この日は、檮原町と津野町の史跡を巡ります。
まずは檮原町です。
三嶋神社〔東川〕です。三嶋神社は、永禄の戦国争乱に伊予の大軍が国境を侵して来たとき、伊予三嶋大明神に祈願し、勝利を得たときに勧請したもので、土佐7社の一社と伝えられています。
永禄12(1569)年宮の成川ぞいに建立しましたが、寛文6(1666)年、洪水のために社地が流失して現在地に奉遷しました。
明治40(1907)年、無名社4社を合祀しました。
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三嶋神社(東区) - 2 posted by
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和田城は、檮原町の中心部にある城跡です。
詳細は不明のようです。
現在は、川西路地区構造改善センターが建っています。2階には維新の茶屋 和田城があります。
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和田城の敷地内には
「維新の門」もあります。
近代日本の魁となった土佐勤王党の志士の偉業は、筆舌に尽くし難く、誠に偉大なものであります。
維新の里といわれる檮原からも、吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉の六志士を輩出し ました。
又、文久2(1862)年春維新回転の立役者である坂本龍馬も風雲急を告げる中、盟友澤村惣之丞と共に当地の那須邸に投宿し、酒を酌み交わしながら時局を談じた後、那須俊平、信吾父子の案内で韮ヶ峠を経て土佐を脱藩し、維新回転の奔流に身を投じました。
これに前後して、土佐勤王党の数多くの志士たちも、宮野々関門を経て九十九曲峠を越え、激しい時代のうねりの中に次々と散華してゆきました。
その功績と英姿を永遠に伝えるため、平成4(1992)年8月3日、維新の門群像建立委員会を組織し、日本最後の四万十川源流、梼原川の高台であり、志士の足跡が残る地だるこの和田城址と定め、募金活動を進めた結果、浜田浩造先生の製作により八志士の群像を建て「維新の門」と名づけました。平成7(1995)年11月11日、待望の除幕を迎えました。(説明看板などより)
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檮原町立歴史民俗資料館です。
檮原は延喜13(913)年、津野経高が入国し津野庄を築いてから神楽などの信仰文化を育んできました。
昭和52(1977)年に建設された変五角形の本館と、明治24(1891)年に建設された旧梼原村庁舎が保存されており別館として使用しています。
館内には農耕用具や生活用具などが展示されています。
また、幕末の志士たちを輩出したこともあり、関連資料等の展示がされています。
平成23(2011)年3月5日~平成24(2012)年3月31日まで「志国高知龍馬ふるさと博ゆすはら会場」が開催されています。
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ゆすはら座は、昭和23(1948)年に梼原町の町組によって北町に建設された建物です。
維持運営上の問題により、町組において取り壊しの決議がされましたが、平成6(1994)年町保護有形文化財に指定され、平成7(1995)年9月に東町に移転復元されました。
高知県唯一の木造芝居小屋です。
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現在
旧掛橋和泉邸がある地は、藩政時代に津野三郷の大庄屋が置かれた地で、古く宝暦年間には百姓一揆の総大将である中平善之進も大庄屋としてこの地に住し、また明治維新の志士・吉村虎太郎も安政6(1859)年より番人大庄屋を勤めていました。明治以降は西津野村役場、孝山塾青年学校、民具資料館敷地として利用されていました。
現在は明治維新の志士、旧掛橋和泉邸が移築されています。
茅屋根の母屋は幕末の建築で梁行4間半(約8.18m)桁行9間(約16.36m)、大黒柱は1尺2寸7分(約38.5cm)と1尺2寸(約36.4cm)角、間取りは神殿前客間10畳、玄関の間6畳、中の間、奥の間角8畳、茶の間10畳(現在は6畳、4畳半に分割)の6部屋からなり、奥の間は天井が低く危難の際を考慮して階上に「姫隠しの間」がある。幕末には遠近の同志がよく立ち寄り時局を談じたと伝えられています。
掛橋和泉吉長は、通称を順次といい、掛橋家の養子となり神職をつとめました。那須俊平の門人となって剣と読書を学び、勤王の志あつく、文久2年(1862)尊皇攘夷の声高まり同志は次々と脱藩して国事に尽くしましたが、掛橋家は裕福であったので志士たちの資金援助を行いました。
