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ピズモのブログ一覧

2009年03月21日 イイね!

静岡県の史跡めぐり(2日目その4・吉田町~島田市~掛川市)

次は大井川を渡り、遠江です。
小山城の近くの八幡神社は、家康御陣場跡の史跡です。天正6(1578)年、武田方の城、小山城を攻めるため八幡神社の森に陣を敷きました。
家康は八幡神社に参拝し、優勢の中に戦いを進めたため、後に六石三斗の御朱印と、二町四方の境内地を寄進しました。
八幡神社・家康御陣場跡 - 1
八幡神社・家康御陣場跡 - 1 posted by (C)pismo

八幡神社・家康御陣場跡 - 2
八幡神社・家康御陣場跡 - 2 posted by (C)pismo

小山城は、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となっているといわれていますが、その規模は不明です。
永禄12(1569)年に甲斐の武田信玄は相甲駿の三国同盟を破って、富士川沿いに今川氏の駿河に進攻、時を同じくして三河の徳川家康も遠江に進攻。駿河府中の今川氏真は掛川城に逃れ、この時から大井川を境として東の駿河を武田氏が、西の遠江を徳川氏が領有することになりましたが、武田軍は大井川を越え山崎の砦に入り、小山城を築きました。
徳川家康は松平(大給)左近真乗に小山周辺に知行地を与え、攻防の結果、元亀元(1570)年、小山城は松平氏の領有するところとなりました。しかし翌元亀2(1571)年、武田軍は二万五千の兵で攻め寄せ、小山城は再度武田方が奪還することとなりました。
小山城の本格的築城はこれ以後といわれています。信玄は馬場美濃守信春に修築させ、堀、土塁を築き修築し、大熊備前守長秀を城主としました。
元亀3(1573)年、三方ヶ原の戦いで家康を追い詰めた信玄は翌天正元(1573)年に病死し、跡を継いだ武田勝頼は、天正3(1574)年長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、下降線を辿ることになりました。
天正9(1581)年に高天神城が徳川軍によって攻略されたのち、同10(1582)年2月には小山城も徳川軍にによって攻略され、その後は廃城となりました。
現在は、吉田町展望台小山城として模擬天守閣が建てられ、町のシンボルになっています。内部は武田氏ゆかりの資料なども展示しています。
個人的には、模擬天守よりも、三ヶ月堀や土塁が残っているのに感動しました。
小山城(吉田町) - 01
小山城(吉田町) - 01 posted by (C)pismo

小山城(吉田町) - 02
小山城(吉田町) - 02 posted by (C)pismo

小山城(吉田町) - 03
小山城(吉田町) - 03 posted by (C)pismo

小山城(吉田町) - 04
小山城(吉田町) - 04 posted by (C)pismo

小山城(吉田町) - 05
小山城(吉田町) - 05 posted by (C)pismo

小山城(吉田町) - 06
小山城(吉田町) - 06 posted by (C)pismo

小山城(吉田町) - 07
小山城(吉田町) - 07 posted by (C)pismo

小山城(吉田町) - 08
小山城(吉田町) - 08 posted by (C)pismo

小山城(吉田町) - 09
小山城(吉田町) - 09 posted by (C)pismo

能満寺は弘長2(1262)年に建てられた寺院です。
小山城の麓にあります。
境内には能満寺の大ソテツがあります。
長徳元(995)年、安倍晴明が中国から持ち帰り、植えたと伝えられています。
徳川家康がこのソテツを駿府城内に植え替えようとしましたが、「寺へ帰りたい」と毎夜泣くので、再び寺に返したという伝説があります。
大正12(1923)年、国指定の天然記念物になりました。
能満寺(吉田町) - 1
能満寺(吉田町) - 1 posted by (C)pismo

能満寺(吉田町) - 2
能満寺(吉田町) - 2 posted by (C)pismo

能満寺(吉田町) - 3
能満寺(吉田町) - 3 posted by (C)pismo

大熊備前守屋敷跡は、武田氏から小山城主に任じられた大熊朝秀の屋敷跡です。
大熊朝秀は、元々長尾景虎(上杉謙信)に仕えていましたが、武田氏に内通し逃亡しましたが、武田信玄により武田氏の家臣となりました。武田氏に仕えても活躍し、小山城主となりました。
屋敷跡の標柱は小山城の西側の茶畑にあります。探すのは結構大変です・・・
大熊備前守屋敷跡(吉田町)
大熊備前守屋敷跡(吉田町) posted by (C)pismo

