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ピズモのブログ一覧

2011年09月18日 イイね!

肥後・島原紀行(4日目その5・木山城・御船城・熊本城 帰路へ)

一旦熊本市から出て、益城町、御船町の城跡を訪れました。
木山城は、木山氏代々の居城とされ、天文16(1547)年に木山惟貞が赤井城を築城した後は、家老の竹崎筑後をはじめとした城代がおかれたとされています。
天正13(1585)年9月13日の木山神宮例祭の日に薩摩島津氏に攻められて赤井城と同時に落城したと伝えられていますが、「新撰事蹟通考」には小西行長時代にも伊藤與左衛門が城代として入城した旨が記されています。
なお、「阿蘇家文書」康永3(1344)年10月太宰少弐頼尚の書状から、木山城は「松丸城」と称せられた時期があったことがうかがえます。
木山城は木山中心部に位置し、肥後進出を図る勢力にとっては政局を左右する要衝として幾度となく攻防が繰り返されていたといわれています。
木山城跡は、「城の本」という字名を残す帯状形の丘陵地の末端部に位置しています。
丘陵の背面は大きく三区画に分かれており、中央部分に本丸と称される長方形状の高台が存在します。顕著な遺構としては、本丸の西側に竪堀の残存部を有する曲輪が存在し、民家の敷地内にも土塁と空堀が観察されています。
昭和57(1982)年の豪雨で城跡の北側斜面が崩れ、被葬者と副葬品を収めた石棺が現れたことから、縄張りの一部円墳が取り込まれていたことが判明し、「城の本古墳」と名付けられました。
平成4(1992)年より木山城跡公園として整備が進められたところ、平成17(2005)年にその工事現場より再び別の石棺が出土し、「城の本2号墳」として報告されました。

木山城 - 01
木山城 - 01 posted by (C)pismo

木山城 - 02
木山城 - 02 posted by (C)pismo

木山城 - 03
木山城 - 03 posted by (C)pismo

木山城 - 04
木山城 - 04 posted by (C)pismo

木山城 - 05
木山城 - 05 posted by (C)pismo


御船城は、南北朝時代以来、阿蘇氏系の御船氏、甲斐氏の居城でした。
城の築城年代は不明ですが、興国4(1343)年に阿蘇(恵良)惟澄が足利軍の進攻を当城で防いだといわれています。
また、興国6(1345)年には筑後三郎の大軍を御船城で撃退しています。
正平3(1348)年には阿蘇惟時らが懐良親王を当城に迎えており、当時は阿蘇氏が居城していたと考えられています。
延文4(1359)年には、大保原の戦いを有利に進めようとした豊後国の大友氏がこの戦いの直前に御船城を襲っています。後に南朝方の勢いが衰えると、城主の御船盛安は北朝に降伏しました。
天文10(1541)年には城主の御船房行が阿蘇氏に反乱し、これを討伐した甲斐宗運(親直)に御船城が与えられました。宗運は、阿蘇氏を支え響野原の戦いでは島津氏に降り尖兵となった相良義陽を討ち取りました。
天正13(1585)年に没すると子の甲斐親英が城主となりますが、島津氏の大軍に包囲されて同年に戦わずして降伏し、島津義弘が入城しています。
天正15(1587)年の九州征伐で島津氏が去ると佐々成政が肥後に入り、肥後国人一揆が起きました。一揆に参画した親英が処刑され、甲斐家は滅亡しました。
城跡は城山公園として整備されています。公園入口には模擬城門が建てられていますが、あまり遺構は残っていないようです。
a href="http://photozou.jp/photo/show/219075/104640547">御船城 - 1
御船城 - 1 posted by (C)pismo

御船城 - 2
御船城 - 2 posted by (C)pismo

御船城 - 3
御船城 - 3 posted by (C)pismo

御船城 - 4
御船城 - 4 posted by (C)pismo


そして旅の最後に熊本城を訪れました。
この日は藤崎八幡宮の秋季例大祭で市内各地は大渋滞です。思った以上に時間がかかりました。
熊本城は3年前も訪れました。

福岡・熊本・太宰府紀行(2日目その1・熊本城)
福岡・熊本・太宰府紀行(2日目その2・熊本市内の史跡)
福岡・熊本・太宰府紀行(2日目その3・熊本城のライトアップ)