義母はこれを知りきつく叱責し、和泉は事実を語ると同志の秘密を知らせることになり、それかといって義母をあざむくことはできないため、苦悶の末死を決し、同志玉川壮吉を訪ね意中を語り死後を託しました。玉川は酒を飲み慰め脱藩をすすめましたが和泉はその夜、玉川の家を忍び出て先祖の墓地に行き銃をあて自殺しました。文久2(1862)年6月2日、27歳の若さでした。
(説明看板などより)
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六志士の墓です。
明治維新の先駆けとなり、その命を賭して国事に殉じた檮原ゆかりの六志士の分霊が祀られています。
天誅組で活躍した吉村虎太郎、那須信吾の養父で禁門の変で戦死した那須俊平重任、土佐藩執政の吉田東洋を暗殺し天誅組に参加した那須信吾重民、天誅組に参加した前田繁馬、禁門の変で鷹司邸内で自刃した中平龍之助定確、義母と同志の狭間で苦悶し自殺した掛橋和泉吉長の6人の檮原ゆかりの志士です。昭和10(1935)年檮原村が建立しました。
梼原町指定文化財ともなっています。
(説明看板などより)
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茶堂は藩政時代からあり、現在檮原町内に13棟保存されています。
建物は、2間(3.6m)1間半(約2.72m)位の木造平屋建、茅葺き屋根、板敷きの素朴な形式です。
木像、石像等を安置して諸仏を祀り津野氏の霊を慰め、行路の人々に茶菓の接待を地区民が輪番で行い、信仰と心情と社交の場として麗しい役割を果たしてきました。
(説明看板などより)
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雲の上のホテル別館 マルシェ・ユスハラ(まちの駅ゆすはら)は地域物産展示場と滞在宿泊施設を兼ね備えた木造(一部RC)3階建の施設です。1階は、梼原町の特産品や地元野菜、加工品が並ぶ「まちの駅ゆすはら」、2階・3階は、「雲の上のホテル別館 マルシェ・ユスハラ」となっています。
太陽光発電や冬場のベレットストーブの設置、電気自動車の充電施設など環境に配慮した施設です。内外装には町内産の木材を多用しています。
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三嶋神社です。
津野山郷の開祖・津野経高は、梼の木の多いこの地を梼原と名付け、延喜19(919)年、竹の薮より移り居城を築き梼原宮首に伊豆より三嶋大明神を勧請したといわれています。
また藤原純友の乱の時、伊予(愛媛県)河野氏に協力して純友征伐に向い、伊予三嶋大明神に詣で純友の乱平定後帰国したとき伊予三嶋大明神も勧請して祀ったと伝えられています。
慶応4(1868)年3月三嶋大明神を三嶋神社と改称し、明治40(1907)年、明治44(1911)年に梼原地区無格社21社が合祀されました。
現在の本殿は享和3(1803)年、拝殿は明治23(1890)年に再建されたものです。
拝殿の彫刻は山口県の大工・中本喜作の作です。
境内には津野家代々を祀る「津野神社」「朝鮮松(ハリモミ)」桂月大町芳衛書の「鎮座千年碑」、木で作られた「神馬」もあります。
ハリモミは、樹高約30m、周囲3.7mで通称、朝鮮松ともいわれ豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、文禄元(1592)年津野親忠と中平左京亮光嘉は、長宗我部軍に従い従軍し、帰還の際に持ち帰って植えたものと伝えられています。
また、三嶋神社の参道に架かる、木製の屋根付き橋は神幸橋(みゆきばし)といい、屋根付きの木製の橋で、町内産の木材を使用しているのが特徴です。平成14(2002)年の再建です。
(説明看板などより)
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神在居(かんざいこ)の千枚田は「耕して天に至る」という言葉がぴったりの棚田です。
天正16(1588)年には90aの田でしたが、昭和47(1972)年当時501枚あり、面積は約2.3ha、1枚平均46㎡になります。
現在は国道197号敷地となったり、耕地整理されたりしています。
文豪司馬遼太郎先生が「農業が築き上げた日本のピラミッド、中国の万里の長城に匹敵する」と驚いた逸話もあります。
平成4(1992)年から全国にさきがけ「千枚田オーナー制度」を開始し、四万十川の名前にちなみ100㎡で田んぼのオーナーになれるという都市農山村交流のモデルも生み出しました。
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次は津野町へ向かいます。
Posted at 2011/11/09 22:21:21 | |
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