そして、以前も訪れたことのある島田市の旧金谷町へ車を進めます。少し薄暗くなってきました。
以前も訪れたことのある旧東海道の金谷坂の石畳です。
金谷坂の石畳(島田市) - 1
金谷坂の石畳(島田市) - 1 posted by (C)pismo

金谷坂の石畳(島田市) - 2
金谷坂の石畳(島田市) - 2 posted by (C)pismo

金谷坂の石畳(島田市) - 3
金谷坂の石畳(島田市) - 3 posted by (C)pismo


諏訪原城は天正元(1573)年、武田勝頼の臣馬場美濃守信春を築城奉行として築かれ、東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた天然の要害でした。
天正3(1575)年、長篠の戦いで武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗れましたが、家康は遠江から武田氏支配の城への攻勢を強め、諏訪原城にも攻撃をかけました。城主今福浄閑斎は戦死し、城は落城しました。諏訪原城は武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祭ったことから諏訪原城と呼ばれていましたが、徳川氏はこの城を牧野城と改め、武田氏の攻略を強めました。ちなみにこの城は他にも牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称があるそうです。遺構は、本丸、二の丸、三の丸、大手郭、帯郭、西の丸、搦手、亀甲曲輪の八郭からなり、茶畑になっているところもありますが、その規模といい、遺構の保存状態といい、素晴らしい城跡です。
諏訪原城(島田市) - 01
諏訪原城(島田市) - 01 posted by (C)pismo

諏訪原城(島田市) - 02
諏訪原城(島田市) - 02 posted by (C)pismo

諏訪原城(島田市) - 03
諏訪原城(島田市) - 03 posted by (C)pismo

諏訪原城(島田市) - 04
諏訪原城(島田市) - 04 posted by (C)pismo

諏訪原城(島田市) - 05
諏訪原城(島田市) - 05 posted by (C)pismo

諏訪原城(島田市) - 06
諏訪原城(島田市) - 06 posted by (C)pismo

諏訪原城(島田市) - 07
諏訪原城(島田市) - 07 posted by (C)pismo

諏訪原城(島田市) - 08
諏訪原城(島田市) - 08 posted by (C)pismo
久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山です。
本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称されています。
慶長5(1600)年、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなしました。
平成18(2006)年の大河ドラマ「功名が辻」第41回「大乱の予感」の功名が辻紀行で紹介されていました。
久延寺(掛川市) - 01
久延寺(掛川市) - 01 posted by (C)pismo

久延寺(掛川市) - 02
久延寺(掛川市) - 02 posted by (C)pismo

久延寺(掛川市) - 03
久延寺(掛川市) - 03 posted by (C)pismo

久延寺(掛川市) - 04
久延寺(掛川市) - 04 posted by (C)pismo
今回の史跡めぐりはこれで終了です。帰りに刈谷ハイウェイオアシスでお土産を買いに立ち寄りました。観覧車がきれいでした。
刈谷ハイウェイオアシス - 1
刈谷ハイウェイオアシス - 1 posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス - 2
刈谷ハイウェイオアシス - 2 posted by (C)pismo

刈谷ハイウェイオアシス - 3
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刈谷ハイウェイオアシス - 5
刈谷ハイウェイオアシス - 5 posted by (C)pismo

Posted at 2009/04/26 23:03:46 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年03月21日 イイね!

静岡県の史跡めぐり(2日目その3・藤枝市)

次は花倉の乱の舞台藤枝市を訪れました。
花倉城は今川氏3代目今川範国が足利尊氏の命を受け駿河守護となりその子範氏が文和2(1353)年に花倉に居館を構え背後の山上に詰城を築いたものと伝えられています。
その後、氏家、泰範、範政と3代約60年間今川氏の本拠地として栄え、応永18(1411)年に範政が駿府へ本拠地を移した後も一族を花倉遍照光寺の住職とし堅塁花倉城を駿府の西の守りとしていました。
天文5(1536)年に今川氏輝が死去し、さらに同じ日に氏輝の弟である彦五郎も死去したため、家督を巡る争いが起きました。これが「花倉の乱」です。
玄広恵探(今川良真)と梅岳承芳(今川義元)の戦いで、承芳方が優勢で、恵深は花倉城に籠城、交戦しましたが落城、その後城は廃城になりました。
山麓の勝谷に範氏の建てた遍照光寺(現在の遍照寺)、東側の半谷に泰範の建てた長慶寺があり、ここには範氏、氏家、泰範の墓が並んでいます。
今川氏館があったところは、遍照寺前の平地と伝えられています。
城跡は長慶寺を目標に行くと良いと思います。ハイキングコースですが、近くまで車で登ることが出来ます。かなり道は狭いですが。
平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」第5回「駿河大乱」の風林火山紀行で、「花倉城跡」として紹介されました。
花倉城(藤枝市) - 01
花倉城(藤枝市) - 01 posted by (C)pismo

