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ピズモのブログ一覧

2013年04月27日 イイね!

京都新選組と会津藩など幕末史跡巡り(その3・渉成園〜油小路の変跡〜不動堂村屯所〜蛤御門)

渉成園は、真宗本廟東本願寺の飛地境内地(別邸)です。
慶長7(1602)年、東本願寺12代教如上人が徳川家康から寺地を寄進され、東本願寺が成立しました。
寛永18(1641)年、13代宣如上人の時代に徳川家光から東本願寺に寄進されました。
宣如上人が承応2(1653)年に退隠して自ら退隠して自らの隠居所をそこに定め、中国の詩人陶淵明「帰去来辞」の一節「園日渉而以成趣」(園、日に渉って以って趣きを成す)から採って「渉成園」と名付けられました。
枳殻(からたち)を生垣に用いたことから、枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれています。また、東本願寺下屋敷、新屋敷、百間屋敷、東殿、枳穀御殿とも呼ばれていました。
庭園は東山を借景としてつくられた池泉回遊式の庭で石川丈山の作庭と言われています。
14代琢如上人以後、歴代の門首の隠居所や避難所として用いられました。
江戸時代後期の文政年間には、頼山陽が「渉成園記」を撰して「渉成園十三景」を紹介しました。平安時代初期、嵯峨天皇の皇子左大臣源融が、奥州塩釜の景を移して難波から海水を運ばせた六条河原苑池がルーツという伝承があったことから、庭園の随所に「塩釜の手水鉢」や「源融ゆかりの塔(供養塔)」などその伝承に基づいた景物が趣向として記されていますが、現在では河原院の位置は七条坊門小路(現在の正面通)以北、万里小路(現在の柳馬場通)以東であることから、河原院との関係を否定する説が出されています。
幕末、東本願寺は徳川幕府に近い立場にあったこともあり、14代将軍徳川家茂や、15代将軍徳川慶喜も度々渉成園を訪れています。
渉成園は創立以来、幾度かの火災に遭い、現在の建物は元治元(1864)年の蛤御門の変の炎上以降に再建されたもので、明治天皇の御小休所となったことから、大宮御所の御車寄(玄関)が移築され、そこから、内仏堂(持仏堂)である「園林堂」を中心に数寄屋風の書院や座敷が連なっています。
昭和11(1936)年、国の名勝に指定されています。
渉成園 - 01
渉成園 - 01 posted by (C)pismo

渉成園 - 02
渉成園 - 02 posted by (C)pismo

渉成園 - 03
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渉成園 - 04
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渉成園 - 05
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渉成園 - 06
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渉成園 - 07
渉成園 - 07 posted by (C)pismo

伊東甲子太郎他数名殉難之跡〔本光寺〕です。
伊東甲子太郎は、常陸国出身の新選組隊士です。学問もでき、剣は北辰一刀流の名手でした。
元治元(1864)年に門弟ら七人を率いて新撰組に入隊し、参謀として重用されました。
しかし、尊王派であった伊東は、次第に隊長近藤勇と相反するようになり、慶応3(1867)年3月に同志15人とともに新選組を脱退して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所とし、薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説きました。
しかし、新選組との対立は深く、同年11月近藤勇らは、近藤勇の妾宅に招かれ酒をふるまい、酔った伊東を大石鍬次郎らに斬りつけられ、本光寺の門前で絶命しました。
この知らせを聞いた御陵衛士は、直ちに駆け付けましたが、待ち伏せしていた新選組数十名の隊士に襲われ、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名が討死しました。世にこれを油小路七条の変といいます。
伊東甲子太郎他数名殉難之跡〔本光寺〕 - 1
伊東甲子太郎他数名殉難之跡〔本光寺〕 - 1 posted by (C)pismo

