• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2013年08月31日 イイね!

武蔵・上野・下野・信濃史跡めぐり(2日目その6・安中市〔新島襄旧宅・旧碓氷郡役所・松井田城〕)

次は安中市です。

平成18年の訪問の様子はこちら↓
信濃国・上野国・下野国歴史紀行(3日目その6・富岡・安中など)
信濃国・上野国・下野国歴史紀行(4日目その6・安中市松井田町と帰路)


まず、最初に前回は訪れなかった新島襄旧宅です。安中藩士だった新島襄が帰国後、日本での活動を始める第一歩となったところです。

新島襄は、天保14(1843)年に安中藩士新島民治の長男として安中藩江戸屋敷で生まれました。襄の幼名は七五三太(しめた)といいました。襄は秀才の誉れ高く、若干13歳で藩主に蘭学修行を命じられ、この蘭学修行中に漢訳の聖書によって神の存在を知った襄は、元治元(1865)年国禁を破り米国船に乗り込んで脱国し上海へ渡り、更にそこから米国船を乗り継いでボストンに入りました。この時の船長テイラーがジョーと名付けたことから、後に新島襄と名乗る様になりました。米国では、フィリップスアカデミーやアーモスト大学を卒業しました。
明治5(1872)年岩倉使節団への通訳協力が要請され、これに先駆けて明治政府より脱国の罪が許され「米国留学免許」が発行されるという超法規的な手続きがとられました。後の教育使節団にも同行、米国内はもとよりイギリス・スイス・ロシア・オランダ・デンマーク、などヨーロッパ各地を視察しました。帰米後、アンドーヴァー神学校に入学して牧師試験に合格しています。
明治7(1874)年に日本に帰国した襄は、すぐさま両親の待つ懐かしい安中へ向かいました。そして両親と10年ぶりの再会を果たしました。
ここは新島襄が、まさに十年間にわたるアメリカでの苦学を活かして日本での活動を始める第一歩となったところです。
安中には3週間程滞在しただけで、すぐに任地である神戸へ向かわざるを得ませんでした。彼にはまた、副牧師として布教という使命があったのです。
以後ほとんど故郷に帰ることなく、キリスト教精神に基づく大学の設立と布教という2大目的に襄は東奔西走し、その端緒として同志社英学校(現在の同志社大学)を京都に設立します。しかし、志半ばで病に倒れ、46歳でその生涯を終えました。
安中での滞在は短いものでしたが、新島襄の説教に衝撃を受けた人々の中から湯浅治郎をはじめとするキリスト教信者が30人も生まれ、やがて安中教会が設立されました。
このような新島襄の教育家・宗教家としての情熱は、湯浅治郎・徳富蘇峰、柏木義円ら多くの心酔者を生み、襄の死後もその志を継ぐものは日本中に広がり、日本の教育・思想に大きな影響を与えたといわれています。
明治9(1876)年に新島襄は八重と結婚し、両親や姉らを安中から京へ迎えました。新島家が京都に引っ越した後、その居所である長屋には他家の人が住んでいましたが、昭和37(1962)年11月、これが空き家になったのを機会に保存運動が盛り上がり、当時の萩原市長を会長とし市商工会長湯浅正次らを副会長として「新島襄先生旧宅保存会」が結成されました。その後、安中市でこれを購入、二軒長屋のうち新島家が住んでいた東半分を切り離して50mほど西に移築し、西半分は新築し展示室と管理人室とし、外観は元通りの二軒長屋として復元しました。昭和39(1964)年11月3日午後1時から群馬県立蚕糸高等学校(当時)の体育館で落成式が行われました。復元事業は、市内の小中学生を始め、多くの善意の寄付によるものです。そして同年12月30日に「新島襄旧宅」は安中市指定史跡となりました。
旧宅の北側にある古墳公園(旧安中町6号墳)には半田善四郎が建立した湯浅半月撰文による「新島襄先生の碑」や、安中藩主板倉勝明の殖産事業の経緯を記した「漆園の記碑」(市指定文化財)、更には新体詩「十二の石塚」の一節を刻んだ「湯浅半月詩碑」など、新島襄ゆかりの碑が建っています。
(説明パンフレットなどより)
新島襄旧宅 - 01
新島襄旧宅 - 01 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 02
新島襄旧宅 - 02 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 03
新島襄旧宅 - 03 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 04
新島襄旧宅 - 04 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 05
新島襄旧宅 - 05 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 06
新島襄旧宅 - 06 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 07
新島襄旧宅 - 07 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 08
新島襄旧宅 - 08 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 09
新島襄旧宅 - 09 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 10
新島襄旧宅 - 10 posted by (C)pismo

