 06
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久玉城 - 07
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久玉城 - 08
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久玉城 - 09
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久玉城 - 10
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久玉城 - 11
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久玉城 - 12
久玉城 - 12 posted by (C)pismo

崎津天主堂は、アルメイダ神父により永禄12(1569)年2月23日に建てられ、ここを中心にしてキリスト教は天草に栄えました。
しかし、寛永15(1638)年の禁教令が天草で実施されてから崎津では特に激しい迫害の嵐が吹き荒れました。
公然と信仰を明らかにすることを禁じられたキリスト教徒は、隠れキリシタンになり、ひそかに真夜中に一緒に集まって神を礼拝し、お祈りを献げていました。隠れキリシタン達は、生命や財産の危険をもかえりみず信仰こそ何物にも勝る宝であり、幸福の源泉であると、確く信じていました。この宝を子孫に伝えるために、7人の村人を先生として選び、「水方」と名付けました。この名は水方の仕事の一つである洗礼の儀式から取られたものです。即ち、洗礼の儀式では魂の浄めのシンボルとして、水を注ぐことが必要とされるからです。
キリスト教徒を狩りだすために、踏絵が毎年行われました。
明治5(1872)年にキリシタン禁制の高札が廃止されるや、神父は、240年ぶりに再び崎津に帰ってきて、隠れキリシタンから熱烈な歓迎を受けました。
教会は明治以来3度建て直され、現在の建物は昭和9(1934)年、ハルブ神父により再建された長崎の鉄川与助の施行によるゴシック風建築です。正面の祭壇のある場所で迫害時代に厳しい踏絵が毎年行われていました。現在、この教会は崎津の400名のキリシタン信者の祈りの家として、毎日使用されています。
なお、天主堂のある地はかつて勝海舟が宿泊した場所だそうです。安政2(1857)年10月、練習艦「観光丸」の艦長として天草に来航した勝海舟は、富岡(苓北町)などをへて崎津に寄港し、現在の崎津教会の場所にあった庄屋・吉田家に宿泊しました。
(現地案内板より)
「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」にも選定されています。
崎津天主堂 - 01
崎津天主堂 - 01 posted by (C)pismo

崎津天主堂 - 02
崎津天主堂 - 02 posted by (C)pismo

崎津天主堂 - 03
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崎津天主堂 - 04
崎津天主堂 - 04 posted by (C)pismo

大江天主堂です。
天草のキリシタンは、徳川幕府の禁教時代にも「かくれキリシタン」として、ひそかに根強い信仰を続けていましたが、明治に入り禁制が解かれて再び布教が行われました。
フランス人のガルニエ神父は、明治18(1885)年、25歳で宣教師としてこの地を訪れ、昭和16(1941)年82歳で亡くなるまでの40数年間布教につとめ、村人からは慈父のように慕われました。
現在の大江天主堂は神父が私費を投じて、長崎県五島出身の棟梁鉄川与助により昭和8(1933)年完成させたものです。
明治40(1907)年、北原白秋等5名のいわゆる「五足の靴」の旅は、天草言葉の巧みなる仏国僧侶に会うのが主な目的とあり、ガルニエ神父に会っています。
(現地案内板などより)
大江天主堂 - 1
大江天主堂 - 1 posted by (C)pismo

大江天主堂 - 2
大江天主堂 - 2 posted by (C)pismo

大江天主堂 - 3
大江天主堂 - 3 posted by (C)pismo
妙見浦(みょうけんがうら)は、リ天草西海岸の代表的な風景地で海岸一帯は高さ20メートルより80メートルに及び、断崖が相接して連なり付近の島々が松の緑を添えている所さながら絵のような風光です。
ほとんどが、第3期始新統の砂岩礫石の景層より形成されている妙見崎には、妙見洞門及び妙見洞窟があり前者は高さ20m、幅8.5mから20m、深さ50mに及び小船等は自由に通ることができます。
後者は互いに交叉した三条の断層に沿って生じた細長い三つの波蝕洞門が内部において相つながり、洞窟を形成したもので自然の妙技正に一見に価するものがあります。
なお洞窟は、砂岩の厚層に生じたものであるにもかかわら、洞門には大小の鍾乳石が垂れ奇観を呈しています。
昭和10(1935)年、国の名勝及び天然記念物に指定されています。
(現地案内板などより)