伊東甲子太郎他数名殉難之跡〔本光寺〕 - 2
伊東甲子太郎他数名殉難之跡〔本光寺〕 - 2 posted by (C)pismo

新選組不動堂村屯所跡です。新選組は壬生から西本願寺に屯所を移した後、西本願寺の費用で建てたこの場所に屯所を移しました。約1万平方メートルの敷地に豪壮な数寄屋建築を建てたそうです。兵庫県姫路市の亀山本徳寺に表書院として一部が残りますが、この地は現在京都リーガルロイヤルホテルの敷地になっています。ホテルの敷地入口付近、堀川通りの横断歩道橋のあるあたりに、平成15(2003)年6月に「誠」の旗と近藤勇の歌が刻まれた石碑が建立されました。
新選組不動堂村屯所跡 - 1
新選組不動堂村屯所跡 - 1 posted by (C)pismo

蛤御門は京都御苑西門の一つです。この蛤御門は、新在家御門が正式名称でした。常に閉ざされていましたが、宝永の大火(1708年)の際に初めて開門されたことから 「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれるようになりました。 また、幕末の元治元(1864)年の禁門の変では、八月十八日の政変で京を追われた長州藩が会津・桑名・薩摩各藩が攻めかけ、激戦地になりました。この時御所に向けて長州藩が発砲したことを理由に、幕府は第一次長州征伐を行うことになりました。
蛤御門の門柱には、現在も禁門の変の弾痕が残ります。
蛤御門 - 1
蛤御門 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2013/05/26 23:14:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年04月27日 イイね!

京都新選組と会津藩など幕末史跡巡り(その2・妙心寺大法院と金戒光明寺)

大法院は、寛永2(1625)年に開祖を淡道宗廉、開基を真田信之の長男・信吉の長女で千種有能の妻となった長姫によって創建された、妙心寺塔頭の寺院です。
院号は真田信之の法名「大法院殿徹岩一明大居士」に因んでいます。
松代藩、真田家から毎年50石が施入され、藩寺として外護された塔頭です。
この松代藩八代藩主真田幸貫の儒臣であった幕末に活躍した松代藩士佐久間象山の墓も境内にあります。
方丈の襖絵は、江戸中期に絵師、土方稲領が描いた作で「叭叭鳥図」ともいいます。
「長空鳥任飛」の言葉、即ち「自らの心境の思うがまま、自由自在の有様」の意を表現したものと伝えられています。
露地庭園が素晴らしいです。茶室に付随する庭園で、仏教でいうところの「清浄世界」を表しています。
妙心寺大法院 - 01
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妙心寺大法院 - 02
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妙心寺大法院 - 03
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妙心寺大法院 - 04
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妙心寺大法院 - 05
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妙心寺大法院 - 06
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妙心寺大法院 - 07
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黒谷の金戒光明寺は、山号は紫雲山で浄土宗の大本山です。
承安5(1175)年、法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされています。
徳川家初代将軍家康は、二条城の外城として、徳川家の宗旨である浄土宗の黒谷金戒光明寺と知恩院を城のように造らせました。
幕末会津守護職松平容保が本陣を構えた場所として有名です。
境内には幕末不幸にも命を落とした会津藩士の墓もあります。
金戒光明寺 - 1
金戒光明寺 - 1 posted by (C)pismo

金戒光明寺 - 2
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金戒光明寺 - 3
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Posted at 2013/05/26 23:03:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年04月27日 イイね!

京都新選組と会津藩など幕末史跡巡り(その1・壬生と島原)

この日は、八重の桜の関連で、友人達と京都観光。

壬生寺の門を入って右手の阿弥陀堂の奥が壬生塚と呼ばれる墓所になっています。ここには、芹沢鴨と平山五郎の墓、隊士7名の合祀墓(阿比原鋭三郎、田中伊織、野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門、葛山武八郎)、河合耆三郎の墓、近藤勇の遺髪供養塔、同胸像などがあります。
壬生寺・壬生塚 - 1
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壬生寺・壬生塚 - 2
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壬生寺・壬生塚 - 3
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壬生寺は律宗の寺院で正式には心浄光院 宝憧三昧寺といいます。正暦2(991)年三井寺の僧快賢が創建しました。
中興の祖・円覚上人が悪疫駆除のため壬生狂言を始めたことから地蔵信仰が盛んになりましたた。結構大きな寺です。近藤勇の胸像や新撰組隊士の供養塔、芹沢鴨ら隊士の墓などがあります。
壬生寺 - 4
壬生寺 - 4 posted by (C)pismo

