• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2011年10月09日 イイね!

伊予・土佐紀行(2日目その3・四国カルスト)

四国カルストは、山口県の秋芳台、福岡県の平尾台と並ぶ日本三大カルストの一つです。
高知県高岡郡津野町(旧東津野村)、檮原町、愛媛県上浮穴郡久万高原町〔旧柳谷村〕にまたがっています。
東端から天狗高原、五段高原、姫鶴平、大野ヶ原と雄大なカルスト台地です。
牛が放牧されているのを見ることができます。
また、近年風力発電の風車も設置されています。
四国カルスト・天狗高原 - 01
四国カルスト・天狗高原 - 01 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 02
四国カルスト・天狗高原 - 02 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 03
四国カルスト・天狗高原 - 03 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 04
四国カルスト・天狗高原 - 04 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 05
四国カルスト・天狗高原 - 05 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 06
四国カルスト・天狗高原 - 06 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 07
四国カルスト・天狗高原 - 07 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 08
四国カルスト・天狗高原 - 08 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 09
四国カルスト・天狗高原 - 09 posted by (C)pismo

四国カルスト・天狗高原 - 10
四国カルスト・天狗高原 - 10 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 01
四国カルスト・五段高原 - 01 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 02
四国カルスト・五段高原 - 02 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 03
四国カルスト・五段高原 - 03 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 04
四国カルスト・五段高原 - 04 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 05
四国カルスト・五段高原 - 05 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 06
四国カルスト・五段高原 - 06 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 07
四国カルスト・五段高原 - 07 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 08
四国カルスト・五段高原 - 08 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 09
四国カルスト・五段高原 - 09 posted by (C)pismo

四国カルスト・五段高原 - 10
四国カルスト・五段高原 - 10 posted by (C)pismo

この後、最後に韮ヶ峠を訪れてみました。
韮ヶ峠は、高知県檮原町井高と愛媛県西予市野村町小松の間にある県道379号・韮ヶ峠文丸線の峠です。
文久2(1862)年3月24日、土佐郷士坂本龍馬は、沢村惣之丞と梼原村の那須俊平信吾父子の家に泊まり、翌26日那須父子の道案内で宮野々関を破り、韮ヶ峠を越えて伊予国へ出ました。
途中、泉ヶ峠、長浜村に泊まり28日船出して29日三田尻に着き4月1日、目的地の下関白石正一郎方に着きました。
韮ヶ峠から和ヶ峠を越える宿場までの街道は、文化庁選定の「歴史の道100選」の一つとなっています。
現地には石碑などが建っています。
(説明看板などより)
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 01
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 01 posted by (C)pismo

韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 02
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 02 posted by (C)pismo

韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 03
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 03 posted by (C)pismo

韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 04
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 04 posted by (C)pismo

韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 05
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 05 posted by (C)pismo

韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 06
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 06 posted by (C)pismo

韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 07
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 07 posted by (C)pismo

韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 08
韮ヶ峠・坂本龍馬脱藩の地 - 08 posted by (C)pismo

この日はもう一泊檮原町に宿泊します。
Posted at 2011/11/10 22:25:47 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年10月09日 イイね!

伊予・土佐紀行(2日目その2・津野町の史跡)

次は津野町です。

高野の舞台は、明治6(1873)年8月に建築されたもので、舞台裏でのハンドル操作により、舞台を廻転させる当時としては進んだカラクリの「鍋蓋上廻し式舞台」です。
前橋工業短大の松崎茂博士の調査発表「農村舞台考」の中に「高野の舞台はその機構で日本唯一の残存する鍋蓋上廻し式の農村舞台で、発展過程の歴史的資料であり、学術的にも非常に貴重なものである。」と述べられています。その昔より、この地方で民衆娯楽として農村歌舞伎が盛んであったことは、名所に残る農村舞台や、旧家に残る浄瑠璃本等によって推察されています。中でも、当高野地区は最も盛んであったようで、山本家には、天誅組で活躍した前田繁馬先生愛蔵の「伊賀越道中記」等数多くの浄瑠璃本が保存されています。言い伝えによると、この舞台建築前にも廻り舞台があったとのことであり、藩政中期頃既に同種の舞台が建築されていたことも考えられます。
昭和52(1977)年6月14日、国指定重要有形民俗文化財となっています。
(説明看板などより)
高野の舞台 - 1
高野の舞台 - 1 posted by (C)pismo


