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ピズモのブログ一覧

2007年03月27日 イイね!

古戦場をゆく~関ヶ原~(その9・赤坂の徳川家康岡山本陣跡など)

いよいよこれで関ヶ原古戦場巡りも最後です。
国道21号で赤坂に向かいますが、大渋滞。県道228号栗原青野線などを使って赤坂へ。
ここは岡山(勝山・御勝山)本陣跡があります。勝山墓地のあたりに車を駐めて、登りました。この山は海抜53メートルの丘陵で、東軍の総大将徳川家康の本陣が構えられたところです。慶長5(1600)年8月24日、東軍は、大垣城北西4kmの赤坂一帯を占拠しました。9月14日に赤坂に到着した徳川家康は、ここを本陣としました。
家康が赤坂に到着したことが西軍に伝わり、家康は上杉と交戦していると考えていた西軍の将士は少なからず動揺したそうです。
天下分け目の大合戦に勝利を得た家康は、ここを徳川ゆかりの地と記念して、岡山の名を勝山に改めたと伝えられています。また、麓には安楽寺があり、三つ葉葵の家紋の使用を許され、又大谷吉継軍が使用した鐘があるそうです。


近くにはお茶屋屋敷跡というのがあったので行ってみました。慶長9(1604)年徳川家康が織田信長ゆかりの岐阜城の御殿を移築して造営させたお茶屋屋敷の跡です。赤坂のお茶屋屋敷の「岐阜城の御殿」は寛永年間に取り壊されましたが、現在も創建当時の土塁や堀の一部が残っています。 お茶屋屋敷は中山道の道中四里毎に造営されたそうですが、ここが唯一の遺構だそうです
現在は個人所有ですが、自由に見させていただけます。ボタンなど多くの花が華やかな庭園があります。庭園が綺麗に手入れされているのには感心しました。かやぶきの門も雰囲気があってなかなか良いです。


これでこの日の古戦場巡りは終了。他にも菩提山城など行きたいところはありましたが、これだけ回れば満足です。
帰りは国道258号で桑名に出て、桑名東ICから東名阪+名阪国道ルートで帰宅しました。
Posted at 2007/04/09 22:55:24 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年03月27日 イイね!

古戦場をゆく~関ヶ原~(その8・「宰相殿の空弁当」で知られる南宮山に空腹状態で登山)

いよいよ南宮山です。南宮大社近く、岐阜県立不破高校の西隣の空き地には吉川広家陣跡があります。関ヶ原の戦いでは、広家は西軍の敗北を予想し、本家の毛利輝元が西軍の総大将となることに反対しました。しかし、安国寺恵瓊の意見により毛利家が西軍に付くと、毛利家の本領安堵を条件に黒田長政を通して東軍(徳川家康方)に内通しました
合戦当日は、南宮山の麓に陣を構え、毛利秀元が合戦に参戦するのを押しとどめました。
しかし、結局合戦後は、毛利家は所領を没収、吉川広家に周防、長門の2か国が与えられることになりました。広家は毛利家の家名を残すため周防、長門の所領を辞退し、結局周防、長門の両国は毛利輝元に与えられました。広家は毛利輝元から岩国3万石を与えられましたが、本家の毛利家とは江戸時代を通して陪臣扱いされるなど確執が残りました。


南宮大社は南宮山の登山口。神武天皇即位の後、この地に祀り、八咫烏を配祀して、東山道の要路を鎮めたものとされています。壬申の乱の際、天武天皇が美濃国一の宮であるこの南宮大社に祈願し、味方についた祀司が不破の関門を破ったのが戦勝への一歩となったということです。
毛利秀元陣所の南宮山麓にあり、関ヶ原の戦いで社殿が焼失しましたが、寛永19(1642)年徳川家光が再建しました。
参道など周囲は早くもサクラが開花し、華やかな感じでした。


建造物も立派です。


南宮山には、ハイキングコースが整備されています。南宮大社本殿南側の南宮稲荷神社へ鳥居が数多く連続して建っている道から行くことができます。
ハイキングコース入口には案内看板が。山頂まで1時間・・