花倉城(藤枝市) - 02
花倉城(藤枝市) - 02 posted by (C)pismo

花倉城(藤枝市) - 03
花倉城(藤枝市) - 03 posted by (C)pismo

花倉城(藤枝市) - 04
花倉城(藤枝市) - 04 posted by (C)pismo

花倉城(藤枝市) - 05
花倉城(藤枝市) - 05 posted by (C)pismo

長慶寺は今川氏3代目の今川泰範が開いた寺です。
戦国時代、太原崇孚雪斎により臨済宗の寺院となりました。
雪斎は長慶寺で老後を過ごしたと伝えられ、今川泰範の五輪塔と共に雪斎の無縫塔が残っています。
写真下の左側の五輪塔が泰範の墓で、右側の無縫塔が雪斎の墓と伝えられています。
長慶寺(藤枝市)-1
長慶寺(藤枝市)-1 posted by (C)pismo

長慶寺(藤枝市)-2
長慶寺(藤枝市)-2 posted by (C)pismo

長慶寺(藤枝市)-3
長慶寺(藤枝市)-3 posted by (C)pismo

八幡神社は、駿河今川家二代目の今川範氏が建立した神社です。
遍照寺のすぐ近くにあります。
花倉八幡神社(藤枝市)-1
花倉八幡神社(藤枝市)-1 posted by (C)pismo

花倉八幡神社(藤枝市)-2
花倉八幡神社(藤枝市)-2 posted by (C)pismo

遍照寺は、曹洞宗の寺院で華蔵山遍照寺といいます。(ただし、「遍」の字は看板などでは正確にはぎょうにんべんが正しいようです。)
当初は真言宗で、華蔵山遍照光寺といいました。
文和元(1352)年、今川家二代今川範氏は葉梨荘に居館を設け、詰城として花倉城を築きました。文和3(1354)年に遍照光寺を創建しました。
今川氏は遍照光寺の僧籍に嫡男以外の者を入れ、この地に住まわせていました。
天文5(1536)年に住持であった玄広恵探を擁して福島氏が花倉城に挙兵し、花倉の乱が起きました。
その後遍照光寺は、永禄11(1568)年、武田氏の兵火による火災で寺は花倉館と共に焼失しました。
元亀2(1571)~3(1572)年頃に曹洞宗に改宗し、遍照寺と改めました。
安永6(1777)年8月には、八幡神社の棟札によると山崩れが起こり寺院や墓地が埋没しました。
その後再建されましたが、かなりの時間がかかったようです。
昭和48(1973)年に今川範氏・嫡男氏家の墳墓が発見されました。
昭和53(1978)年12月墓石を補修し改葬されました。
訪れた時は本堂が工事中でした。
徧照寺(藤枝市)-1
徧照寺(藤枝市)-1 posted by (C)pismo

徧照寺(藤枝市)-2
徧照寺(藤枝市)-2 posted by (C)pismo

普門寺は臨済宗の寺院です。
花倉の乱で自害した今川義元の庶兄、玄広恵探(今川良真)の菩提寺だそうです。
花倉城の落城後、玄広恵探は普門寺で自害しました。
墓は寺の境内にはなく、少し北側にあります。
普門寺(藤枝市)-1
普門寺(藤枝市)-1 posted by (C)pismo

普門寺(藤枝市)-2
普門寺(藤枝市)-2 posted by (C)pismo

普門寺(藤枝市)-3
普門寺(藤枝市)-3 posted by (C)pismo
玄広恵探は今川氏親の子です。
天文5(1536)年に氏親の後を継いで当主であった今川氏輝が死去し、さらに同じ日に氏輝の弟である彦五郎も死去したため、家督を巡る争いが起きました。これが「花倉の乱」です。
玄広恵探(今川良真)と梅岳承芳(今川義元)の戦いで、承芳方が優勢で、恵深は花倉城に籠城、交戦しましたが落城し、恵探は瀬戸谷に逃れましたが、普門寺で自害しました。
藤枝市の藤の瀬会館・農山村地域振興センターの北側すぐの小山に墓があります。
普門寺跡・玄広恵探の墓(藤枝市)
普門寺跡・玄広恵探の墓(藤枝市) posted by (C)pismo

