水前寺成趣園は、細川家の庭園です。
熊本藩の初代藩主細川忠利が寛永13(1636)年頃から築いた「水前寺御茶屋」が前身で、細川綱利のときに泉水・築山などが作られ、現在の形が整えられました。
陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉以成趣」からとって「成趣園」と名付けられました。
細川藤孝(幽斎)が後陽成天皇の弟八条宮智仁親王に古今和歌集の奥義を伝授したといわれる古今伝授の間が大正年間に移築されています。八条宮の本邸にあり長岡天満宮に移され、桂宮家から明治4(1871)年に細川家に贈られ、解体し保管されていたものを、大正元(1912)年、酔月亭の跡地に移築したものです。
九州の旧藩主別邸三名園として他には柳川の「松涛園」と八代の「松濱軒」があげられるそうです。
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水前寺成趣園・細川忠利公・細川藤孝公の像 - 07 posted by
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水前寺成趣園・古今伝授の間 - 12 posted by
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出水神社は、水前寺成趣園内にある神社です。
熊本歴代藩主を祭る神社で、藩租細川忠利卿、祖父藤孝卿、父忠興卿を主祭神、それ以外の細川氏歴代藩主(光尚朝臣(2代)、綱利朝臣(3代)、宣紀朝臣(4代)、宗孝朝臣(5代)、治年朝臣(7代)、斉茲朝臣(8代)、斉樹朝臣(9代)、斉護朝臣(10代)、韶邦朝臣(11代)、護久朝臣(12代)の10代)、及び忠興卿室の玉(通称ガラシャ)の11柱を配祀しています。
明治10(1877)年西南の役で、熊本の城下は焼け野原となりました。
明治11(1878)年、旧藩家老(かつての八代城主)松井章之らの請願により戦いで荒んだ人心を安定させ、熊本の町を発展させようとの願望から、細川家に関係の深い水前寺成趣園の地を選びここに社殿を創建しました。
第2次世界大戦の戦禍を蒙った社殿は殆ど焼失し、辛うじて難を免れた御神庫と神楽殿を旧社地に移し仮社殿としていましたが、昭和45(1970)年に至り「御復興奉賛会」を設立し工事を進め、越えて昭和48(1973)年12月7日現在の社殿が完成しました。
水前寺成趣園 ・出水神社- 17 posted by
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水前寺成趣園・出水神社 - 18 posted by
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水前寺成趣園・出水神社 - 19 posted by
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水前寺成趣園・出水神社 - 20 posted by
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健軍神社は元々は火国造(ひのくにのみやつこ)の祖,健緒組(たけおぐみ)を祀った神社であったと考えられています。
平安末期か鎌倉初期,阿蘇大宮司の支配下に入り阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐神社(甲佐町)、郡浦神社(宇城市)と並ぶ阿蘇四社の一つとなり、阿蘇神社の別宮となりました。
昔は「たけみや」と言い、のちに「けんぐん」と読まれるようになりました。
電車通りの大鳥居から神社まで続く、八丁馬場と呼ばれる約1200mの長い参道には、加藤清正の頃植えられたと伝えられる杉並木の一部が残っています。
明治10(1877)年2月22日、西南戦争で、薩軍を救援するため結成された熊本隊の挙兵の場所としても知られています。
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熊本隊出陣之所です。
明治10(1877)年2月、西南の役で薩軍が立ち上がり熊本に向かうと、九州各地の士族たちも薩軍と提携して政府を倒そうと、一斉に立ち上がりました。
中でも熊本では、学校党に属する1400名が、22日早朝、健軍神社に集合して会議を開き、薩軍の熊本城総攻撃の砲声殷々と響く中で挙兵と決しました。
同日夕刻、神前に神楽を奏して結成式を行い、池辺吉十郎を隊長に仰ぎ熊本隊と号しました。
ここは、同隊が出陣の第一歩を踏み出したところです。
(説明看板より)
健軍神社の西向かい側に石碑や説明看板などが立っています。
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四時軒(しじけん)は、幕末維新の開明思想家として知られた横井小楠の旧居です。
安政元(1854)年、兄 時明が亡くなったために家督を継いだ小楠は、翌年、城下からこの沼山津の地に移り住み、四季の眺めを楽しむというところから「四時軒」と名付け、自らも沼山(しょうざん)と号しました。
小楠は、明治元(1868)年に新政府に招かれ参与となり京都に向かうまで、ここで門下生の指導にあたりました。
その間、4度も福井藩に政治顧問として招聘されており、土佐の坂本龍馬も彼の名声を聞いて、ここ四時軒を3度訪れています。
この旧居も明治の頃に客間だけ残して焼失したものを、記録に基づいて残りの部分を再建し旧態に復したものです。
四時軒の隣には横井小楠記念館があり、小楠に関する資料のほか、勝海舟や吉田松陰、西郷隆盛などの、小楠にゆかりのある人々の書も展示されています。
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小楠公園は、横井小楠の遺髪を埋葬した墓がある公園です。
明治2(1869)年1月5日、横井小楠は京都で御所から自宅へ戻る際、3人組に襲われ、暗殺されました。この時、刺客は、小楠の首をあげ、その場を走り去りましたが、その時警護をしていた者が追いかけ、首を取り戻しました。
この遺髪を、門人岩男俊貞が、京都から持ち持ち帰り、この地に埋葬しました。遺骸は、京都の南禅寺天授庵の墓地に、手厚く葬られています。
毎年2月15日(旧暦の1月5日)には、この公園で墓前祭がおこなわれています。
大正7(1918)年、小楠没後50年にあたり、その記念事業として「小楠横井先生頌徳の碑」が建てられました。篆額(てんがく)は細川護立の筆、碑文は徳富蘇峰の撰で横井時敬の書です。
没後100年の昭和45(1970)年2月には熊本市在住の彫刻家・田島亀彦の手による「横井小楠先生像」が建立されました。
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Posted at 2011/10/20 21:10:58 | |
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