<熊本城 - 01
熊本城 - 01 posted by (C)pismo

熊本城 - 02
熊本城 - 02 posted by (C)pismo

熊本城 - 03
熊本城 - 03 posted by (C)pismo

熊本城 - 04
熊本城 - 04 posted by (C)pismo

熊本城 - 05
熊本城 - 05 posted by (C)pismo

熊本城 - 06
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熊本城 - 07
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熊本城 - 08
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熊本城 - 09
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熊本城 - 10
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熊本城 - 11
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熊本城 - 12
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熊本城 - 13
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熊本城 - 14
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熊本城 - 15
熊本城 - 15 posted by (C)pismo

熊本城 - 16
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熊本城 - 17
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熊本城 - 18
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熊本城 - 19
熊本城 - 19 posted by (C)pismo

熊本城 - 20
熊本城 - 20 posted by (C)pismo

そして加藤神社にも参拝しました。
加藤神社は、熊本城二の丸にある加藤清正を祀る神社です。
明治4(1871)年、加藤清正を祀る本妙寺の浄池廟から神社を分け、熊本城内に社殿を造営して錦山神社とし、清正に殉じた大木兼能と金官を合祀しました。
明治7(1874)年、熊本城内に熊本鎮台が置かれるのに伴い、城外の新堀町(現在の京町一丁目)に遷座しました。西南戦争で焼失しましたが、明治17(1884)年に再建されました。
明治42年に、錦山神社から加藤神社に改称されました。
昭和37(1962)年、道路改修のため、再び熊本城内の現在地に遷座しました。
加藤神社 - 1
加藤神社 - 1 posted by (C)pismo

そして、前回はまだなかった桜の馬場 城彩苑でお土産を買いました。
桜の馬場 城彩苑 - 1
桜の馬場 城彩苑 - 1 posted by (C)pismo

そしてレンタカーを返して、熊本駅で新幹線を待つ間、辛子レンコンや馬刺しで一杯やりました。
ふれすた熊本・大漁食堂 HERO海 - 1
ふれすた熊本・大漁食堂 HERO海 - 1 posted by (C)pismo

ふれすた熊本・大漁食堂 HERO海 - 2
ふれすた熊本・大漁食堂 HERO海 - 2 posted by (C)pismo

そして、みずほで帰路につきました。
みずほ606号 - 1
みずほ606号 - 1 posted by (C)pismo

いつもながら、少し詰め込みすぎましたが、充実した3泊4日でした。
Posted at 2011/10/20 22:18:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2011年09月18日 イイね!

肥後・島原紀行(4日目その4・水前寺成趣園〜健軍神社〜横井小楠記念館・四時軒〜小楠公園など)

水前寺成趣園は、細川家の庭園です。
熊本藩の初代藩主細川忠利が寛永13(1636)年頃から築いた「水前寺御茶屋」が前身で、細川綱利のときに泉水・築山などが作られ、現在の形が整えられました。
陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉以成趣」からとって「成趣園」と名付けられました。
細川藤孝(幽斎)が後陽成天皇の弟八条宮智仁親王に古今和歌集の奥義を伝授したといわれる古今伝授の間が大正年間に移築されています。八条宮の本邸にあり長岡天満宮に移され、桂宮家から明治4(1871)年に細川家に贈られ、解体し保管されていたものを、大正元(1912)年、酔月亭の跡地に移築したものです。
九州の旧藩主別邸三名園として他には柳川の「松涛園」と八代の「松濱軒」があげられるそうです。
水前寺成趣園 - 01
水前寺成趣園 - 01 posted by (C)pismo

水前寺成趣園 - 02
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水前寺成趣園 - 03
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水前寺成趣園 - 04
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水前寺成趣園 - 05
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水前寺成趣園- 06
水前寺成趣園- 06 posted by (C)pismo

水前寺成趣園・細川忠利公・細川藤孝公の像 - 07
水前寺成趣園・細川忠利公・細川藤孝公の像 - 07 posted by (C)pismo

水前寺成趣園 - 08
水前寺成趣園 - 08 posted by (C)pismo

水前寺成趣園 - 09
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水前寺成趣園 - 10
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水前寺成趣園 - 11
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水前寺成趣園・古今伝授の間 - 12
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水前寺成趣園 - 13
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水前寺成趣園・古今伝授の間 - 14
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水前寺成趣園・古今伝授の間 - 15
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水前寺成趣園・古今伝授の間 - 16
水前寺成趣園・古今伝授の間 - 16 posted by (C)pismo