中平善之進銅像です。
中平善之進は、名は穏敦(やすあつ)、幼名を鴨之助といいます。
享保8(1723)年6月、15歳にして北川大庄屋代勤を聞き届けられました。元文3(1738)年郡方の勧めで檮原村大庄屋中平弥左衛門の養子となりました。藩においては財政立て直しのため宝暦2(1752)年国産方役所を置き、国産品を指定し問屋を定めてその利益を吸収する制度をとりました。
津野山方面の御用商人は蔵屋利左衛門で、彼はその専売権を利用して買いたたいたので農民は窮乏してきました。善之進はその数度津野山九ヶ村の庄屋を召集して協議し藩庁に対策を訴えました。
藩はこれを握りつぶして何らの対策を立てないのみか、その願いを不当として弾圧をさえ加えかねない有様で、農民等は怒って「蔵屋を殺そう」と騒ぎ始めました。
善之進はそれを押し鎮め、自ら藩庁に出頭しこの窮状を訴えようとしましたが、芳生野村庄屋が藩庁に密告したので、足軽一隊が派遣され主立った者を召し捕り入牢せしめました。時に宝暦5(1755)年、これを津野山騒動と呼んでいます。蔵屋は自ら命を絶ちました。
善之進は牢獄にあって蔵屋の非を叫び続けましたが、蔵屋の死にあい黒白をつけるすべを失い、宝暦7(1757)年7月26日神在居(かんざいこ)において打首の刑に処せられました。善之進は時に49歳でした。
この時突如暴風雨になり荒れに荒れましたので、これを世に「善之進時化(しけ)」と呼んで善之進の怨霊のなせる業として恐れられました。
その後藩庁では国産方を廃止する処置をとりましたが、それ以上に彼の義に倒れた精神は郷土に生きて明治維新の志士を輩出し、回天の事業を成し遂げました。
津野山郷も明治19(1886)年、大暴風雨があり善之進のたたりであるといわれ明治20(1887)年東津野村高野に風神鎮塚を建て善之進の霊を祀りました。
更に昭和60(1985)年風神鎮塚のかたわらに、高さ約3mの善之進の銅像が建立されました。台座部には「義庄中平善之進」と刻まれています。
(説明看板などより)
中平善之進の銅像 - 1
中平善之進の銅像 - 1 posted by (C)pismo

吉村虎太郎銅像です。
吉村虎太郎はは天保8(1837)年4月18日芳生野村(津野町芳生野)の庄屋吉村太平の長男として生まれました。
わずか11才で北川村(津野町北川)庄屋となり、その後須崎浦(須崎市須崎町)庄屋、下分村(須崎市下分)庄屋を経て、安政6(1859)年梼原村(現在梼原町梼原)庄屋となり各地で治績をあげました。
文久元(1861)年に武市瑞山とともに土佐勤王党を結成、その後寺田屋の変にあい舟牢で高知に送りかえされ12月まで獄窓で過ごしました。
文久3(1863)年2月再び上京、天誅組を組織し、天皇の大和行幸に先がけて五条代官所を襲撃しました。その時朝議が一変し大和行幸はとりやめになりましたが高取城の焼討をはかりました。この時不運にも味方の弾丸にあたり負傷し、戦は惨敗に終わりました。
その後十津川に転戦しましたが時に利あらず9月27日鷲家谷(現在奈良県東吉野村鷲家谷)石の本に金谷健吉一隊の銃弾のもとに
「吉野山 風に乱るるもみぢ葉は 我が打つ太刀の 血煙とみよ」
の辞世を残し27歳で亡くなりました。
明治百年記念事業として村内外の有志の寄付により昭和43(1968)年12月22日銅像が完成しました。
像の後ろには虎太郎の父母の墓地があり、宮地宜蔵、山岡謄治、松山深蔵、吉村虎太郎の4本の碑が建っています。
(説明看板などより)
吉村虎太郎銅像 - 01
吉村虎太郎銅像 - 01 posted by (C)pismo