新島襄旧宅 - 11
新島襄旧宅 - 11 posted by (C)pismo

明治44年に再建された建物が残っている旧碓氷郡役所です。
明治11(1878)年郡区町村編成法が公布され、郡に郡役所が置かれることになりました。群馬県内には17郡(北勢多・南勢多・東群馬・西群馬・片岡・緑野・多胡・北甘楽・南甘楽・碓氷・吾妻・利根・佐位・那波・山田・新田・邑楽郡)が置かれ、11の郡役所が置かれました。
この時碓氷郡では旧安中宿本陣(現在の安中郵便局)に郡役所が置かれました。その後、碓氷郡役所は明治21(1888)年6月に現在地に西洋不運建築で新築されました。
明治23(1890)年に郡制が公布され、郡にも議会(郡会)が置かれましたが、群馬県で郡制が施行されたのは明治29(1896)年のことでした。このとき、群馬県内の郡は11(勢多・群馬・多野・北甘楽・碓氷・吾妻・利根・佐波・新田・山田・邑楽郡)に統合されました。
その後、明治43(1910)年9月20日、碓氷郡役所は火災で焼失しましたので、和風の平屋建てで明治44(1911)年9月20日に再建されたのが、現在も残る碓氷郡役所です。
しかし、郡には自治体としての歴史もなく、郡住民の自治意識も低く、自治体としての発達に見るべきものがないという議論があり、ついに大正10(1921)年に「郡制廃止ニ関スル法律」が公布され、大正12(1923)年に郡制は廃止され、大正15(1926)年には行政機関としての郡役所も廃止されてしまいました。
碓氷郡役所は郡役所廃止後、碓氷郡農会、碓氷地方事務所、安中農政事務所などのいくつかの公的事務所として使用されましたが、昭和48(1973)年に空き家になり、翌年安中市に移管されました。
平成8(1996)年2月に、安中市は県内に唯一残る郡役所の建物を保存するために、安中市指定重要文化財に指定し、平成8(1996)~9(1997)年に修復工事を行い、平成10(1998)年2月から一般公開を開始しました。
旧碓氷郡役所の建物は、建築当初の状態がよく残されており、土台、柱、梁などは全て当時のものです。また、外側の南側、東側、西側の腰板も当時のもので、安中杉並木10本が材木として使われたといわれています。
また、ガラス窓の一部は当時のもので、当時のガラスは吹きガラスでゆがんで見えます。ただし、屋根瓦、庇、床、畳は新しいものに取り替えました。
現在は、第一展示室(旧会議室)では郡役所の歴史の展示を行い、また、第二展示室(旧事務室)は「市民ギャラリー」として市民に開放しています。
(パンフレットなどより)
訪れた時は、ちょうど新島襄・八重子展を開催中でした。
ステージ1 誕生から出会いが1/22〜6/2
ステージ2 結婚から終焉が6/4〜/12/23
の開催です。
旧碓氷郡役所 - 1
旧碓氷郡役所 - 1 posted by (C)pismo

旧碓氷郡役所 - 2
旧碓氷郡役所 - 2 posted by (C)pismo

前回は途中で訪問を断念した松井田城です。
松井田城は、長享元(1487)年、安中忠親が越後より移住し松井田城を築いたと伝わっていますが、本格的な築城は、安中忠政が築城し嫡子忠成を安中に置き、自身は松井田城を改修し居城としたといわれています。
嫡子忠成が城主となりましたが、武田信玄の西上野攻略で武田氏の支配下になりました。武田氏滅亡後は滝川一益の支城となりましたが、後北条氏のものとなり、家老の大道寺政繁が大改修を加えました。現在残る遺構はこの時のものです。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には、前田利家が率いる上杉景勝、真田昌幸らの大軍に攻められました。
持久戦となりましたが、大道寺政繁は降伏し、松井田城は開城されました。
政繁は、中山道の道案内を務めましたが後に開戦責任を咎められ、川越で切腹を命じられました。
松井田城は、この戦いの後に廃城となりました。

松井田城 - 01
松井田城 - 01 posted by (C)pismo

松井田城 - 02
松井田城 - 02 posted by (C)pismo

松井田城 - 03
松井田城 - 03 posted by (C)pismo

松井田城 - 04
松井田城 - 04 posted by (C)pismo

松井田城 - 05
松井田城 - 05 posted by (C)pismo

松井田城 - 06
松井田城 - 06 posted by (C)pismo

松井田城 - 07
松井田城 - 07 posted by (C)pismo

松井田城 - 08
松井田城 - 08 posted by (C)pismo

松井田城 - 09
松井田城 - 09 posted by (C)pismo

松井田城 - 10
松井田城 - 10 posted by (C)pismo

松井田城 - 11
松井田城 - 11 posted by (C)pismo

松井田城 - 12
松井田城 - 12 posted by (C)pismo

松井田城 - 13
松井田城 - 13 posted by (C)pismo

松井田城 - 14
松井田城 - 14 posted by (C)pismo

松井田城 - 15
松井田城 - 15 posted by (C)pismo

松井田城 - 16
松井田城 - 16 posted by (C)pismo

松井田城 - 17
松井田城 - 17 posted by (C)pismo
Posted at 2013/09/21 20:10:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年08月31日 イイね!

武蔵・上野・下野・信濃史跡めぐり(2日目その5・富岡製糸場)

次は富岡製糸場です。
前回訪れたときは閉まっていて、建物の外から見るだけでした。
今回は、まだ時間に余裕がありましたが、前とは違い訪れる人が多いのにはびっくりしました。
富岡製糸場は、近代国家を目指す明治政府が創設した産業施設です。
明治3(1870)年、製糸工場の建設を決定し、フランス商館勤務のポール・ブリュナと雇用契約を結びました。武蔵、上野、信濃の各地を調査し、繭が確保でき広い土地や必要な水の確保、近くの高崎、吉井から石炭が確保できることから富岡を敵地と決定し、明治4(1871)年から工場建設が始まり、明治5(1872)年7月に完成し、10月4日には操業を開始しました。
繰糸場は当時、世界最大規模を誇り300人取りの繰糸器が置かれ、全体で404人(明治6(1873)年1月)の工女たちの手により本格的な器械製糸が始まりました。
外国人技師たちは明治8(1875)年に去り、日本人たちによる操業が開始されましたが、大規模すぎたため十分な機能が果たせませんでした。
官営から明治26(1893)年には三井、明治35(1902)年には原合名会社、昭和14(1939)年には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社に譲渡されました。
昭和62(1987)年3月まで製糸の操業を続けていました。
平成17(2005)年7月14日付で「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、平成17(2005)年9月30日付で片倉工業より富岡市に寄贈されました。
平成18(2006)年7月5日付で建造物が国の重要文化財に指定されました。現在、世界遺産への指定を目指しているそうです。
富岡製糸場 - 01
富岡製糸場 - 01 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 02
富岡製糸場 - 02 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 03
富岡製糸場 - 03 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 04
富岡製糸場 - 04 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 05
富岡製糸場 - 05 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 06
富岡製糸場 - 06 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 07
富岡製糸場 - 07 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 08
富岡製糸場 - 08 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 09
富岡製糸場 - 09 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 10
富岡製糸場 - 10 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 11
富岡製糸場 - 11 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 12
富岡製糸場 - 12 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 13
富岡製糸場 - 13 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 14
富岡製糸場 - 14 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 15
富岡製糸場 - 15 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 16
富岡製糸場 - 16 posted by (C)pismo

富岡製糸場 - 17
富岡製糸場 - 17 posted by (C)pismo
Posted at 2013/09/21 18:51:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年08月31日 イイね!

