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ピズモのブログ一覧

2009年10月31日 イイね!

備前国紀行その4・岡山城周辺と岡山城ライトアップ

後楽園を見ると、もう夕方になってしまいました。
日の暮れるのが早い時期ですので、碑のある内に岡山城周辺をサイクリングしてみました。

岡山神社は、かつては酒折宮といい、宇喜多氏以来岡山城の守護神として歴代の城主の信仰の厚かった神社です。
貞観年間の創建と伝えられ、当初は後に岡山城が築かれることになる岡山という丘の上に鎮座していました。
天正元(1573)年、宇喜多直家が岡山城を築くに当たって、当社を城の側の現在地に遷座、岡山城の守護神とし社領を寄進しました。
宇喜多秀家が本殿を造営し、次いで城主となった小早川秀秋が拝殿以下を造営しました。江戸時代には藩主池田家により城内の鎮守として崇敬され、社領300石が寄進されました。
明治15(1882)年に岡山神社に改称し、岡山市の総鎮守とされました。昭和16(1941)年に社殿の改修、社務所の新築が行われましたが、昭和20(1945)年に戦災により随神門と末社数社だけを残して焼失しました。
現在残る随神門は、池田綱政により延享2(1745)年に造営されたものです。
岡山神社 - 1
岡山神社 - 1 posted by (C)pismo

岡山神社 - 2
岡山神社 - 2 posted by (C)pismo

岡山神社 - 3
岡山神社 - 3 posted by (C)pismo

岡山城の西丸は、本丸外周をめぐる二の丸内郭の西側に当たり、現在は旧内山下小学校の敷地一帯に位置します。
この一郭にも櫓や城門が存在していましたが、明治になって西手櫓と一部の土塀を残して取り壊されてしまいました。
西手櫓は、池田忠継が幼少のため兄の姫路城主池田利隆が統治を代行していた慶長8(1603)年頃に建築されたといわれています。
寛文12(1672)年には池田光政が西丸を隠居所にしたため、「池田光政公御居邸址」の石碑が建っています。
残念なのが北西側にビルが建っているため、破風がある櫓の外側の姿を見ることができないことです。
岡山城西丸西手櫓 - 1
岡山城西丸西手櫓 - 1 posted by (C)pismo

岡山城西丸西手櫓 - 2
岡山城西丸西手櫓 - 2 posted by (C)pismo

岡山城西丸西手櫓 - 3
岡山城西丸西手櫓 - 3 posted by (C)pismo

二十日堀は、小早川秀秋が築いた堀です。
関ヶ原の戦いの後、宇喜多秀家に代わって小早川秀秋が岡山城主とりました。
秀秋は岡山城を拡張するため従来の外堀の外側に新しい外堀を築きました。この大工事には領内一円から多くの人々を動員し、わずか20日間で完成させたため、「二十日堀」と呼ばれるようになったと伝えられています。この事業で岡山城は2.5倍に広がりました。
明治になって両側を埋め立て、中央を水路にして両岸に柳並木を作ったため、「柳川筋」という愛称で呼ばれました。現在、水路は埋め立てられ、岡山市のメインストリートの一つとなっています。
平成21(2009)年の大河ドラマ「天地人」の第40回「上杉転落」の天地人紀行「小早川秀秋の素顔(岡山県岡山市)」で紹介されていました。
岡山中央郵便局前に石碑が建っています。
二十日堀跡 - 1
二十日堀跡 - 1 posted by (C)pismo

二十日堀跡 - 2
二十日堀跡 - 2 posted by (C)pismo

二十日堀跡 - 3
二十日堀跡 - 3 posted by (C)pismo

夕方の岡山城です。
夕方の岡山城 - 1
夕方の岡山城 - 1 posted by (C)pismo

しばらくすると、あっという間に暗くなってしまいましたので、もう一度岡山城のライトアップを見に行きました。
岡山城ライトアップ - 1
岡山城ライトアップ - 1 posted by (C)pismo

岡山城ライトアップ - 2
岡山城ライトアップ - 2 posted by (C)pismo

岡山城ライトアップ - 3
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岡山城ライトアップ - 4
岡山城ライトアップ - 4 posted by (C)pismo

岡山城ライトアップ - 5
岡山城ライトアップ - 5 posted by (C)pismo

岡山城ライトアップ - 6
岡山城ライトアップ - 6 posted by (C)pismo

これで今回のドライブの備前国紀行は終了です。
Posted at 2009/11/08 21:46:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年10月31日 イイね!