吉村虎太郎銅像 - 02
吉村虎太郎銅像 - 02 posted by (C)pismo

吉村虎太郎銅像 - 03
吉村虎太郎銅像 - 03 posted by (C)pismo

吉村虎太郎銅像 - 04
吉村虎太郎銅像 - 04 posted by (C)pismo

吉村虎太郎銅像 - 05
吉村虎太郎銅像 - 05 posted by (C)pismo

吉村虎太郎銅像 - 06
吉村虎太郎銅像 - 06 posted by (C)pismo

吉村虎太郎銅像 - 07
吉村虎太郎銅像 - 07 posted by (C)pismo

次は四国カルストへ向かいます。
Posted at 2011/11/09 22:26:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年10月09日 イイね!

伊予・土佐紀行(2日目その1・檮原町の史跡)

この日は、檮原町と津野町の史跡を巡ります。
まずは檮原町です。

三嶋神社〔東川〕です。三嶋神社は、永禄の戦国争乱に伊予の大軍が国境を侵して来たとき、伊予三嶋大明神に祈願し、勝利を得たときに勧請したもので、土佐7社の一社と伝えられています。
永禄12(1569)年宮の成川ぞいに建立しましたが、寛文6(1666)年、洪水のために社地が流失して現在地に奉遷しました。
明治40(1907)年、無名社4社を合祀しました。
三嶋神社(東区) - 1
三嶋神社(東区) - 1 posted by (C)pismo

三嶋神社(東区) - 2
三嶋神社(東区) - 2 posted by (C)pismo

和田城は、檮原町の中心部にある城跡です。
詳細は不明のようです。
現在は、川西路地区構造改善センターが建っています。2階には維新の茶屋 和田城があります。
和田城
和田城 posted by (C)pismo

和田城の敷地内には「維新の門」もあります。
近代日本の魁となった土佐勤王党の志士の偉業は、筆舌に尽くし難く、誠に偉大なものであります。
維新の里といわれる檮原からも、吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉の六志士を輩出し ました。
又、文久2(1862)年春維新回転の立役者である坂本龍馬も風雲急を告げる中、盟友澤村惣之丞と共に当地の那須邸に投宿し、酒を酌み交わしながら時局を談じた後、那須俊平、信吾父子の案内で韮ヶ峠を経て土佐を脱藩し、維新回転の奔流に身を投じました。
これに前後して、土佐勤王党の数多くの志士たちも、宮野々関門を経て九十九曲峠を越え、激しい時代のうねりの中に次々と散華してゆきました。
その功績と英姿を永遠に伝えるため、平成4(1992)年8月3日、維新の門群像建立委員会を組織し、日本最後の四万十川源流、梼原川の高台であり、志士の足跡が残る地だるこの和田城址と定め、募金活動を進めた結果、浜田浩造先生の製作により八志士の群像を建て「維新の門」と名づけました。平成7(1995)年11月11日、待望の除幕を迎えました。(説明看板などより)
維新の門 - 01
維新の門 - 01 posted by (C)pismo