ハイキングコース入口には、安国寺恵瓊陣跡があります。国寺恵瓊は安芸武田氏の遺児であるといわれています。最後の当主信実の従兄弟信重の子だそうです。武田氏滅亡後、安芸安国寺で出家しました。
毛利氏の外交僧として活躍し、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と信長の没落と秀吉の才能を見抜いた話は有名です。
秀吉の九州征伐後、伊予のうち6万石を与えられました。
関ヶ原の戦いでは、石田三成と共謀して毛利輝元を西軍の総大将に引き込みました。
合戦当日は、南宮山の麓に陣を構えましたが、吉川広家の軍勢に阻まれ参戦することができず、敗戦後に逃亡、京都に潜んでいるところを捕らえられ、石田三成、小西行長と共に六条河原で斬首されました。


いよいよ南宮山に登っていきます。南宮山は椿の名所だそうです。


中腹には、高山神社があります。祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)といい、美濃の水源を司る女神です。隣は子安神社で祭神は保食神(うけもちのかみ)です。稲と共に子供を育てる神様です。


ハイキングコースは長い道のりです。


毛利秀元陣跡につきました。毛利秀元は毛利元就の四男、穂井田元清の子として生まれました。従兄弟に当たる毛利輝元に実子が生まれなかったため、輝元の養子となりました。文禄4(1595)年に輝元に実子秀就が生まれると、跡継ぎの座を秀就に譲り、周防・長門両国の内20万石を分け与えられました。
関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将となった輝元の名代として、1万5千の兵を率いて南宮山に陣を構えました。
秀元は出撃するつもりでいましたが、東軍に内応していた吉川広家に押し止められ合戦に参戦することができませんでした。安国寺恵瓊の度重なる出陣要請に対して、困惑した秀元は苦し紛れに「今弁当を使っている」と答えた話は「宰相殿のから弁当(空弁当・殻弁当)」といわれています。
大坂城に戻った秀元は輝元に立花宗茂等と徹底抗戦を主張しましたが、聞き入れられませんでした。
結局戦後、毛利家は周防・長門36万石のみに大幅に所領を削減され、秀元は6万石を分知され、長府藩祖となりました。


眺望も素晴らしい!ただし、濃尾平野はよく見えましたが、関ヶ原方面は木々で遮られてよくわかりません。


陣形図が陣跡にありました。毛利勢が南宮山を降りていれば、どうなっていたのでしょう?


ここまで来て、かなり疲れを覚えました。もう夕方4時になっているのに考えてみれば、早朝に多賀S.Aで朝食をとってから、何も食べていません。古戦場巡りに熱中しすぎたからでしょう。昼食を食べるのを忘れていました。「宰相殿の空弁当」の南宮山で空腹を感じるというのも皮肉なものです。
この後、南宮山を下山しましたが、下山途中に野生の鹿と遭遇しました。南宮大社に戻った後は車で少し移動しました。
境野地区にある、長束正家陣跡です。かなりわかりにくい場所にあります。原野のような空き地に石碑が残るのみです。長束正家は五奉行の一人です。西軍に味方し、関ヶ原の合戦前には池田輝政との銃撃戦がありましたが、毛利、吉川、安国寺、長宗我部と同様、本戦には参加しませんでした。
西軍が敗北すると、水口城に帰りましたが、池田長吉らの攻撃を受け自害しました。


少し南側の栗原山には長宗我部盛親陣跡があります。関ヶ原の戦いでは、盛親は西軍につき6千人の兵とともに栗原山麓に陣を構えました。
吉川広家の内通により傍観軍となり西軍が敗北すると、戦わずして退却しました。帰国途中、牧田川金谷にて松ノ木城主徳永寿昌や今尾城主市橋長勝との間に戦いがありました。
帰国後、井伊直政を通じ、徳川家康に謝罪しましたが、家臣久武親直の讒言から兄津野親忠を殺害してしまったため、土佐一国を没収され浪人となりました。京で大岩祐夢と名前を変え寺子屋の師匠などをしていたそうです。その後、大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城しました。夏の陣の八尾の戦いなどで活躍しましたが、敗戦後捕らえられ京で斬首されました。ここも場所は分かりにくいですが、県道215号養老垂井線の東側に八幡神社がある道を西へ向かいます。農道というか里道のような道です。山に入るとすぐ陣跡があります。
桜がここも咲いていました。