備前国紀行その3・後楽園

次は定番、後楽園です。
後楽園は、貞享4(1687年)年岡山藩主池田綱政公により着工し、元禄13(1700)年に完成しました。
江戸時代は延養亭を茶屋屋敷、園を後園と呼んでいましたが、「先憂後楽」の精神に基づいて造られているところから、明治4(1881)年に後楽園と改めました。
昭和20(1945)年太平洋戦争の空襲により、岡山城とともにすべての建物を焼失したが、昭和35(1960)年に延養亭が再建され、更に昭和42(1967)年には園内の全ての建物が復元されました。


後楽園 - 01
後楽園 - 01 posted by (C)pismo

後楽園 - 02
後楽園 - 02 posted by (C)pismo

後楽園 - 03
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後楽園 - 04
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後楽園 - 05
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後楽園 - 06
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後楽園 - 07
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後楽園 - 08
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後楽園 - 09
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後楽園 - 10
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後楽園 - 11
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後楽園 - 12
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Posted at 2009/11/08 11:34:12 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年10月31日 イイね!

備前国紀行その2・林原美術館と岡山城

岡山の市内をのんびり回ってみます。
林原美術館は、岡山の実業家であり、東洋古美術の熱心な収集家でもあった故林原一郎氏のコレクションによって生まれた美術館です。
岡山城天守閣を東に望む、旧二の丸屋敷対面所跡に位置しています。林原氏は、自らの収集品による美術館の建設を夢みましたが、志なかばで逝去、その遺志をついだ遺族・知友によって昭和39(1964)年10月に開館しました。
財団設立当初は林原美術館といっていましたが、開館当初は岡山美術館という名称になり、昭和61(1986)年に再び林原美術館に改称されました。
岡山藩池田家の旧蔵品を中心とする古美術品などを収蔵、展示しています。表にある長屋門は、岡山藩支藩の生坂藩の岡山屋敷の長屋門が移築され遺されています。
「特別展 三井記念美術館茶の湯の名品」が開催されていて、千利休、豊臣秀吉、古田織部、織田有楽の茶道具を見ることができました。
茶道具の善し悪しがわかるほどの素養はありませんが、「国宝志野茶碗卯花墻」は見事な茶碗でした。
林原美術館 - 1
林原美術館 - 1 posted by (C)pismo

林原美術館 - 2
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林原美術館 - 3
林原美術館 - 3 posted by (C)pismo

岡山城は、宇喜多氏、小早川氏、池田氏の居城として知られています。
元亀元(1570)年、宇喜多直家は石山に城を構えていた金光宗高に、備中への内応の疑いありとして切腹を命じ、その城を接収し沼城から本拠を移しました。
慶長2(1597)年、本丸を現在の場所に移し、宇喜多秀家によって築城され、「金烏城」とも呼ばれる黒い下見張りの外観を持つ天守閣を築きました。
宇喜多秀家は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに西軍の主力として出陣し、奮戦しましたが敗北し八丈島へ流されました。
その後小早川秀秋が入城しましたが2年余りで急死し、改易となりました。
そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入城しました。忠継の死後は弟の忠雄が継ぎましたが、その子光仲の代で鳥取城に移封されました。
忠継、忠雄は池田輝政と徳川家康の娘督姫との間に生まれた子です。
光仲と入れ替わる形で池田光政が乳封しました。光政の系統は輝政と先妻(中川氏)との間の子、利隆の系統です。
以後光政の系統の池田氏が幕末まで続き、明治維新にを迎えました。
戦前には国宝であった天守閣は昭和20(1945)年6月29日のアメリカ軍の岡山空襲で焼失し、現在のそれは、昭和41(1966)年に再建された鉄筋コンクリート造りのものです。
岡山城 - 1
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岡山城 - 2
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岡山城 - 3
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岡山城 - 4
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岡山城 - 5
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岡山城 - 6
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岡山城 - 7
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岡山城 - 8
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岡山城 - 9
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岡山城 - 10
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岡山城 - 11
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岡山城 - 12
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Posted at 2009/11/08 10:12:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年10月31日 イイね!