妙見浦 - 01
妙見浦 - 01 posted by (C)pismo

妙見浦 - 02
妙見浦 - 02 posted by (C)pismo

妙見浦 - 03
妙見浦 - 03 posted by (C)pismo

妙見浦 - 04
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妙見浦 - 05
妙見浦 - 05 posted by (C)pismo

妙見浦 - 06
妙見浦 - 06 posted by (C)pismo

妙見浦 - 07
妙見浦 - 07 posted by (C)pismo

この後、下田温泉で一風呂浴びて、本渡で宿泊しました。
Posted at 2011/09/30 20:34:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2011年09月16日 イイね!

肥後・島原紀行(2日目その4・天草四郎の故郷といわれている上天草市大矢野島)

ここからは天草に入ります。
天門橋は、宇土半島と大矢野島の間の三角ノ瀬戸に架かる橋です。昭和41(1966)年に天草五橋の1号橋として完成しました。
天草パールラインの入り口一号橋は、九州と天草諸島とを繋ぐ唯一の橋です。
現在、地域高規格道路の熊本天草幹線道路整備の一環として新天門橋の計画が進行しているそうです。
天門橋展望所 - 1
天門橋展望所 - 1 posted by (C)pismo

大矢野城です。
大矢野氏は筑前原田氏の出で遠祖をたどれば漢の後裔阿智王の流れをくむといわれ鎌倉時代当地大矢野に拠ったので大矢野姓を称したといわれています。
大矢野城に拠った年代は不明ですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に於て戦死した大矢野種基の代まで続きました。
大矢野氏の名声を高めたのは元寇の役で、鎌倉幕府の命により大矢野十郎種保、大矢野三郎種村ら三兄弟は博多湾に馳せ参じ、竹崎季長による弘安の役の蒙古襲来の絵詞にその三兄弟の武勲の様子が記されています。
戦国時代は栖本・上津浦・大矢野・天草・志岐の五氏が天草郡を分割して天草五人衆と称し天草を代表する豪族のひとつでした。
昭和8(1933)年地元有志の発起により時の総理及び文部大臣を始め全国有志の方々からの浄財により大矢野氏の顕彰碑が建立されました。
現在、城石碑と周辺から移転させた大矢野氏関係の五輪塔群が置かれています。
(説明看板などより)
大矢野城 - 01
大矢野城 - 01 posted by (C)pismo

大矢野城 - 02
大矢野城 - 02 posted by (C)pismo

大矢野城 - 03
大矢野城 - 03 posted by (C)pismo

大矢野城 - 04
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大矢野城 - 05
大矢野城 - 05 posted by (C)pismo

大矢野城 - 06
大矢野城 - 06 posted by (C)pismo

天草四郎メモリアルホールは、天草四郎と上天草の歴史を展示している施設です。
天草四郎は、島原の乱の指導者とされている人物で上天草市大矢野町出身といわれています。
ホールでは、天草・島原の戦いやキリシタン殉教の歴史を展示や映像により紹介しています。
天草四郎メモリアルホール - 1
天草四郎メモリアルホール - 1 posted by (C)pismo

天草四郎メモリアルホール - 2
天草四郎メモリアルホール - 2 posted by (C)pismo

天草四郎公園は、天草四郎メモリアルホールのある公園です。宮津の浜の丘は、天草四郎の住居跡と伝えられる地で、公園内には、殉教天草四郎之像があります。
天草四郎公園 - 1
天草四郎公園 - 1 posted by (C)pismo

天草四郎公園 - 2
天草四郎公園 - 2 posted by (C)pismo
Posted at 2011/09/30 20:21:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2011年09月16日 イイね!