維新の門 - 02
維新の門 - 02 posted by (C)pismo

維新の門 - 03
維新の門 - 03 posted by (C)pismo
檮原町立歴史民俗資料館です。
檮原は延喜13(913)年、津野経高が入国し津野庄を築いてから神楽などの信仰文化を育んできました。
昭和52(1977)年に建設された変五角形の本館と、明治24(1891)年に建設された旧梼原村庁舎が保存されており別館として使用しています。
館内には農耕用具や生活用具などが展示されています。
また、幕末の志士たちを輩出したこともあり、関連資料等の展示がされています。
平成23(2011)年3月5日~平成24(2012)年3月31日まで「志国高知龍馬ふるさと博ゆすはら会場」が開催されています。
梼原町立歴史民俗資料館 - 1
梼原町立歴史民俗資料館 - 1 posted by (C)pismo

梼原町立歴史民俗資料館 - 2
梼原町立歴史民俗資料館 - 2 posted by (C)pismo

梼原町立歴史民俗資料館 - 3
梼原町立歴史民俗資料館 - 3 posted by (C)pismo

ゆすはら座は、昭和23(1948)年に梼原町の町組によって北町に建設された建物です。
維持運営上の問題により、町組において取り壊しの決議がされましたが、平成6(1994)年町保護有形文化財に指定され、平成7(1995)年9月に東町に移転復元されました。
高知県唯一の木造芝居小屋です。
ゆすはら座 - 1
ゆすはら座 - 1 posted by (C)pismo

ゆすはら座 - 2
ゆすはら座 - 2 posted by (C)pismo

現在旧掛橋和泉邸がある地は、藩政時代に津野三郷の大庄屋が置かれた地で、古く宝暦年間には百姓一揆の総大将である中平善之進も大庄屋としてこの地に住し、また明治維新の志士・吉村虎太郎も安政6(1859)年より番人大庄屋を勤めていました。明治以降は西津野村役場、孝山塾青年学校、民具資料館敷地として利用されていました。
現在は明治維新の志士、旧掛橋和泉邸が移築されています。
茅屋根の母屋は幕末の建築で梁行4間半(約8.18m)桁行9間(約16.36m)、大黒柱は1尺2寸7分(約38.5cm)と1尺2寸(約36.4cm)角、間取りは神殿前客間10畳、玄関の間6畳、中の間、奥の間角8畳、茶の間10畳(現在は6畳、4畳半に分割)の6部屋からなり、奥の間は天井が低く危難の際を考慮して階上に「姫隠しの間」がある。幕末には遠近の同志がよく立ち寄り時局を談じたと伝えられています。
掛橋和泉吉長は、通称を順次といい、掛橋家の養子となり神職をつとめました。那須俊平の門人となって剣と読書を学び、勤王の志あつく、文久2年(1862)尊皇攘夷の声高まり同志は次々と脱藩して国事に尽くしましたが、掛橋家は裕福であったので志士たちの資金援助を行いました。
義母はこれを知りきつく叱責し、和泉は事実を語ると同志の秘密を知らせることになり、それかといって義母をあざむくことはできないため、苦悶の末死を決し、同志玉川壮吉を訪ね意中を語り死後を託しました。玉川は酒を飲み慰め脱藩をすすめましたが和泉はその夜、玉川の家を忍び出て先祖の墓地に行き銃をあて自殺しました。文久2(1862)年6月2日、27歳の若さでした。
(説明看板などより)
旧掛橋和泉邸 - 01
旧掛橋和泉邸 - 01 posted by (C)pismo