出水神社は、水前寺成趣園内にある神社です。
熊本歴代藩主を祭る神社で、藩租細川忠利卿、祖父藤孝卿、父忠興卿を主祭神、それ以外の細川氏歴代藩主(光尚朝臣(2代)、綱利朝臣(3代)、宣紀朝臣(4代)、宗孝朝臣(5代)、治年朝臣(7代)、斉茲朝臣(8代)、斉樹朝臣(9代)、斉護朝臣(10代)、韶邦朝臣(11代)、護久朝臣(12代)の10代)、及び忠興卿室の玉(通称ガラシャ)の11柱を配祀しています。
明治10(1877)年西南の役で、熊本の城下は焼け野原となりました。
明治11(1878)年、旧藩家老(かつての八代城主)松井章之らの請願により戦いで荒んだ人心を安定させ、熊本の町を発展させようとの願望から、細川家に関係の深い水前寺成趣園の地を選びここに社殿を創建しました。
第2次世界大戦の戦禍を蒙った社殿は殆ど焼失し、辛うじて難を免れた御神庫と神楽殿を旧社地に移し仮社殿としていましたが、昭和45(1970)年に至り「御復興奉賛会」を設立し工事を進め、越えて昭和48(1973)年12月7日現在の社殿が完成しました。
水前寺成趣園 ・出水神社- 17
水前寺成趣園 ・出水神社- 17 posted by (C)pismo

水前寺成趣園・出水神社 - 18
水前寺成趣園・出水神社 - 18 posted by (C)pismo

水前寺成趣園・出水神社 - 19
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水前寺成趣園・出水神社 - 20
水前寺成趣園・出水神社 - 20 posted by (C)pismo

健軍神社は元々は火国造(ひのくにのみやつこ)の祖,健緒組(たけおぐみ)を祀った神社であったと考えられています。
平安末期か鎌倉初期,阿蘇大宮司の支配下に入り阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐神社(甲佐町)、郡浦神社(宇城市)と並ぶ阿蘇四社の一つとなり、阿蘇神社の別宮となりました。
昔は「たけみや」と言い、のちに「けんぐん」と読まれるようになりました。
電車通りの大鳥居から神社まで続く、八丁馬場と呼ばれる約1200mの長い参道には、加藤清正の頃植えられたと伝えられる杉並木の一部が残っています。
明治10(1877)年2月22日、西南戦争で、薩軍を救援するため結成された熊本隊の挙兵の場所としても知られています。
健軍神社 - 01
健軍神社 - 01 posted by (C)pismo

健軍神社 - 02
健軍神社 - 02 posted by (C)pismo

健軍神社 - 02
健軍神社 - 02 posted by (C)pismo
熊本隊出陣之所です。
明治10(1877)年2月、西南の役で薩軍が立ち上がり熊本に向かうと、九州各地の士族たちも薩軍と提携して政府を倒そうと、一斉に立ち上がりました。
中でも熊本では、学校党に属する1400名が、22日早朝、健軍神社に集合して会議を開き、薩軍の熊本城総攻撃の砲声殷々と響く中で挙兵と決しました。
同日夕刻、神前に神楽を奏して結成式を行い、池辺吉十郎を隊長に仰ぎ熊本隊と号しました。
ここは、同隊が出陣の第一歩を踏み出したところです。
(説明看板より)
健軍神社の西向かい側に石碑や説明看板などが立っています。
熊本隊出陣之所 - 1
熊本隊出陣之所 - 1 posted by (C)pismo

熊本隊出陣之所 - 2
熊本隊出陣之所 - 2 posted by (C)pismo

熊本隊出陣之所 - 3
熊本隊出陣之所 - 3 posted by (C)pismo

熊本隊出陣之所 - 4
熊本隊出陣之所 - 4 posted by (C)pismo


四時軒(しじけん)は、幕末維新の開明思想家として知られた横井小楠の旧居です。
安政元(1854)年、兄 時明が亡くなったために家督を継いだ小楠は、翌年、城下からこの沼山津の地に移り住み、四季の眺めを楽しむというところから「四時軒」と名付け、自らも沼山(しょうざん)と号しました。
小楠は、明治元(1868)年に新政府に招かれ参与となり京都に向かうまで、ここで門下生の指導にあたりました。
その間、4度も福井藩に政治顧問として招聘されており、土佐の坂本龍馬も彼の名声を聞いて、ここ四時軒を3度訪れています。
この旧居も明治の頃に客間だけ残して焼失したものを、記録に基づいて残りの部分を再建し旧態に復したものです。
四時軒の隣には横井小楠記念館があり、小楠に関する資料のほか、勝海舟や吉田松陰、西郷隆盛などの、小楠にゆかりのある人々の書も展示されています。
横井小楠記念館・四時軒 - 01
横井小楠記念館・四時軒 - 01 posted by (C)pismo