武蔵・上野・下野・信濃史跡めぐり(2日目その4・甘楽町小幡の楽山園と崇福寺)

再び群馬県です。
甘楽町は小幡藩の城下町を少しだけ回ってみました。
ここも、平成18年以来の訪問です。以前は、楽山園が工事中でした。
以前の訪問↓
信濃国・上野国・下野国歴史紀行(3日目その5・甘楽町小幡の武家屋敷街)

楽山園は、江戸時代初期に織田氏によって造られた小幡藩邸の庭園です。
池泉回遊式の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色があります。
景石の置かれた池を中心として、「中島」や「築山」を築いて起伏のある地形を造り出し、「梅の茶屋」や全国的にも珍しい五角形の形状をした「腰掛茶屋」など複数の茶屋を配し、それらを巡る園路にも工夫を凝らしています。
借景庭園としても秀逸で、庭園の西側にある雄川をはさんで紅葉山、南方の連石山、熊倉山などの山並を借景として取り込み、豊かな広がりを演出している空間構成は、庭園美の極みといえます。
さらに、複数の茶屋を配していることから、「織田氏と茶事」との関連も深くうかがうことができ、歴史的・文化的にも高い価値がある庭園です。
楽山園という名前の由来は、「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」という論語の故事から名付けられたと言われています。
群馬県内に唯一存在する貴重な大名庭園で、平成12(2000)年に国の名勝に指定されました。
平成9(1997)年〜平成17(2005)年まで発掘調査が実施されるとともに、平成14(2002)年〜平成23(2011)年までの10年計画で復元整備工事が進められ、平成24(2012)年3月24日、オープンしました。
楽山園 - 01
楽山園 - 01 posted by (C)pismo

楽山園 - 02
楽山園 - 02 posted by (C)pismo

楽山園 - 03
楽山園 - 03 posted by (C)pismo

楽山園 - 04
楽山園 - 04 posted by (C)pismo

楽山園 - 05
楽山園 - 05 posted by (C)pismo

楽山園 - 06
楽山園 - 06 posted by (C)pismo

楽山園 - 07
楽山園 - 07 posted by (C)pismo

楽山園 - 08
楽山園 - 08 posted by (C)pismo

楽山園 - 09
楽山園 - 09 posted by (C)pismo

楽山園 - 10
楽山園 - 10 posted by (C)pismo

楽山園 - 11
楽山園 - 11 posted by (C)pismo

楽山園 - 12
楽山園 - 12 posted by (C)pismo

楽山園 - 13
楽山園 - 13 posted by (C)pismo

楽山園 - 14
楽山園 - 14 posted by (C)pismo

楽山園 - 15
楽山園 - 15 posted by (C)pismo

楽山園 - 16
楽山園 - 16 posted by (C)pismo

楽山園 - 17
楽山園 - 17 posted by (C)pismo

楽山園 - 18
楽山園 - 18 posted by (C)pismo

楽山園 - 19
楽山園 - 19 posted by (C)pismo

楽山園 - 20
楽山園 - 20 posted by (C)pismo

楽山園 - 21
楽山園 - 21 posted by (C)pismo

楽山園 - 22
楽山園 - 22 posted by (C)pismo

楽山園 - 23
楽山園 - 23 posted by (C)pismo

崇福寺は、織田宗家七代の墓がある織田氏の菩提寺です。
小幡は、織田信長の二男信雄が元和元(1615)年に大和松山と上野小幡等で5万石の領主となったのが小幡織田氏の始まりです。
後三男信昌が松山三万石を叔父織田高長に譲り、小幡2万石のみの領主となりました。
その後、明和4(1767)年、家老吉田玄蕃が山県大弐と信仰があったという理由で、信雄から数えて8代目の織田信邦の時、山県大弐の明和事件に連座して出羽国高畠(のち天童)2万石に移封されるまで、8代152年間の小幡藩主でした。
宝積寺は、旧領主小幡氏の菩提寺で格式も高かったため、織田氏も三代までこの寺を菩提寺としていました。
四代信久は急に、廃寺であった崇福寺を三年間で改築し、臨済宗に改めて菩提寺として、宝積寺から三代の墓石をここへ移しました。
その後、宝暦8(1758)年に焼失し、再建後明治4(1871)年に失火し再度全焼しました。墓石の破損が生じたのはこの時と云われ、墓前の畑が寺跡であったと云われています。当時は、廻廊が墓に達し、墓石には一箇所づつ上屋がついていたといわれています。現在入口には「下馬」の碑も残っています。
墓石はいずれも五輪塔で、初代から順々に並んでいます。初代信雄から七代信富までの墓が残ります。(織田信雄、信良、信昌、信久、信就、信右、信富)
後方の墓石は領主の妻子と思われます。8代信邦は明和事件により隠居蟄居となり、移封先の高畠で死去しました。
宝暦と明治の二度の火災で、歴代藩主の位牌は難を逃れ檀徒によって今日まで大切に守られています。位牌は、昭和61(1986)年に建造された位牌堂内で安置・保存され、2代信良と7代信富を除く10代信美までの位牌と、2代大和松山藩主で4代小幡藩主信久の実父でもある織田高長の位牌も祀られています。
(現地説明板などより)
崇福寺 - 1
崇福寺 - 1 posted by (C)pismo

崇福寺 - 2
崇福寺 - 2 posted by (C)pismo

崇福寺 - 3
崇福寺 - 3 posted by (C)pismo

崇福寺 - 4
崇福寺 - 4 posted by (C)pismo

崇福寺 - 5
崇福寺 - 5 posted by (C)pismo
Posted at 2013/09/17 23:36:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年08月31日 イイね!

武蔵・上野・下野・信濃史跡めぐり(2日目その3・足利市内散歩)

法玄寺は、山号は帝釈山、浄土宗の寺院です。
足利義兼の長男・義純が、母(北条時子)の菩提のために創建したと伝えられています。
慶長11(1606)年、足利の地が天領になった際、荒廃している寺院を幕府の代官小林十郎左衛門が復興しました。
明治18(1885)年、火災に遭いましたが、明治20(1887)年〜明治22(1889)年にかけて本堂が再建されました。
書家の相田みつを氏、足利市にある伊万里・鍋島の磁器専門の美術館の栗田美術館を創設した栗田英男氏の菩提寺です。
法玄寺 - 1
法玄寺 - 1 posted by (C)pismo

足利織姫神社の祭神は、天八千々姫命、天御鉾命の二柱です。
宝永2(1705)年に足利織物で知られる機業地足利の守護神として創建されました。
明治12(1879)年に織姫山に遷座されましたが、明治13(1880)年9月10日に火災により焼失しました。しばらく仮宮のままでしたが、昭和9(1934)年に再建事業を開始し、昭和12(1937)年に現在の社殿が完成しました
そして、平成16(2004)年、国の登録有形文化財に認定されました。
産業振興、縁結びの神様として崇敬を集めています。
足利織姫神社 - 01
足利織姫神社 - 01 posted by (C)pismo

足利織姫神社から渡良瀬橋を望む - 02
足利織姫神社から渡良瀬橋を望む - 02 posted by (C)pismo

足利織姫神社 - 03
足利織姫神社 - 03 posted by (C)pismo

足利織姫神社 - 04
足利織姫神社 - 04 posted by (C)pismo

足利織姫神社 - 05
足利織姫神社 - 05 posted by (C)pismo

渡良瀬橋は栃木県道・群馬県道5号足利太田線にある橋です。
昭和9(1934)年に架橋されました。
橋の上より望む夕日の美しさで知られています。
沈む夕日を背景とした渡良瀬川とトラス橋のシルエットという美しい風景は、歌手の森高千里さんの「渡良瀬橋」に歌われ大ヒットしました。
森高千里さんの「渡良瀬橋」は、平成5(1993)年に発表された曲です。平成元(1989)年に足利工業大学の学園祭でのライブの帰りに渡ったことのある渡良瀬橋に、歌詞を作るにあたり実際出かけていき河原や橋を歩いたり、町を見ながら感じたことを書いてできあがった曲です。
渡良瀬橋の北側のたもと(少し東側)には、「渡良瀬橋の歌碑」が設置されています。
平成19(2007)年4月28日、除幕式が行われました。

渡良瀬橋 - 01
渡良瀬橋 - 01 posted by (C)pismo

渡良瀬橋 - 02
渡良瀬橋 - 02 posted by (C)pismo

渡良瀬橋 - 03
渡良瀬橋 - 03 posted by (C)pismo

渡良瀬橋 - 04
渡良瀬橋 - 04 posted by (C)pismo

渡良瀬橋 - 05
渡良瀬橋 - 05 posted by (C)pismo
Posted at 2013/09/17 21:27:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2013年08月31日 イイね!

武蔵・上野・下野・信濃史跡めぐり(2日目その2・足利学校と足利氏館)

次は足利です。
ここは、平成18年に訪れて以来の訪問です。
以前の訪問↓
信濃国・上野国・下野国歴史紀行(4日目その5・足利)

足利学校の創建された時期、人物などは平安時代に小野篁が創設した説や鎌倉時代に足利義兼が創設した説などがありはっきりしたことは不明だそうです。
一時衰退していましたが永享4(1432)年上杉憲実が再興しました。
フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し海外にまで紹介されました。
明治5(1872)年に廃校になりました。方丈などがあった敷地の東半分は小学校に転用され、建物の多くは撤去され、蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により蔵書は地元に返還され、孔子廟を含む旧足利学校の西半分とともに県から地元に返還されました。
大正10(1921)年、足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物が国の史跡に指定されました。
昭和57(1982)年から「史跡足利学校跡保存整備事業」が実施され、平成2(1990)年に江戸時代中期の姿に復元されました。
足利学校 - 01
足利学校 - 01 posted by (C)pismo

足利学校 - 02
足利学校 - 02 posted by (C)pismo

足利学校 - 03
足利学校 - 03 posted by (C)pismo

足利学校 - 04
足利学校 - 04 posted by (C)pismo

足利学校 - 05
足利学校 - 05 posted by (C)pismo

足利学校 - 06
足利学校 - 06 posted by (C)pismo

足利学校 - 07
足利学校 - 07 posted by (C)pismo

足利学校 - 08
足利学校 - 08 posted by (C)pismo

足利学校 - 09
足利学校 - 09 posted by (C)pismo

足利学校 - 10
足利学校 - 10 posted by (C)pismo

足利学校 - 11
足利学校 - 11 posted by (C)pismo

足利学校 - 12
足利学校 - 12 posted by (C)pismo

足利学校 - 13
足利学校 - 13 posted by (C)pismo

足利学校 - 14
足利学校 - 14 posted by (C)pismo

足利学校 - 15
足利学校 - 15 posted by (C)pismo

足利学校 - 16
足利学校 - 16 posted by (C)pismo

足利学校 - 17
足利学校 - 17 posted by (C)pismo

日本100名城・足利氏館は現在は鑁阿寺となっています。
鑁阿寺は、山号は金剛山で正式には「金剛山仁王院法華坊鑁阿寺」という真言宗の寺院です。
この地は源義家の子、義国(足利、新田氏の祖)が別業として平安時代末に構築した館です。
次男の源義康が父から足利荘を相続し、足利氏を称し足利氏の祖となりました。
鑁阿寺は足利氏2代足利義兼が建久7(1196)年に自らの邸内に持仏堂を建て、守り本尊として大日如来を奉ったのが始まりです。
山門(仁王門)は、永禄7(1564)年、13代将軍足利義輝が再建しました。
大正11(1922)年に国の史跡に指定されています。
平成18(2006)年、財団法人日本城郭協会の選定する「日本100名城」にも指定されています。
平成25(2013)年、本堂が国宝に指定されました。
周囲には堀が巡らされており、中世の館跡であったことを偲ばせます。
鑁阿寺(足利氏館) - 01
鑁阿寺(足利氏館) - 01 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 02
鑁阿寺(足利氏館) - 02 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 03
鑁阿寺(足利氏館) - 03 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 04
鑁阿寺(足利氏館) - 04 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 05
鑁阿寺(足利氏館) - 05 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 06
鑁阿寺(足利氏館) - 06 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 07
鑁阿寺(足利氏館) - 07 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 08
鑁阿寺(足利氏館) - 08 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 09
鑁阿寺(足利氏館) - 09 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 10
鑁阿寺(足利氏館) - 10 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 11
鑁阿寺(足利氏館) - 11 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 12
鑁阿寺(足利氏館) - 12 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 13
鑁阿寺(足利氏館) - 13 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 14
鑁阿寺(足利氏館) - 14 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 15
鑁阿寺(足利氏館) - 15 posted by (C)pismo

鑁阿寺(足利氏館) - 16
鑁阿寺(足利氏館) - 16 posted by (C)pismo

日本100名城スタンプラリー 取得実績
004 弘前城     H24/7/12
005 根城      H24/7/13
006 盛岡城     H24/7/13
007 多賀城     H24/7/15
008 仙台城     H23/10/25
009 久保田城    H24/7/14
010 山形城     H24/7/15
012 会津若松城   H24/12/29
014 水戸城     H25/7/13
015 足利氏館    H25/8/31
016 箕輪城     H25/8/30
017 金山城     H25/8/30
018 鉢形城     H25/8/30
019 川越城     H25/7/15
020 佐倉城     H25/7/12
021 江戸城     H25/7/16
022 八王子城    H25/8/30
023 小田原城    H23/12/29
024 武田氏館    H23/12/30
025 甲府城     H25/6/15
026 松代城     H24/12/31
030 高遠城     H23/12/30
031 新発田城    H24/12/28
032 春日山城    H24/12/28
033 高岡城     H24/4/28
034 七尾城     H23/7/23
035 金沢城     H24/4/28
036 丸岡城     H23/6/18
037 一乗谷城    H24/4/28
038 岩村城     H24/6/23
039 岐阜城     H23/4/16
040 山中城     H23/12/29
041 駿府城     H23/12/28
042 掛川城     H23/12/28
043 犬山城     H24/6/23  
044 名古屋城    H24/3/24
045 岡崎城     H24/10/8  
046 長篠城     H24/10/8  
047 伊賀上野城   H24/4/1
048 松坂城     H24/3/8
049 小谷城     H23/12/23
050 彦根城     H24/1/14
051 安土城     H23/4/9
052 観音寺城    H24/1/14
053 二条城     H23/11/3
054 大阪城     H23/11/19
055 千早城     H23/12/10
056 竹田城     H23/11/16
057 篠山城     H23/11/26
058 明石城     H23/12/24
059 姫路城     H24/1/28
060 赤穂城     H24/1/28
061 高取城     H24/1/22
062 和歌山城    H24/2/18
063 鳥取城     H24/7/27
064 松江城     H23/6/27
065 月山富田城   H24/9/21
067 津山城     H24/4/14
068 備中松山城   H24/10/20
069 鬼ノ城     H24/10/20
070 岡山城     H24/1/7
071 福山城     H24/2/4
072 郡山城     H23/3/18
073 広島城     H23/3/17
076 徳島城     H24/5/21
077 高松城     H24/5/12
078 丸亀城     H24/5/12
079 今治城     H25/5/4
080 湯築城     H25/5/4
081 松山城     H25/5/4
082 大洲城     H25/5/4
083 宇和島城    H25/5/4
084 高知城     H25/8/10
086 大野城     H24/9/3
088 吉野ヶ里遺跡  H24/9/1
089 佐賀城     H24/9/2
090 平戸城     H24/9/1
091 島原城     H23/9/17
092 熊本城     H23/9/18
093 人吉城     H23/9/15
098 今帰仁城    H25/3/21
099 中城城     H25/3/20
100 首里城     H25/3/22
H25/8/31現在 83/100城
Posted at 2013/09/16 23:19:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

プロフィール

「[整備] #PCX エンジンオイル交換(第9回目) https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1646340/4873121/note.aspx
何シテル?   07/13 21:09
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2013/8 >>

    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2017/03/06 23:51:42
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2016/01/09 20:03:52
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2014/07/01 23:55:48
 

お友達

名所旧跡を中心としたドライブの話題などが好きです。
よろしければ、遊びに来てください。
89 人のお友達がいます
tatekentateken * BC5~BP5BC5~BP5 *
Ron StinxRon Stinx * K A ZK A Z *
朝霞の種馬reborn朝霞の種馬reborn * タビトムタビトム *

ファン

65 人のファンがいます

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ アコードワゴン ホンダ アコードワゴン
H11年式アコードワゴンCH9です。 ホンダのVTECエンジンは最高です。 100,00 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
©2018 Carview Corporation All Rights Reserved.