旧掛橋和泉邸 - 02
旧掛橋和泉邸 - 02 posted by (C)pismo

旧掛橋和泉邸 - 03
旧掛橋和泉邸 - 03 posted by (C)pismo

旧掛橋和泉邸 - 04
旧掛橋和泉邸 - 04 posted by (C)pismo

旧掛橋和泉邸 - 05
旧掛橋和泉邸 - 05 posted by (C)pismo

旧掛橋和泉邸 - 06
旧掛橋和泉邸 - 06 posted by (C)pismo

旧掛橋和泉邸 - 07
旧掛橋和泉邸 - 07 posted by (C)pismo

旧掛橋和泉邸 - 08
旧掛橋和泉邸 - 08 posted by (C)pismo

六志士の墓です。
明治維新の先駆けとなり、その命を賭して国事に殉じた檮原ゆかりの六志士の分霊が祀られています。
天誅組で活躍した吉村虎太郎、那須信吾の養父で禁門の変で戦死した那須俊平重任、土佐藩執政の吉田東洋を暗殺し天誅組に参加した那須信吾重民、天誅組に参加した前田繁馬、禁門の変で鷹司邸内で自刃した中平龍之助定確、義母と同志の狭間で苦悶し自殺した掛橋和泉吉長の6人の檮原ゆかりの志士です。昭和10(1935)年檮原村が建立しました。
梼原町指定文化財ともなっています。
(説明看板などより)
六志士の墓 - 1
六志士の墓 - 1 posted by (C)pismo

六志士の墓 - 2
六志士の墓 - 2 posted by (C)pismo

茶堂は藩政時代からあり、現在檮原町内に13棟保存されています。
建物は、2間(3.6m)1間半(約2.72m)位の木造平屋建、茅葺き屋根、板敷きの素朴な形式です。
木像、石像等を安置して諸仏を祀り津野氏の霊を慰め、行路の人々に茶菓の接待を地区民が輪番で行い、信仰と心情と社交の場として麗しい役割を果たしてきました。
(説明看板などより)
茶堂(東区) - 1
茶堂(東区) - 1 posted by (C)pismo

茶堂(東区) - 2
茶堂(東区) - 2 posted by (C)pismo

茶堂(東区) - 3
茶堂(東区) - 3 posted by (C)pismo

茶堂(東区) - 4
茶堂(東区) - 4 posted by (C)pismo

雲の上のホテル別館 マルシェ・ユスハラ(まちの駅ゆすはら)は地域物産展示場と滞在宿泊施設を兼ね備えた木造(一部RC)3階建の施設です。1階は、梼原町の特産品や地元野菜、加工品が並ぶ「まちの駅ゆすはら」、2階・3階は、「雲の上のホテル別館 マルシェ・ユスハラ」となっています。
太陽光発電や冬場のベレットストーブの設置、電気自動車の充電施設など環境に配慮した施設です。内外装には町内産の木材を多用しています。
まちの駅ゆすはら
まちの駅ゆすはら posted by (C)pismo

三嶋神社です。
津野山郷の開祖・津野経高は、梼の木の多いこの地を梼原と名付け、延喜19(919)年、竹の薮より移り居城を築き梼原宮首に伊豆より三嶋大明神を勧請したといわれています。
また藤原純友の乱の時、伊予(愛媛県)河野氏に協力して純友征伐に向い、伊予三嶋大明神に詣で純友の乱平定後帰国したとき伊予三嶋大明神も勧請して祀ったと伝えられています。
慶応4(1868)年3月三嶋大明神を三嶋神社と改称し、明治40(1907)年、明治44(1911)年に梼原地区無格社21社が合祀されました。
現在の本殿は享和3(1803)年、拝殿は明治23(1890)年に再建されたものです。
拝殿の彫刻は山口県の大工・中本喜作の作です。
境内には津野家代々を祀る「津野神社」「朝鮮松(ハリモミ)」桂月大町芳衛書の「鎮座千年碑」、木で作られた「神馬」もあります。
ハリモミは、樹高約30m、周囲3.7mで通称、朝鮮松ともいわれ豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、文禄元(1592)年津野親忠と中平左京亮光嘉は、長宗我部軍に従い従軍し、帰還の際に持ち帰って植えたものと伝えられています。
また、三嶋神社の参道に架かる、木製の屋根付き橋は神幸橋(みゆきばし)といい、屋根付きの木製の橋で、町内産の木材を使用しているのが特徴です。平成14(2002)年の再建です。
(説明看板などより)
三嶋神社 - 01
三嶋神社 - 01 posted by (C)pismo