肥後・島原紀行(2日目その3・宇土市、2つの宇土城と大分むぎ焼酎「二階堂」のCMで有名な長部田海床路)

次は宇土市です。
宇土城が目的ですが、宇土城も八代と同様、中世の宇土城と近世の宇土城があります。(あと遺構は残っていませんが陣屋もありました。)

近世の宇土城は小西行長の居城です。
天正16(1588)年、小西行長は宇土・益城・八代・ 天草を拝領し翌天正17(1589)年からこの地に新城を築き始めました。
また、支配体制を整えるためにに領内の隈庄城(城南町)、木山城(益城)、岩尾・ 愛藤城(矢部町)、麦島城(八代市)を支城とし城代を置きました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは小西行長はで西軍につき敗れ、行長は捕らえられて斬首されました。この時、加藤清正は、宇土城を攻め、行長の弟隼人は城を死守していましたが、行長処刑を知らされ開城しました。
合戦後、宇土城は肥後一国の領主となった加藤清正のものとなり城代が置かれました。清正はこの城を隠居城とするべく普請を行いましたが、慶長16(1611)年に清正が没すると、 翌慶長17(1612)年幕府の命令で宇土城は破却されました。
また、島原の乱の後城は徹底的に壊され、正保3(1646)年に宇土細川藩が成立しましたが、築城は許されず陣屋を構えたため、以後城を築くことはありませんでした。
昭和40年代、県立宇土高等学校社会部による発掘調査が行われ、また、昭和53(1978)年〜昭和57(1982)年に本丸跡の公園整備に伴う発掘調査が行われ石垣、建物、門、井戸などが発掘され、瓦も大量に出土しているそうです。
(説明看板などより)
本丸跡には小西行長の銅像が立っています。
近世宇土城 - 01
近世宇土城 - 01 posted by (C)pismo

近世宇土城 - 02
近世宇土城 - 02 posted by (C)pismo

近世宇土城 - 03
近世宇土城 - 03 posted by (C)pismo

近世宇土城 - 04
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近世宇土城 - 05
近世宇土城 - 05 posted by (C)pismo

近世宇土城 - 06
近世宇土城 - 06 posted by (C)pismo

近世宇土城 - 07
近世宇土城 - 07 posted by (C)pismo

中世の宇土城は「西岡台」と呼ばれる標高39mの小高い丘陵上にあります。
西岡台の東約500mには、小西行長が16世紀末に築城した宇土城があるため「中世宇土城」「宇土古城」「宇土城(西岡台)」などと呼んで区別しています。
築城は永正3(1048)年に肥後国守護・菊池氏の一族によると考えられています。
鎌倉時代末期の元徳2(1330)年には菊池氏一族の宇土高俊が城主となり室町時代には宇土氏と名和氏が宇土城主となりました。
室町時代、宇土忠豊の養子として肥後国守護の菊池氏から宇土為光が入りましたが、為光は文明16(1484)年、明応8(1499)年と守護職押領を企て失敗しました。
文亀元(1501)年、為光は3度目の守護職押領を企て、ついに成功し肥後国守護となりました。
しかし文亀3(1503)年、亡命していた菊池本家の22代菊池能運の反撃に遭い、西岡台の宇土城に籠城しましたが破れ、殺害されました。
城には菊池氏家臣の城為冬が入城しましたが、永正元(1504)年に菊地能運が急死すると城氏は没落し、空城となった西岡台には為光の娘婿である名和顕忠が入りました。
名和氏は、室町時代の初め頃から八代にいましたが、相良氏が名和氏を攻めたため、八代から宇土へ移りました。それから80年余り名和氏は宇土城主でした。天正15(1587)年に行われた豊臣秀吉の九州征伐の際、名和顕孝は秀吉に降伏しました。しかし、肥後国人一揆に際し、中立を保ったことを釈明すべく大坂へ赴いた際、城代となった弟の名和顕輝が秀吉軍の開城勧告を拒否したため討伐されて名和氏の時代は終わりを告げました。
城を使わなくなったのは、小西行長が近世宇土城の築城を開始した16世紀末頃と考えられています。
城跡は、昭和54(1979)年に国の史跡に指定され、歴史公園「史跡宇土城跡」として整備され、建物跡・横堀・城門など一部の遺構が復元整備されています。
中世宇土城 - 01
中世宇土城 - 01 posted by (C)pismo