ここから山側にさらに進むと、栗原九十九坊や竹中半兵衛が隠棲した跡地などがあるようですが、もう5時を過ぎています。この時間から山に登るのは危険と判断して断念しました。その代わり、日の明るい内に大垣市の赤坂に行ってみようと思い、車を進めます(続く)
Posted at 2007/04/09 21:56:18 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年03月27日 イイね!

古戦場をゆく~関ヶ原~(その7・桃配山~垂井)

次はいよいよ垂井町に向かいます。関ヶ原の東の方には徳川家康最初の陣跡〔桃配山〕があります。
桃配山は、旧関ヶ原村の東の入口に当たり、中山道の南側に位置する小さな山です。
壬申の乱の際、天武天皇が野上行宮からこの山に出陣し、兵士を励ますため野上郷をはじめとする不破の村人から献上された桃を配ったことからこの名があります。
徳川家康は、慶長5(1600)年9月15日未明に赤坂からこの地に軍を進めて本陣を置きました。開戦時はこの地で引き続き指揮を執りましたが、午前10時頃硝煙で戦況の把握が困難になり、軍監本多忠勝の進言により、現在の陣場野公園付近に陣を進めました。
桃配山には石碑の他に、軍議の際に使用した腰掛岩と机石があります。


桃配山からは国道21号ではなく、主として旧中山道を走ってみます。
山内一豊陣跡です。
山内一豊は関ヶ原の戦い当時は掛川城6万石の領主でした。
慶長5(1600)年、徳川家康に従い、会津の上杉景勝討伐の軍に参加しました。石田三成挙兵の報を受けて行われた小山軍議の際に「味方する上は、居城掛川城を兵糧ごと内府に差し上げ、拙者は人数ことごとく引き連れて戦場に臨む所存でござる」と発言し、徳川家康を感動させました。また、東海道筋の諸将は一豊を見習い、こぞって家康に城と兵糧をさしだしました。関ヶ原では、野上に陣どり、南宮山の毛利の軍勢などに備えました。毛利勢が動かなかったため、有馬、蜂須賀隊とともに柴井の地まで前進し戦いました。関ヶ原の戦いでは大きな武功はありませんでした。徳川家康は家臣の「山内一豊になんの武功があったか」という声を退け、「戦場での武功は誰でもできる。山内一豊の小山の一言が関ヶ原の勝利をもたらした」と述べ、土佐一国を与えました。
ここは関ヶ原町にはめずらしく石碑はありません。案内看板があるのみです。平成18年の大河ドラマ「功名が辻」の放送にあわせたのでしょうか、旧中山道沿いに真新しい案内看板と、山内家の三つ葉柏の軍旗が建っていました。


ここからは垂井町です。垂井一里塚は昭和5(1930)年10月3日に国史跡に指定されました。国史跡の一里塚は中山道では板橋区志村の志村一里塚と2箇所だけです。徳川家康は、街道整備のため慶長9(1604)年に主要街道に一里塚の設置を命じました。
これにより、江戸日本橋を起点として一里(4km弱)ごとに五間(約9m)四方、高さ一丈頂に榎を植栽した塚が道を挟んで二基ずつ築かれました。
垂井一里塚は、南側の一基だけが完全に残っています。旅人にとっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休憩所となりました。


垂井一里塚の山頂には浅野幸長陣跡の石碑があります。浅野幸長は豊臣政権下の五奉行の一人、浅野長政の嫡子としては甲斐府中22万石を領していました。
関ヶ原の戦いでは東軍に味方しました。
関ヶ原前哨戦の岐阜城攻略で活躍、関ヶ原の戦いでは南宮山の毛利秀元らに備えました。
戦後は、紀伊和歌山37万6千石が与えられました。


更に東に国道21号を進むと池田輝政陣跡があります。池田輝政は池田恒興の次男です。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いで父恒興、兄元助が戦死したため家督を継ぎました。文禄3(1594)年には徳川家康の娘・督姫を娶りました。
池尻城主、大垣城主、岐阜城主を経て関ヶ原の戦い時点では三河吉田15万2千石の領主でした。
関ヶ原の戦いの前哨戦では、福島正則らと共に織田秀信(織田信長の嫡孫)の籠る岐阜城を落としました。
関ヶ原では、南宮山に陣取る毛利秀元らに備えこの地に陣を構えました。
戦後は播磨姫路52万石に加増されました。


同じ場所には春王・安王の墓があります。春王丸・安王丸は、鎌倉公方足利持氏の子です。
持氏が永享の乱で自害した後、永享12(1440)年、結城氏朝に担がれ、室町幕府と戦いましたが敗れ捕らえられました。
嘉吉元(1441)年、春王丸・安王丸は京都に護送される途中、将軍足利義教の命により、金蓮寺(ここから東へ約500m)で斬られました。春王丸は13歳、安王丸は11歳だったそうです。
辞世の句は
夏草や 青野が原に 咲くはなの
身の行衛こそ 聞かまほしけれ (春王丸)

身の行衛 定めなければ 旅の空
命も今日に 限ると思へば (安王丸)


今度はJR東海道線の北側のエリア、垂井町の中心部のエリアに行ってみます。
長屋氏屋敷跡です。


近くには垂井城もあります。平塚為広は豊臣秀吉に仕え1万2千石で垂井城主になりました。
西軍に属し、関ヶ原の戦い前哨戦の伏見城攻め、大垣城の譲渡交渉などで活躍しました。
関ヶ原では、大谷吉継勢を指揮しましたが、東軍に寝返っ小早川秀秋が西軍を裏切り太谷隊へ攻めかかると、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返しましたが力尽き、山内の家臣樫井太兵衛に討たれました。
敗軍の中、辞世の歌を大谷吉継に送っています。
名の為に 捨つる命は おしからじ
ついにとまらぬ 浮き世と思えば
JR垂井駅の西500mほどにある専精寺が垂井城の跡と推定されています。垂井の泉の裏にあり、やや高台になっています。専精寺の東側の駐車場に石碑と説明の看板が建っています。


次は、いよいよ毛利勢が陣を置いた南宮山に行ってみます。
Posted at 2007/04/07 22:09:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年03月27日 イイね!

古戦場をゆく~関ヶ原~(その6・徳川家康最後の陣跡〔陣場野公園〕付近)

次は関ヶ原町の中心にある陣場野公園付近に戻ります。
陣場野公園は、徳川家康最後の陣跡です。ここは徳川家康が関ヶ原の戦いで最後に陣を置いたところです。桃配山の陣地から午前11時頃、ここへ移動して戦いが終えるまで味方の指揮を行いました。戦いが終わってからはここで首実検を行いました。
周囲の土塁や中央の土壇は天保12(1841)年に幕府の命令を受けたこの地の領主竹中重明が築きました。土壇中央には「進旗験馘處(しんきけんかくしょ)」と刻んだ石碑が建っています。


陣場野公園の南側の三角地には田中吉政陣跡があります。


更に南東側に行くと、朱色の門があります。東首塚の入口です。門をくぐったところに椎の大木が茂った塚と首洗いの井戸があります。徳川家康が首実検した後の首を、この地の領主竹中重門が祀りました。
その後荒れ果てていましたが、昭和6(1931)年文部省が史跡指定した際、整地し、標柱などを建てました。更に昭和15(1940)年になって、徳風会名古屋支部の人たちによって徳川家が建てた名古屋市の護国院の大日堂と門が移築され、東西両軍の戦没者の供養堂になっています。


東首塚の隣には、松平忠吉、井伊直政陣跡があります。関ヶ原の戦いでは徳川家康の四男、松平忠吉(武蔵忍城主・10万石)と徳川四天王の一人井伊直政(上野高崎城主・12万石)が陣を構えた場所です。松平忠吉は井伊直政の娘婿でもあります。元々はここから少し東寄りの茨原のTHK岐阜工場の敷地内にあったようです。
午前8時頃、軍監本多忠勝より開戦を促され、前進し宇喜多秀家勢の前に出ました。しかし、福島正則家臣の可児才蔵に先鋒は福島正則勢であると咎められ、島津義弘に戦いを仕掛けました。
戦いの終盤、島津義弘が敵陣突破して退却を試みた際、井伊直政、松平忠吉勢が追撃しましたが、直政、忠吉とも負傷しました。
戦後、松平忠吉は尾張国清洲52万石、井伊直政は近江国佐和山18万石を与えられました。
しかし、井伊直政は慶長7(1602)年に関ヶ原の戦いで受けた傷が元で亡くなりました。松平忠吉も慶長12(1607)年に28歳で亡くなりました。


この後、陣場野公園に戻り、関ヶ原町歴史民俗資料館に寄りました。ここは本当に関ヶ原の戦い関係の展示が充実しています。ここは以前にも行ったことがありますが、再び訪れてみました。入場料も安いですし、関ヶ原に訪れた人なら必見だと思います。「関ヶ原・名所古跡」という本を買いました。


この後は、桃配山から垂井町に向けて車を進めます。
Posted at 2007/04/07 18:38:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2007年03月27日 イイね!

古戦場をゆく~関ヶ原~(その5・少し古戦場を離れて美濃と近江の国境「寝物語の里」)

関ヶ原の古戦場を古戦場マップを参考に回っていましたが、ふと、美濃と近江の国境にある「寝物語の里」という古蹟があるのを思い出して行ってみました。
司馬遼太郎氏の「街道をゆく(24)・近江散歩」で紹介されていた里です。
美濃と近江の国境の里です。国境は小さな溝一つが美濃と近江の境を示しています。
この村には長屋が多く、壁一つで隣家と仕切られているから隣人同士お互いに寝ながら物語ができたからこの名前があるそうです。頼朝に追われ奥州へ逃れる源義経をしたって、家臣の江田源蔵がその後を追い、美濃側の宿に泊まったところ、近江側に宿をとっていた義経の妻静御前がその声に気付き、再会を喜びあったという伝説もあるそうです。
また、この村には「長競村(たけくらべむら)」という名もあり、街道の左右の山の高さが同じくらいで、近江と美濃の山がどちらが高いか見比べながら歩いたことからこの名がついたそうです。
裏千家四世・千仙叟宗室の茶杓に「寝物語の里」というものがあり、一本は美濃の竹で、一本は近江の竹でつくられていて、一つの筒におさめられていることから名付けられたそうです。司馬氏はこの村がよほど気に入っていたのか、「国盗り物語」でもこの村を信長と濃姫の「寝物語」の話に登場させています。
美濃側(関ヶ原町)には 「正月も美濃と近江や潤月」という芭蕉の石碑も建っています。


近江側(米原市長久寺・旧坂田郡山東町長久寺)には寝物語の里の由来を記した石碑が建っています。


ここから西に向かうと、柏原、醒ヶ井、番場と中山道の宿場町が続きます。北条仲時の悲劇、佐々木道誉の婆娑羅、その他にも室町、安土桃山、江戸と時の権力者が往復した美濃と近江だけあって史跡がたくさんあるようです。この日は関ヶ原の戦いというテーマがあったので西には向かいませんが、また中山道の「街道をゆく」をやってみたい気持ちになりました。
Posted at 2007/04/05 22:54:46 | コメント(3) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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何シテル?   07/13 21:09
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