八木家は、壬生村きっての旧家で、かって壬生郷士の長老をつとめていました。また、幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られています。
建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建っています。当家に残る普請願から長屋門は文化元(1804)年、主屋は文化6(1809)年の造営と判明しています。
昭和58(1983)年6月1日京都市指定有形文化財に指定されています。
こちらは前川家と異なり公開されています。
八木家の子孫の方は表の鶴屋という和菓子屋さんをやっています。
奥座敷は芹沢鴨暗殺の場で刀傷が見ることができます。
八木家 - 1
八木家 - 1 posted by (C)pismo

前川家は、新選組の壬生屯所跡の一つです。
古高俊太郎の拷問が行われた東の蔵、野口健司や山南敬介が切腹した部屋などもそのまま残っているようです。
株式会社田野製袋所と個人宅となっているので普段は非公開です。休日は入口を開放しており、土産物店で買い物ができます
前川邸 - 1
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光縁寺は正式には満月山普照院光縁寺という浄土宗の寺院で、知恩院の末寺にあたります。
創建は、慶長18(1613)年頃で、天明の大火により焼失した堂宇は再建されて現在に至っています。
本堂には本尊として阿弥陀如来像をお祀りしています。
当寺の門前近くには、新選組の馬小屋があり、毎日、門前を隊士たちが往来していました。中には新選組総長の山南敬助もいました。
山門の瓦は、山南家と同じ家紋で、当時の住職が22世の良誉上人であり年齢も山南と同じであったことから、山南の紹介で屯所で切腹した隊士達や山南自身、またその後の多くの隊士が良誉上人に弔われ、埋葬されることになりました。
現在も山南敬助、河合耆三郎、柴田彦三郎、施山多喜人、石川三郎、大石造酒蔵、松原忠司、桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知、田中寅三、加藤羆、左側面に矢口健一郎、佐野七五三之助、中村五郎、茨木司、富川十郎、沖田氏縁者の墓など新選組隊士の墓があります。
光縁寺 - 1
光縁寺 - 1 posted by (C)pismo

光縁寺 - 2
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光縁寺 - 3
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光縁寺 - 4
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光縁寺 - 5
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光縁寺 - 6
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島原の角屋です。
島原の花街(歌舞音曲の遊宴の町)は、天正17(1589)年に豊臣秀吉の許しを得て、柳馬二条に「柳町」として開設されました。
その後、御所に近いなどの理由で、慶長7(1602)年に六条柳町(東本願寺の北側付近)に移転させられました。この地は、通称「六条三筋町」と呼ばれ、大いに繁盛しましたが、町中では風紀を乱すとのことから、またも寛永18(1641)年に辺鄙な朱雀野(現在の島原)に移転を命じられました。「西新屋敷」が正式地名ですが、その移転騒動が当時の九州島原の乱に似ているとして、「島原」と通称されてきました。
島原は、遊宴の場である「揚屋」と、揚屋に太夫や芸妓を派遣する「置屋」からなる分業制をとっていました。揚屋は江戸吉原においては、宝暦10(1760)年に完全に消滅しましたが、京の島原や大坂の新町では、拡張を重ねて大宴会場へと特化していきます。その特徴は、置屋から太夫や芸妓を呼んで歌舞音曲の遊宴を行ったところで、現在の料理屋・料亭にあたります。大座敷や広庭、茶席を設け、庫裏と同等の台所を備えるところにあります。角屋は島原開設当初から存在していますが、現在の規模になったのは天明7(1787)年の増築後のことです。
島原は公認の花街でしたが、立地の悪さから次第に寂れ、町中にある非公認の祇園などが大いに栄えました。島原としても集客のために、からくり人形を飾った「籠屋」や、太夫による仮装行列の「練物」などの年中行事を行いまし。灯籠を見物した本居宣長は、自身の『在京日記』にその賑わいぶりを記しているが、これも一時的なものに終わりました。
島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず、文芸も盛んな町でした。とりわけ俳諧は、江戸中期に与謝蕪村の親友炭太祇(たんたいぎ)が島原に住み込み、「不夜庵」を主宰したことにより、俳壇が形成されるほどの活況を呈しました。
文政元(1818)年には頼山陽が郷里から伴った実母を、角屋南隣の「八文字屋」に案内して、宴会でもてなしました。揚屋が親孝行の場に供されたわけです。
各藩の武家屋敷の大宴会も角屋をはじめとする揚屋が担いましたが、幕末になると、角屋は勤皇派の久坂玄瑞や西郷隆盛、坂本龍馬などの密議に使われました。
またご多分にもれず、新選組の出入りもありましたが、池田屋のような騒動は起こりませんでした。ただし、文久3(1863)年に、新撰組初代筆頭局長の芹沢鴨が角屋で遊宴の後、壬生の屯所八木邸に帰宅後暗殺されるという事態がありました。
明治維新後は、大型宴会の需要がなくなるとともに、足場の悪さもあって、島原の町全体が衰微し、それ以降は祇園が花街の主役に取って代わっていきました。
角屋は、島原開設当初から残る江戸時代の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築唯一の遺構として、昭和27(1952)年に国の重要文化財に指定されています。
平成元(1989)年には財団法人角屋保存会が設立され、平成10(1998)年度からは「角屋もてなしの文化美術館」として公開されています。
角屋もてなしの文化美術館 - 01
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角屋もてなしの文化美術館 - 02
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角屋もてなしの文化美術館 - 03
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角屋もてなしの文化美術館 - 04
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角屋もてなしの文化美術館 - 05
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角屋もてなしの文化美術館 - 06
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角屋もてなしの文化美術館 - 07
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角屋もてなしの文化美術館 - 09
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角屋もてなしの文化美術館 - 10
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角屋もてなしの文化美術館 - 11
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Posted at 2013/05/26 22:34:41 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年04月19日 イイね!