中世宇土城 - 02
中世宇土城 - 02 posted by (C)pismo

中世宇土城 - 03
中世宇土城 - 03 posted by (C)pismo

中世宇土城 - 04
中世宇土城 - 04 posted by (C)pismo

中世宇土城 - 05
中世宇土城 - 05 posted by (C)pismo

中世宇土城 - 06
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中世宇土城 - 07
中世宇土城 - 07 posted by (C)pismo

中世宇土城 - 08
中世宇土城 - 08 posted by (C)pismo

中世宇土城 - 09
中世宇土城 - 09 posted by (C)pismo

中世宇土城 - 10
中世宇土城 - 10 posted by (C)pismo

長部田海床路(ながべたかいしょうろ)は大分むぎ焼酎「二階堂」のCM「消えた足跡編」でも知られた風景です。

干潮時には道があるのですが、満潮時には海に沈み電柱のみが残っているあの不思議な風景を楽しめる場所です。
住吉海岸公園には駐車場があるので、ゆっくりあの光景を楽しむことができます。
住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 01
住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 01 posted by (C)pismo

住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 02
住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 02 posted by (C)pismo

住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 03
住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 03 posted by (C)pismo

住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 04
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住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 05
住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 05 posted by (C)pismo

住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 06
住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 06 posted by (C)pismo

住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 07
住吉海岸・長部田海床路 (ながべたかいしょうろ) - 07 posted by (C)pismo

次は、天草方面へ向かいます。
Posted at 2011/09/28 22:05:57 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2011年09月16日 イイね!

肥後・島原紀行(2日目その2・麦島城、八代城とその周辺)

麦島城は、天正16(1588)年、肥後南半国24万石を与えられ宇土城に入った小西行長が、家臣・小西行重(末郷)に命じて築かせた城です。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の後、八代は加藤清正の治めるところとなり、麦島城も加藤氏の支城となりました。
支城となった麦島城は、加藤氏により改修が行われました。慶長8(1603)年には麦島城下でキリスト教徒の殉教がありました。
元和元(1615)年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、一国一城令がでましたが、肥後国の加藤領は例外として熊本城と麦島城の二城が残されました。麦島城は、加藤正方が城代をつとめていた元和5(1619)年、大地震により麦島城は倒壊し、熊本城主・加藤忠広は替わりに八代城(松江城)を築き、麦島城を廃城としました。
平成8(1996)年から平成15(2003)年にかけて行われた発掘調査では麦島城の規模が東西約400m、南北約350m、本丸は約130m四方あることが解明され、小天守跡では豊臣秀吉の許可が必要だった金箔鯱瓦や、小西行長が文禄の役の時に釜山から持ち帰った「隆慶二年」(中国の年号で西暦1568年)の年号がある滴水瓦が見つかりました。また、二ノ丸跡では平櫓と見られる建物が倒壊した状態で見つかりました。
(説明看板などより)
天守台跡に標柱と説明看板が立っています。
麦島城 - 1
麦島城 - 1 posted by (C)pismo

麦島城 - 2
麦島城 - 2 posted by (C)pismo

キリシタン殉教者列福記念公園です。
小西行長の庇護の下に、日本有数のキリシタン隆盛の地となった八代も、関ヶ原の戦いで加藤清正の所領となるに及んで、厳しい迫害の時代を迎えました。
転宗者や他藩へ逃れる者も多数出る中、この地に止まって、信仰をつらぬき通す者も多く、そうした人々の中から指導者数名が捕らえられ、家族も共に処刑されました。
小西行長の家臣二名とその家族四名、宣教師が追放された後も、常に町方の信徒に寄り添い、支え続けた慈悲役三名とその子二名の、合計十一名が麦島の地で殉教しました。
平成20(2008)年、ローマ法王ベネディクト16世は、八代の11名を含む188名の殉教者を、崇敬の対象、福者として全世界に向けて宣言しました。
〔説明看板などより)
列福とは、カトリック教会で、聖人に次ぐ福者の地位に上げられることをいいます。
八代キリシタン殉教者列福記念公園 - 1
八代キリシタン殉教者列福記念公園 - 1 posted by (C)pismo