三嶋神社 - 02
三嶋神社 - 02 posted by (C)pismo

三嶋神社 - 03
三嶋神社 - 03 posted by (C)pismo

三嶋神社 - 04
三嶋神社 - 04 posted by (C)pismo

三嶋神社 - 05
三嶋神社 - 05 posted by (C)pismo

三嶋神社 - 06
三嶋神社 - 06 posted by (C)pismo

三嶋神社 - 07
三嶋神社 - 07 posted by (C)pismo

神在居(かんざいこ)の千枚田は「耕して天に至る」という言葉がぴったりの棚田です。
天正16(1588)年には90aの田でしたが、昭和47(1972)年当時501枚あり、面積は約2.3ha、1枚平均46㎡になります。
現在は国道197号敷地となったり、耕地整理されたりしています。
文豪司馬遼太郎先生が「農業が築き上げた日本のピラミッド、中国の万里の長城に匹敵する」と驚いた逸話もあります。
平成4(1992)年から全国にさきがけ「千枚田オーナー制度」を開始し、四万十川の名前にちなみ100㎡で田んぼのオーナーになれるという都市農山村交流のモデルも生み出しました。
神在居の千枚田 - 1
神在居の千枚田 - 1 posted by (C)pismo

神在居の千枚田 - 2
神在居の千枚田 - 2 posted by (C)pismo

神在居の千枚田 - 3
神在居の千枚田 - 3 posted by (C)pismo

次は津野町へ向かいます。
Posted at 2011/11/09 22:21:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年10月05日 イイね!

伊予・土佐紀行(1日目 内子・大洲)

この日から2泊3日で伊予から土佐を巡ります。

まずは、古い町並みが残る内子です。

りんすけは、創業から110年の伝統の味で知られる料亭魚林(うおりん)店舗内にある居酒屋です。
郷土料理の鯛めしを楽しめます。ここの鯛めしは、ご飯に鯛の刺身がのっていて、生卵とだしを混ぜていただきます。
内子・りんすけ - 1
内子・りんすけ - 1 posted by (C)pismo

内子・りんすけ - 2
内子・りんすけ - 2 posted by (C)pismo

内子・りんすけ - 3
内子・りんすけ - 3 posted by (C)pismo

内子・りんすけ - 4
内子・りんすけ - 4 posted by (C)pismo

内子座は、明治末から大正にかけて木蝋や生糸等の生産で経済的にゆとりのある時代に、芸術、芸能を愛してやまない人々の熱意で生まれた木造の劇場です。
大正5(1916)年2月に大正天皇即位を祝い創建されました。
木造2階建て瓦葺き入母屋造りの建物です。戦後は映画館、ホールとして活用後、老朽化のために取り壊されるところ、町民の熱意で復元されました。
昭和60(1985)年10月、劇場として再出発しました。
内子座 - 01
内子座 - 01 posted by (C)pismo

内子座 - 02
内子座 - 02 posted by (C)pismo

内子座 - 03
内子座 - 03 posted by (C)pismo

内子座 - 04
内子座 - 04 posted by (C)pismo

内子座 - 05
内子座 - 05 posted by (C)pismo

内子座 - 06
内子座 - 06 posted by (C)pismo

内子座 - 07
内子座 - 07 posted by (C)pismo

商いと暮らし博物館は、江戸時代後期から明治時代の商家をそのまま利用し、大正10(1921)年頃の商家(薬屋)の商いと暮らしを人形と当時の道具類を使って再現しています。
旧内子町の歴史や民俗、郷土の生んだ人物について、模型などを用いて紹介しています。
商いと暮らしの博物館(内子町歴史民俗資料館)  - 01
商いと暮らしの博物館(内子町歴史民俗資料館) - 01 posted by (C)pismo