新島旧邸・京都御苑周辺

この日は、「八重の桜」で話題の新島旧邸(新島襄旧邸)を訪れました。
新島旧邸は同志社の創立者、新島襄と妻・八重の私邸です。明治11(1878)年9月に竣工したと伝えられています。
設計は築の際には、同志社英学校で教師を務めたアメリカン・ボード宣教師で医者の、W.テイラーの助言のもとに、新島自身が行ったと伝えられています。
この敷地には、幕末まで禁裡幕府の御用大工棟梁中井家の屋敷があり、明治初年中井屋敷を堂上華族高松保実が所有していました。明治8(1875)年11月29日、新島襄は、この高松邸の半分を賃借して、生徒8名で同志社英学校を開校しました。すなわち、ここが同志社発祥の地です。翌年、学校は旧薩摩藩邸に移りますが、その後、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。これが、今の新島旧邸です。
新島旧邸は、木造2階建ての和洋折衷というより、和風建築に洋風の手法を取り込んだ造りの建物です。外観はコロニアル様式を取り入れながら、すべて真壁造り。
当時としては画期的な、セントラル・ヒーティングを設置して冬は暖かく、夏は快適に過ごすために床を少し高くして風通しをよくし、また、夏の暑さを避けるため、屋根の庇を深くしてあります。建があったといわれています。彼の意見をもとに、京都の大工によって建てられました。内部はフローリングで、椅子やテーブルが並ぶ洋風の趣の居間、応接間があり、土間のないダイニング・キッチンが特色です。しかし、すべてが洋風で統一されているわけではありません。窓の上の障子欄間、部屋の間仕切りの襖、箱階段など、和風の手法を取り入れています。トイレは板張りですが、洋式トイレの形態です。
付属屋と門は旧邸と同時期のものですが、これらは伝統的な様式で建てられています。また、旧邸に残る家具57点はこの建物が住宅として使われていたときのもので、簡素な屋内意匠とよく調和しており、なかでも国産の洋家具は明治時代初期における家具技術を示す資料としても価値が高いものです。
昭和60(1985)年、京都市指定有形文化財に指定され、平成4(1992)年の全面解体保存修理工事終了以後は一般に公開されています。
新島襄旧邸 - 01
新島襄旧邸 - 01 posted by (C)pismo

新島襄旧邸 - 02
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新島襄旧邸 - 03
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新島襄旧邸 - 04
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新島襄旧邸 - 05
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新島襄旧邸 - 06
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新島襄旧邸 - 07
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新島襄旧邸 - 08
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新島襄旧邸 - 09
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新島襄旧邸 - 10
新島襄旧邸 - 10 posted by (C)pismo

新島襄旧邸 - 11
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新島襄旧邸 - 12
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新島襄旧邸 - 13
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近くには法成寺跡があります。
法成寺は,藤原道長(966~1027)が建立した寺です。
寛仁3(1019)年、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に楽慶供養、以降十年ほどかけて金堂・薬師堂・釈迦堂・五重塔など壮麗無比な諸堂が出現しました。
平安京外の東一帯に位置することから、「北東院」とも呼ばれ、鴨川から臨むその姿は宇治川から見える平等院のモデルともいわれています。
康平元(1058)年悉く焼失しましたが,息子頼通は直ちに再建に着手し、孫師実(1042~1101)に引き継がれました。
度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきましたが、14世紀前半にはかなりすたれ(「徒然草」)、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって鎌倉末期に消滅しました。
ここには寺跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑があります。発掘調査では法成寺跡の遺構は見つかっていませんが、鴨沂高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦が出土しています。
法成寺跡 - 1
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そして、少しだけ京都御苑を散歩しました。
京都御苑 - 01
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京都御苑 - 02
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京都御苑 - 03
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京都御苑 - 04
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京都御苑 - 05
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京都御苑 - 06
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京都御苑 - 07
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閑院宮邸跡です。
閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、宝永7(1710)年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立されました。
京都御苑の公家町南西部に屋敷を構えました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。
明治2(1869)年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16(1883)年、宮内省京都支庁が設置されています。
第二次世界大戦後の昭和24(1949)年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。平成18(2006)年3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた収納展示室と庭園などを公開しています。
京都御苑・閑院宮邸跡 - 01
京都御苑・閑院宮邸跡 - 01 posted by (C)pismo

京都御苑・閑院宮邸跡 - 02
京都御苑・閑院宮邸跡 - 02 posted by (C)pismo

京都御苑・閑院宮邸跡 - 03
京都御苑・閑院宮邸跡 - 03 posted by (C)pismo

京都御苑・閑院宮邸跡 - 04
京都御苑・閑院宮邸跡 - 04 posted by (C)pismo

宗像神社は宗像三女神、即ち多気理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命を主祭神として祀ります。
宗像三女神は別名「道主貴」といい、これは全ての道を司る神の尊称です。道の神(交通・運送の神)、また海の神(出産、生産、産業・文化の神)として信仰されています。
この地はもと小一条殿(文徳天皇皇后明子の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、清和天皇のご誕生の地です。
社伝によれば、平安京遷都の翌年、延暦14(795)年、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫より勧請し、創建したと伝えられています。
その後、歴代皇室の御尊信篤く、応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建されました。現在の社殿は江戸期安政年間に再建されたものです。
明治維新までは花山院家の邸地となり、本社もその邸内にありましたが、邸宅が廃せられて後は社殿のみ残りました。境内には樹齢600年といわれる京都御苑最長老の楠の巨木があり、桜の老木は御所の紫宸殿の左近の桜を拝領したものです。また「葉書」の語源となったともいわれる「多羅葉」の樹が社殿正面にあります。境内社として花山稲荷社・京都観光神社・小将井社・繁栄稲荷社・金比羅宮があります。
宗像神社 - 1
宗像神社 - 1 posted by (C)pismo

宗像神社 - 2
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宗像神社 - 3
宗像神社 - 3 posted by (C)pismo

鷹司邸跡です。
鷹司家は、鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました(鷹司輔平)。孫の政通は幕末期30年以上も関白を務め、九条尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。
元治元(1864)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火は、長州藩邸の火などとともにどんどん焼けと称する京都大火につながりました。
長州藩の久坂玄瑞や寺島忠三郎が、鷹司邸内で自刃しています。
京都御苑・鷹司邸跡 - 1
京都御苑・鷹司邸跡 - 1 posted by (C)pismo

凝華洞跡です。
凝華洞は、江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
元治元(1864)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。
丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。
その後、大正大礼前の改良で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。
現在は大きなイチョウが残るのみです。
京都御苑・凝華洞跡 - 1
京都御苑・凝華洞跡 - 1 posted by (C)pismo

京都御苑・凝華洞跡 - 2
京都御苑・凝華洞跡 - 2 posted by (C)pismo

仙堂御所 - 1
仙堂御所 - 1 posted by (C)pismo

仙堂御所 - 2
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Posted at 2013/05/14 00:16:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年04月13日 イイね!

三多気の桜〜北畠神社〜せんぐう館

佛隆寺の次は、三多気(みたけ)の桜を訪れました。
三多気の桜は、伊勢本街道から真福院までの参道に、桜の並木道が1.5km続いています。
本数約500本のヤマザクラは、真福院を開山した理源大師により、昌泰年間(898~901)参道に植樹されたと伝えられています。
国指定名勝、「日本さくら名所100選」に選定されています。
三多気の桜 - 01
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三多気の桜 - 02
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三多気の桜 - 03
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三多気の桜 - 04
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三多気の桜 - 05
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三多気の桜 - 06
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三多気の桜 - 07
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三多気の桜 - 08
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三多気の桜 - 09
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三多気の桜 - 10
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三多気の桜 - 11
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三多気の桜 - 12
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三多気の桜 - 13
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真福院は山号は御嶽山、真言宗醍醐派の寺院です。
白鳳時代の670年頃、役行者がこの地へ蔵王権現を祀られたのが草創と伝えられています。
理源大師が開山し、平安末期から室町末期までは蔵王権現の霊場として栄え、北畠氏の祖、中院通方は堂塔を建立しました。
平清盛、北畠親房らも参籠したこともあるといわれ北畠氏の祈祷所として栄えました。
山門前には鎌倉期の石仏、石碑が群集しています。
真福院 - 01
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真福院 - 02
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真福院 - 03
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三多気の桜の後は、北畠神社に行きました。同じ津市の旧美杉村エリアにあります。
北畠神社は、寛永20(1643)年、北畠一族の末裔鈴木孫兵衛家次が北畠氏館跡にに小祠を設け、北畠八幡宮と称したのが始まりです。祭神は、伊勢北畠氏の祖で北畠親房の三男、北畠顕能です。父・北畠親房と兄・北畠顕家を配祠しています。建武中興十五社の一社です。
北畠氏館跡庭園は、北畠氏の居館の遺跡で細川高国の作庭といわれ、昭和11(1936)年、国の名勝・史跡になっています。
武家書院庭園で、池泉鑑賞式庭園となっていて室町期の武家の庭園らしさを今も残しています。
国の史跡指定は、平成18(2006)年、「北畠氏館跡庭園」と「霧山城跡」を統合し、指定地域を追加のうえ、「多気北畠氏城館跡 北畠氏館跡 霧山城跡」の名称であらためて国の史跡に指定されました。

北畠神社 - 01
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北畠神社 - 02
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北畠神社 - 03
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北畠神社 - 04
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北畠神社 - 05
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北畠神社 - 06
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北畠神社 - 07
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北畠神社 - 08
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北畠神社 - 09
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この後は、少し距離が離れていますが伊勢神宮の外宮にできたせんぐう館へ。
第62回神宮式年遷宮を期して、平成24(2012)年4月7日開館しました。
式年遷宮の意義と社殿造営や御装束神宝調製の技術を未来に継承するため、式年遷宮の歴史、社殿と神宝の造営・制作過程などを、模型や解説映像を交え紹介しています。

せんぐう館 - 1
せんぐう館 - 1 posted by (C)pismo

せんぐう館 - 2
せんぐう館 - 2 posted by (C)pismo

もちろん、伊勢神宮の外宮、内宮にも参拝しましたが、すごい人でした・・・・。

伊勢神宮(内宮) - 1
伊勢神宮(内宮) - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2013/05/11 20:49:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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