八代キリシタン殉教者列福記念公園 - 2
八代キリシタン殉教者列福記念公園 - 2 posted by (C)pismo

松濱軒(松浜軒・しょうひんけん)は元禄元(1688)年、八代城主三代松井直之が、母崇芳院尼のためにお茶屋として創建したものです。当時は、海のそばにあり松に吹く八代海の風の音が聞こえていたといわれ、 松浜軒の名もこれに由来するものといわれています。
この松浜軒は柳川の松涛園、熊本の水前寺成趣園と並んで西国旧藩主別邸三名園といわれているそうです。
平成14(2002)年に国指定名勝史跡になりました。
松井家に関する資料を展示している松井文庫という資料館が邸内にありました。
落ち着いた大名庭園です。
松濱軒 - 01
松濱軒 - 01 posted by (C)pismo

松濱軒 - 02
松濱軒 - 02 posted by (C)pismo

松濱軒 - 03
松濱軒 - 03 posted by (C)pismo

松濱軒 - 04
松濱軒 - 04 posted by (C)pismo

松濱軒 - 05
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松濱軒 - 06
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松濱軒 - 07
松濱軒 - 07 posted by (C)pismo

八代城は、薩摩島津氏への押さえのため元和の一国一城令の例外として熊本城の支城として築かれた城です。別名を松江城といいます。
ただし、八代城は時代により古麓城、麦島城、松江城と異なる別名の城がありました。
小西行長は天正15(1587)年に肥後半国を与えられて小西末郷に命じて中世の八代城(古麓城)の代わりに新たに八代城(麦島城)を築きました。
関ヶ原の戦いの後、小西行長の領地は加藤清正が治めることになりました。家臣の加藤正方を城代としました。
 しかし、元和5(1619)年、肥後一帯を襲った大地震のために麦島城が倒壊したため、清正の子で肥後藩主加藤忠広は麦島城を廃し、八代城(松江城)を元和8(1622)年に完成させました。
寛永9(1632)年、加藤忠広が改易され細川忠利が肥後藩主として熊本城に入封しました。この時忠利の父で隠居していた細川忠興が八代に入城しました。
正保2(1645)年、細川忠興が没した後、熊本藩主細川光尚は、筆頭家老松井(長岡)興長を城主としました。興長は、八代で3万石を領し、幕府からも城主格の待遇を与えられ明治維新まで松井氏が代々城主でした。
八代城・八代宮 - 01
八代城・八代宮 - 01 posted by (C)pismo

八代城・八代宮 - 02
八代城・八代宮 - 02 posted by (C)pismo

八代宮は、八代城跡にある神社です。
南北朝時代に後醍醐天皇の皇子で征西将軍懐良親王を主祭神とし、懐良親王歿後に征西将軍職を継いだ良成親王を配祀する神社です。
明治以降、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が起こり、八代の住民から懐良親王、良成将軍を祀る神社を創建し、鎌倉宮・井伊谷宮と並ぶ官幣中社にしてほしいという請願が何度かなされ、これを請けて明治13(1880)年に太政官が熊本県に創立を命じ八代宮の名で創建されました。
明治17(1884)年に社殿が完成し、鎮座際が行われました。
八代城・八代宮 - 03
八代城・八代宮 - 03 posted by (C)pismo

八代城・八代宮 - 04
八代城・八代宮 - 04 posted by (C)pismo

松井神社は松井家再興の祖である初代康之と干拓事業で八代の発展の基礎を築いた二代興長を祭った神社です。明治14(1881)年に当地に創建されたものです。
神社の鎮座地は八代城の北の丸にあたり、元和5(1619)年、地震で倒壊した麦島城(八代城)の代わりに藩主加藤忠広は城代加藤正方に命じこの松江、徳渕の地に新たに城を築かせました。
ここ北の丸は、加藤正方とその家族の屋敷、枯山水の庭園があった場所です。加藤家改易後は、細川三斎(忠興)がここに書院と茶室を築き庭園の整備を進めました。さらに松井家がこれを継承し、今日に至っています。
この神社の境内に樹齢350年と言われている臥龍梅があります。この梅は細川三斎(忠興)が「八代から百花の魁となる人材出でよ」と念じて植えたと伝えられ、昭和57(1983)年に県指定天然記念物となっています。
松井神社 - 1
松井神社 - 1 posted by (C)pismo

松井神社 - 2
松井神社 - 2 posted by (C)pismo

松井神社 - 3
松井神社 - 3 posted by (C)pismo

この次は宇土市を目指します。
Posted at 2011/09/28 20:39:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2011年09月16日 イイね!

肥後・島原紀行(2日目その1・八代市の古麓城とその周辺)

2日目です。
八代神社は、妙見宮とも呼ばれ天御中主神を祀る神社です。
上宮、中宮、下宮の三社よりなり、本社はその中の下宮です。
延暦14(795)年、桓武天皇の勅願によって上宮が創建されて以来、永暦元(1160)年に中宮、そして下宮は、文治2(1186)年、八代平野の要の位置にあたるこの地に建立されました。
現在の建物は、元禄12(1699)年と寛延2(1749)年に本格的に改築されたものです。
社殿は県指定の重要文化財になっており、屋根は入母屋造りで、正面に千鳥破風が設けられ、これらの妻飾りには数多くの彫刻が使用され、江戸 時代中期から後期にかけての社寺建築の特徴をよく表わしています。
11月中旬にある祭礼は、九州三大祭りの一つに数えられ、神事の神幸行列は、県の無形民俗文化財に指定されています。(説明看板などより)
八代神社・妙見宮 - 1
八代神社・妙見宮 - 1 posted by (C)pismo

八代神社・妙見宮 - 2
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八代神社・妙見宮 - 3
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八代神社・妙見宮 - 4
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妙見中宮跡は懐良親王墓所から200mほど中宮川を上った場所にあります。
永暦元(1160)年3月18日、二条天皇の勅願により肥後国司であった従五位肥後守平貞能が社殿を妙見上宮の麓にあるこの地に創建したと伝えられています。
貞能は南北十町東西一里にわたって殺生狩猟を禁止し、同時に神領40町歩を寄進しました。
文治2(1186)年に下宮が創建されるまでの27年間は、平家の全盛期であり、神仏混淆の宮寺が栄えた時代です。
本地垂迹思想が広まる頃で当時の宮寺には神宮寺・別当寺・本地堂・塔その他伽藍を配置し、祭祀には僧侶の修法、勧行などの作法を加え神社が仏寺のように変遷する時期でもありました。
中宮が信仰の中心として栄えた時代は短期間ですが庶民信仰が高まり社前には定期の市が開かれ、門前町が開かれました。江戸時代中期の妙見宮祭礼には下宮より中宮への神輿の行幸が行われ御幸所(御旅所)として今日に至っています。
昭和40(1965)年5月18日、八代市の指定史跡となっています。また、熊本県平成の名水百選にも選ばれています。
(説明看板などより)

妙見中宮 - 1
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妙見中宮 - 2
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懐良親王は後醍醐天皇の皇子です。
征西大将軍となり、九州における南朝方の中心人物として活躍し、弘和3(1383)年に亡くなりました。
親王は福岡県八女郡矢部村で亡くなりましたが、縁の深かった八代に墓が築かれました。
征西将軍を継いだ後村上天皇の皇子良成親王の命により菊地武朝が造営したといわれています。
御墓の中には懐良親王直筆銘と伝えられている宝篋印塔が建てられています。
懐良親王陵 - 1
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悟真寺は、山号は中宮山、曹洞宗の寺院です。
南北朝時代に懐良親王の菩提を弔うために大原孚芳和尚を開山とし、創建されたと伝えられています。
寺名年は親王の法名「悟真大禅定門」に由来します。
しかし、創建の時代については、元中7(1390)年説の他に諸説があり定かではありません。
中世の悟真寺は、菊池氏や相良氏等の庇護を受け、八十あまりの末寺を持つほどの勢力を誇りました。
中世末から近世初頭にかけての時代の転期には庇護者もなく衰退しましたが、近世の肥後藩主加藤氏により再興され、続く細川氏からも寺領の寄進を受けました。
本堂の本尊として釈迦如来を祀る一方、境内の御霊殿には懐良親王の霊が祀られ、懐良親王御自筆銘の御両親御霊牌(市指定文化財)や懐良親王画像(元文2(1737)年)などが奉安されています。
その他、応永30(1423)年銘の「悟真寺の雲版」(県指定文化財)、木造地蔵菩薩座像(南北朝時代)、木造大原孚芳像(江戸時代)、銅造誕生仏(朝鮮・高麗時代)など中世の貴重な文化財が伝えられています。
(説明看板などより)

悟真寺 - 1
悟真寺 - 1 posted by (C)pismo

悟真寺 - 2
悟真寺 - 2 posted by (C)pismo

悟真寺 - 3
悟真寺 - 3 posted by (C)pismo

宗覚寺は、山号は泉福山、日蓮宗の寺院です。
加藤清正の嫡男忠正の菩提寺として、慶長13(1608)年泉福山本成寺として建立されました。
その後、寛永11(1634)年に本成寺は八代城下に移転したため、草庵をその跡に建て、墓守りを置き、本町本成寺から50年の間供養を続けました。
 延宝8(1680)年に当時の八代城主松井直之の斡旋で、藩主細川綱利は宗覚寺住職として本山の日達を据え、寺号は忠正の法名「理性院殿宗覚日等居士」によって宗覚寺とし天和3(1683)年に本堂が創建されました。
宗覚寺は創建以来寺領などすべて細川家の寄進をもって経営され、経済的基礎が確立しました。
当時の本堂と庫裏は、明治10(1877)年の西南戦争で薩摩軍の本部が置かれたため、兵火で全焼しました。
その後本堂と庫裏は明治18(1885)年頃再建され、さらに今の庫裏は昭和60(1985)年に新築されたものです。
(説明看板などより)
宗覚寺 - 1
宗覚寺 - 1 posted by (C)pismo

宗覚寺 - 2
宗覚寺 - 2 posted by (C)pismo

加藤主計頭忠正の墓所は悟真寺に近い宗覚寺境内の東の丘上にあります。
父は加藤清正・母は菊池武宗の娘本覚院で、清正の長男が早世したので嫡男として慶長4年(1599)に江戸で生まれました。
忠正の幼名は熊之助、将軍秀忠の一字を賜り忠正と名乗りましたが 慶長12(1607)年正月疱瘡にかかり、秀忠から名医を遣わされましたがその甲斐なく、27日に江戸屋敷で9才の若さで亡くなりました。
ある夜、忠正は両親の夢枕に現れ、「私は北の方へ流れる谷川の近くで毎日遊んでいます。」といって指差しました。清正はさっそく絵図面を開き、夢の場所を定め、忠正の遺骨をここに葬って高さ1.5mばかりの五輪塔を建てました。
法名は「理性院殿宗覚日等大居士」とし、翌年2月この墓所下に泉福山本成寺を建立して菩提寺としました。
その後寺は八代城下に移され、延宝8年(1680)に宗覚寺を建て今日に及んでいます。墓所の広さは一坪、瓦葺の御霊屋に凝灰岩の五輪塔一基が祀られています。
五輪塔には「慶長一二丁未正月二七日」「加藤主計頭宝塔」とあります。忠正の墓は古来疱瘡の神として広く信仰されました。
(説明看板などより)
宗覚寺・加藤忠正の墓 - 3
宗覚寺・加藤忠正の墓 - 3 posted by (C)pismo

春光寺は、八代城主松井家の菩提所で、山号は江東山、臨済宗南禅寺派の末寺です。
創建は天正11(1583)年初代松井康之が亡父正之追善のため丹後久美浜に常喜山宗雲寺を建立したのに始まります。その後豊後杵築、豊後小倉、肥後熊本と移りました。
正保3(1646)年、熊本藩筆頭家老松井興長が八代城に入城し、当時北の丸にあった泰勝院を宗雲寺と改めて松井家の菩提所としました。
その後、藩主細川綱利は松井家の菩提所として古麓町に春光寺を創建させ、延宝5(1677)年に現在地に移転し江東山春光寺と改称しました。春光寺の寺号は松井康之の法号「春光院英雲宗傑」に因んだものです。
明治10(1877)年の西南の役では、この地は戦場となり、所々に弾痕が残っています。
境内の本堂、鐘楼は明治時代の再建ですが、大書院及び庫裏は熊本の臨川山松雲院(子飼町)から移築したままの姿を留めているそうです。
裏山には松井康之、松井興長など松井家歴代の古廟、新廟3棟と主君に殉じた家臣10名の墓があります。殉死者の一人田中志摩守は明智光秀の家老でした。
また八代城の現存建物である永御蔵御門・番所が昭和61(1986)年に移設されています。
(説明看板などより)

春光寺 - 1
春光寺 - 1 posted by (C)pismo

春光寺 - 2
春光寺 - 2 posted by (C)pismo

春光寺 - 3
春光寺 - 3 posted by (C)pismo

春光寺 - 4
春光寺 - 4 posted by (C)pismo


古麓城はかつては八代城と呼ばれていました。
建武元(1334)年に名和義高が八代荘の地頭に任ぜられ、翌年には代官として一族の内河義真が下向し、南北朝の騒乱に備えて築城したと伝えられます。
古麓城は、居城飯盛城のほか丸山城、鞍掛城、勝尾城、詰めの城の八町嶽城の五城群からなっていました。
古麓城を中心に八代を治めていた名和氏と、人吉・球磨地方を拠点とする相良氏は、交通の要衝である八代地域をめぐって争っていました。
室町時代の文明16(1484)年に相良為続は古麓城を落城させて名和氏を追放しましたが、明応8(1499)年に肥後国守護職の菊池能運の援助によって名和顕忠が八代に復帰しました。
しかし、永正元(1504) 年に相良長毎が古麓城に入城して八代を領地とし、天文3(1534)年に相良長唯によって城の大規模な整備と城下町の整備が行われました。相良氏の時代に新たに鷹峰城・新城が築かれました。
天正9(1581)年 には響野原で相良義陽が戦死して島津氏の領地となり、天正10(1582)年に島津氏は肥後に侵攻し、島津義弘を守護代に据え、古麓城には平田光宗が常駐することとなりました。
しかし、天正15(1587)年の豊臣秀吉による九州攻めの後、肥後は佐々成政の領地となりましたが、佐々成政は国衆一揆の責を負わされて切腹しその後、八代は小西行長の領地となりました。
行長は城を球磨川対岸の麦島に移したため、古麓城は廃城となりました。
(説明看板などより)
登ったのは新城で、春光寺から登ってみました。
古麓城 - 01
古麓城 - 01 posted by (C)pismo

古麓城 - 02
古麓城 - 02 posted by (C)pismo

古麓城 - 03
古麓城 - 03 posted by (C)pismo

古麓城 - 04
古麓城 - 04 posted by (C)pismo

球磨川の萩原堤沿いに「宮崎八郎戦没ノ碑」(碑銘は司馬遼太郎氏の書)が建っています。萩原堤は、明治10(1877)年の西南戦争の際に多数の死傷者がでた激戦地です。
宮崎八郎は、玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)の出身で、中江兆民の民約論に影響を受け、明治8(1875)年に植木学校を設立するなど自由民権運動で活躍しました。
八郎は西南戦争では民権家たちと熊本協同隊を結成し、薩軍に味方しました。
参謀長だった宮崎八郎は薩軍を援助し奮戦しましたが、4月6日に戦死しました。
時に若干27歳でした。
司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」では物語の主要人物として登場します。
宮崎八郎戦没の碑 - 1
宮崎八郎戦没の碑 - 1 posted by (C)pismo

宮崎八郎戦没の碑 - 2
宮崎八郎戦没の碑 - 2 posted by (C)pismo
Posted at 2011/09/27 23:05:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

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