備前国紀行その1・宇喜多家の城めぐり

この日は岡山県を訪れました。
午前中は宇喜多氏ゆかりの城を巡り、昼からは岡山城周辺をゆっくりと回る予定です。

富田松山城は、文明年間に浦上則宗により築城したといわれ、浦上氏の庶流の浦上国秀が居城としました。
浦上氏の当主浦上村宗が死ぬと、長男浦上村宗は播磨室津城、次男浦上宗景は天神山城に居を構え、対立しました。
当初国秀は政宗に従っていましたが、後に宗景に従いました。
その後、富田松山城は浦上景行が居城としましたが、天正3(1575)年、宇喜多直家に攻められ浦上宗景は天神山城から落ち、その際に富田松山城も落城しました。
その後、城は廃城になったとも、宇喜多直家の支城として使用されたとも、関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋の家臣林長吉が「片上城」として使用したともいわれています。
備前片上駅から南側へ真っ直ぐ進むとのグラウンドがあり、その側に登城口があります。
登山道はきついですが、よく整備されており、主郭部付近からの瀬戸内海の眺望は素晴らしいものがあります。
富田松山城 - 01
富田松山城 - 01 posted by (C)pismo

富田松山城 - 02
富田松山城 - 02 posted by (C)pismo

富田松山城 - 03
富田松山城 - 03 posted by (C)pismo

富田松山城 - 04
富田松山城 - 04 posted by (C)pismo

富田松山城 - 05
富田松山城 - 05 posted by (C)pismo

富田松山城 - 06
富田松山城 - 06 posted by (C)pismo

富田松山城 - 07
富田松山城 - 07 posted by (C)pismo

富田松山城 - 08
富田松山城 - 08 posted by (C)pismo

富田松山城 - 09
富田松山城 - 09 posted by (C)pismo

富田松山城 - 10
富田松山城 - 10 posted by (C)pismo

富田松山城 - 11
富田松山城 - 11 posted by (C)pismo

富田茶臼山城は、富田松山城の出城として築かれたそうです。
築城時期など詳細は不明です。
茶臼山公園入口に石碑が建っています。地形的に曲輪の跡とおもわれる形を利用して公園にしているようです。
富田茶臼山城 - 1
富田茶臼山城 - 1 posted by (C)pismo

富田茶臼山城 - 2
富田茶臼山城 - 2 posted by (C)pismo

富田茶臼山城 - 3
富田茶臼山城 - 3 posted by (C)pismo

富田茶臼山城 - 4
富田茶臼山城 - 4 posted by (C)pismo

富田茶臼山城 - 5
富田茶臼山城 - 5 posted by (C)pismo

亀山城は、沼城ともいい、宇喜多直家が岡山城築城以前に居城とした城です。
城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから亀山城と名付けられました。
浮田小学校の所在地に西の丸、楢部に出丸がありました。
戦国時代の天文年間に浦上氏の家臣中山備中守信正によって築城されました。
中山信正は宇喜多直家の舅でしたが、永禄2(1559)年、浦上宗景の命により直家は信正を謀殺しました。
直家は浦上宗景より亀山城を与えられ新庄山城より移り、天正元(1573)年岡山城に移るまで14年間居城としました。慶長6(1602)年春、宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城となり、亀山城の中心櫓(天主)は岡山城表書院の段の大納戸櫓に城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築されました。
本丸後には宇喜多家の軍旗、石碑が建っています。
亀山城跡の碑の隣には「直家飛躍の地」の石碑と丸石に刻まれた「秀家生誕地」の碑があります。
亀山城(沼城) - 01
亀山城(沼城) - 01 posted by (C)pismo

亀山城(沼城) - 02
亀山城(沼城) - 02 posted by (C)pismo

亀山城(沼城) - 03
亀山城(沼城) - 03 posted by (C)pismo

新庄山城は、築城年代は不明ですが、亀山城主中山備中守の臣、新庄助之進の居城と伝えているので、16世紀前半と推定されています。
天文18(1549)年春、乙子城主宇喜多直家は、砥石城主浮田大和(浮田国定)が主君浦上宗景に背いたとし、宗景の軍勢と協力し砥石城を攻め、大和を敗死させました。
このときの恩賞として宗景から新庄山城が与えられ、乙子城から移りました。
永禄2(1559)年、亀山城主中山備中守と砥石城主島村豊後守(島村盛実、島村観阿弥)とが、主君宗景に対し謀反の噂があったため、宗景は直家に命じてこれを誘殺させました。
この功により直家は亀山城を賜り、新庄山城から移りました。
新庄山城は家臣に守らせていたが、直家が岡山城主となったとき、この城は役目を終え廃城となりました。
岡山県立青少年農林文化センター「三徳園」の西側もしくは、上道公民館そばのゴルフ練習場の側から登城口があります。
新庄山城 - 1
新庄山城 - 1 posted by (C)pismo