横井小楠記念館・四時軒 - 02
横井小楠記念館・四時軒 - 02 posted by (C)pismo

横井小楠記念館・四時軒 - 02
横井小楠記念館・四時軒 - 02 posted by (C)pismo

横井小楠記念館・四時軒 - 04
横井小楠記念館・四時軒 - 04 posted by (C)pismo

横井小楠記念館・四時軒 - 05
横井小楠記念館・四時軒 - 05 posted by (C)pismo

横井小楠記念館・四時軒 - 06
横井小楠記念館・四時軒 - 06 posted by (C)pismo

横井小楠記念館・四時軒 - 07
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横井小楠記念館・四時軒 - 08
横井小楠記念館・四時軒 - 08 posted by (C)pismo

横井小楠記念館・四時軒 - 09
横井小楠記念館・四時軒 - 09 posted by (C)pismo

小楠公園は、横井小楠の遺髪を埋葬した墓がある公園です。
明治2(1869)年1月5日、横井小楠は京都で御所から自宅へ戻る際、3人組に襲われ、暗殺されました。この時、刺客は、小楠の首をあげ、その場を走り去りましたが、その時警護をしていた者が追いかけ、首を取り戻しました。
この遺髪を、門人岩男俊貞が、京都から持ち持ち帰り、この地に埋葬しました。遺骸は、京都の南禅寺天授庵の墓地に、手厚く葬られています。
毎年2月15日(旧暦の1月5日)には、この公園で墓前祭がおこなわれています。
大正7(1918)年、小楠没後50年にあたり、その記念事業として「小楠横井先生頌徳の碑」が建てられました。篆額(てんがく)は細川護立の筆、碑文は徳富蘇峰の撰で横井時敬の書です。
没後100年の昭和45(1970)年2月には熊本市在住の彫刻家・田島亀彦の手による「横井小楠先生像」が建立されました。
小楠公園 - 1
小楠公園 - 1 posted by (C)pismo

小楠公園 - 2
小楠公園 - 2 posted by (C)pismo

小楠公園 - 3
小楠公園 - 3 posted by (C)pismo
Posted at 2011/10/20 21:10:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2011年09月18日 イイね!

肥後・島原紀行(4日目その3・熊本市花岡山周辺)

次は花岡山です。

阿蘇殿松跡です。
文禄元(1592)年、朝鮮の役の最中に肥後佐敷城が梅北の乱で一時占領されました。
加藤家家臣の働きにより事は収まりましたが、豊臣秀吉はその裏で阿蘇家が糸を引いていると阿蘇家に恨みを持つ者の言葉を信じ、阿蘇惟光に切腹を命じました。
翌文禄2(1593)年、12歳の惟光はこの地で自刃しましたので、人々はその跡地に松を植え阿蘇殿松と呼びました。
今は松はなく、記念碑だけが哀史を伝えています。
阿蘇殿松跡 - 1
阿蘇殿松跡 - 1 posted by (C)pismo

花岡山招魂社は明治2(1869)年2月、政府の命令により明治維新の動乱期に殉じた肥後藩士を祀るために造られました。
当初は、宮部鼎蔵をはじめ150柱が祀られ、昭和32(1959)年に藤崎台に護国神社が建てられるまでの間、官祭招魂社(昭和11(1936)年、熊本県護国神社に改称)として県民の崇敬を集めました。
現在は熊本県護国神社の飛地境内となっています。
社の後方には官軍墓地が有り、明治9(1876)年の神風連の乱で最期を遂げた熊本鎮台司令長官種田少将をはじめ多くの将兵たちが眠っています
また、境内には神風連の乱で亡くなった殉死警察官・県官の碑が立っています。
花岡山招魂社 - 1
花岡山招魂社 - 1 posted by (C)pismo

花岡山招魂社 - 2
花岡山招魂社 - 2 posted by (C)pismo

花岡山招魂社 - 3
花岡山招魂社 - 3 posted by (C)pismo

花岡山は標高132.7mあり、頂上には仏舎利塔があります。日蓮宗の藤井日達上人が世界平和の祈願を込めて建設したもので、仏舎利はインドのジャワハルラール・ネルー首相から、尖塔の黄金コタはスリランカのコテラ・クラ首相から贈られたものです。
花岡山・仏舎利塔 - 01
花岡山・仏舎利塔 - 01 posted by (C)pismo

花岡山・仏舎利塔 - 02
花岡山・仏舎利塔 - 02 posted by (C)pismo

花岡山・仏舎利塔 - 03
花岡山・仏舎利塔 - 03 posted by (C)pismo

加藤清正腰掛石です。
加藤清正は熊本城を築くに際して、火山の噴出物で石垣構築に最適な安山岩を金峰山塊から採掘し、その多くは祇園山(現在の花岡山)、独鈷山、松尾山から採ったと伝えられています。
中でも祇園山には清正が自ら切り出しの監督に当たったことにちなむものがあります。
この大石は清正が休憩の際に腰掛ける場所に定めていたといわれており、腰掛石と呼ばれています。
石の北面には原石を割ったときの矢穴が並んでいます。
(標柱の説明文書より)
花岡山・加藤清正腰掛石 - 01
花岡山・加藤清正腰掛石 - 01 posted by (C)pismo

花岡山・加藤清正腰掛石 - 02
花岡山・加藤清正腰掛石 - 02 posted by (C)pismo

加藤清正ゆかりの兜石です。
加藤清正は各地の土木工事に際して、常に率先して作業に当たったといわれています。
熊本城築城に当たっても、この祇園山(現在の花岡山)で石垣用の石材を採掘する時、自ら鎧兜に身を固め陣頭指揮をしたといわれています。
この「兜石」は清正が休憩の時に兜を脱いで、この石において鎧を掛けていたといわれています。
近くには「腰掛石」があり、かつては仕事の合図の鐘を掛けていたという「鐘掛松」(現在は枯死)も存在しました。
(標柱の説明文書より)
花岡山 ・加藤清正ゆかりの兜石- 01
花岡山 ・加藤清正ゆかりの兜石- 01 posted by (C)pismo

鐘掛松跡です。
加藤清正は熊本城築城に当たって陣頭指揮をした際、仕事の合図に鐘を掛けていたという「鐘掛松」がありました。
現在は残念ながら枯死し、木製の標柱が建っているのみです。
花岡山・鎧掛松跡 - 01
花岡山・鎧掛松跡 - 01 posted by (C)pismo

官軍墓地〔花岡山陸軍埋葬地〕です。
この墓地は、明治9(1876)年、神風連の乱に倒れた熊本鎮台司令長官種田政明少将、参謀長高島茂徳中佐、大島邦彦中佐以下116名を葬るために設けられました。
隣接する県官墓地には同じく神風連の乱に倒れた県令安岡良亮の墓もあります。
西南戦争の際には薩軍の砲台となり、一時荒廃し第二次世界大戦後も荒れていたのを、地元の努力で整備し昭和55(1980)年に熊本市指定史跡となりました。
(標柱などの説明文書より)
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 01
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 01 posted by (C)pismo

花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 02
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 02 posted by (C)pismo

花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 03
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 03 posted by (C)pismo

花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 04
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 04 posted by (C)pismo

花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 05
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 05 posted by (C)pismo

花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 06
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 06 posted by (C)pismo

花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 07
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 07 posted by (C)pismo

花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 08
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 08 posted by (C)pismo

花岡山薩軍砲座の跡です。
明治10(1877)年の西南の役に際し、同年2月20日、陸路熊本の川尻に到着した薩軍は、その後熊本城を攻撃すべく城下近くへ兵を進めました。
2月22日朝、西南の役の最初の戦いとなる熊本城攻防戦が始まり、ここに明治政府に対する不平士族の最大かつ最後の内戦であり、その後の日本の歴史に大きな影響を与えた戦いの火ぶたが切って落とされました。
この地は、52日間に及ぶ熊本城攻防戦の際、薩軍が熊本城攻撃のため大砲を引き上げて城を砲撃した場所として知られています。
大砲の弾は熊本城まで届かず、途中の新町や段山付近に落ちたともいわれています。
(説明看板より)

花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 09
花岡山陸軍墓地・薩軍砲座の跡 - 09 posted by (C)pismo

妙解寺〔現在の北岡自然公園)は、細川藩4代藩主光尚が、父・忠利の菩提を弔うために寛永19(1642)年、東海寺の住職・沢庵和尚の開基として創建されたもので、忠利の戒名・妙解院殿をもとづき護国山妙解寺と名づけられました。
妙解寺は、臨済宗の寺院で細川家菩提寺として重きをなしました。
明治の神仏分離以降廃寺となった後は細川家の北岡別邸として使用されましたが、昭和20(1945)年7月3日の空襲により本邸を焼失しました。昭和30(1955)年11月、熊本市が譲り受け、それ以降、自然公園として一般公開しました。
細川忠利、正室(保寿院)、4代光尚(光利→光貞→光尚と改名)の御霊屋、5代綱利、6代宣紀、7代宗孝、8代重賢、9代治年などの墓があります。
霊廟の周囲には忠利、光尚の殉死者の墓があります。
忠利の家来で殉死を願い許されず、しかしながら周囲の冷たい目もあり結局殉死した阿部弥市右衛門(阿部弥一右衛門)の墓もあります。阿部弥市右衛門の死は殉死と認められましたが、阿部家の知行は分割され、嫡子権兵衛は忠利の法事の際に髻を切って供えるという事件を起こし、阿部一族は追討されました。この事件は森鷗外の小説「阿部一族」のモデルとなりました。
北岡自然公園・妙解寺跡 - 01
北岡自然公園・妙解寺跡 - 01 posted by (C)pismo

北岡自然公園・妙解寺跡 - 02
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 03
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 04
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 05
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 06
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 07
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 08
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 09
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 10
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 11
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 12
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 13
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 14
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 15
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 16
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 17
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北岡自然公園・妙解寺跡 - 18
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次は、水前寺成趣園を訪れます。
Posted at 2011/10/17 23:16:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2011年09月18日 イイね!

肥後・島原紀行(4日目その2・熊本市内坪井周辺)

次は内坪井町です。
熊本ゆかりの有名人に関わる史跡が点在しています。

宮部鼎蔵旧居跡です。
宮部鼎蔵は上益城郡七滝村田代(現・御船町)の医師の家に生まれましたが、叔父・宮部丈左衛門について山鹿流の兵学を学び、嘉永3(1850)年その跡を継いで藩の兵法師範役となりました。のちに江戸に出て諸国の志士と交遊し、帰国後は林桜園について国学を学びました。
藩の勤王党の重鎮として文久3(1863)年京に上がり、全国の勤王派の中心としなって国事に奔走しました。池田屋で倒幕の密議中、新撰組に襲われ自刃しました。
ここは鼎蔵が兵法師範役の頃の旧居で、吉田松陰も訪れたことがあります。
(説明看板より)
宮部鼎蔵旧居跡 - 1
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横井小楠生誕地・「清正公井」跡です。
横井小楠は、文化6(1809)年、この地に生まれました。
小楠は、藩校時習館の訓話的朱子学を批判し、実践躬行(じっせんきゅうこう)を重んずべきであると、学問の本質を唱えました。
天保14(1843)年、沼山津に私塾小楠塾を開き、徳富一敬、矢島源助など、後に肥後藩の藩政改革の中心となる人々が集まりました。明治元(1868)年維新政府の懇請により上京し、参与に任ぜられましたが、明治2(1869)年1月61歳で攘夷論者の凶刃に志なかばで倒れました。
昭和13(1938)年に書かれました山崎正薫著「横井小楠・伝記篇」には小楠の生誕地がここであると証明され、さらに「『清正公井』と称する特殊の古井が残っていて、今でも清水が湧き出ている。(略)小楠の産湯も此の水であったものと思われる。」と記されています。この井戸は、その時代下級武士の家で使用されていた井戸の形式で復元しました。
復元にあたって小楠門弟長野濬平氏の曽孫にあたる長野健彰、長野吉彰両氏、並びに熊本中央女子高校の協力で実現しました。
(説明看板より)
横井小楠生誕地・清正公井 - 1
横井小楠生誕地・清正公井 - 1 posted by (C)pismo

佐々友房生誕の地です。
佐々友房は、安政元(1854)年熊本市内坪井町に肥後熊本藩士佐々陸助の二男として生まれました。
明治10(1877)年西南戦争が起こると、池辺吉十郎らと熊本隊を組織して西郷軍に加わったため、10年の懲役に処せられました。明治13(1881)年病気のため赦免されまし。
友房は、入獄中、今日の急務は青年子弟を教育し国家有用の人材を養うことであると考え、出獄後、同志数十人と私立学校創立を実行にうつし、明治12(1879)年同心学舎(明治15(1882)年済々黌と改称)を開設しました。
明治23(1890)年、熊本国権党を率い、第一回帝国議会衆議院議員として立候補し初当選後、明治39(1906)年 53歳で他界するまで毎回当選し国家主義の政治家として活躍しました。
著書に「戦袍日記」「囚中詠草」「克堂詩草」「観風詩史」などがあります。
(説明看板より)
佐々友房生誕地 - 1
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夏目漱石内坪井旧居です。
夏目漱石は、明治29(1896)年4月13日、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師として熊本にやってきました。熊本在住の4年3か月の間に6回も転居しましたが、この内坪井の旧居はそのうち5番目に移り住んだ家で、最も長い1年8ヶ月を暮らしました。漱石夫妻は「熊本で住んだ家の中で一番良かった」であったと語ったといわれています。
この旧居全体を記念館とし、長女筆子の産湯を使った井戸や、漱石の五高の教え子の寺田寅彦(後の物理学者で優れた随筆家となる)ゆかりのた馬丁小屋があり、記念館として公開されている内部には、漱石五高時代の写真、草枕絵巻などを多数展示しています。
この旧居は、昭和53(1978)年4月25日熊本市指定史跡となっています。
夏目漱石内坪井旧居 - 01
夏目漱石内坪井旧居 - 01 posted by (C)pismo

夏目漱石内坪井旧居 - 02
夏目漱石内坪井旧居 - 02 posted by (C)pismo

夏目漱石内坪井旧居 - 03
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夏目漱石内坪井旧居 - 04
夏目漱石内坪井旧居 - 04 posted by (C)pismo

夏目漱石内坪井旧居 - 05
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夏目漱石内坪井旧居 - 06
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夏目漱石内坪井旧居 - 07
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夏目漱石内坪井旧居 - 08
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夏目漱石内坪井旧居 - 09
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夏目漱石内坪井旧居 - 10
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夏目漱石内坪井旧居 - 11
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夏目漱石内坪井旧居 - 12
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夏目漱石内坪井旧居 - 13
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Posted at 2011/10/16 17:52:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2011年09月18日 イイね!

肥後・島原紀行(4日目その1・武蔵塚公園〜桜山神社〜泰勝寺跡〔熊本藩主細川家墓所・立田自然公園〕)

いよいよこの旅行も最終日です。
最終日は主に熊本市内の史跡めぐりです。

武蔵塚公園は、宮本武蔵が眠る公園です。
宮本武蔵の銅像が建ち、広い日本庭園の奥には武蔵が眠る武蔵塚があります。
また公園内には、茶室(清靖亭)、日本庭園などがあります。
宮本武蔵は寛永17(1640)年、武蔵57歳のとき、細川忠利公に客分として招かれ軍事政治の顧問として仕えました。
翌年、忠利公の命で武道の奥義に関する「兵法三十五箇條」を上書しました。また、武蔵は武術だけではなく茶、禅、書画三昧の日々を送り文人としても名高く水墨画など名品を残しています。
忠利公没後、金峰山西麓の霊巌洞にこもり、五輪の書を著わしました。この他、武蔵が臨終の7日前にしたためたものに「独行道」があります。
正保2(1645)5月19日、武蔵62歳にして熊本千葉城の自宅で没しました。武蔵は生前の遺言によって主君の参勤交代を見守るため甲冑を帯し六具に身を固め立見の姿でこの地に葬られたと伝えられています。
武蔵塚公園 - 01
武蔵塚公園 - 01 posted by (C)pismo

武蔵塚公園 - 02
武蔵塚公園 - 02 posted by (C)pismo

武蔵塚公園 - 03
武蔵塚公園 - 03 posted by (C)pismo

武蔵塚公園の隣接地に松浦新吉郎の墓があります。
松浦新吉郎は、西南戦争の熊本隊士、熊本隊の副隊長です。
細川藩士松浦十郎の長男として現在の熊本市北千畑町に生まれました。
幼年期、病のために右足が不自由となりましたが、意志が強く、専ら武技を練り、剣、柔術とも達人でした。
明治10(1877)年、西南戦争が起こると池辺吉十郎、佐々友房らと熊本隊を組織し、自らは副隊長として薩軍に参加しました。熊本隊は学校党の旧藩士1400名で編成されました。
田原坂、吉次峠などの戦闘に活躍し、薩軍が後退すると薩軍本隊と行動を共にしましたが、ついに宮崎県長井村で官軍に包囲され、8月17日西郷隆盛の解散指令により官に下りました。
明治10(1877)年10月31日、池辺隊長と共に長崎で刑死し、新吉郎は武蔵塚の傍らに眠りたいという遺言により遺髪はこの地に葬られました。
武蔵塚公園 ・松浦新吉郎の墓- 04
武蔵塚公園 ・松浦新吉郎の墓- 04 posted by (C)pismo

武蔵塚公園  ・松浦新吉郎の墓- 05
武蔵塚公園 ・松浦新吉郎の墓- 05 posted by (C)pismo

武蔵塚公園 - 06
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桜山神社は、大正2(1913)年に建てられたもので、当初は桜山祠殿と称されました。その後、昭和23(1948)年9月に祠殿から神社へとなったことに伴い桜山神社と称されるようになりました。
神殿の奥には「誠忠之碑」と「百二十三士之碑」の二つの碑がたてられており、「誠忠之碑」は、維新の際に国難に殉じた肥後勤王党の宮部鼎蔵など二十三士を祭っており、「百二十三士之碑」は、神風連の変にたおれた太田黒伴雄ら百二十三士を祭っています。
また、拝殿の西側には、敬神党百二十三の墓碑と肥後勤王党の育ての親である林桜園の墓があります。その他、河上彦斎、神風連の乱に参加した小篠4兄弟の末弟で、18歳で割腹自殺した源三の死を悲しみ、食もとらずについに餓死した「とら」の義犬の墓や神風連の参謀であった阿部影器の最後を見届け、その後自決した影器の妻、阿部以幾子の墓もあります。
現在は、ここに二百七十八柱の霊が祭られています。
桜山神社 - 01
桜山神社 - 01 posted by (C)pismo

桜山神社 - 02
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桜山神社 - 03
桜山神社 - 03 posted by (C)pismo

桜山神社 - 04
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桜山神社 - 05
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桜山神社 - 06
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桜山神社 - 07
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泰勝寺跡(立田自然公園)には細川幽斎夫妻、忠興とその妻ガラシャの霊廟(四つ御廟)が建てられています。初代幽斎、二代忠興、第十代斉茲以下(第十二代斉護は妙解寺跡の北岡自然公園)の墓があります。
寛永14(1637)年、細川忠利がこの地に泰勝院を建立し、祖父細川藤孝、その妻光寿院、母秀林院(細川ガラシャ)の廟を建立しました。忠利は寛永18(1641)年に亡くなり花岡山麓の妙解寺に葬られました。正保2(1645)年、細川忠興(細川忠利の父)が亡くなると、当主の細川光尚(細川忠利の子)は、忠興を夫人の秀林院の廟の隣に葬りました。
正保3(1646)年、光尚は泰勝院を瑞雲山泰勝寺と改称し独立の菩提寺としましたが、綱利の頃に山号を龍田山と改められました。
明治2(1869)年の神仏分離により廃寺となりました。境内地は旧藩主細川家の別邸となりました。現在は立田自然公園となっています。
昭和38(1963)年には県の名勝及び史跡に指定されています。
細川家歴代藩主等の墓の他には泰勝寺歴代住職の墓、宮本武蔵の供養塔があります。また、庭園には苔園と細川三斎(忠興)の図面により大正12(1923)年に復元された仰松軒があります。
立田自然公園(泰勝寺跡) - 01
立田自然公園(泰勝寺跡) - 01 posted by (C)pismo

立田自然公園(泰勝寺跡) - 02
立田自然公園(泰勝寺跡) - 02 posted by (C)pismo

立田自然公園(泰勝寺跡) - 03
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 04
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 05
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 06
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 07
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 08
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 09
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 10
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 11
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立田自然公園(泰勝寺跡) - 12
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立田自然公園(泰勝寺跡)・仰松軒 - 13
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立田自然公園(泰勝寺跡)・仰松軒 - 14
立田自然公園(泰勝寺跡)・仰松軒 - 14 posted by (C)pismo

立田自然公園(泰勝寺跡)・苔園 - 15
立田自然公園(泰勝寺跡)・苔園 - 15 posted by (C)pismo
Posted at 2011/10/14 23:40:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記

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