田中城は永禄13(元亀元、1570)年正月、花沢城と共に 武田信玄によって攻略された今川方の属城である徳之一色城を、馬場信春に命じて改修し、田中城と命名しました。
その後天正3(1575)年に武田勝頼が長篠・設楽原の戦いで大敗を喫した後は徳川家康の攻勢にさらされました。
天正10(1582)年、駿河江尻城主穴山信君(梅雪) が徳川方に寝返り、孤立した田中城主依田信蕃は徳川家康の勧めで開城しました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、慶長6(1601)年に徳川譜代の酒井忠利が入城し外郭の惣構えが拡張されました。以後、松平忠重、水野忠善、松平忠晴、北条氏重らが城主となりましたが享保15(1730)年に上野沼田城から本多正矩が四万石で入封した後は本多氏が城主となり明治元(1868)年に廃城となりました。
なお、元和2(1601)年には徳川家康が鷹狩りに訪れ、田中城で鯛の天ぷらを食したのが原因で腹痛を起こし、体調を崩して亡くなったことでも知られています。
本丸周辺は西益津小学校になっています。
田中城 - 1
田中城 - 1 posted by (C)pismo

田中城 - 2
田中城 - 2 posted by (C)pismo

田中城 - 3
田中城 - 3 posted by (C)pismo

田中城 - 4
田中城 - 4 posted by (C)pismo

田中城下屋敷は田中城の南東隅にあり、江戸時代後期には城主の別荘がありました。
平成4(1992)年から平成7(1995)年度にかけてかつての庭園を復元整備し、茶室を元の場所に移築しました。また、田中城にゆかりのある本丸櫓、仲間部屋・厩、長楽寺村郷蔵なども移築復元しています。
残念ながらこの日は臨時休業日なのか、閉まっており中には入れませんでした。
田中城下屋敷 - 1
田中城下屋敷 - 1 posted by (C)pismo

田中城下屋敷 - 2
田中城下屋敷 - 2 posted by (C)pismo

田中城下屋敷 - 8
田中城下屋敷 - 8 posted by (C)pismo

Posted at 2009/04/26 20:29:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年03月21日 イイね!

静岡県の史跡めぐり(2日目その2・静岡市)

次は静岡市の「旧」静岡市内に入ります。
竜雲寺は守護大名今川7代の当主氏親の夫人龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼(寿桂尼)の菩提寺です。
寿桂尼は京都の中御門権大納言宣胤の女で、永正5(1508)年今川氏親に嫁して、3男4女を生みました。
氏親は晩年、中風気味で自ら国政をとることが困難であったため、夫人の内助によるところが多かったと言われています。
大永6(1526)年氏親が56歳で亡くなると夫人は髪を切り、翠光院寿桂(後に長膳院)と称し、氏輝、義元、氏真3代約40年の永きにわたり政務を補佐し、守護大名今川氏の繁栄をもたらしました。永禄3(1560)年5月、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川氏は衰退していきますが、今川家の回復をはかり、外敵の進入を受けることなく国内の平静を保ったのは、尼の力に負うところが大きかったといわれています。
永禄11(1568)年駿府の館で没しましたが、遺命により、駿府の鬼門にあたる当寺に骨を埋め、永く今川館を護ろう念願したと伝えられています。
墓所は、寺の背後にあって、五輪二基のほか石塔があるが、そのいずれが尼公の墓であるのかさだかではないようです。
竜雲寺(静岡市葵区) - 1
竜雲寺(静岡市葵区) - 1 posted by (C)pismo

竜雲寺(静岡市葵区) -2
竜雲寺(静岡市葵区) -2 posted by (C)pismo

竜雲寺(静岡市葵区) - 3
竜雲寺(静岡市葵区) - 3 posted by (C)pismo

持舟城の築城時期は不明ですが、駿府の今川館の西側を守る城として丸子城とともに重要視されていたと思われます。徳川家康の正室築山殿の父関口刑部親永も在番していたそうです。
永禄11(1568)年12月以後武田家に属し、駿河先方衆の三浦兵部義鏡が在番しました。また水軍の将向井伊賀守正重も入っていました。
天正7(1579)年九月十八日、徳川家康は遠江から大井川を越え、持舟城の出城であった遠目砦を攻略後、持舟城を攻め立て落城しましたが、再び武田勝頼が奪い返しました。
その後、武田勝頼により修築された持舟城は、朝比奈駿河守氏秀が城番として入城しました。
しかし天正10(1582)年、徳川軍の攻撃を受けた持舟城は耐え切れず陥落、朝比奈氏秀は久能山城に敗走しました。その後、城は廃城となったそうです。
城跡は、浅間神社西側の農道をあがっていきます。この農道は、許可車以外は通行禁止です。このあたりは、東海道本線や、東海道新幹線などがクロスする場所で景色が良いため、鉄道写真を撮影しに来ている人も多かったです。
持舟城(静岡市駿河区) - 1
持舟城(静岡市駿河区) - 1 posted by (C)pismo