新庄山城 - 2
新庄山城 - 2 posted by (C)pismo

新庄山城 - 3
新庄山城 - 3 posted by (C)pismo

新庄山城 - 4
新庄山城 - 4 posted by (C)pismo

砥石城は、戦国時代の宇喜多氏ゆかりの山城です。
大永年間(1521~1528)浦上村宗の家臣宇喜多和泉守能家が築城したといわれています。
天文3(1534)年6月、高取山城主島村豊後守((島村盛実、島村観阿弥)の夜討ちによって城主能家は自害し落城しました。
主君浦上宗景はこの城を島村氏には与えず、宇喜多能家の異母弟浮田大和守(浮田国定)に与えました。
天文16(1547)年乙子城主となった能家の孫宇喜多直家は、主君宗景の軍勢と合して、備中三村氏に内通した砥石城主浮田大和守を攻め落とし、城主に舎弟の宇喜多春家を任じました。その後、直家が岡山城を居城とした際、春家は、直家の居城であった亀山城(沼城)の城主となり、部将に砥石城を守らせました。
「三徳園」の西側からの登城ルートの方がなだらかですが、距離が長いです。ゴルフ練習場の側の登城口には石碑があります。
砥石城 - 1
砥石城 - 1 posted by (C)pismo

砥石城 - 2
砥石城 - 2 posted by (C)pismo

砥石城 - 3
砥石城 - 3 posted by (C)pismo

砥石城 - 4
砥石城 - 4 posted by (C)pismo
乙子城(おとごじょう)は、宇喜多直家が、天文13(1544)年に乙子山に築いた城です。城直家最初の居城で、「国盗り」はじまりの地といえます。
宇喜多直家は天文12(1543)年、浦上宗景の家臣となり、赤松晴政の軍と播磨で戦い殊勲をたて、この戦功と祖父能家の旧功によって、足軽30人と300貫の領地を与えられ乙子城主となりました。
直家はここに5年間在城し、この地の治安維持と戦功を挙げました。その恩賞にの新庄山城を与えられ、天文18(1549)年に移転しました。
その後、乙子城は持城として、弟の宇喜多忠家を城主に置いていましたが、宇喜多直家が永禄2(1559)年に亀山城に移り、次第に存在価値が薄らぎ廃城となったと思われます。
乙子城 - 1
乙子城 - 1 posted by (C)pismo

乙子城 - 2
乙子城 - 2 posted by (C)pismo

乙子城 - 3
乙子城 - 3 posted by (C)pismo

西大寺は山号は金陵山、真言宗の寺院です。
天平勝宝3(751)年周防国玖珂庄に住む藤原皆足(ふじわらのみなたる)姫が千手観音を安置したのがはじまりとされ、宝亀8(777)年、安隆上人が堂宇を建立したとされています。
このとき寺号を犀戴寺(さいだいじ)と称していましたが、後年には後鳥羽上皇の祈願文から賜り西大寺と改称しました。
日本三大奇祭祭の一つとたたえられる会陽(裸祭り)でも知られています。
西大寺 - 01
西大寺 - 01 posted by (C)pismo

西大寺 - 02
西大寺 - 02 posted by (C)pismo

西大寺 - 03
西大寺 - 03 posted by (C)pismo

西大寺 - 04
西大寺 - 04 posted by (C)pismo

西大寺 - 05
西大寺 - 05 posted by (C)pismo
Posted at 2009/11/04 22:17:58 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2009年10月17日 イイね!

妙心寺東林院「梵燈(ぼんとう)のあかりに親しむ会」

青蓮院の後は、「梵燈(ぼんとう)のあかりに親しむ会」が開催されている妙心寺の東林院を訪れました。
今年は妙心寺の初代住職、無相大師の没後650年に当たるため、ろうそくで「650」の文字と「無」と「相」の文字を形作っていました。
東林院は享禄4(1531)年に細川氏綱が建立した三友院を起源とし、弘治2(1556)年に山名豊国が妙心寺山内に再建しました。以来山名家の菩提寺となっています。本堂前庭は、十数本の沙羅双樹からなる「沙羅林」として知られています。
妙心寺東林院 - 01
妙心寺東林院 - 01 posted by (C)pismo

妙心寺東林院 - 02
妙心寺東林院 - 02 posted by (C)pismo

妙心寺東林院 - 03
妙心寺東林院 - 03 posted by (C)pismo

妙心寺東林院 - 04
妙心寺東林院 - 04 posted by (C)pismo

妙心寺東林院 - 05
妙心寺東林院 - 05 posted by (C)pismo

妙心寺東林院 - 06
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妙心寺東林院 - 07
妙心寺東林院 - 07 posted by (C)pismo

妙心寺東林院 - 08
妙心寺東林院 - 08 posted by (C)pismo

妙心寺東林院 - 09
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妙心寺東林院 - 10
妙心寺東林院 - 10 posted by (C)pismo
Posted at 2009/10/25 20:06:55 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記

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