商いと暮らしの博物館(内子町歴史民俗資料館)  - 02
商いと暮らしの博物館(内子町歴史民俗資料館) - 02 posted by (C)pismo

商いと暮らしの博物館(内子町歴史民俗資料館)  - 03
商いと暮らしの博物館(内子町歴史民俗資料館) - 03 posted by (C)pismo

商いと暮らしの博物館(内子町歴史民俗資料館)  - 04
商いと暮らしの博物館(内子町歴史民俗資料館) - 04 posted by (C)pismo


内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区です。
内子は、江戸時代の中期から、在郷町として栄えた町です。かつての市街地は、願成寺を中心にした廿日市村、現在の商店街を核にした六日市村、八日市村、小田川の対岸の知清村の4つから成り立っていました。
肱川支流に点在する集落で生産される和紙は、六日市、八日市の商家を経て阪神へ出荷され、大洲藩の財政の一端を担っていました。
江戸時代の末期から明治時代には、ハゼの実から搾出した木蝋を良質の晒蝋に精製し、広く海外にまで輸出するなど、大きい地場産業として多いに繁栄したところです。
八日市・護国の伝統的な町並みは、かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交ったところで、蝋商芳我家を中心に、二階建て、平入り、瓦葺きの主屋が600mにわたって連続しています。伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りです。正面はしとみ戸や格子の構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめています。
内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存事業に取り組んでいます。現在は120棟の内、約90棟が伝統的な民家です。
昭和57(1982)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
(説明看板などより)

内子町八日市護国地区重要伝統的建造物群保存地区 - 01
内子町八日市護国地区重要伝統的建造物群保存地区 - 01 posted by (C)pismo

内子町八日市護国地区重要伝統的建造物群保存地区 - 02
内子町八日市護国地区重要伝統的建造物群保存地区 - 02 posted by (C)pismo

内子町八日市護国地区重要伝統的建造物群保存地区 - 03
内子町八日市護国地区重要伝統的建造物群保存地区 - 03 posted by (C)pismo

内子町八日市護国地区重要伝統的建造物群保存地区 - 04
内子町八日市護国地区重要伝統的建造物群保存地区 - 04 posted by (C)pismo

本芳我家住宅は、内子町の木蝋の基礎を築いた家で、建物は木蝋生産が盛んであった時代を背景に明治22(1889)年に建築されました。
建物は質が良く、華麗な漆喰細工は際だった存在です。
庭園は、その後に整備されたものですが、豪商の住宅の一側面をよく示しています。
(説明看板などより)
なお、住宅内部は非公開ですが、庭園と外観は見学できます。
平成2(1990)年、国の重要文化財に指定されています。
本芳我家住宅 - 1
本芳我家住宅 - 1 posted by (C)pismo

本芳我家住宅 - 2
本芳我家住宅 - 2 posted by (C)pismo

上芳我邸は豪商・本芳我家の分家の屋敷で明治27(1894)年に建てられました。
重厚な漆喰の壁と名家らしい風格が漂う建物です
敷地には、住宅と土蔵、釜場、蝋搾り小屋などが並んでいます。
平成2(1990)年に国の重要文化財に、平成3(1991)年には、製蝋用具が国の重要有形民俗文化財に指定されています。
製蝋用具展示棟には、木蝋に関する用具や資料が展示されています。
訪れたときは主屋は修復工事中で、木蝋資料館のみ見学しました。
木蝋資料館・上芳我邸 - 1
木蝋資料館・上芳我邸 - 1 posted by (C)pismo

木蝋資料館・上芳我邸 - 2
木蝋資料館・上芳我邸 - 2 posted by (C)pismo

木蝋資料館・上芳我邸 - 3
木蝋資料館・上芳我邸 - 3 posted by (C)pismo

そして、内子から大洲に移動。久し振りに大洲城を訪れました。
前回→伊予ドライブ(2日目その2・西予市宇和町から大洲城へ)
大洲城 - 01
大洲城 - 01 posted by (C)pismo

大洲城 - 02
大洲城 - 02 posted by (C)pismo

大洲城 - 03
大洲城 - 03 posted by (C)pismo

大洲城 - 04
大洲城 - 04 posted by (C)pismo

大洲城 - 05
大洲城 - 05 posted by (C)pismo

大洲城 - 06
大洲城 - 06 posted by (C)pismo

大洲城 - 07
大洲城 - 07 posted by (C)pismo

そして、高知県梼原町で2泊します。
Posted at 2011/11/05 20:54:42 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2011年10月01日 イイね!