持舟城(静岡市駿河区) - 2
持舟城(静岡市駿河区) - 2 posted by (C)pismo

城山烈士供養塔は、持舟城下、用宗駅近くの用宗公民館前にあります。
永禄、元亀、天正年間、今川氏、武田氏、徳川氏など戦国大名の攻防の舞台になった持舟城は多くの将兵が城と運命を共にしました。
供養塔は城将向井伊賀守正重ほか将士の霊を慰めるため祀ったものです。
持舟城城山烈士供養塔(静岡市駿河区)
持舟城城山烈士供養塔(静岡市駿河区) posted by (C)pismo

ここからは、東海道の宿場町「丸子宿」の雰囲気です。
丸子宿・丁字屋(静岡市駿河区) - 1
丸子宿・丁字屋(静岡市駿河区) - 1 posted by (C)pismo
丸子宿(静岡市駿河区) - 1
丸子宿(静岡市駿河区) - 1 posted by (C)pismo

丸子は寺社やお城もある町です。
吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は、今川家六代当主今川義忠と七代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が永正元(1504)年55歳で草庵を結び余生を送ったところです。
禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしたといいます。
風雅な庭園は本堂の正面はるか南方にある「丸子富士」や庭の西方にそびえる「天柱山」など美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は、国の名勝・史跡に指定されています。庵の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した七曜石と、宗長が月を出るのを座って待った月見石などがあります。その月見石の背後に師の宗祇と並んで宗長の墓があります。
柴屋寺は京の嵯峨から移植したと言われる竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が民芸品として即売されています。寺宝には後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、頓阿法師作柿本人麿像及び一節切の笛などの文化財が保存され、公開されています。
吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 01
吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 01 posted by (C)pismo

吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 02
吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 02 posted by (C)pismo

吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 03
吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 03 posted by (C)pismo

吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 04
吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 04 posted by (C)pismo

吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 05
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吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 06
吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 06 posted by (C)pismo

吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 07
吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 07 posted by (C)pismo

吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 08
吐月峰柴屋寺(静岡市駿河区) - 08 posted by (C)pismo

誓願寺は山号は大鈩山、建久年間(1190~1199年)に源頼朝の両親追善のため建立されました。
天文年間(1532~1555)の丸子城の戦火
で類焼しました。
しかし、永禄11(1568)年駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建しました。
この寺はまた、大坂冬の陣をおこしたいきさつの舞台となった
ところで、慶長19(1614)年、豊臣家重臣片桐且元は京都方広寺の鐘に刻まれた
「国家安康」の文字について駿府城の家康に申し開きのためこの寺に滞在しました。
しかし、家康には且元の意がくまれず大坂冬の陣が勃発し、続いて慶長20(1615)年大阪夏の陣で豊臣家は滅びました。
境内には子孫の片桐石見守貞昌によって建てられた且元夫妻の墓が並んでいます。
誓願寺(静岡市駿河区) - 1
誓願寺(静岡市駿河区) - 1 posted by (C)pismo

誓願寺(静岡市駿河区) - 2
誓願寺(静岡市駿河区) - 2 posted by (C)pismo

誓願寺(静岡市駿河区) - 3
誓願寺(静岡市駿河区) - 3 posted by (C)pismo

誓願寺(静岡市駿河区) - 4
誓願寺(静岡市駿河区) - 4 posted by (C)pismo

丸子城は応永年間(1394~1428)、駿河守護今川氏の被官であった斎藤安元によって築城されました。文明8(1476)年、今川義忠が遠江で戦死すると、義忠の跡目相続をめぐり、嫡子龍王丸(後の氏親)と、小鹿新五郎範満との間で内紛が起き、龍王丸生母の北川殿は、兄で当時今川氏に食客として仕えていた伊勢新九郎盛時(長氏、北条早雲)の手引きで龍王丸とともに丸子の館で暮らしました。長享元(1487)年新九郎は駿府館を急襲し範満を討ちとり、龍王丸は正式に家督を相続し氏親と名乗りました。駿府の今川館に移った氏親は駿府館の支城として整備しました。
永禄11(1568)年、駿河に侵攻した武田信玄は西駿河に残る今川方諸城に対処するため、重臣山県昌景を丸子城に駐屯させました。。
元亀元(1570)年、駿河全域を手にした信玄は、丸子城に諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番として置き、天正6(1578)年頃、城将は屋代勝永に代わりました。
天正9(1581)年、武田方の拠点高天神城落城を前に、武田勢は徳川軍に丸子城を明け渡して退去しました。
家康は松平備後守を駐留させましたが、天正18(1590)年、家康の関東への転封とともに廃城となりました。
城跡は、西側の誓願寺から登りました。東側からも登ることが出来ます。
北側の曲輪を主郭部としたのが今川氏の時代で、後に武田氏の時代には南側の曲輪を主郭部としました。土塁や堀が見事に残り、中世の城郭の雰囲気を今に伝えています。
丸子城(静岡市駿河区) - 01
丸子城(静岡市駿河区) - 01 posted by (C)pismo

丸子城(静岡市駿河区) - 02
丸子城(静岡市駿河区) - 02 posted by (C)pismo

丸子城(静岡市駿河区) - 03
丸子城(静岡市駿河区) - 03 posted by (C)pismo

丸子城(静岡市駿河区) - 04
丸子城(静岡市駿河区) - 04 posted by (C)pismo

丸子城(静岡市駿河区) - 05
丸子城(静岡市駿河区) - 05 posted by (C)pismo
Posted at 2009/04/23 22:41:23 | コメント(1) | トラックバック(1) | ドライブ | 日記
2009年03月21日 イイね!

静岡県の史跡めぐり(2日目その1・薩た峠の富士山と清見寺)

この日は前日に行けなかった清見寺を目指しました。しかし、早朝ということもあり、まだ開門していないようでしたので、昨日訪れたものの富士山を見ることができなかった薩た峠を再び訪れました。
この日はよく晴れていたので美しい富士山を見ることができました。
薩埵峠 - 14
薩埵峠 - 14 posted by (C)pismo

薩埵峠 - 20
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薩埵峠 - 30
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薩た峠の後はこの旅行のお目当ての一つ、清見寺です。清見寺は臨済宗妙心寺派の寺院です。山号は、巨鼇山(こごうさん)で正しくは巨鼇山清見興国禅寺といいます。
寺の歴史は古く、白鳳年間に蝦夷に備えて関所が設けられ清見関といわれていたこの地に建立されました。
当初は天台宗でしたが、鎌倉時代に禅宗になり関聖上人により再興されました。
室町時代は足利尊氏や今川氏の帰依を受けて繁栄しました。足利義教、雪舟なども訪れました。
戦国時代には戦火に遭うことも多かったようですが、今川義元の後援を受けた今川家の軍師でもある太原崇孚雪斎により再興されました。
徳川家康は幼少時、太原崇孚雪斎に学問を学びに訪れたそうで、手習いの間が残されています。
豊臣秀吉の天正18(1590)年の北条氏攻伐の際、当寺に一時本営を置いて全軍の指揮を執り、又梵鐘を徴用し陣用に供しました。
江戸時代は徳川氏から三つ葉葵の紋を許され、繁栄しました。
明治時代、東海道本線が境内を分断する形で敷設されたため山門だけが他の建物と離れて立っている形になります。
庭園は国の名勝です。江戸時代の初期、山本道斉の作庭で、家康もこの庭園を愛し、
駿府城から虎石、亀石、牛石を移したそうでです。五百羅漢も境内にあり、見応えがある寺院です。

清見寺 - 02
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清見寺 - 03
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清見寺 - 06
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清見寺 - 14
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清見寺 - 17
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清見寺 - 30
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清見寺 - 37
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清見寺 - 39
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清見寺 - 40
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清見寺 - 42
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この後は更に西へ向かい、静岡市(旧静岡市区域)を目指します。
Posted at 2009/04/19 22:26:46 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年03月20日 イイね!

静岡県の史跡めぐり(1日目その3・蒲原~由比~興津)

次は東海道沿いを西へ向かいます。
蒲原城は、蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期頃と思われます。
築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族蒲原氏によって築城したものと思われます。
永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川氏の勢力は衰弱し、武田信玄が永禄11(1569)年に武田氏が侵攻してきました。蒲原城は今川氏の盟友関東北条方の北条幻庵(北条早雲の三男)の次男新三郎氏信(綱重)、三男長順が城を守っているおり、本郭を大改修しましたが、同12月6日武田氏の攻撃にあい落城。蒲原城は武田方に移りました。
その後、天正10(1582)年2月徳川勢による落城まで武田氏の治下にあって当地の土豪、地侍による「蒲原衆」を編成しこの地を治めたが、天正18(1590)年3月、小田原征伐の折徳川勢の着陣を最後に廃城となりました。
現在は公園となっています。昭和63(1988)年~平成元(1989)年にかけて永禄12(1569)年北条新三郎と駿河侵攻をねらう甲州武田氏の武田勝頼との間で戦いで激しい攻防が繰り広げられた善福寺曲輪の整備が行われ物見台、堀切、掘切、逆茂木、木柵などが再現されています。
蒲原城(静岡市清水区) - 06
蒲原城(静岡市清水区) - 06 posted by (C)pismo

蒲原城(静岡市清水区) - 12
蒲原城(静岡市清水区) - 12 posted by (C)pismo

蒲原城(静岡市清水区) - 13
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蒲原城(静岡市清水区) - 15
蒲原城(静岡市清水区) - 15 posted by (C)pismo

蒲原城(静岡市清水区) - 16
蒲原城(静岡市清水区) - 16 posted by (C)pismo

蒲原城(静岡市清水区) - 17
蒲原城(静岡市清水区) - 17 posted by (C)pismo

蒲原城(静岡市清水区) - 19
蒲原城(静岡市清水区) - 19 posted by (C)pismo

次は由比の宿場町です。
清水銀行由比支店本町特別出張所の建物は明治33(1900)年創業の「庚子銀行(かのえねぎんこう)」本店として大正14(1925)年に竣工しました。。この建物の特色は、西洋の古典様式を貴重とする意匠で、その正面には4本のイオニア式の柱頭を飾る柱をすえ、水平に3つの帯で分けています。イオニア式とは古代ギリシャ神殿の建築様式の一つで優雅さが特色です。一層目は、腰の高い基壇、二層目は、そこから柱の上を通る横帯まで、三層目ははそれより上の屋根、梁と軒の部分で、簡素ながらも典型的な新古典主義の様式です。
平成9(1997)年9月3日、国の登録有形文化財に指定されています。
清水銀行由比本町支店 - 2
清水銀行由比本町支店 - 2 posted by (C)pismo

街道沿いには昔ながらの情緒を残す建物が残っています。こちらは明治の郵便局舎〔平野氏宅〕
江戸時代、文章の送達は飛脚便によって行われていましたが、由比宿では現在の由比薬局の位置で朝日麟一氏によってその業が行われており、飛脚屋と呼ばれていました。
明治4(1871)年3月、郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便取扱所となり、さらに明治8(1875)年1月由比郵便局と改称されました。
明治39(1906)年5月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治41(1908)年1月より郵便局を移転しました。この局舎は昭和2(1927)年7月まで使用され、現在は平野氏私宅となっています。
明治の郵便局舎〔平野氏宅〕(静岡市清水区) - 5
明治の郵便局舎〔平野氏宅〕(静岡市清水区) - 5 posted by (C)pismo

由比本陣公園は、江戸時代、東海道の宿場町として栄えた由比本陣の敷地を活用して整備された公園です。正門、石垣、由比本陣記念館を兼ねた離れ館の「御幸亭」などが復元され、小堀遠州作と伝えられる庭もあります。ビジターセンターである東海道由比宿交流館、歌川広重の作品を展示する「東海道広重美術館」が併設されています。東海道広重美術館は、浮世絵師歌川広重(安藤広重)の作品を中心に、収集展示された美術館です。東海道の宿場の風景を浮世絵で楽しむことができる美術館です。
由比本陣公園・東海道広重美術館(静岡市清水区) - 1
由比本陣公園・東海道広重美術館(静岡市清水区) - 1 posted by (C)pismo

由比本陣公園・東海道広重美術館(静岡市清水区) - 3
由比本陣公園・東海道広重美術館(静岡市清水区) - 3 posted by (C)pismo

由比本陣公園・東海道広重美術館(静岡市清水区) - 4
由比本陣公園・東海道広重美術館(静岡市清水区) - 4 posted by (C)pismo

由比本陣公園・東海道広重美術館(静岡市清水区) - 5
由比本陣公園・東海道広重美術館(静岡市清水区) - 5 posted by (C)pismo

正雪紺屋は、由比本陣公園の向かいにあり、江戸時代の兵学者で慶安事件で有名な由比正雪の生家と伝えられています。
老舗の紺屋(こうや)で、築200年以上という店の入口には、正雪紺屋と染め抜かれた本藍染めの暖簾がかかっています。
正雪紺屋 - 2
正雪紺屋 - 2 posted by (C)pismo

由比宿を離れ、薩た峠へ向かいます。途中には東海道名主の館「小池邸」があります。
小池家は昔、甲州武田氏家臣が当地に移住し、江戸時代には代々小池文右衛門を名のり寺尾村の名主を務めました。
この建物は、明治期に建てられ江戸時代の名主宅の面影を残しています。
由比町(現在は清水市)では観光客のため購入して修復工事を行い東海道名主の館「小池邸」として蘇らせました。
残念ながら開館時間を過ぎていたため、外からの見学のみです。
小池邸(静岡市清水区) - 3
小池邸(静岡市清水区) - 3 posted by (C)pismo

薩た峠は、旧清水市と旧由比町の境にある峠で、東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置しています。
峠からの富士山の眺望を期待していったのですがこの日は厚い雲に覆われていました・・・残念。

薩た峠 - 02
薩た峠 - 02 posted by (C)pismo

薩た峠 - 04
薩埵峠 - 04 posted by (C)pismo

薩た山の展望台駐車場から少し東側(由比宿側)に進んだところに薩た山合戦場の説明看板がありました。
薩た山合戦場は二度の大合戦の舞台です。
南北朝時代の観応2(1351)年室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義が不仲になり、ここ薩た峠から峰つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍が敗退しました。
二度目は戦国時代の永禄11(1568)年から翌年にかけて武田信玄が駿河に侵攻したため、今川氏真が清見寺に本陣を置き、薩た峠に先鋒を構えたが敗退しました。
そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は武田が敗れて一旦甲州へ引き上げましたが、永禄12(1569)年12月に三度侵攻し、このとき蒲原城を攻略しました。
薩た峠 - 09
薩た峠 - 09 posted by (C)pismo

薩た峠 - 10
薩た峠 - 10 posted by (C)pismo

峠を越え、興津側に進みます。少し北上すると、霊泉寺があります。臨済宗妙心寺派の寺院です。
武田家の武将で江尻城主であった穴山梅雪(信君)が天下の高僧速伝宗販老師を招いて開山とし菩提寺としました。
穴山梅雪の墓所があるそうですが、場所がよくわかりませんでした。
霊泉寺
霊泉寺 posted by (C)pismo

更に北上し、小島の集落へ向かいます。龍津寺(りょうしんじ)は臨済宗妙心寺派の寺院で、小島藩主滝脇松平家の菩提寺です。
小島陣屋のすぐ近くにあります。禅寺らしく落ち着いた雰囲気の寺院です。
龍津寺 - 1
龍津寺 - 1 posted by (C)pismo

龍津寺 - 2
龍津寺 - 2 posted by (C)pismo

小島陣屋(おじまじんや)は滝脇松平家の陣屋です。
滝脇松平家は、松平親忠の七男乗清を祖とする家です。元禄2(1689)年に松平信孝が4000石を加増され1万石の大名となり、2代信治の時に駿河に領地が集められ、宝永元(1704)年にこの地に陣屋が構築されました。
駿河中東部唯一の大名として庵原・有度・安倍の3郡にわたる30ケ村を知行し、10代・約160余年間、松平(滝脇)家による藩政の中心地(政庁)でした。明治維新後、小島藩学問所の後身、包蒙舎小学校校舎として用いられましたが、昭和3(1928)年、小学校移転のため、陣屋建物は取り壊されました。殆どが現在農地などになっていますが、石垣などが良好に残されています。
平成18(2006)年に国の史跡に指定されています。
小島陣屋(静岡市清水区) - 03
小島陣屋(静岡市清水区) - 03 posted by (C)pismo

小島陣屋(静岡市清水区) - 05
小島陣屋(静岡市清水区) - 05 posted by (C)pismo

小島陣屋(静岡市清水区) - 06
小島陣屋(静岡市清水区) - 06 posted by (C)pismo

小島陣屋(静岡市清水区) - 08
小島陣屋(静岡市清水区) - 08 posted by (C)pismo


ここから南下し、横山城へ行ってみました。横山城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城です。
興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(または近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎、「承久記」に興津左衛門の名があり、初めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部して以来はその被官となりました。
延文年間(1356~61)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭としました。
永禄11(1568)年12月、甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで、興津氏代々の居城でした。
この城を奪った武田氏は直ちに改修に着手し、翌12年2月には完了して穴山梅雪に守らせました。そしてこの年正月、今川氏真救援のため出兵した北条氏康の軍は薩た山に陣取ると、4月29日に撤退するまで90日余りにわたり、興津側を挟んで対戦しました。
武田氏は横山城に城番を置き、支城のひとつとして重要視しましたが、天正10(1582)年武田氏の滅亡と共に廃城となりました。
現地には石碑が建っています。後ろの山が城跡のようですが、登城口などは見つかりませんでした。
横山城〔興津城〕(静岡市清水区) - 2
横山城〔興津城〕(静岡市清水区) - 2 posted by (C)pismo

この日の日程はここまでです。興津の清見寺はこのドライブで最も行きたかった場所の一つなので、2日目の朝に訪れることにします。


Posted at 2009/04/19 18:40:27 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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