鳥取・兵庫県境周辺の滝巡り(その2・シワガラの滝・桂の滝・お面ヶ滝)

シワガラの滝は、洞窟の中にある珍しい滝です。
米美知子さんなど有名な写真家たちが撮影しに行っている滝です。
小又川渓谷にありかつては修験者の修行の場だったそうです。
駐車場からは1.2km、急坂を下りていきます。
途中からは沢歩きをしないといけませんので、長靴などが必要です。
シワガラの滝へのルート - 1
シワガラの滝へのルート - 1 posted by (C)pismo

シワガラの滝へのルート - 2
シワガラの滝へのルート - 2 posted by (C)pismo

シワガラの滝へのルート - 3
シワガラの滝へのルート - 3 posted by (C)pismo

シワガラの滝へのルート - 4
シワガラの滝へのルート - 4 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 01
シワガラの滝 - 01 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 02
シワガラの滝 - 02 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 03
シワガラの滝 - 03 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 04
シワガラの滝 - 04 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 05
シワガラの滝 - 05 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 06
シワガラの滝 - 06 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 07
シワガラの滝 - 07 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 08
シワガラの滝 - 08 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 09
シワガラの滝 - 09 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 10
シワガラの滝 - 10 posted by (C)pismo

シワガラの滝 - 11
シワガラの滝 - 11 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 01
シワガラの滝周辺 - 01 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 02
シワガラの滝周辺 - 02 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 03
シワガラの滝周辺 - 03 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 04
シワガラの滝周辺 - 04 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 05
シワガラの滝周辺 - 05 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 06
シワガラの滝周辺 - 06 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 07
シワガラの滝周辺 - 07 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 08
シワガラの滝周辺 - 08 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 09
シワガラの滝周辺 - 09 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 10
シワガラの滝周辺 - 10 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 11
シワガラの滝周辺 - 11 posted by (C)pismo

シワガラの滝周辺 - 12
シワガラの滝周辺 - 12 posted by (C)pismo

桂の滝は、小又川渓谷にあります。
シワガラの滝からさらに上流にある滝です。
シワガラの滝駐車場から少し歩いたところにシワガラの滝との分岐点があります。駐車場から2kmほどの距離、ぬかるみに足を取られながらでしたのでたどりつくまで結構大変でした。
桂の滝 - 01
桂の滝 - 01 posted by (C)pismo

桂の滝 - 02
桂の滝 - 02 posted by (C)pismo

桂の滝周辺 - 03
桂の滝周辺 - 03 posted by (C)pismo

桂の滝周辺 - 04
桂の滝周辺 - 04 posted by (C)pismo

お面ヶ滝は、畑ヶ平林道沿いにある滝です。
落差60m程度あるようです。
お面ヶ滝 - 1
お面ヶ滝 - 1 posted by (C)pismo

お面ヶ滝 - 2
お面ヶ滝 - 2 posted by (C)pismo

お面ヶ滝から先に行くと猿壺の滝などまだまだ面白そうな滝があるのですが、台風12号の影響で通行止めでした。
霧滝渓谷など魅力的な滝がたくさんある新温泉町、またきっと再訪したいと思います。
Posted at 2011/10/30 20:50:44 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #PCX バッテリー交換(3回目) https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1646340/7327912/note.aspx
何シテル?   04/30 18:24
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2011/10 >>

       1
234 5678
9 101112131415
16171819202122
232425 26272829
3031     

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 
JAFステッカー 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/21 06:50:32

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation